権力
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身体 ――――|―――― 「知」
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主体
上の図を眺めていると、これによって過去の思想家たちのポジションをある程度、理解することが可能だということに気づく。
まず、トマス・ホッブズ(1588-1679)。ホッブズは、人間には自然権、すなわち生きる権利があると考えた。その帰結として、死刑囚には看守の目をかいくぐって絞首台から逃げる権利があると主張した。これは、国家権力と主体との対立関係を説いている。
(権力 ― 主体)
次に、啓蒙思想ならびにカント(1724-1804)。理性主義者であったカントは、大衆(身体)よりも理性(「知」)を上位に位置付け、大衆のレベルを引き上げるべきだと考えた。
(身体 ― 「知」)
マルクス(1818-1883)の場合は、自ら共産主義という「知」を提唱し、労働者による階級闘争を勧めた。労働者とは身体であり、闘争の対象は権力である。
(「知」 ― 身体 ― 権力)
サルトル(1905-1980)は、人間は自由な存在だと考えて、これを権力と対比させた。自由な存在としての人間とは、主体のことである。
(主体 ― 権力)
レヴィ=ストロース(1908-2009)は、人間は構造の中に生きていると考え、ヨーロッパ中心主義や人間の自由、すなわち主体を否定した。
そして、ミシェル・フーコー(1926-1984)が登場する。フーコーの思想は複雑で、それを簡略化して述べることには、危険が伴う。しかし、ある仮説の成り立つことに気づく。例えば、フーコーは「監獄の誕生」において、人間の「知」そのものを否定、若しくは相対化したのだ。そして、「性の歴史」においては、同性愛を禁止するキリスト教的な価値観が登場する以前の古代ギリシャを描くことによって、「知」の以前に身体が存在することを証明しようとしたのではないか。身体と「知」の関係を基軸に置くという点で、フーコーの立ち位置は、啓蒙思想やカントに類似する。しかし、カントらが「知」を身体よりも上位に位置付けたのに対し、フーコーはその逆で、身体を「知」よりも上位に置いたのだと思う。なんと先鋭的な思想だろう!
しかし、今日の選択的夫婦別姓、同性婚、その他LGBTQに関する論議を見ていると、フーコーがいかに正しかったのか、その証左を見るような気がする。男と女が結婚をして、家庭を作り、もって社会の秩序となすべきだという「知」があり、それを根底から覆そうという運動が、身体の側からなされているのだ。
フーコーは鮮やかに人間の「知」を否定してみせたのであって、ある意味、それは哲学の終焉を告げる号砲となった。しかし、この解釈はフーコーの真意を表わしていない。フーコーはそれでも思考せよと述べているのであって、彼は、身体から出発して「知」を再構築せよ、と言っているのだと思う。そしてその時にこそ、時代が動くのではないか。