文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その2) 身体から「知」へ

 

このブログでは、かねてより次の図を掲載してきた。

 

       権力

       |

身体 ――――|―――― 「知」

       |

       主体

 

しかしながら、この図だけでは語り尽くせない事柄がある。変更を加え、書き直す日々が続いたが、ようやく次の改定版に辿り着いた。

 

「構造と自由」と題した本稿の主たる目的は、この図について説明することである。本稿において、他には、図も表も登場しない。簡単に説明しておこう。

 

時間軸に従って考えた場合、まず、身体を中心とした生活にかかわる領域がある。そこから、様々な「知」が生まれる。「知」は、時に身体と調和し、また別の「知」は、身体と対立する。やがて、「知」をその基礎とした権力が生まれる。作用があれば反作用があるように、権力に対抗する形で、人間の世界に主体が生まれたに違いない。

 

これら4つの極の間に、内部者、依存者、芸術、哲学というキーワードを入れてみた。他の要素も無数にあるのであって、それらをちりばめていくと、多分、この図は曼荼羅のような円形を示すことになるだろう。

 

権力と主体は常に対立する。一方、身体と「知」は、権力の側にも主体の側に揺れ動く。

 

この図の上半分を秩序と呼び、下半分を自由と呼ぶ。そして、図の全体を指して構造と呼ぶことにする。この構造とは、一体、何の構造なのか。それは比較的小さな集団から、企業や国家までを含めて、様々な人間集団の構造なのだ。この図によって、人間の文明まで説明できるのか、現時点で、それは私にも分からない。

 

まず、身体についての考察から始めよう。そもそも、我々、ホモサピエンスの身体は、ほとんど変化していない。3万年前と比べると、現代人の脳の容積は15%減少したという説もあるが、大きな変化ではない。つまり、私たちの身体は何万年もの間(もっと長いかも知れない)、変化していないのである。食料事情によって、体が大きくなったり、突然変異によって肌や眼の色が変わったりということはあるが、それらとて、大した変化ではない。

 

実のところ、身体について、判明していることは少ない。例えば、人は何故、眠るのか。眠っているときに、人は何故、夢を見るのか。こんなことでさえ、分かっていないのである。この得体の知れない身体と共に、ホモサピエンスは20万年もの間、暮らしてきたのである。古今東西、これは普遍的な事実である。

 

やがて、人類は道具を使い始める。大きな石を砕くと、鋭利な断面を持った小さな石が出来上がる。これをナイフ替わりに使った。そして、人類は火を使い始めた。これらの技術は、身体にとって有用である。生活技術と言っても良い。

 

また人間は、幾多の危機に直面してきたのである。これらの危機が人間に思考することを教えたに違いない。個人的なレベルで言えば、例えば、腹痛がある。何らかの植物を摂取すると、腹痛が和らぐ場合がある。若しくは、和らいだと錯覚する。すると、それが1つの知恵となって、集団内で共有される。何らかの呪文を唱えると、願いごとが叶うという仮説なども登場する。呪術の誕生だ。個人で、若しくは少人数で行われるそのような行為は呪術として、また、比較的大人数で行われる場合は祭祀として、区別できるだろう。雨乞いの儀式などが、祭祀の典型である。

 

呪術や祭祀は、身体と親和的な関係にある。

 

もう少し複雑さを増すと、動物信仰、精霊信仰が誕生する。特に、狩猟採集民族は、動物に関心を抱いていたに違いない。そして、様々な動物に意味や役割を付すことによって、独自の世界観を構築したのだろう。アイヌ民族における精霊は、カムイと呼ばれる。日本の古い神社では、鶴の舞いが行われ、ヤオロズの神々が信仰の対象とされてきた。ヒンドゥー教は、ゾウをガネーシャと呼び、神としてあがめている。

 

そもそも人間は好戦的な動物なのか、平和を志向する動物なのか、という議論がある。好戦的であるとする説が優勢だと思うが、私の意見は違う。この点私は、食料事情と人口密度によって、結果が異なるものと考えている。食料が充分にあって、人口密度が低い場合、人間は戦争をするリスクを回避するに違いない。反対に、食料が不十分で、人口密度が高いと好戦的になる。

 

私は、動物信仰・精霊信仰の段階において、人間は平和に暮らしていたのだと思う。また、この段階において、人間の「知」は身体を離れ、抽象性を獲得したに違いない。

 

但し、動物に限らず植物も含めて、あらゆる生命体は、無制限に自らの種を拡大しようとするものだ。アスファルトの小さな裂け目からだって、雑草の芽が伸びてくる。人間も同じで、世界人口は増加し続けてきたのだ。