文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その3) 「知」から権力へ

 

人口密度が高まると、食料不足が発生する。人間同士の距離も近づくので、否が応でも、もめごと、争いごとが発生する。そのような紛争を解決する手段の1つとして、武力が誕生したのだと思う。そして、その武力をいかに効率的に使用するか、いかに勝負に勝つかという「知」が生まれたのだ。それをここでは「戦術」と呼ぶ。素朴な人々が考案した戦術とは、待ち伏せ、不意打ち、騙し討ちなどである。それらの「知」を体系化したものとして、例えば孫氏の兵法(紀元前500年頃)があるし、日本には宮本武蔵五輪書がある。

 

人口密度が高まり、人類は、狩猟採集だけでは食べていけなくなった。そこで、農耕が始まる。正確なことは分からないが、人々の暮らし方が狩猟・採集から定住・農耕へと変化したことと、人類の興味の対象が、野生動物から人間へとその重心を移したことには、何らかの因果関係があるのではないか。

 

人間自身に興味を抱き始めた人類は、その信仰の形態にも変化を生じさせたに違いない。動物信仰を脱して、より抽象的な、より複雑な、宗教を展開し始めたのだと思う。信仰の対象も動物から人や神へと変貌を遂げる。キリスト教は神の代理人であるイエスを、イスラム教は予言者であるムハンマドを、そして仏教はブッダを信仰の対象とした。

 

宗教は、人間集団の規模を飛躍的に拡大した。そして、大規模な人間集団を維持するために、それまでとは異なる権力が誕生したのだと思う。神やその代理人を頂点とし、頂点に近い者がより大きな権力を持つ。そのような序列、階級が誕生した。

 

このように考えると、人間社会における大きな権力とは、何らかの「知」を背景として持っていることが分かる。例えば、腕力の強い男が、力の弱い女性を強姦する。これは暴力である。暴力の本質とは、相手方の心理を無視して、ただ、腕力を行使して屈服させることだろう。他方、権力は、何らかの形で相手方の心理に入り込み、相手方を納得させた上で、服従させる。このように考えると、暴力と権力の相違は明らかである。

 

やがて、自然科学(以下「科学」という)が台頭する。科学の起源は、古代ギリシャの自然学にまで遡るという説がある。また、中世の錬金術が今日的な科学の起源であるとする説もある。実験によって確認できないのが宗教で、確認できるのが科学だという見方も可能だろう。しかし、突き詰めて考えると、その境界線は曖昧なのかも知れない。西洋医学は科学に属すると思うが、では、東洋医学はどうだろう。そして、私たちを悩ませている腰痛などについては、未だに東洋医学に軍配が上がるのではないか。

 

本質論はさておき、人類が科学の力を再認識したのは、16世紀にヨーロッパで発明されたマスケット銃が最初ではないか。これによって、戦争の方法は一変した。そして、18世紀の後半、英国で産業革命が起こる。以後、科学は貨幣経済と共に、現代社会を席捲し続けている。科学は、商品を産出し、武器を開発し続けてきた。つまり、今日における経済と軍事は、科学をその根拠としていると言える。

 

これだけ科学が発達したのだから、宗教はその姿を消しても良さそうなものだが、実際にはそうなっていない。現代社会における主要な「知」は、宗教と科学のハイブリッドではないか。先進国は科学で、途上国は宗教だと言えれば、話は簡単だが、実際には米国においても、宗教はその勢いを維持しているし、日本でも統一教会創価学会が盛んに活動している。そうしてみると、宗教と科学の間には、何らかの共通点があるに違いない。例えば、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の主要な信徒は、理科系の一流大学出身者だった。

 

ここで私が指摘しておきたいのは、宗教も科学も権力を生み出す方向に向かうという点だ。宗教は階級を生み出すし、科学が生み出す経済の世界は、序列によって成立する企業をその構成単位としている。

 

さて、権力へと向かう宗教と科学に関する「知」は、人間を二分することになる。すなわち、それらの「知」を知っている、若しくはそれらの「知」にアクセスすることのできる者と、そうでない者とに分断するのである。前者を知的エリートと呼んでも良い。そして、知的エリートは、「知」を秘匿する。「知」は秘匿されることによって、それを知っている者に多大な利益をもたらすからだ。そして、知的エリートが権力者を作り上げる。若しくは、自分たちの中から、権力者を選任するのである。こうして、私が「内部者」と呼ぶ特権階級が生まれる。内部者とは、「知」と権力の内部に通じている者のことである。