文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その4) 権力と身体

 

 

権力とは何か。そう考えると難しい。しかし、権力が何らかの「知」を背景に持っていると考えれば、「知」の類型に従って、権力の類型を推し測ることが可能となる。そして、「知」には身体と親和的な関係を持つもの、反対に身体と対立するものがある。また、権力の創出に向かう「知」と、反対に主体の側に向かう「知」がある。この主体の側に向かう「知」について、私は、それを哲学と呼ぼうとしている訳だが、この点については後述しよう。

 

現代社会を支えている主要な「知」の1つに、宗教がある。実際、プーチンロシア正教の司祭と面会しているし、ゼレンスキー大統領は先日(5月14日)、ローマ教皇と面談した。どちらも、自らの正当性をアピールしようとしているに違いない。

 

現代社会を統制しているもう1つの「知」は、科学である。科学は商品を生み出し、それが現代社会の経済を動かしている。従って、経済上の権力というものが存在するはずだ。加えて、科学は武器を開発し続けている。よって、軍事上の権力も存在するに違いない。大きな権力には、これら3種類があることになる。

 

・宗教上の権力

・経済上の権力

・軍事上の権力

 

これらの権力は、身体を攻撃する。宗教上の権力は、人々の家庭や生活を拘束し、その主体的な思考を阻害する。キリスト教は伝統的に同性愛を規制し、人口妊娠中絶に反対する。統一教会は、結婚制度にまでその触手を伸ばしている。結局、宗教が目指している秩序とは、家父長制に行き着くのではないか。これには2つの意味があって、その1つは、男尊女卑であり、もう1つは、年長者は年少者よりも偉いという価値観である。何故そうなっているかと言えば、結局、男は女よりも、年長者は年少者よりも、権力に弱いからではないか。権力に弱い者を家庭における権力者にしておけば、宗教上の権力者にとっては都合がいいに違いない。

 

「女は弱し、されど母は強し」という言葉があるように、子を持つ女は、時として権力にも負けない強さを持つ。他方、男たちは、権力に負けっぱなしなのである。また、人間誰しも年を取ると新しい発想や自由への欲求が希薄になる。これが、家父長制の正体だと思う。

 

次に、経済上の権力は、人々に過酷な労働を課す。裕福になってしまうと、人間は働かなくなる。従って、経済上の権力者は、決して、人々に多額な給付は与えない。とにかく、働かせて、そこから税金を徴収するのだ。そして、その税金から自らの利益を掠め取るのが権力者のやり口なのである。

 

最後に、軍事上の権力だが、これは徴兵制や戦闘行為によって、人間の生命自体を危険に晒そうとするものだ。最悪の権力だと言えよう。現在、米国にも徴兵制はない。しかし、学生たちに多額の学費ローンを組ませて、その返済を免除する代わりに兵役に就かせようとしている。この仕組みは、経済的徴兵制と呼ばれる。現在、日本に徴兵制は存在しない。大変、好ましいことだ。そんなもの、世界から永遠に消え去ってしまうことを願うばかりである。

 

さて、人々はこれだけ虐げられている訳だが、すると大衆(身体)の中から、権力に縋ろうとする者が登場する。そのメカニズムを心理学の側から説明したものに「ストックホルム症候群」というのがある。思想の分野からは、ボエシの「自発的隷従論」が報告されている。そして私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出すのだ。置かれている環境が過酷であればある程、人は必死にそこから脱出しようと試みる。他人を蹴落としてでも。昨今の新自由主義や自己責任論は、このような人間の本質に妥協するものだと言わざるを得ない。

 

そして、この権力に縋ろうとする者のことを本稿においては、「依存者」と呼ぼうと思う。依存者は、「知」から疎外されている。依存者とは、ただひたすら権力に迎合し、依存しようとする者のことである。