文化認識論

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文化防衛論/三島由紀夫(その2) 人間観

 

本文献には、三島自身による11の論文等が掲載されている。それぞれを読み解いたところで、三島の思想を体系的に理解することはできない。そこで、これらの論文等を一度分解し、主要なテーマ毎に主張を再構築する必要があると思う。まずは、三島の人間観から始めたい。

 

そもそも人間の本質は、善良なものなのか、それとも邪悪なものなのか。前者を性善説と言い、後者を性悪説と言う。この点、三島は次の通り率直な心情を吐露している。

 

- 人間性の問題ならば、戦争は誰だってやりたい。それから喧嘩をしたい。どんな悪いことでもしたい。泥棒をするなといったって、人間性は泥棒することを命ずる。(本文献 P. 236)-

 

このように三島は、典型的な性悪説に立脚している訳だ。その理由を三島は種々説明しているが、ポイントをまとめてみよう。

 

18世紀のマルキ・ド・サドを読めば分かるが、人間の中には野生がある。この野生を解放したならば、社会体制は破壊されるだろう。完全な自由を認め、野生を解放した場合、殺人さえも横行することになる。どこか自分が怖いというものが、自由の極致には存在する。

 

そこで、人間の野生を制限する必要が生ずる。つまり、政治、権力、国家というものが必要となる。国家には2つの機能がある。1つには、国民を人間の野生から守るということ。また、国家が権力を行使するためには、権力を行使できるだけの能力を維持しなければならない。つまり、国家権力自体の権力防衛機能が必要となる。これが2つ目である。

 

このように三島は人間の本性、人間の中の野生ということを前提として、国家論へとつなげてゆく。

 

- 権力というのは簡単にいうと、「他を拒絶することによって自己を定立する力」と考えていいと思う。(本文献 P. 326)-

 

- (前略)戦争だって国家が存在する以上当然なんだから、戦争を否定しようとすれば国家を否定しなければならない。(本文献 P. 272)-

 

- 国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。(中略)我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんというように私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、それに対する防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。(本文献 P. 273)-

 

何という過酷な思想だろう。徹底的に現実を直視しようとする冷徹な覚悟がある。そして、ここが三島思想の本質的な立脚点なのだ。

 

余談ながら、どのような人間観を持つかという問題は、保守とリベラルの分岐点をなしているように思う。性善説に立てば、戦争は回避できるのだから、その方策を考えるべきだというリベラルな思想に行き着く。他方、三島のように戦争は回避できないと考える立場からすれば、軍備を増強すべきだという保守思想が導かれる。