文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化防衛論/三島由紀夫(その3) 文化と伝統

 

ある人の思想を検討する場合、自我の問題を避けて通る訳にはいかない。哲学者はそれを主体と呼び、多くの場合、文学者はそれを「私」と言う。

 

自我とは何かと考え始めると、それはもう切りがない。しかし、何らかの基準のようなものが必要だと思うので、ここでは少しフロイトの考え方を紹介しよう。

 

- 文化とは、欲動の充足によってえられる満足を放棄することによって獲得されるものであり、新たに文化に加わるすべての者は、同じように欲動の充足を放棄することが求められるのである。(文献1:P. 58) -

 

人間には利己的で残酷な欲動というものがあり、例えば、殺人を犯したいとさえ欲する。しかし、そんなことを望み続ける人間が、社会の中で生きていくことは困難だ。そこで、人間は文化に接する、文化に参加する、ことによって、そのような欲動を抑制することを学ぶ。こうして人間は、良心を獲得するのだ。ちなみにフロイトは、この良心を超自我命名した。自我とは、この利己的で残酷な欲動と超自我(良心)の間にあって、両者の調整を図る意識の主体をさす。

 

利己的で残酷な欲動 ―― 自我 ―― 超自我(良心)

 

但し、フロイトは悪い欲動が根絶されることはないと言う。そしてそれは、戦争のような特殊状況下においては、易々と復活し、その鎌首を持ち上げるのである。それでは超自我をひたすら発展させれば、人間は誰しも善人になれるかと言うと、そうでもない。超自我を強化し過ぎると、それはそれで精神疾患を引き起こす原因となり得る。

 

以上がフロイトの考え方である。

 

では、この自我という問題に関する三島の発言を見てみよう。

 

- おれは自我があるなんて信じたことはないよ。形式ということを考えている。フォルムがあれば自我だ。フォルムは個性でも何でもないんだ、フォルムがあればいいんだ。そういうフォルムを自分の自我にするまで芸術をやっていけばそのフォルムが自我になるし、そういうフォルムは使えるものなんだ、パワーレスの武器じゃなくて、使えば人を殺せるものだ、そういう確信に達した・・・というと偉そうに見えるけれども、達したいと思うね。(本文献:P. 166) -

 

- ぼくは、そういうフォルムと自分を同一化することにしか、つまり自我を持つことができないんだ。 (本文献:P. 167) -

 

上記の引用箇所における「自我の存在を信じたことはない」という発言については、額面通りに受け止める訳にはいかない。三島は芸術を高めることによって、その域に達したい、達するべきだと述べているのだ。

 

では、フォルムとは何か、という問題になる訳だが、この点、三島は次のように述べている。

 

- 文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、いかに混濁した形をとろうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると考えられ、従って、いわゆる芸術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包含する。(本文献:P. 42)-

 

- 日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。日本文化は、行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統を持っている。(中略)武士道は、このような、倫理の美化、あるいは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、伝承のためのてがかりをはじめから用意しているが、そのてがかり自体が、自由な創造主体を刺戟するフォルムなのである。(本文献:P. 43)-

 

少し噛み砕いてみよう。つまり三島は、博物館の陳列ケースに収められているような、静的な芸術作品よりも、動的な日本文化を重視しているのだ。静的な芸術作品は、空間の中に存在し、他方、動的な行動や所作は、時間の中に存在する。その意味から、三島は空間よりも時間を尊重したと言える。このような三島の態度は、後述する三島の行動に関する美意識へとつながっていく。

 

例えば柔道の達人が、ある日突然、暴漢に襲われたとしよう。その達人は、柔道の型に従って、見事に暴漢を投げ捨てるに違いない。柔道という伝統が持つ型は、それが最強なのであり、その達人はその型(フォルム)と一体化しているのである。文学者である三島は、その達人のように、文学における型と一体化したいと望んでいたのだ。そして、そのように型と一体化することが、三島にとっては自我を構築することに他ならなかったのである。

 

文化と接することによって、自我を高めることができるとする点において、三島とフロイトは共通している。但し、フロイトは、文化と接した後でも、明らかに自我は残ると考えたが、三島の場合は文化、伝統、フォルムと自我が一体化すると考えたのであり、この点は明らかに違っている。

 

文献1:人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫

(なお、本稿において引用した箇所は、フロイト第一次世界大戦の最中である1915年に執筆した「戦争と死に関する時評」と題された論文に収録されている。)