本稿においても三島の世界観を表わすいくつかの用語が登場したが、それらを整理してみようと思う。全ての概念を説明した後で、図を示すのが学術的な方法だとは思うが、この段階で提示する方が、手っ取り早く読者諸兄の理解を促進できると思う。
まず、文化、伝統、歴史ということがある。厳密に言えば、この3つの用語はそれぞれに異なる意味を有しているが、ここでは文化という言葉に代表させてみる。次に、国家、権力、政治という概念があり、ここでは国家という言葉に代表させることにする。
すると三島の世界観は、一応、次の図に示すことができる。
この図において、大きく示されている文化と国家の関係だが、本文献において引用されている和辻哲郎氏の日本国憲法に関する言説が、この関係をよく説明していると思う。三島が和辻氏の説に100%賛同していたとは言い切れないが、概ね、同意見であったと思われる。
- それ(天皇)は、日本の国家が分裂解体していたときにも厳然として存したのであるから、国家とは次序の異なるものと見られなくてはならない。従ってその統一は政治的な統一ではなくして文化的な統一なのである。日本のピープルは言語や歴史や風習やその他一切の文化活動において一つの文化共同体を形成してきた。このような文化共同体としての国民あるいは民衆の統一、それを天皇が象徴するのである。日本の歴史の貫ぬいて存する尊皇の伝統は、このような統一の自覚にほかならない。(本文献:P. 67)-
また、三島は上に引用した和辻氏の説に関して、次のように述べている。
- 和辻説の当否はさておき、民主主義と天皇との間の矛盾を除去しようとする理論構成上、氏が「文化共同体」としての国民の概念を力説していることは注目される。さらに氏は、天皇概念を国家とすら分離しようとしているのである。(本文献: P. 67)-
明治憲法の第1条には「大日本帝国ハ万世一系の天皇之ヲ統治ス」と書かれている。つまり、明治憲法下における天皇は、あくまでも国家における最高権力者であった。このような考え方は、国家神道と呼ばれるもので、天皇の政治利用なのである。しかし、日本国憲法において、天皇はそのような地位から解放され、本来の文化共同体の象徴という立場に位置づけられたのである。つまり、その本来的な意味において、天皇は政治や権力とは無縁の存在であるべきなのだ。三島は別の箇所でも、次のように述べている。
- 結局文化を護るために死ぬのであり、その文化の象徴が天皇の役割だということなのです(以下略)(本文献:P. 320)-
- これは私の独自の天皇論でありますが、簡単に申しますと、天皇というものは権力じゃないのだというのが私の基本的な考えです。(本文献:P. 325)-
やはり、三島は和辻氏の意見に賛成しているようだ。
さて、ここで少し私の文化人類学的な意見を述べさせていただきたい。
そもそも、宗教にはその原初的な形態のものがあったのである。それを私は、原始宗教と呼んでいる。原始宗教はとても古いもので、文字、貨幣、火縄銃などが存在する以前に発生したもので、その当時、権力などという不純なものは存在しなかったのである。
原始宗教は、祭祀、呪術、神話などの要素によって構成されていた。ちなみに祭祀とは、歌や踊り、祈祷、儀式などによって構成されていた。そして、この祭祀を司っていた者が、シャーマンと呼ばれる能力者である。一説によれば日本の天皇制には2600年の歴史がある。当然、2600年前の日本には文字も貨幣も火縄銃も存在しなかったのであり、天皇制の起源は、このシャーマニズムにあるとするのが、私の見立てである。従って、天皇制とはある意味、原始主義であるとも言える。
このように考えると、天皇を国家や権力と結びつけるのは邪道であり、私は、日本国憲法における天皇制に関する規定並びに、和辻氏や三島の意見に賛成したいと思っている。
さて、上の図に戻る。まず、自我がある。自我が文化の方向に向かうと、文学が生まれる。そして、文化共同体の象徴としての天皇が、文化領域の中心に存在する。他方、紛れもなく国家も存在している。そして、自我、文化、国家の3要素が交錯する地点に、行動を位置づけることができる。この点は、後述しよう。