文化認識論

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文化防衛論/三島由紀夫(その6) 武士道

 

武士道は、長い年月をかけて無数の武士たちが少しずつ形作ってきたものである。そもそも何故、武士という職業が生まれたのかと言うと、それは平安初期に荘園と呼ばれる土地の私有制度が生まれたことに深く関係している。当時は、まだ国家権力というものが存在していない。従って、この私有地を獲得した者は、それを自力で防衛する必要があったのだ。そこで、武力を用いて他の勢力から土地を守る職業として、武士が誕生したのである。

 

- 歴史学的な研究によれば、そもそも武士は、平安時代に各地の荘園の武装自衛集団として誕生したと言われる。(文献3:P.41)-

 

ちなみに最後の武士は、西南の役(1877)において自刃した西郷隆盛だと言われている。平安初期から西南の役までということは、概ね千年の間、武士が存在したことになる。また、日本から武士が消えて147年の歳月が経過している。

 

武士という曰く言い難い職業に就いた者たちは、考えざるを得なかった。ひと度、事が起これば、危険を顧みず戦地に赴かねばならない。もちろん彼らも人間であるから、生きたいと切に願っていた。しかしそうも言っていられないのが、武士という職業である。この世に生を受けた自分とは、何者なのか。武士は、一体どう生きるべきなのか。そのような問いと向かい合った武士たちが生み出したのが、武士道である。

 

千年の間に、武士道も変遷を遂げた。

 

最初に登場したのは正に戦乱の世を生きる戦闘者としての思想であり、これが本来の武士道である。但し、この時代の武士道については、記録が少ないのだと思う。日々、命を掛けて戦っているのだから、思想を文字にして残すような余裕はなかったのではないか。

 

やがて江戸時代となり、徳川幕府を頂点とする天下泰平の時代を迎える。そこで、本来の武士道にベースを置く思想が記録される。その1つが三島の愛した葉隠である。

 

その後、本来の武士道との関係は薄弱となり、むしろ儒教道徳の影響を受けた士道と呼ばれる思想が生まれる。

 

明治時代になると忠君愛国道徳をベースとした武士道が新渡戸稲造によって書かれる。これは明治武士道と呼ばれる。明治武士道に対する評価はまちまちで、文献によってはこれを批判している。

 

- 武士道は、第一義に戦闘者の思想である。したがってそれは、新渡戸をはじめとする明治武士道の説く「高貴な」忠君愛国道徳とは、途方もなく異質なものである。(文献3:P.20)-

 

反対に明治武士道を絶賛する文献もある。

 

- 武士道を日本人の伝統的精神として体系的かつ総括的に述べた唯一の思想書となっている(以下略)(文献4: P. 28)-

 

文化論の立場から言えば、私は三島と同じように葉隠に惹かれる。

 

一覧にしてみよう。

 

武士道・・・戦国乱世における戦闘者の思想

葉 隠・・・江戸時代に書かれた武士道をベースとした思想

士 道・・・江戸時代に書かれた儒教的道徳をベースとする思想

明治武士道・・・忠君愛国をベースとした思想

 

では、少し葉隠について検証してみよう。

 

- 『葉隠』は、徳川幕府が開かれてから約百年たった元禄時代の直後、佐賀藩の元御側役であった山本常朝(つねとも)が口述し、後輩の田代陣基(つらもと)が筆録した一種の語録であり、回想録である。(文献5:P. 11)-

 

佐賀藩の藩祖である鍋島直茂とそれを継いだ鍋島勝茂とは、正に戦乱の世に生きた武士だった。そして、山本常朝は特にこの二人を尊敬していた。葉隠が本来の武士道に立脚していると言われる所以である。やがて、徳川幕府が統治する泰平の時代がやってくる。すると、山本常朝は堕落し始めた世相を嘆き、あるべき武士の生き方を説いたのである。「まったくもって、最近の若い者は!」という老人のボヤキのような色彩を帯びているのが、この葉隠なのである。

 

なお葉隠は、全て山本常朝に聞いた話なのか、どこまでがそうなのか、疑義があるらしい。また、その主張も一貫していない箇所があり、体系化されていないとの批判がある。

 

葉隠の中で最も有名な一節は、次のものだろう。

 

- 武士道と云うは、死ぬことと見付けたり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付くばかり也。別に子細なし。胸すわって進む也。(聞書 1-2)-

 

ここに葉隠の透徹した死生観がある。2つの選択肢があって迷った場合には、とにかく自分が早く死ぬ方を選択せよ、と言っているのである。人間、誰しも生きたいと願っている。従って、咄嗟の判断においても、自分が生き残れる可能性の高い選択肢が正しいと判断しがちになる。そんな選択をする者は、腰抜けである。誤った判断をして生き恥を晒す位なら、死んだ方がましだ。死ぬことによって、武士としての筋を通せ。概ね、このような意味だと思うが、この考え方は人間の生を相対化するという徹底的なニヒリズムに裏打ちされている。

 

また、私見ではあるが、この言説は2つの場面を想定しているように思う。1つ目は戦場における場面で、たとえ不利な状況にあっても、怯むことなく前へ進めということだろう。これは敵を殺せ、勇敢に戦えと言っている訳で、不思議な主張ではない。2つ目は、切腹にまつわる場面だ。何かをしてしまった、若しくは、何かをしようとしている。切腹しなければならない、若しくは切腹せざるを得ないような状況に陥るかも知れない。そういう場面である。例えば葉隠の時代において、喧嘩は禁じられていた。これが藩の知るところとなれば、切腹を命ぜられることになる。それでも喧嘩をすべきなのか、迷うところではある。このような場面においても、葉隠は前に進めと言っているのではないか。前に進んで、自ら腹を切れ。そう主張しているのだ。

 

武士は2本差しと言って、長刀と短刀の2本を腰に差していた。長刀は、敵を殺すためのものである。そして短刀は、自らの腹を切るためのものだったという説がある。武士は常に日本刀を脇に差し、若しくは手許において暮らしていた。それはすなわち、死ぬ覚悟と共に生きていたことになる。

 

葉隠はまた、「死狂ひ」についても述べている。

 

- 「武士道は死狂ひなり、一人の殺害を数十人して仕かぬるもの」と直茂公仰せられ候。本気にては大業はならず、気違ひになりて死狂ひするまでなり。また、武士道において分別出来れば、早後(おく)るるなり。忠も孝も入らず、武道においては死狂ひなり。この内に忠孝はおのづから籠るべし。(聞書第一)

 

死に物狂いになって戦っている者は、数十人がかりでも、なかなか倒せないものだ。鍋島藩の初代藩主である直茂公は、そうおっしゃった。正気では、大きな仕事はできない。いっそ狂気になって、狂気と共に死んでしまえ。余計なことを考えると、その時点で他の人に遅れを取ってしまうものだ。そんな者には、忠も孝もないのだ。ただ死に狂いした者には、自ずと忠孝が籠るものだ。概ね、このような意味だと思う。

 

最後の「忠孝はおのづから籠るべし」という箇所は、陽明学に通ずる所がある。三島は陽明学に即して、次のように述べている。

 

- 心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超越して真の良知に達し、天の正義と一致するのである。(文献2:P. 213)-

 

つまり、私利私欲を捨て、心を虚しくして行動した場合、その行動の中には社会常識としての善悪を超越した正義が宿る、と言っているのである。

 

さて現在の、すなわち2024の時点から武士道をどう見るかという問題がある。まったくもって不思議なことではあるが、私は武士道に関する本を読みながら、自分が救済されてゆくような感覚を覚えた。そこには今日の腐敗し切った社会においては決して登場することのない潔い人物が、次々に現出するのだ。そして、誰もがためらいながら、若しくは一気呵成に腹を切って、この世というステージから去っていく。

 

武士道の価値観は、人間の生と死を表裏一体のものとして捉えるところに特徴がある。武士道における死とは、決して忌まわしいものでも、忌避すべきものでもない。死は常に生と隣接していて、死と隣接しているからこそ輝く生がある。

 

また、武士道とはある意味「やせ我慢」の思想だと思う。腹を切ると激痛が走るに違いないし、誰だって死ぬのは怖い。しかし、そんなことを言ったり、取り乱したりするのは腰抜けのすることだ。だから、立派な武士は平然と自ら腹を切ってみせたのである。これ程、主体的な行為があるだろうか。

 

自分で自分自身に対してある種の規制を課す。そうすることによって生まれるのが、倫理ではないだろうか。そして、立派に実践された倫理は、美しいのである。やせ我慢が倫理を生み、倫理が美を創造するのである。では、武士道の本質を端的に言い表わした三島の言葉を引用させていただこう。

 

- 武士道は、このような、倫理の美化、あるいは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。(本文献:P. 43)-

 

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977