文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化防衛論/三島由紀夫(その7) 真理は心の中にあり

 

現在、世界を席捲している思想なりシステムとは何かと考えると、一応、それは西洋文明だと言える。これに中東まで含めるとその中核にあるのは、旧約聖書ではないかと思えてくる。これを更に煎じ詰めると、旧約聖書に起源を持つ世界の3大宗教、すなわちユダヤ教キリスト教イスラム教の思想が現代文明の基礎をなしているのだと言えなくもない。旧約聖書には「産めよ、増えよ、地に満てよ」というくだりがあって、これがそもそもの間違いなのだ。人間は地球上に満ち溢れ過ぎてしまい、総人口は既に80億人を超えてしまった。宇宙船地球号は、明らかに定員オーバーなのである。

 

かつての宗教戦争は、カトリックプロテスタントというキリスト教内部の抗争だった。そして現在、イスラエルが行っているガザ地区のジェノサイドは、ユダヤ教イスラム教の対立だと思われる。既に、4万人以上のパレスチナ人が殺害された。イスラエルはこれに飽き足らず、今度はヒズボラを攻撃しようとしている。ユダヤ教を信仰しているイスラエルは、旧約聖書に基づき、自分たちにはイスラエルに居住する権利があると考えている。そして、もしイスラエルが消滅した場合、自分たちは再び流民となり、ホロコーストのような迫害に合うと主張している。敵を滅ぼすか自らが滅びるか、二者択一だと言うのだ。そのような思想を維持する限り、イスラエルに妥協の余地はない。イスラエルの最終目的は、イランの非核化だと述べる専門家もいる。イスラエルがこのまま突き進めば、全面戦争に突入することになる。

 

既に、現代文明は行き詰っている。経済的な側面に注目すると、それは資本主義の限界だということになろう。では、共産主義が良いかと言うと、そんなことはない。そもそも唯物史観という間違った前提に立っているのだから、マルクシズムが正しいはずがないと私は思う。ちなみに三島は、マルクシズムだって、結局は西洋思想なのだと述べている。

 

先進諸国における人口減少と、それを補うための移民の流入。移民が増加すると必然的に治安が悪化する。レイプ事件が急増したスウェーデンでは、移民に対し、自発的に母国に帰国してくれるならば500万円差し上げます、という政策を始めたらしい。

 

上に記した3大宗教に基づく文明について観察すると、そこには自らを制する、律するという観点が欠落しているように思う。とにかく、反省することなく一直線に突き進むのが特徴なのだ。自然との関係もそうだ。科学を妄信し、徹底的に自然を支配しようとする。そう言えば聞こえはいいが、実際には自然を破壊し続けている。

 

3大宗教の信徒は、真理は聖書に書かれていると考える。そのことと関係があるのか、西洋の哲学者は法律を考案した。正しいことは何か、それは法律に定めれば良いという発想である。しかし、それが世界で成功しているとは言い難い。卑近な例では、自民党の政治家を見るが良い。法の抜け穴を探し、裏金を作り、検察もそれらの政治家を逮捕しない。

 

では、どうすれば良いのか。これは大きな問題で、軽々に結論を言うことはできない。しかし、根源的な前提を問い直す必要があるのだと思う。このような問題意識から、東洋思想を見直すべきではないか。

 

例えば、陽明学には「心即理」という言葉がある。これを私なりに翻訳すると「真理とは、即ち、心の中にある」ということになる。真理は、聖書の中に書かれているものではなく、法律の中にも存在しない。ましてや権力者の言動など、決して信じてはいけないのである。では、真理はどこにあるのか。それは正に、私の心の中に存在するのである。

 

世界に刑罰の種類は無数に存在するだろう。絞首刑、むち打ち、石うち、ギロチンなど。これらの刑罰を受刑者の側から考えると、受動的なものだ。そこに受刑者の能動的な行為が関与する余地はない。他方、切腹は、受刑者自らが行うものである。これって、ソクラテスが自ら毒杯を飲み干したという事実と類似しないだろうか。

 

陽明学の言う「心即理」と、自らの魂に配慮せよと述べたソクラテスの思想に通底する。そして私は、ここにポストモダンの哲学者、ミシェル・フーコーの思想も加えたいのである。

 

フーコーは、「言葉と物」や「監獄の誕生」などにおいて、人間の文明がいかに陳腐で間違ったものであるのか、そのことを証明し続けた。例えば、かつてパリにおいては犯罪者のみならず、同性愛者、精神病患者、なまけ者などを片っ端から投獄したのである。するとパリの人口の四分の一が、監獄で過ごすことになった。笑い話のような、本当の話である。つまり、我々が当たり前だと思っていることが、いかにあやふやな根拠に基づいているのか、我々は何故常識を疑うべきなのか、そのことを追求したのである。この人間社会にいて人々が当たり前だと思っていること、常識などをフーコーエピステーメーと呼んだ。フーコーにとってエピステーメーは、批判すべき対象だった。

 

しかしながら、フーコーは遺作となる「性の歴史」において、旧約聖書が創作される以前の古代ギリシャにスポットを当てた。そこには様々な哲学者が、多種多様な着想に基づき、思考錯誤を繰り返した歴史が描かれている。すると、そこはかとなく立ち上る煙のようなものが見えてくるのだ。それは自己の内部に存在する良心のようなものであり、倫理観のようなものでもある。それは自らを律し、何かをあきらめ、信念を貫徹することによってしか、得ることのできないものである。エピステーメーを批判したフーコーは、古代ギリシャの哲人たちに対しては、暖かい目を向けている。そうでなければ、フーコーにとってこの大論文を書き上げる意味はなかったはずだ。

 

現代文明は、行き詰っている。根底から問い直し、一から作り直さなければならない。そしてその時には、古代ギリシャの哲人たちの労苦を参考にせよ。フーコーは、そう言いたかったのではないか。

 

かくして私の中では、ソクラテス三島由紀夫フーコーが繋がったのである。