三島は繰り返し文武両道を主張していたが、これがなかなか難しい。例えば、本文献(文化防衛論)には、次のような記述がある。
- 私が文武両道と申しております意味は、そのような優雅な文学が一方にある、一方には武士道があるというのが日本文化の一番本質的な形であるにもかかわらず、日本ではいま優雅のほうも、私がなよなよ文学をやっていなければ、ますます中間小説の粗雑なガサガサ文学だけになってしまう。武士道の方も、私が恥を曝して剣道でもやってなければ、いまのように武士道が忘れられて、甚だ感情の錯乱したようなサイケデリックな時代に陥ってしまう。(本文献:P. 200)-
上記の引用箇所だけでは、その本意を理解できないだろう。何か、ロジックで考えた場合、いくつかのステップが欠落していると思う。僭越ながら、その欠落部分を私なりに補充してみようと思う。
まず、100年以上の永きに渡って育まれてきた文化には、何らかの意味なり重要性というものがある。それは人間にとって必要だから、若しくは何らかの魅力を持っているから、人々はそれを伝承してきたのである。従って、そのような文化に接してみる、参加してみる、理解しようと努めてみることには、意義がある。例えば「文」、これは文学を指す訳だが、それだけを取り上げて日本の文化、伝統を語る訳にはいかない。逆もまたしかりであって「武」、これは武士道を指すが、それだけを経験しても、文化の全容を把握したことにはならない。そして、片方の極である文学を三島は「なよなよした」と表現しており、その対極にあるのは言わば「ごつごつした」武士道ということになる。両極を理解すれば、文化の全容を把握したと言えるのではないか。そこで、文武両道ということになる。
次に、過去の人が伝承してきた文化を自らが、次の世代に伝承するにはどうするか、という問題がある。これは、自らがその文化に参加する、その文化について発信する以外に方法はないと思う。例えば、街にあなたの気に入ったパン屋さんがあったとしよう。あなたは、是非、そのパン屋さんに長く営業を続けてもらいたいと思う。するとあなたにできることと言えば、その店でパンを買うこと、その店のパンがいかにおいしいかご近所に広めることだろう。
このように考えれば、上に引用した三島の発言の意図が明確になったのではないか。つまり、三島は日本の文化、伝統を理解するために文学と武士道の双方を実践し、理解に努めたのである。更に、それを伝承しようと思った三島は、積極的に発信も続けた。
三島が述べている優雅で、なよなよした文学の方の最高傑作は、その遺作「豊饒の海」だろう。これは1巻と2巻が出た後で川端康成をして「源氏物語以来の傑作」だと言わしめている。ちなみに、三島は没落貴族を好んでテーマに選んだ。「豊饒の海」もその1つである。左翼にしてみれば、そんな金持ちの話は聞きたくない、と思うのではないか。しかし、貴族社会には様々な儀式や風習があり、その1つひとつに文化の結晶が秘められている。それらを表現する独特な言葉も豊富にある。そのような貴族世界を放置すべきではない、と三島は考えていたのだと思う。そこに文化の精華を見ていたに違いない。そして、貴族の中の最高峰に位置するのが、天皇である。つまり、天皇制の歴史やその意味を考える上でも、三島にとっては貴族社会を描く必要があったのだと思う。
剣道の方は四段の腕前で、五段の昇進試験を受ける意志はあったようだが、あるいはその前に決起したのかも知れない。
余談になるが、私はかつて文武両道に関する三島と武田泰淳の対談を雑誌で読んだような記憶がある。当時、私は中学生だったと思う。右翼であるはずの三島と左翼であるはずの武田が、その対談においては妙に意気投合しており、その理由が私には分からなかった。武田泰淳と言えばあの「ひかりごけ」という短編の傑作を残した作家であり、かつ「赤い坊主は生きられるか」と自らに問うような人生を歩んだ人でもある。親がお寺さんをしていて、武田は家業を継いだのである。しかし、武田は共産主義に傾倒してしまう。坊主でありながら、共産主義者で、小説家だったのである。そんなことも合わせて考えると、文武両道の本質は、幅の広い人生を歩め、視野を広く持て、何でも飲み込んでみろ、という点にあるような気がしてくる。これは足し算の思想だと言えないか。