文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化防衛論/三島由紀夫(その13) 言語化を拒む死

 

人間の中には、野生がある。この野生を解放し切った場合、どうなるのか。人間の世界には、殺人やレイプなど、ありとあらゆる犯罪が蔓延するだろう。そして三島は、人間の野生を人間性と呼び、そこから人間を守らなければならないと考えた。この人間を守る手段として、文明はいくつかの方策を用意した。

 

- 「人間」を「人間性」の危険から守るために宗教が起こり人間性に含まれる自然の脅威から人間を守るために反自然的なキリスト教が発明され、かつ宗教の欠点を矯正するために政教分離が起り、政治が宗教の一部を受け持って、人間を人間性から保護するために秩序維持の着務(ママ。責務の間違いでは?)、ないし使命を負うたのである。(本文献:P. 134)-

 

上記の文章の中に、西洋史のエッセンスが表現されている。いくつか前の原稿で三島が野坂昭如と「エロチシズムと国家権力」というタイトルで対談したという話を書いたが、今にして思えば三島は上記の内容、すなわち、人間性としてのエロチシズムから人間を防御するために国家権力が必要になるという趣旨のことをしゃべったのではないか。

 

さて、上記引用箇所における「政治」という言葉を便宜上、「国家」に置き換えてみよう。すると、人間をその野生から防御するために文明が発明したものは、宗教、国家、そして文化の3種類ということになる。なお、ここに言う国家とは近代国家をイメージしている。なお、現代人である私たちは、国家というものを信じて疑わない傾向にあるが、三島は懐疑的だった。

 

- 私は国家というものを普遍的な政治概念として規定することを好まない。(本文献:P. 350)-

 

言うまでもなく日本には、明治憲法が制定される遥か昔から連綿と続く歴史がある。また、近代国家とは、西洋文明の産物なのであって、その概念や理念が必ずしも全ての地域や民族に適合するかと言えば、そうではない。元来、狩猟採集民族に国境は存在しなかったし、アフリカを直線の国境で分断したのは白人だった。

 

宗教と国家の違いは、比較的簡単に説明できよう。聖書などの教典を重んじるのが宗教で、憲法や法律を重視するのが国家である。順序としては、宗教の方が古い。しかし、双方とも文字に依拠しているという共通点がある。ちなみに旧約聖書はいつ書かれたのかネットで検索してみると、紀元前12世紀から紀元後2世紀とのことである。何を言いたのかと言えば、西洋の文明というのはそのルーツを文字に置いているのではないか、という点である。これに対して日本の文化は、もっと古い、人が文字を持つ前の時代にそのルーツを置いているのではないか。例えば、古事記は、どこかアイヌの神話に通ずる。私はアイヌの神話や童話が好きでYouTubeの「アイヌ絵本」という番組を見ているのだが、ここにも2項対立に準拠しない物語が豊かに語られる。日本の神話にはヤオロズの神が登場するし、アイヌの神話にもいたずら好きの様々なカムイが登場する。

 

文字に依拠する文明においては、真理は自分の外にあることになる。自分で考えるよりも聖書などの教典を熟読しようということになる。対して、文字を持たない人々は、例えば、自然との触れ合いの中から、何かを発見しようとする。日本には、そのような伝統がある。そして日本人は、文字を持った後でもそのような伝統を継承したのではないか。俳句には季語が必要だし、松尾芭蕉は自然の中に人間を投影して見ていたに違いない。

 

真理は、即ち、私の心の中にある。心即理という陽明学の思想を、一神教の信者たちが受け入れることは決してないだろう。彼らにとって真理とは、自分の外側に存在する経典や法律の中にあるに違いない。

 

ところで、三島について語るからには、彼の死に関する問題を避けて通ることはできない。但し、反対論もある。

 

- 割腹死を決意させたものの核心が何であったかを、解明できると思うことがいかに不遜であるかは、承知しているつもりである。自分なりの結論にせよ、解明できたと思う時は、永久にこないであろう。(文献6:P. 158)-

 

上記の引用文は、吉田満氏の弁である。確かにソクラテスは「不知の自覚を持て」と主張したのであって、最終的に解明できると思うことは不遜であるに違いない。しかし、ソクラテスは「人間並みの知恵」を目指して思考せよ、とも述べていたのではないか。私は、不遜であるから思考しない、という態度は取りたくない。

 

では、この問題について三島自身はどう述べていたのだろう。

 

- 行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせないからこそ行動なのである。ことばでとらえた行動というものは、煙のように消えていき、そこに何ら痕跡は残らず、また、行動の理論体系を立てるということ自体が、行動家の目から見ればすでに滑稽である。(文献2(行動学入門):P. 67)-

 

 

なるほど、三島は行動というものを言語化することはできないと主張しているのである。しかし、三島はドナルド・キーン氏に宛てた最後の手紙の中で、次のようにも述べている。ちなみに、決行の日、三島の自宅のテーブルには3通の手紙が置かれていた。そのうちの1通が、これである。

 

- 小生、たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓讀は学問的に正に正確でした。小生の行動については、全部分かっていただけると思ひ、何も申しません。ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました。(文献11:P. 197)-

 

一体、どうしたことだろう? 行動学入門においては、あれだけ言語化できないと言っておきながら、親しいキーン氏に対しては「全部分かっていただける」と述べている。この点、三島は、日本文学に造詣の深いキーンさんに対する儀礼としてそう述べたのだろうか。いずれにせよ私が思うのは、分かることと、分からないことがあるのではないか、ということである。その前提で、私の理解を進めてみたい。

 

まず、三島は少年時代、祖母に連れられてよく能を鑑賞していた。このような文化的な環境下にあって、三島の文学的な素養が育まれていく。実際、三島は16才の時に執筆した「花盛りの森」で文壇デビューを果たしている。また、三島は「私は初めは芸術至上主義者でした」と述べている。(本文献:P: 290)

 

その後三島は、次第に「行動をして精神が動かされなきゃいかん」と思うようになる。行動ということを考えるうちに、三島は敵が必要だと思った。「私はどうしても敵が欲しいから共産主義というものを拵えたのです」ということになる。但し、共産主義は三島が便宜上措定した敵に過ぎず、真の敵ではなかったに違いない。

 



 

三島の変遷を上図に当てはめてみよう。まず、三島は自我から出発している。そして、文化の領域を目指した。三島にとっての文化とは、当初は、能であり文学だった。しかし、三島はそれに飽き足らず、同じ文化領域にある行動に着目した。三島の行動に関する理論的な背景は、陽明学葉隠だった。そして、三島は敵を見出す。三島は日本の文化、伝統に込められた様式の中に自身を昇華させることを望んでいた。つまり、三島にとっての本当の敵とは、日本の文化、伝統に反逆を試みようとするあらゆる勢力だったのである。

 

自我 → 文化 → 敵としての近代国家

 

ここで疑問が湧いて来る。それは三島の自我と文化との関係である。三島の自我は、果たして文化と完全に一体化したのか、という問題だ。

 

文化とは、三島が型、フォルム、様式などの言葉を用いて表現したものである。能には型がある。剣道にはフォルムがある。文学には様式がある。この問題を突き詰めて行くと、人間の言語自体、様式によって成り立っているとも言える。

 

少し話は脱線するが、三島は、日本語として美の絶頂を極めたのは古今和歌集だと述べている。

 

- われわれの文学史は、古今和歌集にいたって、日本語というものの完熟を成就した。文化の時計はそのようにして、あきらかな亭午を斥すのだ。(文献6:P. 181)-

 

代表的な和歌とは短歌であり、それは57577という様式によって成り立っている。その様式の中にこそ、三島は日本語における最高峰の美を見ていたのである。そうしてみると、三島はその遺作、豊饒の海において、古今和歌集のような日本語の究極的な美を追求したのではないかと思えてくる。

 

話を戻そう。ここで私が提起したい問題とは、本来不定形である三島の自我は、様式の中にすっぽりと納まったのか、という問題である。例えば、古池や蛙飛び込む水の音、と詠んだ松尾芭蕉は、これで全てを言いきったと感じていたのか、本当は他にも言いたいこともあったのか、という問題なのだ。多分、芭蕉は、その心情を言い切ったのではないか。つまり、芭蕉の心は俳句という様式と完全に合致したと見ることができる。では、三島の場合はどうか。三島の自我は、文学や武士道の様式と完全に合致していたのだろうか。その答えは、ノーだと思う。三島の自我は、文化の持つ様式を目指し、ほとんど一体化したのだろうと思うが、そこで三島は自我を完結することはできなかったのだ。そこには収まり切らないエネルギーがあり、三島は敵と戦わざるを得なかったのだと思う。そして、様式と合致させられなかった余剰の部分を切り捨てるために、最後の手段として、自らの身体を抹殺したのではないか。つまり、三島は腹を切ることにより、自らを様式に完全に合致させたのである。こうして、三島という男は日本の文化、伝統の化身となったのだ。死ぬことによってしか完成させることのできない美学。三島は、それをやり遂げたのだと思う。

 

さて、私が推測できるのは、ここまでである。では、三島は何故、そのような美学に向かったのか、という問題が残る。それは、三島の自我に関わる問題だ。しかし人間は自我、主体、「私」とは何かという設問に答えることはできないのではないか。心理学的に言えば、そこは無意識に支配されている領域である。そして自我の中には、人間の野生が密かに息づいている。形を持たない、得体の知れない熱を帯びた、まるで泥水のような自我。それは理解されることを拒んでいる底なし沼のような闇なのだ。

 

 

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977

文献6: 最後の思想 三島由紀夫吉本隆明富岡幸一郎/アーツアンドクラフツ/2012

文献7: 赫奕たる逆光/野坂昭如文芸春秋/昭和62年

文献8: 決定版 三島由紀夫全集 13/新潮社/2001

文献9: 魂と意匠-小林秀雄/秋山駿/講談社/1985

文献10: 『葉隠』の武士道/山本博文PHP新書/2001

文献11: 三島由紀夫 未発表書簡/三島由紀夫中央公論新社/2001