文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化防衛論/三島由紀夫(その14) 文化的エネルギー

 

三島は、様々な対立構造について語った。例えば、天皇言論の自由。三島は天皇人間宣言を批判している。つまり、天皇を相対的なものではなく、絶対的な、超越的な存在であるべきだと考えていた訳だ。但し、三島が理想とした天皇とは、戦時中、政治利用されたようなものではなく、権力とも切り離された「文化概念としての天皇」なのである。この点、単純な軍国主義を唱える右翼とは、明確に異なる。三島は民主主義を肯定していたし、何よりも言論の自由を尊重していた。言論の自由を尊重すると、当然のことながら、天皇を批判する言説も出てくる。また、皇室が週刊誌のネタになったりもする。従って、天皇言論の自由とは相容れないように思えるが、その不安定さ、フレキシビリティーが重要だと三島は考えていたのである。その他の対立構造についても、結局のところ、三島はAとBとの対立があったとして、確定的にどちらか一方が正しいという風には考えていなかったように思う。むしろ、そのような対立構造を作り上げ、若しくは維持することによって得られるエネルギーが大切だと思っていたのではないか。作用があれば、反作用がある。そのエネルギーこそが重要なのであって、そのエネルギーこそが文化を育み、醸成するのである。この訳の分からない力のことを、私は、文化的エネルギーと呼びたい。振り子の振れ幅は、大きな方が良い。比喩的に言えば、そういうことなのだ。

 

もちろん三島は、アラブ人とユダヤ人の対立だとか、そのような不幸な対立構造を望んでいた訳ではない。そうではなくて、例えば、当時、三島は左翼学生と対立していた訳だが、そのような事例において、私はある種の幸福を見るのである。

 

簡単に言えば、当時の左翼学生たちは、言論の自由が許容される共産主義社会を夢見ていたのである。対する三島は、そんなユートピアのような国家形態は存在しない。共産主義の国家になれば、必ず言論は統制され、秘密警察や強制収容所が待っていると考えていた。但し、今の世の中ではダメだ、もっと良い世の中にしたいという根源的な願望を持つという点において、両者は共通していたのである。

 

当時の出来事を時系列に並べてみよう。

 

1968年10月5日: 三島、楯の会を結成

1968年10月21日: 新宿騒乱事件

1969年1月18日: 東大安田講堂事件

1969年10月21日: 新宿でのデモ(盛り上がらず)

1970年11月25日: 三島、自決。

 

三島が楯の会を結成する以前から、学生運動はその激しさを増していた。そこで、三島はそれに対抗する目的で、楯の会を結成したのではないか。少なくとも三島が楯の会を結成した理由の1つには、学生運動があったと思う。実際、その直後には新宿騒乱事件が発生している。翌1969年1月には、東大全共闘安田講堂に立て籠るという事件が発生したが、彼らはいともた易く、機動隊に排除された。少なくとも、テレビを見ていた一般国民の目には、そう映った。学生運動などしても、国家権力に勝てるはずはない。以後、学生運動は、急速に収束して行く。

 

作用としての学生運動があり、その反作用として楯の会があったのだと思う。

 

1969年10月21日にも新宿でデモがあったが、これはさっぱり盛り上がらなかった。この時、三島はヘルメットを被って見物に出かけているが、デモ隊の惨状を嘆いている。1970年2月27日付、三島はドナルド・キーン氏に宛てた手紙に次のように記した。

 

- 世の中はすでに、1960年の安保のあとのように急にシーンと落ち着いてしまひ、何の危機感もなくなり、・・・従って僕も元気がなくなりました。危機感は僕のヴィタミンなのに、ヴィタミンの補給が絶えてしまったのですからね。(文献11:P. 190)-

 

このように、世の中には平穏が訪れ、無風状態となり、そんな中で三島は決起したのだった。

 

さて、4時間を超えるYouTube番組の最後で、三島はその本音を語っている。(4:14:50頃)

 

https://www.youtube.com/watch?v=-fVyfKS2l-U&t=15347s

 

ポイント書き起こしてみよう。

 

- 到達不可能なものが、芸術である。到達可能なものが、行動である。こう考えると文武両道は、簡単に割り切れちゃう。行動は死に至るが、芸術においては、死が最高理念ではない。-

 

- この芸術と行動とによって、体が2つ引き裂かれる。これが「豊饒の海」のモチーフです。-

 

文と武の対立構造の中で、体が引き裂かれる。それは小説のモチーフであったと同時に、三島の人生そのものだったのだと思う。

 

三島にとって、「文」とは文化の様式のことで、その中で中心的な役割を果たすのが文学である。これは永遠に、到達することがない。一方、「武」とは武士道のことで、行動の様式のことである。但し行動は、死に到達することが可能だ。この相反する2つの様式の中で、三島の自我は引き裂かれたのである。そして、三島の魂に救いの手を差し伸べたのが、天皇だった。天皇は日本という文化共同体における文化の総体を映し出す鏡であると共に、その構成員が行動を起こす時の大義となる。大義とは、人間が死ぬための理由である。大義なくして、人は行動すること、死ぬことは困難である。だから三島はあれだけ天皇にこだわったに違いない。三島が求めた天皇とは、文と武に引き裂かれた自己を統合し、救済する絶対者だったのだ。

 

ところで三島は、日本の文壇に絶望していた。

 

- 「暁の寺」はひどい冷遇ぶりで、ますます日本の文壇に絶望しました。しかし本は呆れ返るほど賣れます。つまらぬ批評、無知な批評家たち・・・ (文献11:P. 196)-

 

文壇ばかりでなく、三島は、人間にも絶望していたのだと思う。三島が自決した1970年においては、既に文化的なエネルギーは失われ、人々は目先の金と権力に目を奪われていたのである。しかし、三島は自分の人生には、満足していたと思う。やり残したことなど、1つもないのだから。あえて三島は勝者だったのか敗者だったのかということを言えば、私は勝者だったと思う。

 

さて、三島が自決してから54年が過ぎた。日本列島に住み、日本語を母語とする私たちの文化共同体は、どうなっただろう。幸い、戦争は起きていない。暴動も革命も起きていない。昭和の天皇崩御されたが、その後、平成の天皇、令和の天皇と皇統は維持されている。自衛隊も変わらず、私たちは日本語を話し続けている。しかし、武士道精神はすたれ、ほとんどの男たちは腰抜けになり、新宿などへ行けばふしだらな女たちが氾濫している。豊かな表現に満ちていた日本語は痩せ細り、カタカナ言葉が横行するようになった。最早、美を探すのは困難となり、倫理さえもその存続が危ぶまれている。

 

そう、私たちの文化共同体からはあらゆるエネルギーが失われ、あれだけ大きく左右に振れていた時計の振り子は動きを止め、その針は最早、時間を指し示してさえいない。三島の自決とは、そのことを私たちに教える最後の事件だったのだ。

 

補記)以上をもちまして、文化防衛論に関するシリーズ原稿は終了致します。

 

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977

文献6: 最後の思想 三島由紀夫吉本隆明富岡幸一郎/アーツアンドクラフツ/2012

文献7: 赫奕たる逆光/野坂昭如文芸春秋/昭和62年

文献8: 決定版 三島由紀夫全集 13/新潮社/2001

文献9: 魂と意匠-小林秀雄/秋山駿/講談社/1985

文献10: 『葉隠』の武士道/山本博文PHP新書/2001

文献11: 三島由紀夫 未発表書簡/三島由紀夫中央公論新社/2001