最近、哲学に対する興味が急速に減退してきた。暴論であることを承知で言うならば、哲学の本質は2400年前にソクラテスとプラトンが言い尽くしたのではないか。その後のことを言えば、人権を発見したホッブズとロック、あとは人間心理の深層を探ったフロイトとユング。大きな成果と言えば、それ位ではないのか。マルクス主義は単なる経済学に過ぎないし、偏狭な唯物史観によって、人間社会や文化の謎に迫ることはできないと思う。
ああすればいい、こうすればいい、という議論であれば、それは簡単だ。しかし、それらは机上の空論に過ぎない。理想を掲げて社会を変革しようとしても、必ず、それを阻む勢力が存在する。理想論に敵対する勢力、それこそが権力である。では、権力とは何かという問題がある訳だが、どうやらその答えはプラトンの「国家」に書かれているらしい。私は、未だ読んでいないのだが・・・。
現在の日本社会に目を転じてみても、事情は変わらない。日本は米国の属国なので、いくら日本国内で頑張っても、なかなか権力を倒すことはできない。戦後、ほぼ80年が経とうとしているが、この間に権力はより強固になり、複雑になり、それは更にシステマチックになっている。このシステムのことをグローバリズムと言い換えても良い。当分、日本は米国から独立できそうもないと思うが、できるとすれば、それは日本国内の努力によるものではなく、米国自体の凋落に起因するだろうと思う。特に、米ドルが国際基軸通貨としての地位を失えば、世界の秩序が一変する可能性はある。但し、それがいつになるのか、私には分からないし、その時まで私が生きているか、それすら心許ないのである。
そこで私は、文学に活路を求め始めている。哲学や政治学に比べると、文学というのは何とも曖昧なもので、なかなか結論に至らない。むしろ、結論に至らないのが文学だと言った方が正確かも知れない。換言すれば、文学は真理を目指す遠回りの道なのである。しかし、仮に近道がないとすれば、遠回りであっても、その道を歩く他はないように思う。
昨今、私は川端康成を読み初めている。小説で言えば、まずは「伊豆の踊子」である。そんなの教科書で読んだよ、という方もおられるだろう。しかし、なかなかにして、これが深いのである。まずは原作を読んだ。次に、私はYouTubeで早瀬美里主演の映画を見た。(ちなみに主演男優はキムタクである。)少し、原作と異なる。そこで私は、もう一度、原作を読み返した。素晴らしい。私は、もう一度映画を見た。今度は吉永小百合が主演のものだ。謎は深まり、今は「伊豆の踊子」に関する解説本を読んでいる。年が明けたら、「伊豆の踊子」について、少し述べてみたいと思っている。
さて、最近はロクな事件が起こらない。兵庫県知事選の次は、フジテレビの女子アナ上納事件である。世も末だと思う訳だが、この時期、活気に溢れているジャンルもある。それは、プロレスなのだ。そんなの八百長じゃないか、と思われる方もおられるだろうが、少しお付き合い願いたい。
プロレスの仕組みを簡単に説明しよう。まず、レスラーには正義の味方と悪役が存在する。正義の味方は、ベビーフェイス(略してベビー)と言い、悪役はヒールと言う。そして、試合を盛り上げるために、予め様々な仕掛けを行う。これをアングルと言う。例えば、ヒールがベビーに暴力を振るったり、理不尽な要求を突き付けたりする訳だ。ファンは、これを見て怒り心頭に発する。そうやって集客した上で、試合を行う訳だが、この試合の流れは予め決まっていることが多い。この試合のシナリオをブックと言う。そして、このシナリオを作る人をブッカーと言う。新日本プロレスで、一時期、長州力が現場監督と呼ばれていたが、当時の長州はブッカーだったという説がある。私がプロレス会場に足を運んだ印象では、プロレスのこの仕組みを知っているのは、観衆の3分の1程度である。ブックと言っても、長い試合の一部始終を予め決めておくことはできない。そこで、一方がこの技を繰り出したら相手は負ける、ということだけを決めておくのだ。これをケツギメと呼ぶ。
やっぱり八百長じゃないかと言われれば、そうかも知れない。外国では、あらゆるプロスポーツが賭けの対象となるが、プロレスだけは例外だと言われている。それでは、プロレスラーは一生懸命試合をしていないのかと言えば、そんなことはないのである。どのタイミングで、どんな技を繰り出せば観客は喜ぶのか。ここでどんな表情をすれば、観客は興奮するだろうか。プロレスラーは、常にそういった配慮を怠らないのである。だから、プロレスラーは一試合毎に、真剣勝負なのだ。かつて、ヒールレスラーのキラー・カーンはそう言っていた。このように、裏の裏を読みながら見るプロレスは、面白くて仕方がないのである。
ベビーはベビーらしく、ヒールはヒールらしく。このような対立関係を作り出すことによって、文化的エネルギーが発生するのではないか。人々が均質になった社会では、風も吹かないのである。例えば、男は男らしく、女は女らしくと言えば、お叱りを受けるだろうか。かつて三島由紀夫はこう言っていた。
- 私は自民党にはもっと反動的になってもらい、共産党にはもっと暴力的になってもらいたいと思っている。-
さて、広大なネット空間の中から、このブログを発見し、お立ち寄りいただいた皆様、本当に有難うございます。皆様に幸多き年が訪れますことを心よりお祈り申し上げます。酷い世の中ではありますが、どうか良いお年をお迎えください。