<はじめに>
私が日頃利用している本屋は、ターミナル駅の東口にあるのだが、ふと、西口にも書店のあることを思い出した。東口から西口へ移動するだけでも300メートルはある。行ってみると、確かに比較的大きな書店があった。文芸書コーナーを探しつつ、書店の中を一通り歩いてみた。学習書や語学研修に関するもの、そして資格取得に関する本などが大量に置かれていた。世知辛い世の中になったものだと、ため息が出る。現在の日本人は、生存競争に勝つための、若しくは自らの生活を成り立たせるための本を多く求めているのだ。更に奥へ進むと、今度は絵本コーナーがあった。それが私には、安堵感をもたらすのだった。私が愛して止まない「鶴の恩返し」。きっと今の子供たちも絵本を通じて、この童話に親しんでいるに違いない。
ちなみに私は、最近、ケーブルテレビを通じて「鶴」という映画を見て、いたく感動したのである。これは「鶴の恩返し」を元に作成された吉永小百合が主演の映画だ。雪景色の画像が美しく、そして吉永小百合の演技が卓越している。
結局、その書店に文芸書コーナーはなかった。しかし、文庫本のコーナーへ行くと無数の小説が並んでいた。文学は、まだ死んでいない。そう思った。今年は三島由紀夫の生誕100年に当たるということで、三島の作品は多く並べられていた。その数ほどではなかったが、川端康成の作品も並んでいた。今日においても、私たちは気軽に川端作品を手にできる環境にあるし、実際、多くの読者によってそれは読みつがれているに違いない。普遍的な作品、本質的な言説は、いつまでたっても古くはならない。
さて、川端康成は、不思議な作家だと思う。川端の作品には、不思議な魅力があると言い換えてもいい。私には、その謎に挑んでみたいという気持ちがある。また、川端は生涯を通じて美を追求した作家だとも言える。川端は、独自の美学を持っていたに違いない。但し、その美学は、不道徳と紙一重の関係にあった。私がそう考える理由は、川端が晩年に書いた「眠れる美女」という作品にある。これは、男としての機能を失いかけた老人が、秘密の宿へ行き、そこで全裸の美女と添い寝をするというもの。これを背徳と言わずして、何と言おう。この原稿のタイトル「背徳の美学」は、そのことを指している。