文化認識論

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背徳の美学(その1) 伊豆の踊子/あらすじ

 

川端康成は、1899年6月14日に大阪で生まれた。1才で父を、2才で母を亡くしている。康成には姉がいたが、彼女も川端が10才の時に亡くなっている。康成は祖父である三八郎に育てられたが、後年は目が不自由になった三八郎の面倒を康成が見ていたのである。

 

康成は1918年、19才の時に伊豆へ旅行し、その時に例の踊子と出会っている。小説としての「伊豆の踊子」が完成したのは、それから8年後の1926年、康成が27才の時である。

 

康成は自らの年令などをいわゆる「数え」で述べる場合が多いが、本稿においては満年令に統一したい。「数え」というのは生まれた時点で1才とし、以後、元旦が来る度に年を重ねるという計算方法である。例えば、大晦日に生まれた赤ん坊はその時点で1才となり、翌日には元旦が来るので2才となる。

 

さて、文学論と言うと大まかに作家論、作品論、本質論などがあろうかと思う。多くの場合、作家論が中心に語られる傾向にあると思う。例えば上に記したような作家の実人生は作品に語られることが少ないし、また、作品について語ること自体が容易ではないという事情もある。しかし、作家論はつまるところ作家の異性関係など、週刊誌的な記述に終始しがちではないか。作家は時として、命を削りながら作品を創作するのであり、それに接する者の取るべき態度としては、まず、作品論であるべきだと思う。但し、作品だけを読んでいては理解できない場合もあり、そのような場合には作家の実生活にまで踏み込むことが許容されると思う。

 

また、作品について語る場合の最初の困難は、まず、例えば本稿の読者が作品を読んでいるか、または、その内容を覚えているか、という問題である。そうでなかった場合、いくら作品について述べても、何も伝わらない可能性がある。そこで、まずは「あらすじ」を記載する必要があるように思った。以下に「伊豆の踊子」のあらすじを掲載する。A4で2枚程の分量である。

 

伊豆の踊子/あらすじ>

 

シーン1:峠の茶屋にて。二十歳の学生である「私」は、一人、伊豆を旅している。「私」は旅の途中、既に2度程、踊子たちと出会っている。再会することを期待して、峠の茶屋へ行くと、期待通りに踊子たちがいた。「私」は踊子を17才位だと思う。旅芸人の一行が茶屋を出た後、「私」は茶店の婆さんに「あの芸人は今夜どこで泊まるんでしょう」と尋ねる。婆さんは「お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ」と答える。「私」は、それならば、踊子を今夜は私の部屋に泊まらせるのだ、と思う。

 

シーン2:茶屋を出た「私」は、旅芸人の一行に追いつく。一行の中の唯一の男、栄吉が話し掛けてきて、「私」は彼と連れ立って歩く。木賃宿へ着くと、踊子が「私」に茶を運んで来るが、恥ずかしさのあまり手が震えて、茶を零してしまう。すると四十女が「まあ! 厭らしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれ・・・」と言う。それを聞いた「私」は、峠の婆さんに煽り立てられた空想がぽきんと折れるのを感じる。

「私」は旅芸人の一行と同じ宿に泊まるものと思っていたが、栄吉は「私」を別のもう少し高級な宿に案内する。宿の内湯で「私」は栄吉と話し、彼が24才であること、栄吉の妻が流産、早産を繰り返したことなどを知る。帰りがけ、私は「これで柿でもおあがりなさい。二階から失礼」と言って、金包みを階下の栄吉に向かって投げる。「こんなことをなさっちゃいけません」と言って、栄吉は金包みを放り上げるが、「私」は再度それを投げ返し、栄吉はそれを拾って行く。夜、太鼓の音が聞こえる。「私」は、踊子の今夜が汚れるのであろうかと、悶々とする。

 

シーン3:翌朝、やって来た栄吉と共に、朝風呂へ入る。少し離れた所にある共同湯に入っていた踊子は、こちらを見つけると真裸のまま手を振ってくる。私は踊子のことを「子供なんだ」と思う。(当時、この地方では混浴の習慣があった。)

 

シーン4:「私」は鳥打帽を購入し、高等学校の制帽はカバンの中にしまう。「私」は、旅芸人の一行が、栄吉の妻である千代子が早産しその後、死んでしまった赤ん坊の四十九日を下田で予定していることを知る。「私」は栄吉と散歩に出る。そこで「私」は、踊子が14才でその名が薫であること、四十女が千代子の実母であることを知る。「私」は踊子(薫)と五目並べをして遊ぶ。四十前後の男(鳥屋)が踊子の肩を軽く叩くと四十女が「こら。この子に触っておくれでないよ。生娘なんだからね」と言って怒る。「私」は踊子に水戸黄門漫遊記を読んで聞かせる。

「私」は「好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼等が旅芸人という種類の人間であることを忘れてしまったような、私の尋常な好意は、彼等の胸にも沁み込んで行くらしかった」と考える。夜、別れ際、踊子は下田へ着いたら「活動へ連れて行って下さいましね」と「私」に頼む。

 

シーン5:「私」は旅芸人の一行と共に、下田へ向けて出発する。少し険しい近道を行くか、楽な本街道を行くか尋ねられ、私は近道を選ぶ。「私」は栄吉と並んで、女たちよりも少し遅れて歩いている。すると踊子が走ってやってくる。この下に泉があると言う。喉の乾いていた私は走り出す。女たちが泉を囲んで待っている。四十女が言う。「さあ、お先にお飲みなさいまし。手を入れると濁るし、女の後は汚いだろうと思って」。踊子が栄吉の妻、千代子に話しかける声が聞こえる。「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」と踊子が言う。「私」は、感情の傾きをぽいと幼く投げ出してみせた声、だと思う。そして、「私」が伊豆の旅に来ている理由が明かされる。「二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。」途中、ところどころの村の入り口に立札があった。- 物乞い旅芸人村に入るべからず。

 

シーン6:下田へ着く。「私」は「これで明日の法事に花でも買って供えてください」と言って、栄吉に包金を渡す。実は旅費のなくなった私は、明朝の船で東京へ帰らなくてはならないのだ。芸人達には、学校の都合があると嘘をついた。踊子は活動に行かせてくれとせがんだが、四十女は承諾しなかった。栄吉も頼んでくれたのだが、それでもだめだった。やむなく「私」は1人で活動へ行った。宿に戻り夜の町を眺めていると「遠くから絶えず微かに太鼓の音が聞こえてくるような気がした。わけもなく涙がぽたぽた落ちた。」

 

シーン7:出立の朝、7時に黒紋付の羽織を着た栄吉がやってきた。「私」は、「私を送るための礼装らしい」と思う。「私」は栄吉から敷島(高級煙草)四箱と柿とカオールという口中清涼剤を受け取る。栄吉は「妹の名が薫ですから」と言う。「私」は「これをあげましょう」と言って、自分が被っていた鳥打帽を栄吉の頭に被せてやり、自分は学校の制帽を取り出す。乗船場が近づくと、海際にうずくまっている踊子がいた。踊子は何も言わなかった。土方風の男が近づいてきて、東京まで老婆の面倒を見てくれと頼み、「私」は快く引き受ける。船が動き出すと栄吉は先ほどやった鳥打帽を、踊子は白いものを振った。

 

「私」はカバンを枕にして横たわる。止めどなく涙が零れて、「私」はカバンをひっくり返さなければならない程だった。私の横に少年が寝ていた。「何か御不幸でもおありになったのですか」と尋ねる。「私」は「いいえ、今人に別れて来たんです」と答える。「私」は少年の学生マントの中にもぐりこみ、少年の体温に温まりながら、涙を出任せにしていた。