文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

背徳の美学(その3) 登場人物の構成

 

薫という名の踊子を含む旅芸人の一座。その座長は、作中、名前も明らかにされない四十女だった。彼女は一座の会計を預かり、踊子に三味線を教え、踊子を男たちから遠ざけている。例えば、シーン4には踊子が「私」と五目並べをして遊ぶ場面がある。他のメンバーは、浴場へ行っている。

 

- 二人きりだから、初めのうち彼女は遠くの方から手を伸して石を下していたが、だんだん我を忘れて一心に碁盤の上へ覆いかぶさって来た。不自然な程美しい黒髪が私の胸に触れそうになった。突然、ぱっと紅くなって、

「御免なさい。叱られる」と石を投げ出したまま飛び出して行った。-

 

「叱られる」とは、四十女に叱られるという意味だろう。

 

シーン6で、踊子が「私」と活動へ行くことを禁じたのも四十女である。出立の朝、「私」は栄吉からカオールという口中清涼剤を受け取り、栄吉は「妹の名が薫ですから」と言う。私は、ここにも意味があると思うのだ。栄吉に餞別の品々を持たせたのも四十女ではないか。そして、薫の代わりにカオールを渡すことによって、決して薫は渡さないという強い意志をそこに込めたのではないか。

 

四十女が、踊子を「私」に近づけさせなかった理由は、いくつか考えられる。「私」が自分勝手な未熟者であることは見抜いていただろうし、また、旅芸人の一座を運営していくためには踊子が必要だった、ということもあろう。あと数年もすれば、踊子は一座の花形となるに違いない。また、東京からやってくる若い男と、伊豆に住む純朴な女という関係を気遣ったのかも知れない。東京の男には伊豆旅行の思い出に過ぎなくても、女はそんな男に恋焦がれてしまうというケースだってあっただろう。

 

このように考えてくると、「伊豆の踊子」という短編小説における登場人物の役割なり、そこで生まれる力学のようなものが見えてくる。まず踊子は、「美少女」と言い換えても良いだろう。そして、そんな踊子の持つ美に惹かれる「私」は、結局のところ、何もしないのである。四十女に手玉に取られて、手も足も出ず、泣きながら東京へ帰って行く。川端の他の作品をも参考にすると、このタイプの主人公は「傍観者」と呼ぶのが相応しいと思う。

 

そして、踊子に近づこうとする私には、「補助者」と「妨害者」とが存在する。この作品で言えば、「補助者」とは栄吉のことである。栄吉は「私」と同じ男であることもあって、「私」に旅芸人一座のメンバーを紹介し、「私」が踊子に近づくことをそれとなくアシストする役割を担っている。そして反対に、「私」が踊子に近づくことを妨げる四十女もいる。彼女こそが「妨害者」なのだ。

 

「傍観者」たる「私」が、「美少女」に近づこうとし、それを助ける「補助者」がいて、それを妨げる「妨害者」がいる。結局、「妨害者」が勝利し、「私」は「美少女」を手に入れることができない。「伊豆の踊子」に内在する基本的な構造とは、このような力関係にあるのではないか。このような構造は、男を主人公とする川端の後年の作品にも見ることができる。

 

基本はあくまでも上に記した4者であるが、川端作品に繰り返し登場する者としては、「美少年」を上げることもできる。「伊豆の踊子」においては、そのラストシーンで泣いている「私」に寄り添う学生マントの少年が、それである。

 

舞姫」という川端作品の解説を三島由紀夫が書いている。そこで、三島は次のように述べる。

 

- 川端氏にとっての永遠の美は何か。私が次のようにいうと、我田引水を笑われるに決まっているが、おそらくそれは美少年的なものであろう。-

 

私は、必ずしも三島の意見に賛成ではない。川端作品に登場する「美少年」は、人間の未成熟な部分、幼さを象徴しているように思うが、この点は後述したい。