文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

背徳の美学(その4) 映画化された踊子

 

小説において最も重要な場面は、ラストシーンではないだろうか。このラストシーンを描くために、小説家は長く苦しい労苦を厭わず、言葉を紡ぐのである。では、「伊豆の踊子」の場合はどうだろう。あらすじの中から、最後のシーン7の一部を再掲する。

 

シーン7:乗船場が近づくと、海際にうずくまっている踊子がいた。踊子は何も言わなかった。土方風の男が近づいてきて、東京まで老婆の面倒を見てくれと頼み、「私」は快く引き受ける。船が動き出すと栄吉は先ほどやった鳥打帽を、踊子は白いものを振った。

 

「私」はカバンを枕にして横たわる。止めどなく涙が零れて、「私」はカバンをひっくり返さなければならない程だった。私の横に少年が寝ていた。「何か御不幸でもおありになったのですか」と尋ねる。「私」は「いいえ、今人に別れて来たんです」と答える。「私」は少年の学生マントの中にもぐりこみ、少年の体温に温まりながら、涙を出任せにしていた。

 

私が思うのは、上記引用箇所における「踊子は白いものを振った。」という所で、この小説を終えるべきではなかったのか、ということなのだ。つまり、その後の少年のマントに潜り込み少年の体温を感じるという記述(以下「同性愛的場面」という)は、蛇足ではなかったのか、という疑問が湧くのである。

 

何しろ、読者としてはここまでひたすら踊子のいじらしさ、純粋さ、可愛らしさに惹かれて、この作品を読み進めてきたのだ。彼女の年令は、作中14才だと述べられているが、これが「数え」だとすると、満年齢で言えば13才ということになる。現在であれば、中学1年生だ。シーン4で「私」が踊子に「水戸黄門漫遊記」を読んで聞かせる場面があるが、踊子はまだ満足に読み書きもできないのではないか、と不安になってしまう。踊子は近所の子供たちとも遊び、「私」とは五目並べをするような少女である。そんないたいけな少女を旅芸人という過酷な職業に縛り付けていて良いのか。誰か、踊子を救ってやれる者はいないのか!

 

他方、語り手である「私」は高等学校の学生である。今の制度に直して言うと、大学の教養学部に在籍していることを意味する。(実際、川端は東京帝国大学の国文学科を卒業している。)つまり、「私」は高学歴の男であり、自らの人生を切り開き、自立して生きていく能力を充分に有している。そんな者のことを、一体、誰が心配するだろう。

 

そうは言っても川端程の文学者である。上記の「同性愛的場面」をラストシーンに据えたのには、何か意味があるのかも知れない。この謎については、後年、川端自身が語ることになる。

 

さて、「伊豆の踊子」ほど、映画化された文学作品は、他に類を見ない。新潮文庫の解説にその一覧があるが、これには早勢美里のバージョンが抜けているので、それを加え、以下に上映年、主演女優名、主演女優の年令の一覧を掲載しよう。

 

1933年/田中絹代/24才

1954年/美空ひばり/17才

1960年/鰐淵晴子/15才

1963年/吉永小百合/18才

1967年/内藤洋子/17才

1974年/山口百恵/15才

1993年/早勢美里/16才

 

このうち、最近、私が見たのは吉永小百合バージョンと早勢美里バージョンの2本である。(ちなみに早勢美里バージョンは、YouTubeで無料公開されている。)これら2本の構成は、概ね、一致している。双方共に、原作における「同性愛的場面」は省略されており、「伊豆の踊子」にはない川端が書いた別の作品「温泉宿」の場面が挿入されているのだ。「温泉宿」とは、川端の大人数の女が登場する短編小説だが、映画に関係するのはお清とお咲の2人である。

 

<お清>

お清は、胡瓜のように痩せて、背がこころもち曲がって、青ざめた子供好きの女である。売春宿に住み込みで働く売春婦である。近所の子供たちから、慕われている。重い病気を患っており、死を覚悟している。お清は自分の葬式に際しては、今まで可愛がってやった近所の子供たちが、自分の棺の後ろに長々と並んで、山の墓場まで着いて来ることを夢想している。

 

<お咲>

お咲は、この村に十人余りいる酌婦のうち、彼女だけが特別に風儀をみだすというかどで、駐在所の巡査に村からの追放を言い渡された。村会議員の息子などが、しきりに通うからだった。今は、遠くの町に住んでいる。

 

<葬送シーン>

ある晩、お咲は夜の闇に紛れて、商売のために村を訪れる。お咲は竹林の中で、第一の男と事を済ませ、男と共に温泉へ行く。そこに居合わせたお滝という女から、昨晩、お清が死んだことを聞かされる。お咲はその男と別れ、第二の男と落ち合う。竹林の中に潜んでいると二人の男がお清の棺を運んでくる。売春宿の主人と番頭である。第二の男が呟く。「あんまりひどいじゃないか。夜が明けないうちに、こっそり捨てようってんだ」。可愛がってやった村の子供の群れが、柩のうしろに長々と並んで、山の墓へ登ってくる。この幻はお清の生きる細やかな楽しみだったのである。

 

思うに、売春宿の主人にしてみれば、そこに働く売春婦が病死したとあっては、いかにも世間体が悪い。そこで、村人たちが寝静まっている隙に、お清の遺体を土葬に付してしまったのである。絶望しかない。ちなみに「温泉宿」は、「伊豆の踊子」から遅れること3年、1929年の10月に発表された。

 

さて、2本の映画の構成は、「伊豆の踊子」の原作に上記の葬送シーンが加わり、反対に原作の「同性愛的場面」が削除されている。この構成について、賛否はあるだろうが、私は映画監督の、すなわち映画の上で採用された構成を支持したい。実際、吉永小百合バージョンでは、船に乗った「私」に岸壁から踊子が懸命に白い布を振るという感動的なシーンで、映画は終わっている。

 

映画の構成 = 原作 + 葬送シーン - 同性愛的場面

 

前の原稿で、登場人物の役割について述べたが、上記の葬送シーンによって、2つの類型が追加される。まず、お清だが、彼女は読者に死をイメージさせる強烈な役割を担っている。他の川端作品においても、お清のように実際に死んでしまったり、あるいは死を示唆するような重症を負ってしまったりする人物が登場する。この類型の登場人物を「死傷者」と呼ぶことにしよう。

 

次の類型は、お咲である。彼女は村にいる時から誰とでも寝るような典型的な売春婦だった。村を追い出され遠くの町へ移住するが、お咲はそこでも兵隊相手の売春婦となっていたのである。この類型の女を「尻軽女」と呼ぶことにする。

 

これで川端作品に登場する主要な登場人物の類型は、出揃ったように思う。一覧にしてみよう。

 

傍観者・・・美を求めるが現実との関わりが希薄な男。

美少女・・・薄幸で、健気で、美しい少女。

補助者・・・傍観者が美少女に近づくことを補助する者。

妨害者・・・傍観者が美少女に近づくことを妨害する者。

死傷者・・・死のイメージを身にまとう者。

尻軽女・・・奔放な性を謳歌しようとする女。

美少年・・・人間の幼児性を体現する者。

 

上記の分類が他の作品にも当てはまるのか、それはこれから検証してみたいと思っている。なお、ここで指摘しておきたいのは、「伊豆の踊子」は後年の作品と違って1人称で書かれてはいるものの、川端文学の基本的な構成は、既にこの作品においてその萌芽を具現化している、という点である。