川端が「伊豆の踊子」を執筆したのが1926年2月、26才の時である。その22年後の1948年に川端は「少年」という中編小説を発表した。これは自伝的な作品であり、そこには「伊豆の踊子」の執筆経緯などが赤裸々に記されている。
この年、川端は数えで50才となり、それを記念して全集を出すことになった。50才で全集というのは早すぎるように思うが、当時は、人生50年と言われる時代だったのだろう。実際、川端もその年令を思い、次のように記している。
- 五十までよく持ったものと思う。七ケ月の月足らずで生まれて、じいさんばあさんに真綿にくるむように育てられた、異常な虚弱児が五十年生きて来ただけでも私は望外の幸いとしなければならないだろう。-
全集を公刊するに当たって、川端は自身の過去の文章を読み返した。そして生まれたのが、この「少年」という作品である。中学時代の川端は寄宿舎に居住していたが、そこで同室の清野(仮名)という少年と、同性愛的な行為に及んでいたのである。1916年から17年にかけての1年間である。当時の日記が、再現されている。
- 床に入って、清野の温い腕を取り、胸を抱き、うなじを擁する。清野も夢現(ゆめうつつ)のように私の頸を強く抱いて自分の顔の上にのせる。私の頬が彼の頬に重みをかけたり、私の渇いた脣が彼の額やまぶたに落ちている。(中略)半時間もこんなありさまがつづく。私はそれだけしかもとめぬ。清野ももとめてもらおうとは思っていぬ。-
清野少年は、康成よりも3つ年下だった。2人の関係は、抱擁し、愛撫をし、キスをする。そんな関係だったようで、それ以上のことはなかったらしい。それにしても、川端が若い頃にそんな経験をしていたとは、驚いた。川端の作品には、しばしば美少年が登場するが、そのモデルは、この清野少年であろう。そして「伊豆の踊子」には、その原型となる「湯ヶ島での思い出」という作品があった。この作品には清野少年との思い出と、伊豆で出会った踊子との物語の双方が描かれていた。そして、「湯ヶ島での思い出」から伊豆旅行の部分のみを取り出して書き直したものが、「伊豆の踊子」となったのである。時系列で、整理してみよう。
1915年~16年・・・寄宿舎での清野少年との営み。
1918年・・・伊豆旅行。踊子と出会う。
1922年・・・「湯ヶ島での思い出」を執筆。
1926年・・・「伊豆の踊子」を執筆。
1948年・・・「少年」を執筆。
そして、1948年の川端は、当時のことを振り返って、次のように述懐する。
- 私が二十歳の時、旅芸人と五六日の旅をして、純情になり、別れて涙を流したのも、あながち踊子に対する感傷ばかりではなかった。今でこそ、踊子はものごころつき初めた日に、女としての淡い恋心を私に動かしてくれたのではなかろうかと、下らない気持ちで踊子を思い出す。しかし、あの時はそうではなかった。幼少から、世間並みではなく、不幸に不自然に育ってきた私は、そのためにかたくななゆがんだ人間になって、いじけた心を小さな殻に閉じ籠らせていると信じ、それを苦に病んでいた。人の好意を、こんな人間の私に対してもと、一入(ひとしお)ありがたく感じてきた。そうして、自分の心を畸形と思うのが、返って私をその畸形から逃れにくくもしていたようである。
しかし、自分をそんな風に思うのは、私にそうした欠陥のあるのは勿論だが、自分の異常な境遇に少年らしく甘えている感傷が多分にあり、感傷の誇張が多分にあると気づいて来た。苦に病んでいたほどではないと思うようになったのである。-
- いい人だと、踊子が言って、兄嫁が肯(うけが)った一言が、私の心にぽたりと清々しく落ちかかった。いい人かと思った。そうだ、いい人だと自分に答えた。(中略)下田の宿の窓敷居でも、汽船の中でも、いい人と踊子に言われた満足と、いい人と言った踊子に対する好感とで、こころよい涙を流したのである。今から思えば、夢のようである。幼いことである。-
- 「湯ヶ島での思い出」の踊子の部分を除いた大方は、清野少年の思い出の記である。「伊豆の踊子」のようにまとまってはいないけれども、この方が枚数も多いし、感情もこもっている。旅のゆきずりの感傷よりも一年おきふしを共にした愛染の方が心深いものだったのだ。-
話というのは、聞いてみないと分からないものである。まさか、そんなつもりで川端があの作品を書いていたとは・・・。「伊豆の踊子」とは、美少女礼賛小説ではなく、青年の精神救済物語だったのだ。川端にとっては、踊子よりも清野少年の方が重要だった。だから私が「同性愛的場面」と呼んだラストシーンが書かれたのである。川端にとっては、あのシーンこそが重要だったに違いない。
しかし、「伊豆の踊子」を美少女礼賛小説として読んだのは、私だけではなく、少なくとも2人の映画監督も同じだったはずだ。そして、それらの映画を見た全ての人々が、そう解釈したに違いない。また、それらの映画があったからこそ、「伊豆の踊子」は日本人の心の奥底まで沁み込んだのである。7回も映画化され、特急電車(JR)の名前となり、有料道路(踊子ライン)の名前となり、土産物屋には今も踊子人形とか踊子饅頭が並んでいる。
それにしても、踊子の映画化の話が持ち上がる度、川端は内心忸怩たるものを感じていたに違いない。