文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

背徳の美学(その6) 踊子と差別

 

伊豆の踊子」が書かれたのは1926年なので、来年で丁度100年目ということになる。この100年で、世の中は随分変わったものだ。今日、この作品を読み返してみると、驚くべき差別の実態が浮き彫りになる。その典型は男女差別と職業差別であろうか。作品中、女は汚いものとして描かれ、旅芸人という職業は物乞いと同列に見られていたのである。あちこちの村の入り口に、次の立札があったのだ。

 

- 物乞い旅芸人村に入るべからず。-

 

当時の旅芸人は、土地を持たない人が多かったらしい。土地を持たず、定住する家も持たない。だから、宴席などで芸をしながら、旅を続けているのである。(小説に登場する旅芸人たちは大島に居住する家を持っていた。)そして、特にこの旅芸人たちを差別していたのは、土地を持つ農民だったという説がある。貧しい者が、自分よりも貧しい者を差別する。そのような悲惨な習慣がまかり通っていたのである。実際、「伊豆の踊子」の語り手である「私」は、一応、旅芸人に対する差別を否定している。それは彼が、学歴エリートだったからではないか。

 

何とも切ない話ではあるが、伝統的な文化や制度の中には差別が潜んでいる場合が多い。例えば、相撲部屋における暴力。近年でも日馬富士という横綱が暴力事件を起こし、引退するという事件があった。閉鎖的な社会は、悪しき慣例の温床となり易い。

 

歌舞伎の世界でも香川照之のセクハラ、パワハラが問題とされたことがある。

 

美少女を尊重するという文化は、世界各国にあるだろうが、日本で言えば祇園の舞子さんが典型ではないだろうか。調べてみると、この舞子さんという制度には、600年の歴史があるらしい。中学を卒業したばかりの少女が、お茶屋に住み込みで、まずは1年程度、修行をしながら雑用をこなす。その後、晴れて舞子さんになる訳だが、夜は宴席に出て、酔客の相手をするのである。舞子さんとしての就業期間は5年で、それを過ぎると、それまで生活していたお茶屋は出なければならない。この職業を継続する場合は、晴れて芸妓となり独立する。関東にも同じような制度があり、舞子さんに相当する若い芸者を半玉と呼ぶらしい。舞子さんの年令は概ね、16才から21才で、女性の美しい盛りの期間だと思われる。こんなことを書くと、もうそれだけで女性から叱られそうだが・・・。

 

舞子さんをお座敷に呼んだ場合、どれ位の費用がかかるのだろう。ネット情報によれば、30万円から50万円だそうだ。多分、90分の値段だろう。余程の金持ちでなければ、常連客にはなれない。考えてみれば、この舞子さんという制度も、差別的ではないか。美しい盛りの少女に美しい着物を着せて、金持ちが酒を飲みながら楽しむのである。実際、何年か前に未成年の舞子さんが宴席で大量の酒を飲まされたり、混浴を強制されたりしたことを告発し、社会的な問題となったことがある。

 

逆の見方をすれば、人権尊重を徹底すれば、伝統文化が衰退するということではないか。そもそも美少女とは、薄幸であるから美しいのだ。仮に伊豆の踊子が、高学歴であったり、金持ちであったり、権力者であったとしたら、私たちは彼女に魅力を感じるだろうか。幸福に恵まれない少女、影のある少女に、私たち日本人は哀切の美を感じるのではないか。過去には藤圭子という演歌歌手がいたし、その後の山口百恵にもどこか影があった。「鶴の恩返し」に出てくるお鶴という女も、事情は同じである。最近の歌手や女優がどうなのか、私は全く知らないのではあるが・・・。

 

今日においても、伝統を取るか、人権を取るか、という二律背反の問題に直面しているように思う。最近話題の選択的夫婦別姓の問題などが、それである。女性の社会進出を肯定し、女性の人権擁護の立場に立てば、当然、この制度を認めようということになる。反対に、伝統的な価値観を重んじれば、反対という立場になる。例えば、別姓の夫婦の間に子供が生まれた場合、子供の姓はどうするのか。

 

難しい問題ではあるが、世の中の趨勢としては、選択的夫婦別姓を認める方向に動くだろうと思うし、私もそれが良いと思う。