それは川端康成にとって劇薬のような、そしてプラトニックな初恋だった。伊藤初代。川端文学に最大の影響を及ぼした少女。それが彼女だった。
伊藤初代は、1906年9月16日に福島県で生まれた。家は貧しく、小学校4年生の初めで、学校を辞めている。祖父の一家と共に上京した初代は、当初、子守をして働いていた。やがて、初代は山田ますと出会う。山田ますは、吉原で娼妓をしていたが、年季も明け、東京にカフェ・エランを開業する。小さな店である。そして、初代がそのカフェで働き始めたのは1918年である。初代は和服に白いエプロン姿で、客の前で歌ったりしていた。
1919年の秋、そのカフェ・エランに通い始めたのが、一高3年生だった康成らの学生たちだった。彼らの目的は初代だった。但し、口下手で人見知りの激しい康成は、いつも遠巻きにして、友人たちと初代が交わす軽口を聞いていたらしい。
1920年7月、カフェ・エランの経営者であった山田ますは、恋人が台湾銀行に就職したことを契機に、自らも台湾に渡ることにする。そこで山田ますは、自分の姉の嫁ぎ先に初代を預けることにした。姉の嫁ぎ先は、岐阜県にある浄土宗の西方寺である。
1921年9月16日、夏季休暇の終わり、康成は学友の三明永無(みあけえいむ)と共に、岐阜の初代を訪ねた。そのとき康成は、初代が自分にも親しく話し掛けてくれたことを嬉しく思った。康成の初代に対する恋情は、ここから急速に燃え上がったのである。
東京に戻った康成は、友人らに初代と結婚すると宣言する。友人らは驚いたが、康成に対して協力を申し出た。中でも三明は、よく相談に乗ってくれた。
1921年10月8日、康成は再度三明を伴って、岐阜にいる初代を訪問する。プロポーズの言葉は、どうやら奥手ではにかみ屋の康成に代わって、三明が初代に伝えたらしい。そして初代は、驚く程簡単に承諾したのだった。翌日、3人は岐阜市の瀬古写真館へ行き、記念写真を撮っている。この時の写真は今も残っている。以下のYouTube、1分30秒の辺りで見ることができる。左から康成、初代、三明である。なんと美しい少女だろう! そのイメージは、伊豆の踊子と重なる。
https://www.youtube.com/watch?v=_gXBm1t2jwY
但し、養父母である西方寺の僧侶とその妻(山田ますの姉)は、康成のことを快く思っていなかった。初代に対し、事あるごとに嫌味を言い、康成からの手紙を見せろと強要した。
康成は菊池寛から経済的な支援を受け、初代を迎え入れる準備にいそしんだ。しかし、康成のそんな幸福な期間は、1か月しか続かなかったのである。1921年11月8日、康成は初代からの「非常」に関する手紙を受領したのだった。以下に引用する手紙文は、康成の「非常」という小説に書かれたものなので、実際の文章とは異なる可能性はあるが、大意は原文を踏襲しているだろう。
- 私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私にはある非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることができません。私今、このやうなことを申し上げれば、ふしぎにお思ひになるでせう。あなた様はその非常を話してくれと仰るでせう。その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。-
その晩、康成は夜行列車に乗って、岐阜へ向かった。翌日会った初代は、驚くほどやつれていたのだった。あきらめ切れなかった康成はなんとか初代を説得するが、康成は初代から最後の、1921年11月24日付の、絶縁を告げる手紙を受領したのだった。その手紙は、次のように締め括られていた。
- 私は永久にあなたの心を恨みます。さやうなら。-
その後、初代は東京へ戻り、再びカフェで働く。そんな初代に康成は、あたかもストーカーのように纏わりついたのだった。
初代は「非常」の手紙を書く少し前、西方寺の僧侶に犯されたのである。そのため、純粋に自分を愛してくれる康成を遠ざけるしか、彼女に方策はなかったらしい。西方寺の僧侶と言えば、それは初代の養父ではなかろうか。初代はこのことを1922年2月、康成に告げたと日記に記している。
1923年9月1日、関東大震災が起こる。この時、康成は水とビスケットを持って、瓦礫の中、初代を探し回った。これは康成自身がそう語っている。つまり、「そのこと」を知った上で、それでも康成の初代に対する愛は変わらなかったというだろう。
康成が負った心の痛手は、どれだけ深かっただろう。そして、このような痛手が癒されることはないと思う。初期の康成は、この初代との一件を実名を伏せた上で、多くの小説に記している。こうなってくると、私としては、「伊豆の踊子」との関連を思わずにいられない。簡単に、時系列を確認しよう。
1916年・・・中学の寄宿舎で、清野少年と同性愛的な行為を行う。
1918年・・・伊豆に旅行し、踊子と出会う。
1921年・・・初代との婚約騒動。
1922年・・・「湯ヶ島での思い出」を執筆。
1923年・・・関東大震災
1926年・・・「伊豆の踊子」完結。
こうしてみると、康成が「伊豆の踊子」の原型となる「湯ヶ島での思い出」を書いたのは、初代との一件で心がボロボロになっている真っ最中だったことが分かる。また、「伊豆の踊子」のシーン2における次の描写の解釈も違ってくるのではないか。
- そして、ぴたりと静まり返ってしまった。私は眼を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。-
初代の実像を踊子に投影しているのだ。康成は、初代の一件を「伊豆の踊子」という作品を書くことによって、昇華し、自分なりに受け止めようとしたのではないか。この作品における踊子の描写が卓越しているのは、鬼気迫る康成の実体験に裏打ちされていたのである。
また、現実に起こった初代の一件についても、次のように解釈できないだろうか。
傍観者・・・康成
美少女・・・伊藤初代
補助者・・・三明永無(みあけえいむ)
妨害者・・・僧侶
最後にもう1点だけ、付け加えておきたいことがある。川端作品においては、薄幸な美少女が多く登場するが、そのいくつかの場合において、美少女にそっと寄り添う文化というものがある。踊子にとっては、太鼓である。そして、これから読み解こうと思っている「雪国」に登場する駒子には、三味線が与えられる。これは川端から美少女に対するささやかなプレゼントではないか、と思う。