しばらく前のことだが、ミステリードラマの中で、驚くべきセリフがあった。
「女心なんてものはねえ、女にだって分からないものなのよ!」
私はこのセリフにいたく感じ入った。当の女でさえ分からないのであれば、男である私に分かるはずはないのである。その後、吉行淳之介の対談を読んでいた時に、同じような話に行き当たった。
- 女というのは、教えてもらおうと思っても、女自身わからないらしいですね、女のことが。それでだいぶこまるんですよ。-
吉行と言えば、それはもう女の専門家である。彼の姉は吉行和子という女優で、妹は吉行理恵という作家である。女のきょうだいに恵まれていたせいか、彼には生来の女に対する免疫のようなものがそなわっていたのではないか。記憶は曖昧だが、確か「モモシリ3年、ヒザ8年」と言ったのは、吉行ではなかったろうか。これはバーなどでさりげなく女の腿や尻を触れるようになるには、3年の修行が必要である。しかし、女の膝に手を置くというのは更にハードルが高いのであって、それを自然にできるようになるには8年の修行が必要だ、という意味である。
吉行には他にも逸話がある。ある晩、吉行はバーへ行った。そして、女に言う。
「君も苦労したんだね」
そして、吉行はそっと女の手を握る。すると女は、わっと泣き出したというのだ。これを見ていた北杜夫が、後日、同じことを別の店で真似てみた。すると女は「何言ってんのよ、あんた!」と言って、ゲラゲラ笑ったらしい。
エッセイの中で、吉行は次のようにも述べている。
- 女の眼を持った女流作家の描いた女が、私にたいして説得力をもつとは限らない。これは、男の眼でみた女に固執する面があるためでもあろうが、女性の無意識の領域についての探り方の不足もあるとおもえる。大部分の女性にとって、無意識の領域を探ることは、はなはだ苦手のようである。-
やはり女心とか女の無意識というのは、男にも、そして女にも分からないのである。つまりは、誰にも分からないというのが本当のところではないか。ちなみに吉行の父親は吉行エイスケというダダイズムの作家で、川端康成とも懇意にしていた。(川端からエイスケに宛てた長文の手紙が残っている。)
さて、川端康成の「雪国」だが、そこで女心はどのように描かれているだろう。シーン7から抜粋しよう。語り手の島村は、そろそろ東京へ帰ろうかと思っている。若い芸者の駒子の島村に対する愛情は深まって来ている。つらい別れが迫っている場面である。
「もう帰んなさい。」
「実は明日帰ろうかと思っている。」
「あら、どうして帰るの?」と駒子は目が覚めたような顔を起こした。
「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕にはできないんじゃないか。」
ぼうっと島村を見つめていたかと思うと、突然激しい口調で、
「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」
こういう会話の運びを読むと、川端は女心を的確に捉えているように思う。女が帰れと言って、男は帰ると言う。すると女は、どうして帰るのかと問い詰める。更に、それがいけないと言う訳だが、何がいけないのかよくは分からない。但し、いかにも女が言いそうな言葉ではある。
シーン4には、駒子の雑記帳に関する会話がある。
彼女は十五六の頃から、読んだ小説を一々書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなったということであった。
「感想を書いとくんだね?」
「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのものですわ。」
「そんなものを書き止めといたって、しょうがないじゃないか。」
「しょうがありませんわ。」
「徒労だね。」
「そうですわ。」
この部分で駒子は、意外な程、島村の感想にすなおに同意している。こういう女心の可愛さに、男はほだされるのである。しかし、女心の可愛さにほだされる男心というものがあって、そのような男心を女は理解できるのだろうか? もしかすると、男が女心を理解できないのと同じように、女は男心を理解できないのではないだろうか。そんなことを考えると、だんだんやるせない気分になってくる。
話を戻すが、「雪国」の語り手である島村は、西洋の舞踊について、写真を見たり外国語の文献を読んだりして、評論のようなものを書いている。但し、島村は西洋の舞踊を実際に見たことはない。そこで島村は、自分の評論も駒子の雑記帳と同じく「徒労」ではないかと思うのである。