川端康成の「雪国」という作品に登場する主要な人物は、語り手である島村と若い芸者の駒子、駒子の知り合いである葉子、この3人である。その他には踊りと三味線の師匠、師匠の息子である行男が登場するが、この2人は一言も発することがなく、作品の途中で病死している。そして、芸者である駒子は美を、葉子は狂気を、語り手である島村は死をそれぞれに象徴しているように思う。私がそう思う理由を順に説明させていただこう。
まず、駒子である。駒子の10冊にもなる雑記帳には、たいしたことは書いていない。それは、徒労なのである。では、駒子がそれだけの女かと言うと、そんなことはない。まず、シーン5において、島村は通りすがりの女按摩と出会い、体を揉んでもらうことにする。目の不自由な按摩は、その分鋭くなった聴覚を持っている。三味線の音を聞くと、大体、誰が弾いているのか分かると言う。島村が「上手な人もいるかい」と尋ねると按摩は「駒ちゃんという子は、年が若いけれど、この頃達者になりましたねえ」と答える。これが伏線である。
場面が変わって、シーン6。島村の部屋に泊まった駒子は、葉子に頼んで着替えと三味線の練習道具一式を持って来させる。島村の前で駒子が三味線の練習を始める。その撥(バチ)によって奏でられる三味線の音に、島村は感嘆する。
- 勧進帳であった。
忽ち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったと言うよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれた、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと身を捨てて浮かぶよりしかたがなかった。-
- いつも山峡の大きい自然を、自らは知らぬながら相手として孤独に稽古するのが彼女の習わしであったゆえ、撥の強くなるは自然である。その孤独は哀愁を踏み破って、野生の意力を宿していた。幾分下地があるとは言え、複雑な曲を音符で独習し、譜を離れて弾きこなせるまでには、強い意志の努力が重なっているにちがいない。
島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう。-
上の引用箇所において川端は、全力で駒子を賛美している。社会的に見れば、金持ちでそれなりに教養のある島村と、温泉芸者である駒子の関係である。しかし、この関係が逆転するのだ。駒子は強い意志をもって三味線と向き合い、懸命に生きている。反対に島村にはそれだけ注力すべきものはなく、ただ、徒労に明け暮れているだけなのだ。島村には確固たる生活や、人生を賭けるべき何か、それが欠落している。島村はそのことを駒子の弾く三味線によって、気づかされたのである。
純真な心を失わず、島村のような男にも惜しみなく愛を注ぐ駒子。彼女を美と言わずして何と言おう。
次に、葉子に関する記述を見てみよう。
シーン1で、島村は汽車の中で葉子を目撃する。葉子は病状が悪化した行男を故郷に連れ帰るため、付き添っている。葉子は妖しく、美しい女として描かれる。その後も何度か葉子は登場するが、彼女の内面について言及される場面は、シーン10になってからである。島村との会話を引用しよう。
- 「女中に使っていただけませんの?」
「なあんだ、女中にか?」
「女中はいやなんです。」
「この前東京にいた時は、なにをしてたんだ。」
「看護婦です。」
「病院か学校に入ってたの。」
「いいえ、ただなりたいと思っただけですわ。」 -
つまり葉子とは、まともな会話が成立しないのだ。そして葉子は「駒ちゃんは私がきちがいになると言うんです」と言い、ふっと島村の部屋を出て行く。その後、島村は駒子との会話の中で葉子を評し「そう言えば、確かに少しきちがいじみてるね」と言う。
次に葉子が登場するのは、もうラストシーンである。大企業が養蚕農家から買い付けた大量の蚕を一時的に保管しておく建物を繭倉と言うが、そこで火災が発生したのである。火災が発生してから既にしばらくの時間が経過していたと思われるが、島村と駒子は、繭倉の二階から葉子が落下するのを目撃する。瞬時にして駒子は群衆の中から飛び出し、葉子を抱え、助けようとする。そして駒子が叫ぶ。「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」。
葉子が何故、繭倉にいたのかは、分からない。何故、二階から転落したのか、それも分からない。ただ、葉子が狂気を象徴しているとしか、言いようがないのである。
最後に、島村について見てみよう。
既に述べた通り、島村には生の実態というものが感じられない。この点は、逞しく生きている駒子と対照的である。シーン10において、自分の8畳の部屋で悶死していく昆虫をつぶさに観察する島村の様子が描かれている。
- 翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいてみると脚や触覚を顫わせて悶えているのだった。
島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。-
このシーンの解釈だが、島村は、昆虫たちの死に行く姿を見ながら、そこに自らの死を投影して見ていたのだと思う。だから、虫の死骸を拾いながら、子供達のことを思い出したのである。人間からしてみれば、昆虫など取るに足らない卑小な存在に過ぎない。しかし、人間よりも巨大な何者かの視点に立てば、人間もまた卑小な存在に過ぎないのである。
そして、ラストシーンである。島村は駒子に近づこうとするが、葉子を駒子から抱き取ろうとする男たちに押されてよろめく。この場面も象徴的で、結局、島村は生の実体を持っている駒子には近づけないことを暗示しているように思う。島村はなんとか踏みこたえて目を上げた途端「さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった」という記述でこの小説は幕を閉じる。天の河が流れ落ちる何者かということは、それは最早、人間とは言えない。島村はその瞬間、人間を超えた何かになった訳で、それはとりもなおさず、島村の死を象徴しているのだと、私は解釈した。
駒子・・・美
葉子・・・狂気
島村・・・死
このように解釈すると、「雪国」という作品の持つスケールの大きさを理解することができる。「雪国」は、日本の文学史に燦然と輝く傑作であると言わざるを得ない。
この作品には、些末な矛盾がある。例えば、シーン3で駒子はこの土地の生まれだと説明される。しかし、シーン8では駒子の実家がこの雪国以外の場所にあるとされる。これは矛盾だと思われるが、そんな重箱の隅を突くようなこと述べても意味はなかろう。
「雪国」は、戦地にいる兵士たちによって、好んで読まれたという話がある。特に、北国出身の兵士たちが、故郷の風景を懐かしんでこの作品を読んだと言われている。しかし、本当にそうだろうか?
多くの兵士たちには、故郷があった。そこには美しい風景があり、伝統文化があり、そして、故郷に恋人を残してきた若者も少なくはなかっただろう。また、故郷に可愛い妹を残してきた者もあったに違いない。すなわち、故郷には美があったのだ。そのような故郷を想いつつ、自らは戦争という狂気の中に身を置いているのである。また、言うまでもなく兵士たちには死の影が忍び寄っていた。正に、異国の地で戦い続ける兵士たちは、美と狂気と死の世界に身を置いていたのである。
今日、私たち日本人は戦争と離れた場所にいて、死を身近に感じることは少ない。しかし、美と狂気と死が交錯する世界、そこを雪国と呼ぶならば、それはわずかに国境のトンネルを超えたすぐそこに存在するのである。