文化認識論

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背徳の美学(その13) 近代日本文学の経緯

 

川端康成の文学作品をより良く理解するためには、少し、時代背景だとか川端の考えていた文学理論なども調べてみた方が良いだろう。

 

まず、日本における近代文学は、明治維新から始まった。

 

〇 文語体から口語体へ

それまでの幕藩体制が終わり、中央集権国家を設立した日本においては、切実なる言語の問題が発生した。1つには、音声言語の問題である。各地域はそれぞれに方言をしゃべっていたので、互いに意志の疎通ができなかったのである。想像するに「オイドンは、〇〇でゴワス」とか「拙者は、××でござる」などと言い合っていたのである。そこで、標準語なるものを確立する必要があったのだ。そのベースとなったのは、江戸弁だと言われている。また、標準語の普及に役立ったのは、1925年に開始されたラジオ放送だった。

 

もう1つの問題は、文字言語である。例えば、明治憲法は漢字とカタカナによって書かれており、とても読みにくい。また、当時は文語体と言って、話し言葉とは異なる言語体系によって文字が記されていた。これは非常に煩雑なので、なんとか言文一致の口語体を確立する必要があったのである。政府もそれなりに努力したのであろうが、ここで一役買ったのが、文士だった。1887年(明治20年二葉亭四迷浮雲を出版。これが日本初の言文一致の小説だと言われている。

 

-「浮雲」をもって、真の近代文学がはじまったといっても差支えないのであって、同時にこの作品の文体、すなわち言文一致体が、近代文学の確立の門出でありました。注目すべきことは、この時期においては、創作上の最大の苦しみは、どのような文体で書くかということにあって、内容とか思想とかは二の次であった。(文献2)-

 

- (口語体が)小説の文章として完成したのは、自然主義文学を通じて、漸く、志賀直哉の文学においてであったといえる。(文献1)-

 

以後、美しい日本語の典型は志賀直哉の小説にあるとされた。

 

〇 写実主義

明治維新の直後、日本人がまず触れたのは外国文学の翻訳ものだった。当初は、文明国における風俗に対する興味から、それらの翻訳物が読まれたのである。やがて、近代小説についての研究が進み、日本でも同じような文化を起こそうと考える人が出て来た。

 

- 1885年(明治18年)3月に坪内逍遥が「小説神髄」という小説論を出版。市民社会における文学の方向性を示し、西洋近代文学の手法である写実主義を強調した。彼は、芸術から道徳意識を廃し、功利主義を除き、世態、人情の写実が小説の目的であると主張した。特に、心理学の法則に基づく心理描写の必要性を説いた。(文献2)-

 

- 「小説神髄」において、小説は芸術の一形態であるということがはっきりと自覚せられ、芸術が実用主義のものでなく、目的主義のものでなく、それ自身独立の領域を有するものであるから、勧善懲悪の具に供されたり、教育や道徳の奴隷となったり、政論発表の器となったりしてはならない。(文献1)-

 

上記の「小説神髄」は、写実主義に立脚している。やがてこの写実主義は、自然主義に発展した。

 

〇 自然主義

- 1907年(明治40年)、田山花袋は、次のように述べた。「自然主義文学は時代に触れた作品でなければならない。その国の時代の描写、すなわち同じ空気、同じ場所を歩いている人間を活写し得るようになってはじめて、小説といふものの真面目な目的が達せられる。 (文献2)- 

 

- 田山花袋が1909年(明治42年)に出版した「小説作法」は、この自然派による小説作法である。宗教的よりも科学的といふ立場である。(文献1)-

 

- 現実性を重視し、架空性を排除した精密な客観描写を重視。あらゆる美化を否定する。

Wikipedia -

 

- この思想は、とにかく日本の現実をしっかりとふまえた上で、それをもととして個人の生活に密着して自我を反省し、自己を見つめ、そして文学と思想とを実生活に近づけることによって、自分の真実を発見しようとしたのです。この意味で、近代思想、近代文学の根をはじめてここに深くおろしたということができます。(文献2) -

 

- 自然主義の文学運動は、大体において明治39年から大正の初期まで盛んだった。(文献2)-

 

〇 プロレタリア文学

日本の社会において資本主義が確立され始めると、それに伴う労働運動も始まり、マルクシズムも普及して行った。これに伴い、プロレタリア文学が勃興する。

 

- 1924年大正13年)6月、「文芸戦線」という雑誌が創刊され、これが後の左翼文学全盛時代の直接的な地盤を築く。また、翌1925年(大正14年)、日本プロレタリア文芸連盟が発足する。しかし、昭和6年満州事変以後、軍国主義に急速に傾斜していった政治事情は、左翼文学を圧迫し、多くの作家の自由を奪い、転向作家が続出した。戦争が進むにつれ、国策順応を強いられ、近代文学は最低の底にまで沈んだ。(文献2)-

 

〇 新感覚派

左翼の「文芸戦線」が創刊されたのと同じ1924年、後に「新感覚派」と呼ばれる文芸運動が起こる。その中心人物は、川端康成横光利一だった。彼らが中心となって「文芸時代」という雑誌を創刊したのである。川端は自ら命名したこの雑誌に「宗教の時代から文芸の時代へ」という願いを込めていたのである。

 

文献1: 小説の構成/川端康成/スティルス選書/1941

文献2: 現代日本文学史吉田精一筑摩書房/1965