私たちの心の大半は、無意識によって構成されている。そしてこの無意識は、それぞれの国や地域における文化と深い関係があるのだと思う。そこに暮らす人々の無意識が文化を醸成し、育まれた文化が無意識に影響を与えるのではないか。例えば私は富士山が好きだし、舞子さんは綺麗だと感じる。このような日本人の無意識を癒すことができるのは、やはり日本の文学、日本の思想ではないか。
晩年のフロイトは文明についても言及しており、それなりに優れた点を有しているとは思うのだが、どうも楽観的に過ぎるような気がする。結局のところフロイトは、文明が発達すると人間が理性的になり、人類が抱える課題が解決されると考えていたようだ。但し、フロイトが死んだのが1939年であることにも留意しなければならない。つまりフロイトは、彼の死の直後から始まったホロコーストや広島、長崎のことを知らない。彼があと少し長生きしていれば、彼の文明論はもっと悲観的になったのではないか。フロイトと同じユダヤ人で現役の哲学者であるノア・ハラリという人がいる。私は、彼の著作である「サピエンス全史」というのを上下巻ともに通読したが、特段の驚きはなく、やはりこちらも楽観的に過ぎるように感じた。
さて、前回までの原稿で、川端文学に現われる4つの要素、すなわちエロス、狂気、死、美を抽出した。少し難しく思われる方がおられるかも知れないので、若干、補足したい。
ミステリードラマを例にとってみよう。ミステリードラマは必ず殺人シーンから始まる。すなわち「死」である。そこから犯人捜しが始まる訳だが、犯行動機は、社会通念に照らし、必ず狂っている。「狂気」である。犯人を捜すのは大体、刑事や探偵などのチームだが、そこには必ず美人が含まれている。この美人の立ち居振る舞いが、すなわち「エロス」である。但し、ミステリードラマにおいて、美が追求されることはほとんどない。また、犯人が抱える狂気は、必ず法や社会通念に従って否定される。そこに、ミステリーというジャンルの限界がある。
三島由紀夫の作品世界は、どうだろう。「豊饒の海」を例に考えてみた。第1巻の「春の雪」は、松枝清顕が絶世の美女である綾倉聡子との密会を重ねる物語である。その主題はエロスである。第2巻の「奔馬」は右翼少年が財界の大物を刺殺し、その後、自らも腹を切るという話。この主題は、死である。第3巻の「暁の寺」においては、タイ王室の娘である月光姫(ジン・ジャン)と日本人女性が繰り広げるレズビアンの模様を元裁判官である本多繁邦が隣室から覗き見る。これは狂気と言えよう。そして、第4巻の「天人五衰」においては、本多繁邦が何十年振りかで尼寺を訪ね、出家した聡子と会う。そして、物語を決定づけるあの言葉を聞くのである。(ネタバレをしたくないので、ここには記載しない。)そこで読者は、夢幻の世界にいざなわれ、伝統の美と出会う。
春の雪 ・・・ エロス
奔 馬 ・・・ 死
暁の寺 ・・・ 狂気
天人五衰 ・・ 美
エロスから始まって、美で幕を閉じる。
では、川端作品について考えてみよう。「伊豆の踊子」においては、踊子がエロスを象徴している。そして、踊子の叩く太鼓の音が、美を象徴している。例えば、シーン6には、次の記述がある。別れの前夜である。
- 暗い町だった。遠くから絶えず微かに太鼓の音が聞こえて来るような気がした。わけもなく涙がぽたぽた落ちた。-
この作品には、死の影も狂気も描かれてはいないと思う。
次に「雪国」はどうか。まず、芸者の駒子の存在は、エロスを象徴している。そして、駒子が弾く三味線の音が、美を表わす。また、この作品にはエンディング直前のシーン11において、縮(ちぢみ)の話が出て来るが、ここの記述も秀逸である。縮は、雪国の女が寒さの中で作り出す伝統工芸である。その完成品は、50年も使えると言う。そして毎年、縮の品評会のようなものがあって、上位に入選するとそれを作った娘は、嫁に行きやすいと言う。こういう記述に触れると、私などは、本当に地方に根付いた文化だなあと感心せずにはいられない。
さて、「雪国」における狂気は、葉子が象徴している。そして私は、天の河が落ちて来るというラストシーンを死の象徴だと解釈したが、他の解釈があり得るかも知れない。この作品には死を象徴する何かは、明確には描かれていないと言った方が、正確かも知れない。
最後に「眠れる美女」を考えてみよう。
まず、薬で眠らされている美少女たちはどうだろう。江口老人は何とか起こそうとするが、彼女たちが眠りから覚めることはない。そこにあるのは、美しい少女たちの肢体だけなのである。エロス(愛と性)と呼ぶには、あまりにも無機的である。むしろ少女たちの身体そのものが持つ美が描かれているのだと思う。エロスはむしろ、江口老人の人生を彩った末娘や、シンガポール人の夫を持つ京都の女の方ではないかと思う。京都の女は江口老人と浮気をしたのであり、これは私の登場人物の区分からすれば「尻軽女」ということになる。しかし、この呼称は差別的であって、私は少し反省しているのである。川端は決して「尻軽女」を嫌ったり、侮辱したりはしていない。京都の女にしても、江口老人が眠っている間に、彼の旅行鞄の中を綺麗に整理してくれたと書かれている。男が浮気をするのであれば、女だって浮気をする。男に性欲があるように、女にもそれはある。そのような性と率直に向き合うことが悪だというのは、権力によって歪められた社会通念でしかない。川端はそのような眼で、女を見ていない。
むしろ作品の中で、江口老人が戦っていたのは、秘密の家を管理する四十半ばの女である。この女のことを川端は「やりてばばあ」と表現している。ネットで調べてみると「やりてばばあ」というのは売春施設などで客を呼び、売春婦たちを管理する女のことらしい。江口老人が、少女たちが飲まされているのと同じ眠り薬を要求しても、この「やりてばばあ」は応じない。また、少女たちを起こそうとしたり、口の中に手を入れたりしてはいけないと、禁止事項ばかりを要求してくる。(余談だが、この女は「伊豆の踊子」に出て来る旅芸人の座長を務める四十女と、ちょっと似ている。)そして、この「やりてばばあ」こそが、狂気を象徴しているのだ。2人の少女のうち1人が死んでしまったというのに、江口老人に対し「ゆっくりおやすみになって下さい。娘ももう1人おりますでしょう」と言うのである。なお、ここで注意しなければならないのは、江口老人自身が、狂気に加担しているということだ。そもそも、そんな秘密の家に行ってはいけないのである。しかし、そのような狂気の先に、美少女の肢体という美が存在するのではある。
「眠れる美女」における死の象徴はと言うと、それは死んでしまった色の黒い少女(美少女E)もそうだが、それ以上に江口老人自身が死に隣接していると評価すべきではないか。男としての機能を失いつつある老人。その先には、死しかないのである。この作品には、強烈な死臭が漂っている。
このように見てくると、上記3つの川端作品の中で4つの要素をつつがなく表現しているのは「眠れる美女」だけだと言えよう。そして、私自身はこの作品を非常に高く評価している訳だが、それでは「雪国」が「眠れる美女」よりも劣っているかと言うと、そうとも言えないのである。結論を述べるのは早計だが、もしかするとエロスから出発して美に至るということに、何らかのヒントがあるのかも知れない。