日本が敗戦した1945年(昭和20年)、3月10日には10万人以上が死亡したと言われる東京大空襲があった。3月17日には硫黄島が陥落し、4月1日には米軍が沖縄本島に上陸した。この頃、「この事態をより的確に語りつぐべきだ」と考えた海軍報道部は、大物の報道班員を戦地に送り、記録を書かせようと考えた。最初は文壇の大御所、志賀直哉が候補となったが、老齢の志賀にこの任は無理だった。そこで海軍報道部の幹部は、横光利一と川端康成の名を挙げて、志賀の意見を聞いた。志賀は「横光さんは大きく書くか小さく書くでしょう。川端さんなら正しく書くでしょう」と答え、川端に白羽の矢が立ったのである。こうして川端は4月24日、厚木飛行場から鹿児島県の鹿屋(かのや)航空基地に向かった。
鹿屋航空基地には、日本各地から特攻隊員が飛行機を操縦してやって来る。そして、翌日か翌々日には、片道分の燃料だけを積み込んで飛び立って行くのだ。川端は、特攻隊員たちの話を聞き、飛び立つ姿を毎日見送る、そんな生活に1か月程、身を置いたのである。後年、川端は当時のことを振り返って次のように記している。
- 私は特攻隊員を忘れることが出来ない。あなたはこんなところへ来てはいけないといふ隊員も、早く帰った方がいいといふ隊員もあった。-
戦時中、そんなことを口に出して言う訳にはいかない。若き特攻隊員たちの中にも、弱音を吐く者はいなかっただろう。お国のため、天皇陛下のために喜んで死んでいく。そんな姿を演じていたに違いないのだ。しかし、川端の本音は違った。生きて欲しいと願っていたのである。
「虹いくたび」に登場する特攻隊員、青木啓太のモデルは、川端が鹿屋で実際に見送った数々の青年たちであったに違いない。最後の酒を飲み干すために、百子の乳房を型取って作った銀の乳杯。あるいは、そのような実話があったのかも知れない。作品中、「鹿屋」という文字が1か所だけ記されている。
- 一週間ほど後に、啓太は南九州の鹿屋の航空基地に移動して、沖縄で戦死したのだった。-
三島由紀夫のデビュー作は「花ざかりの森」だと言われており、これは三島が16才の時に執筆した短編小説で、1944年に出版された単行本の表題作にもなった。この時点で三島は、未だ駆け出しの若い作家に過ぎず、誰か、自分の後ろ盾になってくれる人を求めていた。当初、三島は詩人の佐藤春夫とも接触したが、やがて川端こそが自分の求めている師だと確信する。後に三島はその理由を文芸誌「人間」の編集長を務めていた木村徳三に宛てた手紙の中で、次のように述べている。
- 僕は川端さんにただ「小説」を教へていただきたいのです。それなら所謂「小説家」は沢山あるではないか、と云われそうですが、伝統の美といふ点、資質の柔弱といふ点で川端さんの他に求めるべき誰がありませう。(この「柔弱」といふ言葉、「たわやめぶり」とでもいふのでせうか。最もよい意味で)-
そこで三島は、河出書房の野田宇太郎を通じて、単行本「花ざかりの森」を川端に献呈した。すると、驚いたことに三島は川端から直々に礼状を受領したのである。1945年3月8日のことだった。三島由紀夫、若干、二十歳の時である。その後、三島は何度か川端と手紙のやり取りをし、翌1946年1月27日、鎌倉にあった川端の自宅を訪ねる。その際、三島は自作の「煙草」と「岬にての物語」を持参していた。川端は両作を「人間」の編集長を務めていた木村に渡した。木村の感想を聞いた後、川端は「じゃあ、『煙草』は機会があったら『人間』に載せたげてください。『岬』のほうは返しましょう」と言った。こうして、「人間」に「煙草」を発表した作家として、三島は文壇における知名度を上げたのである。
三島は早速、自らの創作活動についても、川端に相談し始めた。「中世」という作品を書くに当たっては、川端から参考文献を借りた。「盗賊」については、詳細な指示を仰いだりもしたのである。こうして始まった川端(1899-1972)と三島(1925-1970)の子弟関係は、三島の死まで続いた。
1961年(昭和36年)5月27日付の手紙にて、川端は三島にノーベル賞に関する推薦文の作成を依頼している。手紙の該当箇所を抜粋する。
- さていつもいつも御煩はせするばかりで恐縮ですが例ののおべる賞の問題 電報を一本打つただけではいろいろの方面に無責任か(見込みはないにしても)と思はれますので極簡単で結構ですからすゐせん文をお書きいただきませんか 他の必要資料を添へて英訳か仏訳かしてもらひあかでみいへ送って貰ひます-
当然のことながら、三島はこの川端の依頼に応え、3日後には推薦文を送っている。それは、驚くべき名文であった。
その頃、川端は心身共に危機を迎えていた。それは1961年10月から朝日新聞に連載した「古都」と関係している。新聞小説の過酷さについて、川端は養女、麻紗子に宛てた書簡の中で次のように述べている。
- 新聞ハ全く追はれ追はれ一日も休めません 風邪でもひくと大変です-
62才にもなった川端が、何故、そのように過酷な仕事を引き受けたのか、疑問がない訳ではない。但し、川端はこの仕事をりっぱにやってのけたのである。107回の連載の後、完結した作品は、1962年6月に単行本として出版された。その「あとがき」で、川端は次のように記した。
- そして「古都」執筆期間のいろんなことの記憶は多く失はれてゐて、不気味なほどであった。「古都」になにを書いたかもよくおぼえてゐなくて、確かに思ひ出せなかった。私は毎日「古都」を」書き出す前にも、書いてゐるあひだにも、眠り薬を用ゐた。眠り薬に酔って、うつつないありさまで書いた。眠り薬が書かせたやうなものであったろうか。「古都」を「私の異常な所産」と言ふわけである。-
「古都」を書き終えた後、1962年2月、川端は睡眠薬の服用を止めた。すると激しい禁断症状に見舞われ、川端は東大病院に運ばれ、10日ほど意識不明の状態が続いたのだった。
1968年10月5日、三島は「楯の会」を結成する。
三島は決起の覚悟を決め、遺作とすべき「豊饒の海」の執筆を進めていた。この点、1968年10月16日付の川端から三島に宛てた手紙によると、川端は第一部の「春の雪」、第二部の「奔馬」を読み、「無上の感動にてまことに至福に存じました」と記している。
1961年に川端が三島に対しノーベル文学賞の推薦文を依頼した7年後、すなわち1968年10月17日、川端に対する同賞の授与が決定された。川端は69才だった。同年12月10日には、スウェーデンのストックホルムで、授賞式が開催された。
三島は楯の会結成1周年記念のパレードを11月3日に開催することとした。三島は川端に宛てた1969年8月8日付の手紙の中で、同パレードへの出席を依頼している。また、三島は、自分が死んだ後、家族の名誉が汚されることを恐れており、その際には川端に守ってもらいたいと依頼している。但し、三島が行動に移さない確率も「もしかすると90%」であると述べている。
楯の会結成1周年記念のパレードについて、当初、川端は出席することを承諾していた。10月、三島は鎌倉の川端邸まで出向き、祝辞を依頼した。しかし、川端はその依頼に応ずることなく、パレードの前日になって出席すること自体を断ったのである。以後、三島が自決するまでの1年間、川端と三島との間に交流はなかったように思われる。
コアな三島ファンとしては「三島は川端のためにノーベル賞の推薦文まで書いているのに、川端は三島の依頼を断ったのでけしからん」と思っている人が多いようだ。最近では、川端が三島にノーベル賞を辞退するように圧力を掛けたなどという、不見識な見解を述べる人もいるらしい。言うまでもなく、ノーベル賞は選考委員が決めるものであって、三島が辞退するとかしないとか、そういう問題であるはずはない。
1970年(昭和45年)11月25日、三島は市谷で決起した。
- 川端康成は当日昼、たまたま市ヶ谷にほど近い青山葬儀所にいた。そこで三島の変事を聞き、タクシーを飛ばして市ヶ谷駐屯地に駆けつけたのは一時半すぎだった。遺体となった三島のいる本館二階の踊り場まであがったところで、現場検証中の牛込署の署員によって、それ以上の立ち入りを阻まれた。-
(出典:三島由紀夫事件 50年目の証言/西法太郎/新潮社/2020)
1971年1月24日、築地本願寺において三島由紀夫の葬儀が行われた。葬儀委員長は、川端康成が務めた。三島由紀夫、享年45才だった。
1972年1月7日、川端は逗子のマリーナ・マンションを購入した。4月16日、川端はお手伝いさんに「ちょっと行ってくるよ」と声を掛け、自宅を出た。夜になっても川端は戻らなかった。2人のお手伝いさんが、マリーナ・マンションへ向かった。室内にはガスが充満していた。2人は浴室の隣の洗面所に寝床を敷いて、倒れている川端を発見した。書斎からは、睡眠薬の空き瓶が見つかった。遺書はなかった。川端康成、享年72才だった。