文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

背徳の美学(その21) 深層の世界

 

近代日本文学の頂点を極めたのは、川端康成三島由紀夫の2人ではないか。ここに谷崎潤一郎を加えるべきだという意見もあるだろう。その意見にあえて反論しようとは思わない。しかし、私はやはり川端と三島の2人だと思うのだ。

 

川端と三島は何故、あのように過酷な人生を過ごしたのか。それは、2人が日本人の幸福を願い、それを目指し、全力で生きたからだと思う。人間は皆、文化の中で生きている。そして、私たち日本人は同じ文化圏の中で共同体を作っている。私たちは他の文化圏に暮らす人々の魂を救済することはできないし、また、干渉すべきでもない。私たちは、何よりも日本人の幸福を希求すべきなのだ。そして、私たちが幸福になるためには、日本の文化を継承し、育んでいく必要がある。あるいは、今日的な状況を勘案すると、私たちは新たな文化を創造する必要に迫られているのかも知れない。

 

川端と三島の間には、決して埋めることのできない溝もあった。例えば、特攻隊として死んでいく若者たちの姿に、三島はある種の美を見出していた。一方川端は、ただ彼らの死を悲しんでいたのである。その延長で考えると、三島は楯の会を用いて、自らの死を演出しようと企てた訳だが、そのような死に方に対し、川端は賛同しなかったのだ。川端は、三島に生きて欲しかったのだと思う。楯の会結成1周年の記念パレードに際し、川端が三島の出席要請を断った理由も、ここにあるのではないか。年長である川端は、自らの死後のことを三島に託したかったのではないか。

 

川端に対して批判的な、コアな三島ファンの方々に申し上げたい。それでも、文学的なことを言えば、三島は川端から絶大な影響を受けていたのである。これは事実だ。例えば、三島の「春の雪」においては、綾倉聡子が妊娠し、周囲の大人たちの取り計らいによって密かに中絶手術が施される。この話は、川端の「虹いくたび」における百子の中絶手術と酷似している。更に言えば、「天人五衰」において本多繁邦が尼寺を訪ねるシーンも、「虹いくたび」において水原が大徳寺を訪ねるシーンに似ている。三島が川端作品を真似たと言うつもりはない。しかし、三島は初期作品の「盗賊」から、遺作となった「豊饒の海」に至るまで、川端作品の影響を色濃く受けていたことだけは、指摘しておきたい。

 

さて、川端作品について思うのだが、そこには表層の世界と深層の世界の双方が描かれているのではないか。分かり易い例で言えば、「伊豆の踊子」である。この作品は、途中まで、表層の世界についての描写で進行する。そこでは、男尊女卑や旅芸人に対する身分差別などが、淡々と描かれる。また、この表層世界において、主人公である「私」はそれらの差別に異議を申し立てたり、抵抗したりすることはない。ところが、後半に差し掛かる辺りで、踊子の「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」という一言があって、そこから作品は一気に深層の世界へと移行して行くのだ。私がここに言う深層の世界とは、そこでは一切の権力が効力を持たず、お金も、学歴も、身分も、そのようなものが一切、意味をなさなくなる真実の世界のことである。二十歳の「私」がどうあがこうと、「私」が踊子の一言によって癒されたこと、そして踊子と別れなければならないという現実、これらはどうにもならないのである。

 

深層の世界、真実の世界は「雪国」にも描かれている。例えば、こんなシーンである。語り手である島村が、駒子の待つ雪国を訪ねる。3回目の訪問である。旅館の廊下で、2人は再会を果たす。島村は東京に妻子を置いて来ているのであって、芸者である駒子もそのことは熟知している。それでも、駒子は島村に恋焦がれている。だから会いたい。しかし、会ってもその恋が成就することはない。そして、駒子が言う。

 

「あんた、なにしに来た。こんなところへなんしに来た。」

 

前半の「あんた、なにしに来た」という発言は、一見、駒子が島村に喧嘩を売っているようにも読める。しかし、それに続く「こんなところへなんしに来た」という言葉の裏には、東京からはるばる自分を訪ねて来てくれたことへの感謝が込められているに違いない。これに対して、当然のことながら島村は次のように答える。

 

「君に会いに来た。」

 

駒子が応ずる。

 

「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い。」

 

駒子は「心にもないこと」と言うが、そうは言っても眼の前に島村は立っている。そして、島村がやって来た目的は、駒子に会うこと以外に考えられない。続く「東京の人は嘘つきだから嫌い」という部分だが、嘘つきだと何故嫌いなのかと言えば、それは駒子が待っていたのに島村がなかなかやって来なかったから嫌いなのである。しかし、それは好きということに他ならない。短い会話の中に、駒子の相矛盾する心情が、良く描かれている。島村としては当惑する訳だが、ここでも、権力や学歴やお金などは、何の役にも立たないのである。

 

「虹いくたび」においても、作品は表層世界の描写から始まる。しかしそれは、例の「銀の乳杯」が登場すると同時に、深層の世界へと移行する。

 

私たちが暮らしている現実世界においても、時として深層の世界、真実の世界が顔を表わすことがある。そのきっかけは、女であることもあり、人間の無意識がそうさせることもあり、川端はその世界を表現しようとしたのだと思う。そこにこそ、真実と、美しさと、悲しみが潜んでいるのだ。