文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

背徳の美学(その23) 「古都」の魅力

 

「古都」は、当時の文壇に様々な問題を投げ掛けたようだ。まず、形式的な問題があった。当時、純文学と呼ばれる作品は、まず、文芸誌に掲載されるのが常だった。そして、完成された作品は、単行本として出版される。更に時間が経過すると、文庫本になる。文芸誌に掲載しないで、直接単行本にする場合もあって、それは「書き下ろし」と呼ばれた。文芸評論家は、基本的に文芸誌にのみ注目していた。反対に、文芸誌以外の媒体、例えば婦人雑誌や新聞に掲載される作品は、大衆小説と呼ばれる。川端康成のような純文学の作家が、女性誌新聞小説を書いた場合は、それらの間という意味で、中間小説と呼ばれる。この呼称は、明らかに蔑称である。純文学よりは、程度が低いという意味である。

 

そして、「古都」は朝日新聞に連載された新聞小説だった。つまり、大衆向けの小説であると解釈されたのである。実際、古都は多くの読者、大衆から強く支持された。

 

ところが、その後、川端はノーベル文学賞を受賞する。そして、その対象作品の1つが「古都」だったのである。(他の2作は「雪国」と「千羽鶴」)それどころか、川端の受賞を決定づけたのは「古都」だったとする研究者の意見まで出て来た。

 

そこで、訳知り顔で純文学を語っていた評論家連中は、困ったことになる。「古都」を賞賛すれば、「おまえは純文学が分かっていない」と言われそうだし、批判すれば「ノーベル賞を受賞した作品だぞ」と言われかねない事態に陥ったのである。

 

そもそも、純文学とは何か、という問題もあった。この点、純文学の目的は人間探究である、という意見があったようだ。人間の本質を掘り下げて行くと、そこには反道徳的なもの、狂ったもの、邪悪なものがある。従って、それらに目を背けることなく、直視するのが純文学の使命だ、ということになる。実際、川端文学にもその路線に従った作品は少なくない。あの「雪国」だって、見方によれば不倫小説なのである。また、「みずうみ」という作品の中で、川端は「魔界の住人」という表現を用い、人間の負の部分にスポットライトを当てた。「みずうみ」「眠れる美女」「片腕」は、魔界3部作とでも呼ぶべき作品群である。本稿においても「眠れる美女」については繰り返し述べてきたが、これは教科書に載せられるような作品ではない。

 

執筆時期について言えば、「眠れる美女」→「古都」→「片腕」となっており、この時期の川端は魔界志向だったはずなのだが、どういう訳か「古都」には人間の醜い部分についての記述がほとんどない。

 

そこで「都市小説論」というのが出て来た。何かと言うと、「古都」の主人公は京都という都市なのであって、登場人物は脇役だというのである。これで一応、評論家連中は納得したようである。

 

さて、どうしたものだろう。

 

こういう時、私は、こう思うのだ。真理は、私の中にある。そして私は、「古都」を読んで深く感動したのだった。つまり、「古都」は傑作だと思う。新聞小説だろうが、ノーベル賞受賞作だろうが、そんなことは関係がない。

 

少し、作品の内容に触れたい。そもそも、千重子は「親に絶対服従」だと言うが、そんな言葉とは裏腹に、なかなか芯の強い女性である。真一と花見に出かけるが、千重子が真一を手玉に取っている様子が伺える。

 

祇園祭のにぎわいの中で、偶然、千重子は苗子と出会う。そこで千重子は、苗子との関係を知らされる訳だが、ここから物語は急速に進展する。大きな変化が訪れるのは、まず、苗子の方だった。幼くして両親と死に別れた苗子は、孤児のようなものだった。血を分けた残る肉親は、ふた子のきょうだいしかいない。しかし、出会ってみると、自分とは身分や教養のようなものに大きな差異のあることに気付く。千重子が捨てられたことも、その後の20年の間に二人の間に差異が生じたことも、言わば運命である。そんな運命に抗うことはできない。そして苗子は、そんな運命を受け入れた上で、自らの千重子に対する愛の形を探ったのである。それは、千重子と離れて暮らすことだった。

 

最近商売が傾きつつあるとは言え、千重子は老舗の呉服問屋のお嬢様だ。そんな千重子と瓜二つの苗子が並んでいるところを見たら、世間の人はどう思うだろう。きっと、彼女たちの出生の秘密を詮索するに違いない。そうなれば、千重子に迷惑を掛けることになる。それは、苗子の望むことではない。苗子は、京都の町に千重子というきょうだいがいる。身をもってそのことを確認できただけで、自分は幸せなのだと思う。

 

対する千重子の心情は、少し別の動き方をする。最初は戸惑う。次に、過去の事実を受け入れ始める。そして遂には、苗子の優しい心情を理解するのである。千重子はそんな苗子をいとおしく思い、自分の部屋で、苗子の布団に潜り込むのだ。小雪の舞う寒い京都の夜である。布団はまだ、暖まっていない。そんな布団の中で、千重子は苗子の身体に寄り添い、あの言葉を呟く。

 

「ああ、苗子さん、あたたかい。」

 

その時、2人の心は溶け合って、離れて暮らした20年間とその時間が作り出した2人の間に横たわる差異を乗り越えて、まるで子供のように無邪気な、ただの姉妹になるのだ。この場面にエロスは存在しない。エロス以前の、もっと根源的な、人間のぬくもりがあるだけなのだ。それが何かと言うと、私には、美という言葉以外に思い浮かべることができないのである。エロス以前の美、若しくはエロスを超越した美。それが小説「古都」のクライマックスなのだ。