文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

背徳の美学(その24) 人間と文化

 

川端康成の小説、「古都」には実に多くの文化が登場する。例えば、「森嘉の湯豆腐」が出て来る。シーン2で、千重子の父、太吉郎は尼寺の一間を借り、そこに隠れて帯の下絵を考えている訳だが、そこに千重子が訪ねて来る。

 

「お父さん、森嘉の湯豆腐をおあがりやすか。買うて来ました。」

「ああ、おおきに・・・。森嘉の豆腐もうれしいけど、千重子の来たのはもっとうれしい。」

 

この箇所に私が反応したのには、個人的な理由がある。実は私は、毎晩、湯豆腐を食べているのだ。私が食べているのは、近所のスーパーで売っている「もめん美人」というブランドで、1人用の小さなパックが3つでセットになっていて、値段は109円だ。あまりに安いと思って裏面を確認すると、原料となる大豆は、カナダ産若しくはアメリカ産ということだった。ちょっと、空しい。

 

ネットで調べてみると「森嘉」の方は高級で、京都近辺の料亭などで使用されているらしい。こちらは一丁、400円程度とのこと。特に湯豆腐にすると絶品だそうだ。これはうらやましい。

 

(余談だが、娘が来て喜んでいるようでは、太吉郎の隠遁生活はいい加減なものだ。)

 

千重子は持参した半月弁当を父に差し出し、自分は湯豆腐の準備をする。そして千重子は「樽源の湯豆腐の道具を、ととのえてもどった」のである。今度は「樽源の湯豆腐の道具」である。これは何か。ネットで検索すると、これは湯豆腐を堪能するために作られた歴史ある木製の桶のようなものなのだ。浅学の私にその使い方は分からないが、情緒のある木製品である。このような描写のディテールにも、川端のこだわりが感じられる。

 

帰宅した千重子が、母と会話する。

 

「お豆腐を買うていきました。」

「森嘉のな? お父さん、およろこびやしたやろ。湯豆腐にして・・・?」

 千重子はうなずいた。

 

このような描写から、家族の暮らしが見えてくる。太吉郎、しげ、千重子の3人家族は、よく森嘉の湯豆腐を食べているに違いない。そのような経験を共有しているのだ。そして、経験から価値観が生まれる。豆腐は森嘉に限る。森嘉の豆腐は湯豆腐にするべきだ。そのような暗黙の了解が、3人の絆となっている。

 

着物の帯になると、物語の中核に関わって来る。

 

千重子が職人の秀男に、帯の制作を依頼する。それは苗子にプレゼントするためのものだった。帯を織りあげた秀男は、それを持って北山杉の村に住む苗子に届ける。苗子は、もちろんその帯を締めてみたい。秀男は、自分が織り上げたその帯を締めている苗子の姿を見てみたい。そこで、秀男は苗子を時代祭に誘い、苗子は承諾する。この2人の出会いに貢献しているのは間違いなく、帯であり、時代祭なのだ。どちらも京都の文化である。

 

文化を介在した秀男と苗子の出会い方は、何とロマンチックだろう。マッチングアプリで出会う今どきの若者たちとは、訳が違うのである。

 

こうして見て来ると、文化の特質が見えて来るのだ。文化とは、人々に共通の体験を提供し、共通の価値観を醸成するものなのだ。文化について、かつて三島由紀夫は、次のように定義した。

 

― 文化とは、文化内成員の、ものの考え方、感じ方、生き方、審美観のすべてを、無意識裡にすら支配し、しかも空気や水のようにその文化共同体の必需品になり、ふだんは空気や水の有難味を意識せずぞんざいに用いているものが、それなしには死なねばならぬという危機の発見に及んで、強く成員の行動を規制し、その行動を様式化するところのものである。-

 

上に記した三島の定義(特に後半)は、少しエキセントリックに過ぎるような気もする。全てにおいて激し過ぎた三島らしいと言えば、そうなのだが・・・。