文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

老いの贅沢

 

- (前略)ソクラテスは人々に、配慮すべきは自分の富でも自分の名誉でもなく、自己自身について、自分の魂についてであることを思い起こさせる(後略)-

 

(出典:「自己への配慮」 ミシェル・フーコー著)

 

つまり、これが自己への配慮、自らの魂に対する配慮ということなのだ。しかし、それがどういうことなのか、今少し、イメージが湧かない。同じ文献の異なる箇所に、もう少し具体的な記述がある。少し長い文章なので、箇条書きにして引用させていただく。

 

- この心の修行によって可能になるのは、

・自分自身と差し向かいになること、

・自分の過去をまとめること、

・過去の生活のすべてに目を配ること、

・着想を得たいと思う教訓や模範に読書を通して慣れ親しむこと、

・分別ある行為にかんする根本原則を、余分なものを捨て去った生活のおかげで見つけ出すこと、

・・・である。しかも自分の様々な活動から解き放たれて、欲望の静まる老年期を活かしつつ、セネカが哲学上の仕事で行ったように、スプリナが快適な生活の静けさの中で行なったように、自己の掌握に完全に没頭することが可能となる。-

 

この記述によって、少しは具体的なイメージを持つことができるだろう。但し、これは若者には難しい作業だとも言える。そもそも、振り返ろうにも、若者には大した過去がない。多くの場合、若者は自分の過去よりも自分の未来に興味を持っている。引用文の中にも「欲望の静まる老年期を活かし」とあるように、この作業に最も適しているのは、老年期なのである。

 

さて、この「自分自身と差し向かいになること」がどういうことなのか、もっと具体的に知りたいと思う訳だが、哲学ではそれを示すことは困難なのだ。そこに、哲学の限界があって、代わりに文学が出て来るのだと思う。私にとってそのような文学者は、川端康成である。川端文学に触れると、川端がいかに自分の過去や、自分の無意識と向き合っていたのか、具体的に知ることができる。それは初恋の婚約者であった伊藤初代との出来事であったり、伊豆で出会った踊子との思い出だったりする訳だ。こう考えると、私の中では、ソクラテスの哲学と川端文学とが融合するのである。

 

また、ソクラテスが言っている自分の富や名声というのは、私流に言えば、それらは表層の世界に属する事柄なのである。そういうものを捨てて、真実の世界に向かえとソクラテスは言っているように思える。その真実の世界を私流の言い方で言えば、深層の世界ということになる。

 

表層の世界を取り巻いているのは、金、権力、権威、打算などである。反対に深層の世界を構成しているのは人間の無意識であり、真実であり、美である。そんな世界があるのか、と疑う人もいるだろう。そういう人に対して、私はこう言うことができる。それは、川端作品に書かれているのだ、と。

 

暮らしていけるだけのお金が溜まった人は、60才にもなれば、全ての権力や権威を手放し、引退すべきだと思う。そして、自己と向き合う生活に入るべきなのだ。それこそが贅沢な老年期を過ごす秘訣なのである。