文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反権威主義の台頭

 

世界は揺れ動き、これからどうなるのか、不透明さを増している。トランプが2期目の大統領に選出された頃から、この傾向が一気に顕在化したのではないか。この何十年か、西側世界はひたすらグローバリズムを志向してきた訳だが、トランプがこれを一気にひっくり返そうとしている。日本国内でも、そんなトランプを礼賛するような発言が相次いだが、トランプは日本の味方ではない。敵だと言って、過言ではない。関税の問題もそうだし、防衛費の増額要求だって、今後、強まるのではないか。そんな中、石破総理が「なめられてたまるか」と発言した。同じ日本人として、総理のこの発言を支持するべきだと思うが、実際には揶揄する言動が相次いだ。「それは中国に言うべきだ」とか、「トランプに面と向かって言え」というものである。私は自民党が大嫌いだし、石破総理を支持したこともない。しかし、これらの発言を聞くにつけ、ここまで日本人の中に米国に対する奴隷根性が根付いてしまったのか、と暗澹たる思いに駆られるのである。

 

米国の民主党を中心としたグローバル勢力が、息を吹き返すのか、トランプがグローバル勢力の息の根を止めるのか、両方の可能性がある。どうなるかは分からないが、世界のトレンドとしては、反グローバリズムに向かっているように思う。

 

そんな中で、一体何が正しいのか、どうすべきなのか、若しくは、今後の世界はどうなるのか、と思いあぐねている訳だが、残念ながら、明確な指針を示す力は、私にはない。「不知の自覚」というソクラテスの言葉が、身に染みる今日、この頃なのである。ただ、最近感じていることを以下に記してみたい。

 

人間の世界を支配しているのは、権力である。熾烈な場合、権力闘争は生存競争の様相を帯びる。生き延びるために、戦う。それは動物世界を支配する1つの原理である。しかし、人間は、生き延びるためだけではなく、権力を増長させようとする。人間の欲望に限りはないし、貨幣経済の進展した今日において、蓄財はほぼ無限に可能だからである。但し、権力には良い面もあって、それは人間社会に秩序をもたらす点である。そう考えると、権力は必要悪だとも言える。

 

権力の種類は3つあって、それは暴力(軍事)、経済、思想(統制)である。経済的な権力の行使には資本家による搾取や収奪に加え、徴税ということもある。国家には徴税権という権力があり、私たちはその権力に従い、税金を支払っているのだ。この原稿で取り上げたいのは、3番目の思想(統制)である。

 

権力者は、様々な形で従属する者たちの思想を統制している。それは洗脳と言っても良い。そのために権力者たちは、歴史上、様々な権威を作り上げてきたのである。例えば、中世のヨーロッパでは、王様の権力は神から授けられたものだとする考え方が流布され、これは王権神授説と呼ばれた。これなど、権力者に対する権威付けであり、民衆に対する思想統制の典型ではないか。現代の日本人ならば、馬鹿馬鹿しいと思うだろうが、一概に笑ってもいられない。

 

例えば、地球温暖化を防ぐためには、CO2の削減が必要だと、私たちは信じている。しかし、これにも異論が存在する。すなわち、地球は温暖期と寒冷期を繰り返している。現在は温暖期に向かっており、この時期には必然的にCO2が増加する、という説である。CO2が増えるから温暖化が進むのではなく、温暖化が進むからCO2が増えるという説なのである。だったら、電気自動車などは不要で、エンジンを使い続ければ良いことにならないか。原発も不要で、天然ガスなどを燃料とした発電を続ければ良いのではないか? 文化系の私に、この問題の真偽を述べることはできないが、これはあたかも天動説と地動説ほどの大問題だと思う。

 

仮に私たちが誤解している、洗脳されているとすれば、その権威とはアカデミズムである。コロナが流行った時期に打たされたレプリコンワクチンの正体だって、はなはだ疑問である。米国ではロバート・ケネディ・ジュニアという人が、この問題に取り組んでいるので、その検討結果を待ちたいと思う。

 

その他にも、権威は社会の至る所に存在する。国家の3権と言われる、立法、行政、司法は言うに及ばず、第4の権力と呼ばれるマスコミも権威である。例えば、朝日新聞が書いているから正しいだろうとか、NHKで放送していたから間違いないだろう、などと考える人は、未だに少なくないのではないか。

 

ここまでの記述を図式化してみよう。

 

権力 → 権威 → 知の枠組み

 

権力が権威を生み、権威が我々の知識や常識、知の枠組みを決定しているということなのだ。しかし、私たちが依存している知の枠組みというものは、極めて不確かなものでしかない。私たちが当たり前だと思っている事柄は、実は不確かなことだらけなのである。私はそう考えるので、政治家、官僚、学者、マスコミなど、権威の言うことは、まず、疑うことにしている。大体、現在の希望なき社会情勢を作ってきたのは、彼らなのだ。彼らが正しいはずがないのである。

 

このように権威を疑う思想的な立場を反権威主義と言う。

 

このような立場に賛同する人は、実は急速に増えているのだと思う。最近は、反ワクチンデモも人を集めたし、財務省解体デモも行われている。財務省という権威に、民間人が異議を唱えるなどということは、かつては考えられなかっただろうし、もっと驚くのは、これらのデモに参加しているのが、どちらかと言えば右派の人々だということだ。デモなんていうものは左派が行うものと相場が決まっていたが、変わってきたのである。それだけ、日本の大衆が切羽詰まった所に追いやられている証左だと思う。

 

また、最近、話題の参政党が憲法草案を公表したところ、憲法学者たちから総スカンを食らうという出来事もあった。ある学者は、これを「怪文書みたいなもの」と評した。私も読んでみたところ、ほぼ、同じ印象を受けた。憲法を学ぶ前に、草案を作ってしまったのだろうと思う。良く言っても高校生レベルのもので、論評に値するものではない。

 

憲法には歴史的な経緯があり、学説があり、判例がある。内閣法制局による解釈もある。それらを理解しない限り、憲法草案を作成することは無謀なのである。私の印象からすれば、日本にそれなりの憲法草案を作成できる学者は、せいぜい10人程しかいない。そして、そのうちの9人までは、護憲派なのだ。護憲派だから、憲法の改正案など作る必要はない、作るべきではない、ということになる。そして、参政党の素人集団が草案を発表すると、こぞってこれを批判する訳だ。何か、おかしくはないだろうか?

 

一般の国民が憲法草案を作ってはいけないのか。そんなことはないはずだ。誰にだって、憲法について論じる権利はある。逆に言えば、憲法学者たちにとって、憲法とは寄ってすがる権威となっていはしまいか。私は、一応、れいわ新選組を支持しており、参政党を支持している訳ではない。また、参政党の憲法草案を評価する訳でもない。しかし、彼らが大胆にも憲法草案を公表した勇気には、拍手を送りたいと思う。そして、事の本質は、このような場面においても、反権威主義が台頭してきたということに他ならないのである。