15世紀の後半に大航海時代が始まり、これが今日のグローバリズムの起源だと言われている。グローバリズムは経済と科学を推進の原動力とし、欧米の価値観を途上国に押し付けるものだった。グローバリズムは、西欧の近代主義を思想的な背景として持っていた。一見、それは正しく、美しい仮面を被っていたが、実態は、搾取と収奪、弱肉強食の原理を無理強いするものであった。
思想界においては、リオタールが1979年に「ポストモダンの条件」を著わし、近代の終焉を告げた。そして、現実世界において近代の崩壊が顕在化したのは、米国におけるトランプの登場だったのではないか。
ところで、昨今、私はこんなことを良く思うのだ。人の世には、善人がいて、悪人がいる。賢者がいれば、愚者もいる。善人とは何かとか、賢者とは何かということであれば、ある程度、定義できるだろう。しかし、どうすれば悪人を善人に変えられるのか、若しくは愚者を賢人に変える方法はと考えると、多分、誰もその答えを持っていないのである。もしその答えがあるのであれば、現在の世の中がこんなにも腐りきってはいないはずだ。言い換えると、悪人を善人にし、愚者を賢者にする方法こそが真理なのだが、人間は真理に到達することができない。
人間は、真理を認識できない(不知の自覚)。そう説いたソクラテスから哲学の歴史が始まった訳だが、約2400年後にミシェル・フーコーが同様の結論を示し、哲学の歴史は幕を閉じたのではないか。
人間は何故、真理を認識できないのかと言うと、人間の認識には権力が介在するからだと思う。権力者は、自分の都合の良いように事実を捻じ曲げ、真実を見ようとせず、人々を洗脳する。人の世に当たり前の事など1つもない。全ては相対的で、人間の常識程、頼りにならないものはないのである。しかし、権力者は断定的に物事を認定し、それに反する意見を抹殺するのである。
ああ、もう知的エリートの言うことなど信用できない。彼らはテレビ画面の中でりっぱなことを述べるが、自分たちの暮らしは一向に良くならないではないか! そう思う大衆が世界的な規模で増加し、反グローバリズムが台頭した訳だ。この反グローバリズムとは、反権威主義であり、反知性主義であり、反アカデミズムなのである。
欧州でも右派ポピュリズム政党が台頭している。
イギリス・・・リフォームUK
フランス・・・国民連合(RN)
ドイツ・・・・ドイツのための選択肢(AfD)
この流れにそって、日本では参政党が躍進したのだろう。同党に対しては、既得権者や知的エリートたちが、躍起になって攻撃をしているが、その声は、まず同党の支持者たちには届かないだろう。何しろ、彼らは反知性主義者なのだ。
私自身はと言うと、反グローバリズムで、反権威主義で、反アカデミズムである。但し、参政党を支持している訳ではないし、今後とも同党の候補者に投票することはない。
現代は、思想を語るのが困難な時代だ。しかし、上記の事柄から1つの指針を導くことはできる。それは、権力に関するものだ。真理を認識できないのが人間だとすると、権力を強化する方向に社会を動かすのは間違いだということになる。権力とは、何かを断定し、強制的に人々をある方向に導くからである。従って、権力を分散させることはもちろん、そもそも権力が作用する余地をなくしていくべきではないか。
権力の第1類型は、暴力や軍事力に根差すものだ。つまり、暴力や戦争を排除しようとするのは、正しいことだと言える。暴力や戦争がなくなれば、それだけでこの第1類型の権力は消滅することになる。
権力の第2類型は、思想を統制する機能のことだ。この権力が台頭しないようにするためには、思想や表現の自由を確保することである。そして、宗教や洗脳は、抑制的に扱われるべきである。
権力の第3類型は、経済に関するものだ。その典型は、国家による徴税権である。この権力の行使は最小限に留めるべきで、つまり、増税は悪いことで、減税は正しいことになる。更に言えば、貧富の格差が経済的な権力を産むのだから、これを解消する方向で考えるのが正しい選択だ。
保守とリベラルについては、様々な意見があるだろうが、人間社会において権力を生み出そう、強化しようと考えるのが保守で、反対に権力そのものを最小限に留めようとするのがリベラルだと言ったら、間違いだろうか。この定義に従えば、私の立場は、明らかにリベラルである。
さて、このような世界の中で、「私」はどのように生きるべきか、という問題もある。主体の問題である。この点私は、「私」と共に成長してくれる何かと共に生きるのが良いと思う。真理や権力とは離れて、私的な時間も大切にすべきだ。例えば、川端康成は小説と共に生きた。川端作品は、その作者である川端の言わば分身であり、川端が成長するにつれ、彼の作品も成長した。初期の「伊豆の踊子」と晩年に書いた「古都」の間には、大きな開きがある。その開きこそが、川端の成長の記録だと言っていい。
この『「私」と共に成長してくれる何か』のことを、私は文芸と呼びたい。この文芸という言葉は、一般的な意味で述べているのであって、文化や芸術の総称である。私は、マンガやアニメに詳しくないが、これらも含めて良いと思う。その生涯を通じて、絵を描くのもいいし、音楽に人生を捧げるのもいいだろう。例えば、アニメの声優として活躍されるのもいいし、書道や茶道に慣れ親しむのも素晴らしいことだ。伝統工芸の何かに打ち込むのもいいと思う。但し、それらの作品は成長させなければならない。そして、その成長は「私」の成長と伴走するものでなければならないと思う。
文芸とは、人間が太古の時代から続けてきた営みであって、直接的ではないにせよ、人間が持つ権力や科学に対抗する1つの手段でもある。
ここで文芸という言葉を持ってきたのは、かつて川端康成が横光利一らと立ち上げた同人雑誌の名前が「文芸時代」であったことに着想を得ている。なお、本稿のタイトルに用いた文芸主義という言葉は、私の造語である。