50年ほど前、私は19才だった。その頃だったのだ、「この世の真実」という言葉を聞いたのは。誰から聞いたのかはもう忘れてしまったし、ましてや誰の言葉なのか、私には知る由もない。しかし、当時の私はこの言葉に魅了されたし、未だに時折、この言葉を思い出すのである。
現役のサラリーマンだった頃、私は法務という職種に就いていた。これは契約や訴訟を管理する仕事である。年中、弁護士相手に打ち合わせをしていた。そんなこともあって、私は、人間の理性や知性というものに疑いを抱かなかった。
酷い腰痛を抱えていたこともあり、私は58才で引退した。ぼんやりしながら温泉に浸かり、昼間からビールを飲む生活を堪能した。しかし、ほどなくしてあの言葉が脳裏に蘇ったのである。この世の真実・・・。私はそれを探すために、このブログを始めた。2016年7月のことである。
このブログは、文化人類学から始まった。やがて、近代を経て現代へと向かう。そこで、私は、ミシェル・フーコーに出会ったのである。「言葉と物」や「監獄の誕生」は衝撃だった。そこには、フーコーの知性に対する懐疑が記されていた。フーコーが正しく、それまで私が抱いていた知性に対する認識は、誤りだったことが分かった。しかし、それでも私は「この世の真実」を発見したとは思えなかった。知性が作り出す人間の社会、知の枠組みが権力によって捻じ曲げられているということが分かったとしても、では、私はどう人生を生きれば良いのか、その答えが分からなかったのである。
フーコーが同じような問題意識を持っていたのかどうか、私には分からないが、彼はその遺作「性の歴史」において、ギリシャ哲学に回帰した。そこには、正に、どう生きるべきかという問いと、それに対する哲学者たちの挑戦が描かれている。但し、私の読解が不十分であることもあるだろうが、私はそこから明確なメッセージを受け止めることはできなかった。
その後、このブログは三島由紀夫の「文化防衛論」を取り上げ、続いて川端康成の文学を読み込む作業に移った。これら2人の作家から、私は多大な刺激を受けた訳だが、未だに答えられずにいる問いが残されている。それは「文学とは何か」というものだ。実は、「文学とは何か」と題する本があって、私はこれも通読しているが、私が満足のできる回答は、その本にも書かれていなかった。
やがて、私は1つの配置図なるものを書き、それに基づくシリーズ原稿を掲載してみようと思った。次の図である。

この図を書き終えた後、私はプラトンの「饗宴」を読んだのだが、そこに確かな手ごたえを感じたのである。前回の原稿に記したエロスの道(美の梯子)によって、私の配置図における縦のラインは、概ね説明できる。
ポイントを記してみよう。まず、プラトンはエロスから出発するのだと述べている。確かにそうかも知れない、と思う。最近はよく「今だけ、金だけ、自分だけ」というエゴイズムの3類型が指摘される訳だが、人間は、それとは正反対の特徴に直面することもある。それが、恋愛だと思う。身の焦がれるような恋愛をした場合、その人はその相手と永遠に共に過ごしたいと思う。もちろん、恋愛感情というのは、お金とは無縁である。また、恋愛には相手、すなわち対象がいる訳で、自分だけという訳にはいかない。そんな恋愛感情によって、人間は考え始めるのではないか。但し、プラトンはそこに留まっていいとは言わない。そこから成長しなければならない。人はそこから、言葉を学び、社会を学び、そして究極的な美、美のイデアを目指すのである。
究極の美。そんなものがあるのか、と疑問に思う人もいるだろう。確かにプラトンは「饗宴」の中で、それを具体的に説明してはいない。しかし、私は究極の美とは、悪であるはずがなく、つまりそれは善でもあるはずだと思う。究極的に美しく、善であること、それこそが真理ではないか。そしてプラトンは、実はその真理をソクラテスの死に見ていたのではないか、というのが私の現時点での読みである。それはもしかすると、三島の死に通ずるかも知れない。
いずれにせよ、ある高みを措定する。それがプラトンの思考の前提になっている。そして、その高みを目指して、自らを成長させていく。あたかも、梯子を一段ずつ登るように。これが、「この世の真実」ではないか。これが、より良い人生を送る秘訣なのではないか。
そしてプラトンは、その高みを目指す人間のために、いくつかの仕掛けを設けている。例えば、いきなり向こう側へ行けないような場合、人間は庭に飛び石を埋め込むではないか。それと同じように、プラトンはエロスを本当の神ではなく、精霊(ダイモン)に仕立てたのではないか。精霊とは、神と人間の中間に位置するものだ。つまり、まずは精霊であるところのエロスに近づき、そして、その後で更なる飛躍を目指せと言っているのではないか。
人間 ― 精霊(エロス)― 美のイデア
「この世の真実」を追い求めてきた私としては、プラトンのかかる思想によって、激励されているように思う。プラトンによって、私の人生は肯定され、私は赦しを得たような気がするのである。