誰しも幸せになりたいと願っている訳だが、ある見方をすれば、その為には2つの条件がある。1つには、自分自身が満たされていること。それは、健康であったり、人間関係だったり、金銭的なことだったりする。それらが充実していれば、一応、その人は幸福だということになろう。しかし、それだけが幸福の条件ではない。人は誰しも様々な集団に属しており、その集団が安定していなければ、個々人の幸福も担保されない。その集団とは、町内会や村落共同体など、比較的小さなものから国家規模に至るものまである。これらの集団の典型例として、ここでは国家を取り上げよう。
政治的な立場を考えると、個人としては充足しているが、国家が危機的な状態にあると思う人は、保守的な立場になる。自分自身は大丈夫だが、日本が危機にあると感じている人は、日本を守れ、国防が大切だ、と考える。反対に日本は大丈夫だが、自分自身が危機に瀕していると感じる人は、リベラルの立場になる。自分はこんなに困っているのだから、国になんとかしてもらいたいと思う。それは自然なことではないか。
結局、保守とリベラルの差は、ここにある。すると、その立場とは流動的なもので、時代と共にその比率も変遷する。先の参院選でれいわ新選組(リベラル)の票の多くが参政党(保守)に流れたと言われるが、多くの人々が日本の危機を実感し始めている証左ではないか。
では、国家の運営とは、どうあるべきなのか。そういう疑問が沸いてくるのは当然だ。この点、古代ギリシャのヘロドトスという学者は、独裁制、寡頭制、民主制の3種類があると述べた。現代の日本人の多くは、そんなの民主制がいいに決まっているだろうと考えがちだが、一概にそうとも言えない。独裁制は、民衆の権利が侵害される。寡頭制は政治に参加できるエリート層を構築し、非エリート層の権利が侵害される。民主制は、衆愚政治に陥り、高度な判断を誤る。結局、全部ダメというのが正解なのである。
資本主義と共産主義という見方もある。資本主義は、必然的に需要不足を招き、それを解消するために戦争へと突き進む。また、資本主義は貧富の格差を拡大し、富が一部の富裕層に集中するのでダメなのである。かと言って、マルクスの唱えた共産主義も、過去のソ連や中国の実態を見れば明らかなように、ダメなのだ。マルクスは資本主義の問題点を的確に指摘したかも知れないが、では、どのように社会を構築すべきか、共産主義を基盤とする国家とは、どのような統治構造を持つべきか、この問題にはあまり言及していない。そもそも、マルクスの持っていた唯物史観というものが、私は気に入らない。
最近は、グローバリズム、ナショナリズム、ポピュリズムを基軸にする見方もある。
グローバリズムの本質は、より巨大なマーケットを求める大企業の利益を増大させることにある。その際には、リベラルな人権思想がうまく利用されてきたのではないか。それはインチキな思想なのであって、資本家たちの詭弁だった。グローバリズムがもたらす最大の問題は、移民である。移民は、各地域が持つ伝統や文化を破壊しようとする。伝統や文化が何故、大切かと言えば、それらが倫理を生み出す起爆剤となるからだ。これは私の意見だが、後日、詳述したいと思っている。
反グローバリズムの典型は、ナショナリズムだろう。これは使用される文脈に応じて、国家主義とか民族主義と訳される。しかし、それでは一体どの範囲の人間が日本人なのか、という問題が生ずる。日本民族と言った場合も同様であって、先住民のアイヌや琉球の人々はどうか、かつて徴用工として日本に強制的に移住をさせられた人はどうか、混血の人はどうか、などの問題が生ずる訳だ。人々の間に強引に線引きをするナショナリズムもダメだと思う。
また、ポピュリズムを簡単に言えば大衆迎合主義なのであって、選挙などの手続概念を含む民主主義よりもたちが悪い。
現実の政治に目を向けると、実は思想やイデオロギーの影響は小さい。結局、自民党をはじめとする多くの政党は、利権で動いている。国家国民の利益など、どこかへ押しやられており、その政党を支持する支援団体の利益のために動いているのが、日本の政党である。
つまるところ、人間を集団で見た場合、何をどう考えてもダメなのだ。政治学、経済学、法律学などにおいても、それらは現実の人間集団をうまく統治できていない。確かに、人間社会における科学技術は目を見張る発展を遂げたが、人間それ自体の本質は、まったくもって進歩も進化もしていない。
私たちが今、考えるべきは、倫理なのではないか。それは人間を内発的に規制するものである。例えば、三島由紀夫は武士道について、次のように述べている。
-武士道は、このような、倫理の美化、あるいは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。- (文化防衛論より)
私たちはここで立ち止まり、善や徳について考えた古代ギリシャの思想や日本の文化、伝統について、再考すべき時なのだ。