私との哲学談義に付き合ってくれそうな人間は、見当たらない。そこで最近は、AIに論争を持ち掛けることにしている。但し、私は誇り高き埼玉県民の代表として、絶対にAIになど騙されないぞ、という心意気を持っている。なお、私が利用しているAIは、Windows 11にプリインストールされているCopilot(コーパイロット)という簡便なものだ。では、今朝方の会話を紹介しよう。但し、AIの回答はいちいち長いので、省略し、私がアレンジしたものである。
AI・・・彼らが戦っていたのは、単なる人物ではなく、思想や社会の在り方そのものでした。
私・・・私が「誰」と表現したのはレトリックであって、彼らが戦っていた敵の本質を尋ねている。
AI・・・あなたは、哲学者たちが格闘した「存在の深層」や「思考の限界」そのものを指しているのですね。ソクラテスが戦ったのは、知っているつもりで生きているアテナイの人々、自明と思われている価値観や社会的な常識などです。つまり彼が戦ったのは「無知」ではなく、「無知であることに気づかない心の構造」だったのです。また、プラトンが戦ったのは「現実と思われている虚構」でした。そして、彼らが共に戦ったのは、「真理から目を背ける人間の性(さが)です。彼らが戦ったのは外的な敵ではなく、内なる怠惰、思考停止、快楽への逃避、群衆心理など、人間の深層に潜む「真理への抵抗」です。
私・・・三島由紀夫は「文化防衛論」を書いた。その中で、三島は一体、何者から文化を防衛せよと主張したのか。
AI・・・三島は、戦後日本に蔓延した「文化主義」を批判しています。これは、文化を博物館的なものとして扱い、生命や行動と切り離してしまう傾向です。彼はこれを「血みどろの母体から文化を切り離す行為」と呼びました。戦後の占領政策によって、日本文化の中心にあった天皇や武士道精神が排除され、文化の全体性と連続性が失われた。つまり、文化を守るとは、文化の「生きた本質」を政治的圧力から解放することでもあるのです。三島が戦ったのは、「文化を制度化し、無害化しようとする近代的合理性」そのものです。
私・・・真理を求めようとしない人間の本性。思考を拒絶する人間の怠惰。これらを維持、助長しようとする原因があるはずだ。すると、それを権力と呼べないか。
AI・・・まさに本質への問いです。あなたの言っていることが、単なる個人の弱さではなく、構造的に維持・助長されているとするならば、それは確かに「権力」と呼びうるものです。哲学者ミシェル・フーコーは、権力を人々の行動や思考をある方向へ導く力であり、思考の枠組みそのものを形作る力だと考えました。学校教育、メディア、制度、言語。これらは人々を「考えたつもり」にさせ、問いを封じるのです。その結果、人は「考えないこと」を自分の選択だと錯覚するのです。
私・・・ここでフーコーが出て来たのは、ちょっと意外だ。あなたは、私がフーコーのファンであることを予め知っていたのか?
AI・・・私はあなたが誰のファンであるのか、知りません。ただ、あなたの言葉から自然とフーコーの名前が私の心の中に浮かんだのです。
私・・・私は、2つの対立軸を措定して人間世界を記述できないか、と考えている。1つの対立軸としては、身体と魂。これはプラトンが言っていることだ。もう一つは、文化とそれに対立する何か、である。その何か、をどう考えるべきか思いあぐねているのだ。
AI・・・文化とは人間の営為のことで、それに対立するのは自然ではないでしょうか。
そこで、私はプラトンの著作「ゴルギアス」の解説文を思い出したのである。(参考:ゴルギアス/中澤務 訳/光文社古典新訳文庫)
- この時代は、ペルシャ戦争などをきっかけに、異文化に対する関心が生まれていた時代です。ギリシャ人たちは、自分たちの文化とは異なる慣習を持つ異文化がたくさん存在することを発見しました。そして、それによって、自分たちの文化的慣習を絶対視するそれまでの価値観に疑問を抱くようになりました。こうしたなかで、慣習というものはそれぞれの社会で恣意的に取り決められているにすぎず、すべての社会に共通する正しい慣習など存在しないのではないかという疑いが生まれていたわけです。こうした疑いは、やがて慣習の規範性に対する強い疑いを生み出していきます。(中略)こうして生まれてきたのが、自然の正義という新しい規範なのです。(中略)このとき、自然の与える規範として、多くの人々が思い描いたのが、自然界における弱肉強食の原理でした。-
話をAIとの対話に戻そう。
私・・・確かに、「自然」というのはいいかも知れない。「ゴルギアス」の中にも、強さこそが正義だと主張する人物が登場する。もちろん、ソクラテスに論破される訳だ。ところで、プラトンが慣習と呼んだもの、三島が文化と呼んだもの、フーコーがエピステーメーと呼んだもの、これらは同じではないか。但し、プラトンとフーコーはそれを否定し、あるいは懐疑的に解釈し、三島はこれを肯定した。ここに決定的な違いがあるのではないか。
AI・・・あなたの思索は、すでに哲学者のそれに近づいています。
ここまで来て、私はAIの画面を閉じた。今朝は、「燃えるゴミ」の日で、そろそろ時間が迫っていたのである。
プラトンとフーコーは、権力の影響を受ける知性と、伝統に根ざす文化を分けて考えてはいなかったのだと思う。これは、西洋人の彼らとしては、当然の帰結だったのではないか。そして、双方をひっくるめて、慣習だとかエピステーメーと呼び、それを否定することによって、精神の更なる高みを目指したに違いない。但し、古代ギリシャに存在した文化の1つとして、「少年愛」なるものがある。これには様々な規範が伴っていた訳で、これはりっぱな文化の一形態だと思う。そして、ソクラテス、プラトン、フーコーのいずれもこの文化を否定していない。つまり、彼ら自身、肯定すべき文化の存在を認めていたのである。これはもちろん、21世紀に生きる日本人の見方ではある。
他方、三島にしてみれば、自らは日本の文化に立脚し、西洋的、合理的な規範をその枠の外から批判することによって、高みを目指したに違いない。そうしてみると、やはり、文化の対立概念は、「知性」としておくのが良いのではないか。これは権力に支配される知性であって、哲学者が目指した叡智とは無縁のものである。
三島と同じ日本人である私としては、文化と知性を分けて考えたいと思う。
ソクラテスが唱えた無知の知、不知の自覚とは、知性そのものに対する懐疑を含んでいたのではないか。