文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

魂の証明(その7) 彷徨する魂

 

ソクラテスの弁明」は以前、読んでいたが、本稿を書き始めてから「パイドン」、「饗宴」、「ゴルギアス」、「国家」と読み進めてきた。いずれもプラトンの作品である。これらの作品から、プラトンの思想の内実が浮かび上がってくる訳だが、そこに私は奇妙な肌触りを感じている。言ってみれば、プラトンの思想は、その前提が間違っている。また、その後の論理展開も粗雑である。しかし、そこから導かれる結論だけは、正しいように思えるのだ。本当に正しいかどうか、それは分からないとしても、少なくとも私は、共感を覚えるのだ。

 

前提は間違っているが、結論は正しい。そんな論理というものが、成り立つのだろうか?

 

では、現在、私が最も興味をそそられているプラトンの「イデア論」を中心に、私なりに再構成してみたい。

 

ステップ1: 人間の認識能力は極めて限定的なもので、現実世界において人間が見ているのは、暗い洞窟の中で見ている影絵のようなものである。(洞窟の比喩)

 

ステップ2: 実は、時空を超越した絶対的な存在として、イデアというものがある。そして、人間が現実世界において見ているものは、イデアの不完全なコピーに過ぎない。

 

ステップ3: 従って、知を愛する哲学者は、暗い洞窟を出て、明るい陽光の下へと出向き、そこで(ソクラテスのように)イデアを認識するべきなのだ。

 

ステップ4: 魂は、人間の身体に取りつく前、イデア界にあって、そこでイデア、すなわち真理を経験している。従って、人間が自らの魂に配慮を重ねると、魂は忘れ掛けていたイデアを想い起こすのである。(想起説)

 

ステップ5: 故に人間は、自らの魂に配慮しなければならないのだ。

 

上記の論理構成は、単独の文献に記述されている訳ではない。洞窟の比喩は「国家」に、想起説は「パイドン」に、ステップ5の結論は「ソクラテスの弁明」にそれぞれ記述されている。

 

また、上記の世界観に従えば、人間の身体は1回性のものだが、魂は不死であることになる。人間が死ぬと魂は、冥府とか、天界とか、イデア界と呼ばれる世界に戻って行き、また、新たな身体とのカップリングがなされ、地上に舞い戻って来るのである。これは私たち東洋人に馴染みの深い輪廻転生と同じではないか。私たちは仏教を通じて、この輪廻転生という考え方に慣れ親しんできた訳だが、実は2400年前のギリシャにおいても、この考え方が生まれていたことになる。

 

ちなみにAIで調べてみると、輪廻転生を体系化したのは、プラトンよりも仏陀の方が先らしい。では、仏陀の思想がギリシャに伝播したのかというとその可能性は低く、それぞれが独自に、たまたま同じような思想を持ったとのこと。不思議なことがあるものだ。

 

さて、私が上記のようにプラトンの思想を再構成してみたのには、訳がある。ソクラテスの思想の中核をなす「自らの魂に配慮せよ」というテーゼについて、何故、そうなのかという説明が、「ソクラテスの弁明」の中ではあまり語られていない。それを説明するために、弟子のプラトンイデア論なるものを提唱したのではないか。これは私の読みなのだが、多分、当たっているだろう。師匠であるソクラテスの思想を、弟子であるプラトンが補強したのだ。ソクラテスも随分、良い弟子に恵まれたものである。

 

なお、私が何故「自らの魂に配慮せよ」というソクラテスの思想に共感を覚えるのか、という点についても記しておきたい。

 

例えば私は、ある本があって、それを読めばこの世の真実が全て書いてあるのではないかとか、ある思想家がいて、その人の思想を学べば、全ての問題が解決するのではないか、などと思ってきた節がある。しかし、高齢に達した今、それらの希望は儚い幻想に過ぎなかったのだと、しみじみ思うのである。そう言えば、フーコーがこんなことを言っていた。「違う時代を生きた人や、外国人の思想が、あなたの抱える課題に回答を与えるなどと考えてはいけない」。もちろん、それらに触れることは大切だ。しかし、それらはヒントを与えてくれはするが、回答を用意してくれる訳ではない。

 

私は、心の中に1本の木を育てている。そんな風に思うこともある。この木は、十分な水や養分を与えないと成長しないし、下手をすれば枯れてしまう。そして、その水分や養分とは、先人たちの思想であったり、優れた文学作品であったり、音楽や絵画だったりするのだ。私は今、「1本の木」と表現したが、それを魂と言い換えても良い。だから、真理は私の中にあるのだと思うし、また、自らの魂に配慮せよという主張に、感銘を覚えもするのだ。