最近の私の読書の傾向としては、ソクラテスからプラトンへ行き、ストア派に行き着いたのである。その次となると、キリスト教になる訳だ。この時代に焦点を当てたのはフーコーで、その著作は「性の歴史」という4分冊の大作である。私は既に最初の3冊は読んでいるが、4冊目の「肉の告白」は読んでいなかった。かつて、読み始めたことはあったのだが、早々に挫折したのである。しかし、「性の歴史」は本棚の比較的目立つ所に並べてあって、それを目にする度に、「ああ、4冊目はまだ読んでいないなあ」と思い続けてきたのである。まるでやり残した宿題を見るような気分になる。
今回、これを契機に「肉の告白」を読もうと思いたち、実際に読み通したのであるが、結論から言えば、嫌な気分しか残らなかったのだ。
「肉の告白」に大体、どんなことが書いてあるかと言うと、ストア派の哲学の影響を受けつつ、初期のキリスト教の研究者たちが、特に人間の性の問題をどのように考えてきたのか、その経緯が克明に記されているのだ。処女・童貞性がどうだとか、結婚がどうだとか、そういうことを延々と述べているのである。フーコーの主眼としては、そのようなキリスト教思想が欧州人の主体の確立にどう影響しているのか、という点にある。しかし、私は日本人だし、キリスト教徒でもない。そのような問題が何故、重要なのか分からない。あまりの長さ、論理の緻密さに閉口すると共に、そもそもキリスト教の教義や、そのよって立つ基盤となる旧約聖書に嫌気が差したのである。
天地創造の物語があり、まずアダムが登場する。神はアダムの肋骨からイブを作る。肋骨は人間の頭よりも下にあるので、女は男よりも劣ることになる。2人は、蛇にそそのかされて、食べてはいけないと言われていた知恵の実を口にする。これが原罪の論拠となる。そして、哲学の影響もあり、セックスは悪いことだと考えられる。許されるのは、結婚を前提とし、子作りを目的として行われるセックスだけだという。夫婦間の子作りを目的としたセックスは、天地を創造した神の意志に即しているから許される。また、処女性は尊重され、処女はキリストの婚約者なのである。
キリスト教は、どこまでも個人の内面に入り込もうとする。マインド・コントロールだと言えよう。まず、キリスト教徒になって神のご加護を受けるためには、洗礼を受けなければならない。これは今後、全ての戒律を守りますという約束のことである。その後、戒律などを破った場合には、懺悔をしなければならない。自らの過ちを自分の口で言わせる訳だ。これが本のタイトルにある「肉の告白」の意味である。キリスト教徒にプライバシーはない。
戒律は、エスカレートする。人間の魂には、サタンが入り込んでいる。従って、自分の頭では、何も考えてはいけない。全ては神にお任せしなければならない。具体的には、指導者の命令に絶対服従せよ、ということになる。ここに及んでキリスト教は、「自らの魂に配慮せよ」というソクラテスの思想とは、正反対のことを主張するに至る。それって、人間の奴隷化ではないのか?
このような反自然、反ヒューマニズムの宗教が世界を席巻した西洋の歴史は、悲惨だと言う他はない。但し、このような非人間的な文明に対する反動もあって、それが例えば14世紀のイタリアで勃興したルネッサンスである。その際には、ギリシャ文明が大いに再評価されたのである。また、熱心なキリスト者であったジョン・ロックは人権思想を説いた訳だが、これはキリスト教の内部から生まれた抵抗だったに違いない。
そこで、キリスト教文明に対するアンチテーゼとしてのギリシャ文明、理想的な文明の1つのモデルとしてのギリシャ文明、という見方ができる。では、良い文明と悪い文明の線引きはどこにあるのだろう。1つには、上に記したような個々人を統治する規範力の問題がある。
ストア派の哲学者は、「自己への配慮」ということを述べた。これはソクラテスの主張と似ている。簡単に言うと、自分という人間の内面には、様々な欲望や感情がある。例えば、酒を飲みたいとか、沢山食べたい、朝寝坊をしたい、不倫をしたいなど。しかし、無限にそのようなことをしていれば、健康を害したり、家族関係を壊したりしてしまう。そこで、自分の中の意志だとか、理性と呼ばれる心の働きに注目せざるを得なくなる。その意思や理性の力によって、すなわち自分の力で自分を統治すること。それが「自己への配慮」ということだろう。
そして、もう少し複雑な話になるが、主体(個人)と国家の問題がある。例えば、無人島に1人の男が漂着したとして、そこで彼は暮らし始めたとしよう。すると彼にとって、正義とか倫理という問題は生じない訳だ。正義だとか倫理という問題は、人間が集団の中で暮らすから発生するのだ。
例えば、プラトンはその著作「国家」の中で、正義について次のように述べている。
- 金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行う場合、このような本務への専心は、さきとは反対のものであるから、<正義>にほかならないことになり、国家を<正しい>国家たらしめるものであることになる。-
例えば、音楽家は音楽の専門知識を持って、楽器を演奏している。靴職人にも、独自の技術がある。従って、音楽家が靴を作るよりも、靴職人が靴を作った方が良いものができるし、経済効率も良いことになる。それは国家にとっての利益となるのだから、個々人は自らの役割に専念すべきであって、そうすることが正義だ、という主張である。
正義と言うからには利他性に関わる議論などが出てきそうなものだが、プラトンは上記の結論に達したのである。いずれにせよ、国家(集団)というものを視野に入れなければ、正義も倫理も成り立たないのだ。
この問題に対処するため、やがて法律が生まれる。宗教が個人の内心を拘束するのに対して、原則的に法律は、行為の外形を規制する。制限速度40キロのところを60キロで走行すれば、スピード違反をしようとする意図があろうがなかろうが、罰せられる。反対に、心の中で人を殺したり、よからぬことを妄想したりしたとしても、法律によって罰っせられることはない。但し、例外的に、殺す意思をもって人を殺した場合は殺人罪となり、傷つけるつもりで殺してしまった場合には、傷害致死罪になるという区分はある。
このように考えると規範には、人間の内心を拘束するものと行為の外形を拘束するもののあることが分かる。もう1つの区分として、その規範が外部の力によるものと、自分自身の、すなわち自発的なものがあることになる。
三島由紀夫が傾倒していた「葉隠」はどうだろう。これは、人間の内心を、自発的に拘束するもので、ソクラテスやストア派の主張と同じだ。私が何を言いたいのかというと、それは、ソクラテスやプラトンの思想と、三島の思想が似ているということだ。もっと言えば、三島の死とソクラテスの死には、多くの共通点があるということなのだ。そして、何故そのような類似が生まれたのかと言えば、それは三島の思想が古代志向だったからなのである。