文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

魂の証明(その15) 文明の誕生

 

この世界には、人間が関与しない自然がある。また、人間が関与しているものもある。こちらの方は、文明と呼ぶことにしよう。

 

世界 = 自然 + 文明

 

では、ソクラテスが登場する前の文明はどうなっていたのか。そこには、文化があった。換言すれば、文化しかなかったとも言える。

 

文明 = 文化

 

文化の基本形は、シャーマニズムとも呼ばれるもので、それは神話、祭祀、呪術によって構成される。実際、ソクラテスが登場する前のギリシャにおいても、豊富な神話が語り継がれていた。また、様々な祭祀も執り行われていた。男たちが酒を飲みながら語らう「饗宴」と呼ばれる風習もあったが、これも祭祀の1形態だと言えよう。そして、デルポイという場所があって、そこでは頻繁に予言が行われていた。「ソクラテスの弁明」にも登場するデルポイの巫女による予言(神託)は、当時、多くの人々が利用していたらしい。予言は占いと同じで、すなわちこれは呪術の1類型である。

 

文化 = シャーマニズム = 神話 + 祭祀 + 呪術

 

神話は言葉であり、歌や踊りを伴う祭祀の中心にあるのは身体で、呪術は物に働きかけることにより成立する。すなわち、文化を構成する要素は言葉、身体、物であるとも言えよう。

 

文化 = 言葉 + 身体 + 物

 

そして、ソクラテスが登場する。ソクラテスの主要な主張は「自らの魂に配慮せよ」ということだった。魂は、個々の人間が1つだけ持っており、そしてそれは他人が持つどの魂とも違っている。現代的に言い換えると、それは自分の心に忠実であれ、ということになる。従って、ソクラテスの主張において、人類は初めて主体というものを認識したことになろう。ここで、文明に大きな変化が生じた。

 

文明 = 文化 + 主体

 

続いて、ソクラテスの弟子のプラトンが登場する。プラトンイデア論を提唱し、ソクラテスが主張した主体の概念を発展させた。それと同時にプラトンは、あるべき教育の姿を検討し、ソクラテスよりも先にピュタゴラス派が取り組んでいた音楽や天文学について、教育プログラムに加えるべきだと考えた。ピュタゴラス派は、音程を軸に思考し、どの音とどの音が調和するのか、その間隔はどうなっているのかということを数学的に分析していた。従って、ここに言う音楽とは、数学に近似している。なお、ピュタゴラス派の天文学は、天動説に基づいていた。いずれにせよプラトンの教育論や国家論によって、人間は知性を発見したと言えよう。ここで再び、文明に大きな飛躍が生まれたのだ。

 

文明 = 知性 + 文化 + 主体

 

(現代文明に対する影響の大きなものから、順に左端から記載した。)

 

ソクラテスプラトンの時代から、概ね、2400年が経過した訳だが、この公式に示される文明の構成に変化はないと思う。このように俯瞰して見ると、彼らの功績が如何に大きかったか、ということが分かる。但し、知性に対してソクラテスは懐疑的で、対するプラトンは好意的だったという差はある。

 

またプラトン自身は、人間の知性なるものが如何に増長し、人間に危害を及ぼし始めるかという点については、知る由もなかった。人間は、文字などによって記録する能力を持つ。そのため、誰かの発見や発明が、忘れ去られるということはない。人間の知識は、一方的に増加する。今日に至るまで、この動きを止めた人間はいない。

 

但し、知性が悪い面ばかりかと言うと、そうとも言えない。知性のおかげで、不治の病の多くは、今日では治療が可能になった。また、人間には権利がある。人権というものがある。このような思想も、知性が生んだと言えよう。

 

知性が文明の最先端に躍り出て脚光を浴び始めたのは、約200年前にイギリスで発生した産業革命が契機だったのだろう。その後、いつの頃からか物質文明という言葉が用いられるようになったのだ。精神文化から、物質文明へと変化してきたのが、最近、200年の歴史ではないか。

 

さて、上の公式を用いれば、思想家の概ねのポジションを理解することが可能になる。例えば、カントは知性に立脚し、知性の可能性を探ったと言えよう。但し、カントは知性という言葉の代わりに、それを理性と呼んだのである。また、フーコーはと言うと、主体を肯定し、主体に立脚した上で、知性を批判したのだと思う。

 

三島由紀夫はどうだろう? 東大卒業後、三島は大蔵省に入省している。すなわち三島は知性の世界においてもエリートだったのである。次に問題となるのが、主体である。思うに三島は徹底的に自己を見つめ、そのような文学作品も多く残している。強烈な個性を持っていたとも言える。つまり、主体に立脚していたと言っても過言ではない。しかし、三島はそこに留まることができなかったのだと思う。戦後日本の民主主義社会への絶望、文学の限界などもあって、三島は古典への回帰を目指したのだと思う。厳密にその時期を言い当てることはできないが、少なくともそれは「豊穣の海」の執筆を開始した頃(1965年)には始まっていたことだろう。

 

古い日本語にも精通していた三島は、日本の古典文学を通じて、昔の人々の感情や感覚を会得したに違いない。三島の理解は言葉の奥底に到達し、言葉の背後にある霊性のようなものにまで及んだのではないか。そのようなものがあるのか、私には断言できないが、その言葉の神秘は、一般には「言霊」(ことだま)と呼ばれる。先の原稿で触れた「英霊の声」にも、それは表現されているし、「奔馬」の中にも鬼気迫る場面がある。明治維新の直後、政府によって廃刀令が発布された。これに反発した当時の武士たち、神風連(しんぷうれん)が決起を企てる。決起の期日について天照大神らにお伺いを立てる訳だが、この儀式を「宇気比」(うけひ)と言う。これは記紀にも登場する古くから伝わる呪術の一種である。

 

つまり、三島は強烈な自我、主体を持っていたが、それを半ば強引に日本の文化、伝統が持つ様式の中に押し込めたのではないか。そして三島は、自ら文化に立脚することを宣言した上で、伝統に則り、自決したのだと思う。三島は知性を否定し、返す刀で主体をも否定したのではないか。