読み返してみると、本稿もまた散漫であり、分かりにくいものとなってしまった。しかし、もう年末だし、ここで一区切りを付けたいと思う。但し、私には満足感というか、安堵感もある。
このブログを始めて、ほぼ10年がたつ。スマホでご覧いただいている方々には見えないと思うが、実はブログタイトルの下に「世界を記述する」と書かれている。それは私の希望だった訳だし、このブログを始めた理由でもあった。そして、本稿をもって、私なりにその目的を達成できたように思う。簡単に言えば、それは次の2つの公式によって示される。
文化 = 言葉 + 身体 + 物
文明 = 知性 + 文化 + 主体
たったこれだけのことを理解するのに、私は10年という歳月を費やしたことになる。我ながらあきれ果ててしまう訳だが、誰も教えてはくれなかったので、自分で考える他はなかった。また、簡単な足し算のような式を用いて、文明を説明しようとしたのは、私くらいのものだろう。オリジナリティーだけは自信がある。
さて、本文の中で書きそびれてしまった事項について、若干、補足したい。
〇 真善美と知性、文化、主体の関係
真理とは何か。ピュタゴラス派の人々は、宇宙を貫く原理のことだと考えた。但し、別の定義を置くことも可能なのであって、例えば私はかつて「全ての人々を幸福にする方法」だと考えた。いずれにせよ、真理を目指すのは、知性だろう。
次の問題は、善とは何か、ということになる。善は、正義とか、倫理と言い換えても良いだろう。この問題はカントやロールズが検討した経緯があるが、なかなか妥当と思えるような結論に至っていない。そもそも、善とは人間が経験する様々な場面における解答のことではないか? しかし、人間の経験とは多種多様なもので、これを一律に定義づけることは困難だと思う。従って、善、正義、倫理という問題は、それぞれの場面に出くわした個人が、個別的に判断せざるを得ないのだ。つまり、これは主体の問題なのだ。善を目指すのは主体、ということになる。
残るのは美だ。美にもいくつか種類がある訳だが、大別すると眼に見える美と見えない美がある。それらの美とは、なかなか個人の力で発見したり創造したりすることは難しい。例えば、祇園の舞子さんなど、私はとても美しいと思う訳だが、彼女たちを支えている着物や踊りは、長い伝統に支えられている。これは文化だと言える。
知性 → 真
主体 → 善
文化 → 美
近年の人々は、あまり真善美などと言わなくなったが、これは文明の堕落である。また、AIがもてはやされる昨今ではあるが、そんなものが真善美を生み出すことはありえない。
〇 知性と権力
知性とは何か。これを記述するには膨大な作業が必要になるが、ここでそんなことをするつもりはない。はなはだ乱暴な言い方ではあるが、大学で教えていること。それが知性である。では、権力にはどのような種類があるか。その表層を確認するのであれば、政府機関を見れば良い。そして、大学の学部と政府機関との間には、緊密な関係がある。大学には法学部があり、政府機関には法務省がある。大学には医学部があり、政府機関には厚労省がある。つまり、知性と権力とは密接につながっているのだ。
核兵器を生み出したのも人間の知性である。このような知性の暴走に、私は反対の立場である。
知性が全くもって不要だとは言わないが、知性と権力は、抑制されるべきなのだ。
〇 文化と差別
文化や伝統が万能かと言うと、そうではない。古い価値観には、特に女性に対する差別思想が含まれている。旧約聖書の話は既に述べたが、では、ギリシャ神話はどうか。たまたま読んだ本によると、こちらにも明確な女性差別があった。かつて、人間は火を所有していなかった。それをある神がゼウス(最高神)から盗んで、人間に与えた。怒ったゼウスは、人間たちに女を送り込んだのである。女は男にとって、災厄をもたらす厄介者である。こうして、神 ― 男 ― 女 ― 動物 という序列が作られた。
私は、過去の女性差別には反対である。一方、今日の男女平等主義にも行き過ぎたものを感じる。徴兵制の問題である。男女平等なのだから、女性も男と同じ義務を負うべきだ、よって、女性も兵役に服さなければならないと考える国が、増えているのではないか。しかし、非力な女性を過酷な戦地に赴かせるのはいかがなものか。私は反対である。日本は、どうなることだろう?
〇 私の立脚点
ここで、私の思想的な立場を明確にしておきたい。私が最も重要だと思うのは、主体である。例えば、日本は法治国家だと言われている。法とは、すなわち知性である。そして、法律は守らなければならない。しかし、現実はどうだろう。政治資金規正法という法律はあるが、実際には裏金や賄賂がはびこっている。また、クルマで道路を走れば、制限速度が40キロとか60キロとか定められているが、これを厳密に遵守している者は、ほとんどいない。制限速度を守っていると、後続車からクラクションを鳴らされてしまうのではないか。憲法だって、解釈改憲が繰り返され、有名無実化している。法治国家というのは、建前に過ぎない。知性の生み出す法律というものは、権力によって捻じ曲げられているのだ。それよりも、個々人の倫理観の方が、余程重要だと思う。
また、日本人はもっと真剣に国家について考えるべきだと思う。実質的に言えば、日本は米国の属国なのだ。日本国の最高権力は、米国が握っている。そこで、米国にしっぽを振る政治家がはびこる。世界の政治的な課題は、米中対立にある。しかし、米中両国とも大量の核兵器を保有しているので、直接戦う訳にはいかない。そこで、極地戦とか代理戦争が起こる。ウクライナ戦争の出口が見え始めてきた昨今、戦争屋が次に目を付けているのは、台湾である。戦争屋に忖度して、日本を中国との戦争に巻き込もうとする自民党を中心とした政治勢力が台頭しているのが、今日の実態だ。正気か? 中国が既に保有している核弾頭は、600発以上だ。対する日本はゼロ。これで日本が中国に勝てるはずがない。反中感情を煽って、日本が中国との戦争に突入すれば、日本は滅びるかも知れない。今後、2~3年が危機の山場ではないか。
私は、知性や文化が不要だと言っている訳ではない。暴走する知性に歯止めを掛け、悪しき風習を改める。そのような力を持っているのは、結局、主体なのである。どんな法律や制度を作っても、最終的に人間を拘束することはできない。人々を救済することはできないと思うのだ。結局、良い世の中を作るには、1人ひとりの良心に頼る他はないのだと思う。
私たちは、今日においても魂という言葉を使う。輪廻転生から離れて、この言葉を使っている。その意味は、強い意志や、これだけは絶対に譲れないという個々人の価値観の中核を差しているのだと思う。そのような意味で、魂こそ主体の核心なのだ。
ところで、本稿のタイトル「魂の証明」について、付言しておこう。本稿は、ソクラテスの死と三島の死を中心に取り上げてきた。2人の死には、共通点がある。それは、お金よりも大切なものがある、もっと言えば人間には命よりも大切なものがある、そのことを自らの死をもって証明して見せたということだと思う。だから2人の死について、今も生きる私たちには、語り継いでいく責任があると思ったのだ。
では皆様、どうか良い年をお迎えください。