<知性について>
調べてみると人間の知性の起源は、相当古い。古代ギリシャにおいてピタゴラスらが天文学や数学を研究するはるか以前に、エジプトやメソポタミアの文明が、それらに着手していたのだ。今から5千年前のことである。例えば、エジプトのピラミッドを見れば、それは一目瞭然だろう。ピラミッドの建設には、数学が必要だった。つまり、人間はもう5千年もの間、数学に取り組んできたことになる。私のような門外漢からすれば、そろそろ数学という学問は完成の域に達したのではないかと思う訳だが、未だに解けない問題があるらしい。
知性は商品を生み、商品は経済を拡大させてきた。拡大した経済とは、すなわちグローバリズムのことである。しかし、それとて臨界点に達し、今は反グローバリズムの時代となった。年明け早々に、米国がベネズエラに侵攻し、大統領を拉致したが、このようなニュースに接するにつけ、私は、知性によって文明が救済されることはないと思うのである。米国は、昔の帝国主義へと退行している。
知性は格差生み、格差は権力の源泉となる。お金が欲しければ、大なり小なり権力に屈することになろう。一流大学に入り、一流企業に就職するか、若しくは高級官僚を目指す。上役のご機嫌を伺い、おべっかを使う。それが出世の秘訣なのだから、仕方がない。なんとつまらない世界だろう! 近年、AIが文明の救世主になり得るというような幻想を語る人が少なくないが、私は、そうは思わない。
ちなみに、現在、世界を牛耳っている権力は何かというと、私は、ユダヤマネーと米軍だと思う。
ところで、ソクラテスは数学について、どのように考えていたのか。この点、クセノフォンという人が書いた「ソクラテスの思い出」という本があって、そこに興味深い記述があった。
- しかし、難解な図形を扱うところまで幾何学を学ぶことに、彼は賛成しなかった。なぜなら、彼が言うには、それが何の役に立つのかがわからないからである。(中略)このような勉強は人生をまるごと費やすほどの時間を要し、ほかの多くの有益な学びを妨げてしまうと彼は言っていた。-
ソクラテスは天文学についても、同様の意見を述べている。私は、ソクラテスの意見に賛成である。
<文化について>
文化の1つの側面は、ローカリズムにある。同じ方言を話し、同じ物を食べ、似たような服を着る。そこに共感が生まれ、人々は漠然とした共同体を感得する。そして、その共同体への帰属意識をベースとして、自己を確立する。文化とは、形のない人間に様式を提案するものだ。それは私たちの日常生活を支え、そこに美をもたらす。文化がなければ、私たちは日々の食事にすら困ってしまう。野菜を食べる。魚を食べる。それらの食材は、ローカルなものである。そして、調理法にも地方に固有のこだわりがあって、それこそが文化なのだと思う。つまり、文化とは、グローバリズムに対抗するものなのだ。近年、多文化共生ということが言われるが、そんなものが成立するはずはない。文化とは排他性を基盤として成立する。
プラトンが述べたエロスの道(美の梯子)という話は、文化の本質を言い当てているように思う。エロスから出発して、美に至る。これは文化共同体における1つの理想型を示している。
1つの文化を成立させるためには、どれ程の時間が必要だろう。科学的にそれを証明することはできないが、100年では足りないのではないか。最低、300年と考えてはどうだろう。それだけの時間がなければ、文化は確立しない。つまり、人間にとってそれだけ貴重な歴史的遺産が、文化なのである。但し、それを失うのは一瞬である。武士道には千年の歴史があるが、それは廃刀令によって消滅させられた。
人間にとってそれだけ貴重なものなのだから、文化を守れと主張したのが、三島由紀夫である。そして、三島は文化を博物館の陳列棚に展示するのではなく、文化そのものを生きるべきだと主張したに違いない。彼の主張は、一貫している。今の私には、三島の言葉が腹に落ちる。
しかし、文化が万能だと言う訳ではない。同じ方言を話す、同じ物を食べる、それだけに止まらないのが文化の本質だ。もう1つ、同じ神を信じる、ということがある。未だに日本各地には、神社や寺があり、そこには古くから伝わる神話があり、毎年、伝統的な祭りが繰り返されている。同じ神を信じるという条件があるから、そこに同調圧力が不可避的に発生する。文化が強い影響力を持っている田舎では、人と人との距離が近く、都会人には鬱陶しいと言われるが、その原因は同調圧力にあり、同じ神を信じるべきだという暗黙の掟が人心を縛っている。
私は三島の文学的な才能には、敬服している。しかし、彼の文化至上主義とでも呼ぶべき思想に、もろ手を挙げて賛成という訳ではない。私は無神論者であり、全ての宗教に反対する立場である。
<主体について>
広辞苑によれば主体とは、「認識し、行為し、評価する我をさす」とある。つまり、主体とは「私」のことである。そこに最初に着目したのは、多分、ソクラテスだろう。本稿の表題にした「魂への配慮」とは、ソクラテスのこの思想を端的に表す言葉として、一般に用いられる表現である。
但し、この「魂への配慮」というシンプルな言葉の意味は、なかなかにして深い。まず魂だが、これは心の中にある。私の中に心があって、心の中に魂がある。これに配慮しろというのだが、配慮するのが誰かと言うと、それも私なのである。つまり、「魂への配慮」とは、配慮する側の私と、配慮される側の私の2人の存在を前提としている訳だ。この2人の私をどう理解するか。そこで私は考えた訳だが、これを私の中の意識と無意識という風に考えてみてはどうか、と思ったのである。何らかの学説がある訳ではなく、これは私のオリジナルの発想である。配慮する側の私を意識とし、配慮される側の魂を無意識であると考えると、問題が解ける。
心の中の大半は、無意識によって構成されているが、これをコントロールすることは極めて困難なのである。この無意識に何等かの問題が生じると、その問題は精神疾患として現われる。そこで、何とかこの無意識に生じた問題を解消しようとして、フロイトやユングの精神分析や分析心理学が誕生したのである。夢分析、連想法、箱庭療法などがそれである。
無意識が被った傷は、社会的な現象として表出する場合もある。例えば、敵国の兵士を惨殺しまくった米兵が、帰国後にPTSDに襲われる。酷い場合は、自殺にまで追い込まれるらしい。
文学の世界で言えば、ドストエフスキーに「罪と罰」という作品がある。これは主人公のラスコーリニコフが、高利貸しの老婆を殺害する所から始まる。高利貸しなどという反社会的な仕事をしている老婆なのだから、殺したって構わないと主人公の意識は判断した訳だ。しかし、そこから無意識の反乱がラスコーリニコフの内部で生ずる。この小説はラスコーリニコフが反省する場面で終わる。正に罪を犯した者が、自ら罰を受ける訳だ。ドストエフスキーは、ロシア正教を信仰していたらしく、その点、私には不満があるが、小説の主な構成は、上記の通りである。
このように、一見、単純に思える「私」という人間には、意識と無意識という2つの要素があって、私たちが配慮すべきはこの無意識の方なのだ。
紀元前に生きたソクラテスが、どこまで認識していたのか分からないが、「魂への配慮」という言葉からすると、人間の内面における複雑さを知っていたとしか思えない。
「魂への配慮」とは、言ってみれば自分で自分を評価するということだ。ところが現代社会においては、学校へ行けばテストがあって、会社に入れば上司の査定がある。全て外部による、他者による評価なのだ。だから、現代人は自己評価、自らの意識によって、自らの魂(無意識)に配慮するという習慣を失っているに違いない。
私たち全員が、1つずつの魂を持っている。そして、魂の中には権力や同調圧力に屈しない正義が宿っているに違いない。だから、私たちは魂に配慮し、また、魂をより良く、より強くするよう、日々、努めるべきなのだ。そうすることが、すなわち私たちが成長するということである。1人ひとりがより良い人間になれば、社会だって良くなるに違いない。
これが私の考える「魂への配慮」という言葉の意味である。このことこそが、個人にとっても、また人間集団にとっても、最も大切なことだと思う。どうやら、私の思想は完成の域に近づいたようである。(ソクラテスは「不知の自覚」を持てと主張したので、ソクラテス主義者となった私も、「分かった」と言う訳にはいかない。)
本稿を締め括るに当たって、ソクラテスの言葉を引用したい。「ソクラテスの思い出」から。これ、人生の奥義なり。
- 私が思うに、できるかぎりすぐれた人間になることに誰よりも気を配る者が最良の人生を送り、前よりもすぐれた人間になっているということを誰よりも強く感じる者がもっとも快い人生を送るからだ。-