文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

この世への未練

 

このブログでは、昨年の暮れに掛けて「魂の証明」というタイトルでシリーズ原稿を掲載した。書き進めながらも漠然とした課題を抱えていたのだが、ある日、突然ひらめいたのである。そして私は、12月29日に「あとがき」を書いた。その時私は、私の思想が一応の完成を見たように感じたのである。生意気なことを言うようで恐縮だが、私がこのブログを始めてから、今年の7月で10年になる。石の上にも3年という言葉があるが、その3倍以上の年月を費やしているという事情に鑑み、ご容赦いただきたい。

 

本稿では、その後の心境の変化について、書いてみたい。例えば、ストレスが激減したということがある。まずは、次の文章をお読みください。

 

- ある者は飽くことなき貪欲にとりつかれ、ある者は無益な仕事に懸命に汗を流す。ある者は酒びたりとなり、ある者は怠惰にふける。ある者は政治への野心を抱くが、他人の意見にふりまわされ続けて、疲れ果てる。ある者は、商売でもうけたい一心で、あらゆる土地とあらゆる海を、大もうけの夢を見ながら渡り歩く。ある者たちは戦(いくさ)をしたくてうずうずしている。そして、四六時中、他人を危ない目にあわせようと画策したり、自分が危ない目にあうのではないかと心配したりしている。また、感謝もされないのに偉い人たちにおもねり、自分からすすんで奴隷のように奉仕して、身をすり減らす者たちもいる。-

 

現代の日本人に対する風刺として、大変的確だと思う訳だが、この文章を書いた人は古代ローマの哲学者、セネカである。

 

(出典:人生の短さについて/セネカ/中澤務 訳/光文社古典新訳文庫

 

2300年も前の古代ローマ人と、21世紀の日本人との間に、大差はないのである。と言うことは、これはもう人類には越えられない課題だと言える。人間は、本質的に愚かなのである。従って、人間が愚かだといくら主張しても、それは意味のないことではないか。

 

私は2019年からある政党を支持してきたが、それも止めることにした。

 

次に、私は自らの思想を築くために、時には読みたくない本、難解過ぎてよく分からない本も、無理をして読んできたのである。しかし、最早、その必要もなくなった。これからは、読みたい本だけを読むことにした。

 

肉体の衰えもあって、いつの間にか、物欲と無縁になっている自分がいる。最早私は、ギブソンのギターも、ピナレロの自転車も、BMWのスポーツカーも、欲しいとは思わない。

 

最早、私には、この世に対する未練というものがない。こんなことを言うと「頑張って生きなさい」という声が聞こえてきそうだが、では、この世に対する未練を持ったまま死ぬのと、未練を残さずに死ぬのと、どちらがいいと思うのか。私は、そう反論したいのである。私のような老人になると、死とは、相対的に近いものとなる。いつ死ぬか、分からない。いつ癌の告知を受けたとしても、不思議はない。そうなってから慌てることこそ、愚かだと思う。私は、もう準備が整ったのである。それは死にたいと思うのとは違う。私は、私の主人として、これからも思索を続けながら、日々の暮らしを楽しみたいと思っている。

 

どういう訳か、私は考えることが好きな人間に生まれた。いつか、気のすむまで考えたいと思ってきた。そして、その望みは叶えられたと言える。私は、既に気のすむまで、考えたのだ。