文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

人格の分裂と統合(その1) はじめに

 

ネットなどでニュースを見るにつけ、暗い気分になる。戦争とジェノサイドに関わるものばかりで、ロクなニュースがない。どうすればいいのだろうと、今月70才になる私でも、そんな青臭いことを考える。思うにどんなに立派な制度や組織、ルールを作っても、最早、意味がないのではないか。米国やイスラエルにも、立派な法律があるだろう。そして、世界には国連という組織もあるし、国連憲章というルールだってある。しかし、それらを遵守しようという気概のある人物がリーダーにならなければ、意味をなさない。トランプやネタニヤフがもっと優れた人格を持っていれば、現在のイラン戦争は起きていないし、何千人もの人々の命が救われたのではないか。

 

平和ということを考えると、私は、宗教に希望を見出すことができない。かつて宗教戦争があったし、現代に眼を転じてみても米国にはトランプを支えるキリスト教福音派があり、イスラエルはユダヤ教で、イランはイスラム教シーア派である。イラン戦争は、現代の宗教戦争なのではないか。

 

人類は、戦争を止めることができないのか? これは普遍的な問いだが現代の思想は、やや悲観的に過ぎるような気がする。この問いは、人間は自由なのか、という問いとも重なる。仮に人間が自由であれば、その意志で、戦争を止めることができるという結論になる。反対に、人間には自由が許されていないということであれば、戦争を止めることはできない、という結論になる。

 

古代ギリシャの哲人たちは、ロゴスということを積極的に考えた。ロゴスという言葉には様々な意味があるが、理性、言語、真理の3つが主たるものだろう。人間であれば誰しも食欲があるし、お酒だって飲みたい。性欲もあれば、お金は欲しいし、名誉も欲しい。これは古代ギリシャ人も同じだった。しかし、心の中で渦巻くそれらの本能や欲望の上にロゴスというものを措定し、そのロゴスに従って、自己を統治する。そうすることによって、人間は自由を獲得できるはずだ。最初にこのように考えたのが、ソクラテスであろう。ソクラテスの思想は、プラトンを経て、ストア派へと引き継がれる。ストア派は古代ギリシャの崩壊後も生き残り、古代ローマへと継承される。やがて、キリスト教の嵐が西洋に吹き荒れ、哲学は低迷期を迎える。

 

キリスト教の厳格な戒律に疲弊した人々は、人間復興を訴える。14世紀のイタリアに端を欲したこの動向が、ルネッサンスである。そして、ルネッサンスと共に古代ギリシャの神話や芸術が脚光を浴び、それは哲学に対する関心を呼び起こしたのである。

 

ロゴスという言葉は、理性という言葉に置き換えられはしたものの、その思想は例えばカント(1724-1804)の純粋理性批判などにおいて、継承された。一般に、欧州における近代哲学が理性中心主義と呼ばれるのは、これが理由である。

 

人間には理性というものがあって、すなわち人間は自由なのだという思想は、カント以降もヘーゲル、マルクス、サルトルへと批判的に継承されていく。しかし、このような思想に対するアンチテーゼが次々に登場する。まずは、精神分析のフロイト。人間を支配しているのは、理性ではなく無意識なのだ、と彼は主張した。次に、構造人類学のレヴィ=ストロース。彼は、人間は構造の中で生きているのであり、構造の外に出ることはできないと考えた。この思想は、構造主義と呼ばれた。そして、ミシェル・フーコーが登場し、「言葉と物」の中で、人間はエピステーメー(知の枠組み)の中で生きており、そこから脱却することはできない、と主張した。これらの思想は決定論と呼んでいいだろう。つまり、予め決定されているので、「なるようにしかならないさ」という態度なのである。この時点で、あたかも哲学は終わったというような雰囲気に包まれたのだと思う。「ふん、哲学なんて終わったのさ」と斜に構えて、ブランデーグラスでも傾けていれば、女性にモテたのではないか、と私などはやっかみ半分に思うのである。

 

但し、私の読みとしては、フーコーはその場に留まらなかったのだ。人間には、本当にロゴスというものはないのか、人間は自由になれないのか、と問い続けたに違いない。フーコーの思想家としての本領は、むしろここから発揮されたのである。そしてフーコーはキリスト教が登場する前の古代ギリシャにまで遡って、その遺作「性の歴史」を執筆したのである。もう一度、主体性やロゴスの関係を掘り起こそうという試みである。

 

雑駁ではあるが、以上が私の歴史観である。つまり私は、平和主義者で、反宗教で、反決定論者である。そこで、人間がロゴスを獲得するためにはどうすれば良いのかと考える訳だが、そのヒントは成長にある。成長しない人間は、ロゴスに出会うことなく、一生を終える。では、何を成長させるのかという問題があるが、あまり心理学的な言い方はしたくないので、本稿において、私はそれを人格と呼ぶことにする。

 

人格を成長させるということは、より良い人生を送るということでもある。そして私は、そこには1つの原理のようなものが存在するのではないかという仮説を持っていて、そのことを証明しようというのが、本稿の趣旨である。

 

お付き合いいただければ、幸いです。