文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

人格の分裂と統合(その12) 本稿の整理

 

本稿(人格の分裂と統合)の本旨は、人生の道程について考えることにある。しかし、振り返るとはなはだ分かり難い進捗を遂げているので、少し整理をしようと思う。

 

〇 川端康成の「古都」について

前回の原稿で、何故、私が川端の「古都」を取り上げたのかと言うと、2つの理由があった。1つ目は、ユングの元型論と「古都」という作品の間に極めて親和的な関係を見出したからである。元型とは、このような形で物語の中で生きている、ということをご理解いただきたかった。もう1つの理由は、死の、若しくは死後の世界のイメージをつかむということである。

ユングや河合隼雄は、死に関するイメージを持っておいた方が良い、と述べている。確かにそうかも知れない。従来私は、無に帰すると、ただそう思ってきた訳だが、どうも無とは何か、イメージするのが困難なのである。死後のイメージについては、宗教以前の大昔から、輪廻転生という仮説を人類は保持してきた。しかし、私はこの仮説を信じることができないし、また、信じたいとも思わない。地獄に落ちるのは嫌だが、天国とか極楽のような場所に行きたいとも思わない。そんな所へ行ったら、暇でしょうがないだろう。また、振り返るに私の人生は苦難の連続だった訳で、そんなものをもう二度と繰り返したくはないのだ。そこで、この問題に関する過去の人々の考え方を探った。ソクラテス、プラトン、セネカ、三島由紀夫などが、それぞれの説を述べている。しかし、どれも私にはしっくり来ない。例えば、こんな考え方がある。あなたが生きている間、あなたは死んでいない。あなたが死んだら、あなたは生きていない。従って、あなたは死を恐れる必要がない。このような理屈っぽい主張にも、納得しかねる。私のイメージとしては「コロノスのオイディプス」が近いように感じたが、やはり死んで精霊になるという説明には、違和感がある。そこで辿り着いたのが、「古都」のラストシーンだった。粉雪の舞う早朝の京都の街を、苗子が小走りに去って行く。私は、ああ、人間というのはそんな風にして死んでいくのだろう、と感じた。そして、苗子の後ろ姿には川端が、そして私自身の後ろ姿が重なって見えた。その感触は、「懐かしい場所への帰還」と呼ぶのが相応しい。帰って行くその場所とは、故郷よりも、他のどんな場所よりも、もっと懐かしい場所だ。そこはもしかすると、集合的無意識が豊かに息づく場所なのかも知れない。

 

本稿における人生の道程とは、次のものを想定してきた。そして、「古都」において、ステップ5に関する決着を見たのである。通常の原稿であれば、ステップの1から始めるのだろうが、私は、最初にステップ5について、結論を得たことになる。それが本稿について混乱をもたらしている原因の1つである。

 

ステップ1: 人格の拡張

ステップ2: 人格の分裂

ステップ3: 人格の統合

ステップ4: 主体の発見

ステップ5: 永遠への回帰・・・懐かしい場所への帰還

 

〇 ユングの思想について

ユングが生きた時代は、科学万能主義が隆盛を極めていた。そこでユングも自分の主張は科学であると言い張り、そのため批判を集めたのである。確かにユングの説は、心理学上の科学的なものが中心をなしているが、晩年のシンクロニシティについては、必ずしもそうとは言えない。科学と言うよりは、スピリチュアルとかトランスパーソナルと呼ばれる分野に近い。そこで、ユングをどう評価すべきか、という課題が浮上する。

本稿においてもそこでブレが生じた訳だ。私は、ユングのタイプ論、元型論(集合的無意識論)、及び個性化についての考え方を支持することとし、シンクロニシティについては留保することにしたい。心理学者でも心理療法士でもない私としては、ユングの説を科学としてではなく、思想として受け入れたいと思う。

ちなみに、私は「元型論」(文献4)を20年程前に読んでいたが、その時はほとんど理解できなかった。ところが今回読み直してみると、心に沁みてきたのである。また、この本の中で、ユングは楽観主義者のヘーゲルを次のように批判している。

 

- ヘーゲルのばあいには哲学的な悟性が精神そのものと同一視され、肥大化され、実際には一つにされている。これによって客体を封じこめることが外見上は可能となり、それは彼の国家哲学においてみごとに開花した。(中略)ヘーゲル哲学のような哲学は、心的背景が自らを現わしたものであり、哲学的には思い上がりである。(文献4)-

 

言い回しは少し難しいが、要はヘーゲルの理性中心主義、楽観主義を批判している訳だ。なお、ユングは弁証法について、現実においてそのようなこと(アウフヘーベン)は起こらないが、無意識の世界では起こり得ると述べていたように記憶している。

 

〇 人格の拡張(ステップ1)について

幼児期から青年期に掛けて、どのようにして人格は拡張、発達するのか? この問題は、難しい。生得的な要因と環境からの影響とが、その人の人格形成に影響を与えるだろう。しかし、その生得的な要因、生まれながらに持っている要因は何かと言うと、私には分からない。環境要因としては、自然環境、家族構成、教育環境、元型的なイメージ(童話や絵本など)との接触などが考えられよう。ユングとの関係で言えば、元型的なイメージとの接触が、重要である。そもそも人間の心的エネルギーは、意識の中にある訳ではない。それは無意識の、特に集合的無意識の中に貯蔵されているのであり、元型的なイメージに触れることによって、その人の心的エネルギーが生まれ、補填される。だから、童話や絵本、もう少し大人になれば芸術が、大切なのだ。

この問題、もしかすると発達心理学なるものが、詳細な研究をしているのかも知れないが、それは本稿の範囲を超える。

 

〇 人格の分裂(ステップ2)

そもそも未開人の心の中には無意識が充満していて、意識は弱い。例えば、ネットもテレビも新聞もない。信号や横断歩道もない。それどころか、カレンダーがなく、時計もない。それが未開人の世界であり、そういう世界に住んでいれば、意識を強化する必要はない。私たちだって、そんな世界に住んでいれば、意識は弱体化され、無意識が強固なものとなるだろう。しかし、文明化の進展と共に、人間は意識を強化する必要に迫られたのだ。うっかり赤信号を渡ったりすれば、クルマに轢かれてしまう。毎日、株価は変動するし、津波情報にも注意を払わなければならない。そこで、意識の強化が進んだ現代人の心の中には、意識と無意識の対立が生まれる。これが現代病の根本原因だと思う。

その他にも、現代人の心が分裂を起こす原因は、無数にある。戦争や暴力など、心理的外傷がコンプレックスを生む。事故や病気を原因とする、親しい人の死。人種、学歴、性差に基づく差別。競争原理に基づく勝者と敗者の分断。これらに加え、ユングは中年の危機、ということも言っている。順風満帆に見える人生を過ごして来た学歴エリートは、社会に適合するために強固な仮面(ペルソナ)を被っている。ところが、何かのはずみで、本当の自分とは何だろうと疑問を持つ。そこで心理的な分裂が起こる。これが中年の危機である。

このように数え挙げればきりがない理由によって、現代人の心は分裂し、危機を迎える。但し、このような分裂にデメリットしかないかと言えば、そうではない。分裂が起こるからこそ、その後の統合が成り立つのである。分裂が激しい程、その後の心理的な統合プロセスがダイナミズムを持つ。

 

では、追記してみよう。

 

ステップ1: 人格の拡張・・・心的エネルギー

ステップ2: 人格の分裂・・・意識対無意識

ステップ3: 人格の統合

ステップ4: 主体の発見

ステップ5: 永遠への回帰・・懐かしい場所への帰還

 

あとはステップ3と4を埋めれば、本稿は完成することになる。

 

(参考文献)

文献1: ユング心理学入門/河合隼雄/培風館/1967

文献2: 生と死の接点/河合隼雄/岩波書店/1989

文献3: 分析心理学/ユング/みすず書房/1976

文献4: 元型論/ユング/林 道義 訳/紀伊国屋書店/1999

文献5: ソクラテスの弁明/プラトン/納富信留 訳/光文社古典新訳文庫/2012

文献6: ユングの心理学/秋山さと子/講談社現代新書/1982