「汝自身を知れ」という言葉がある。誰の言葉かと言うと、それは古代ギリシャに七賢人と呼ばれる人々がいて、その中のギロン、若しくはタレスが言ったのだとされている。七賢人の言葉は、デルポイにあったアポロン神殿のどこかに刻まれ、ソクラテスにも影響を与えた。その意味は「分をわきまえろ」ということらしい。なんだ、そんなことかとがっかりする訳だが、これは当時の世界認識を踏まえると、分かり易い。古代ギリシャにおいては、世界を縦に分割し、上から神、人間、4つ足動物に区分していた。
神 - 人間 - 4つ足動物
人間の体は良くできており、それは誰かが意図を持って作ったに違いない、と考えられていた。例えばソクラテスは、人間の眉毛に意義を見出した。額に汗をかくと、やがてそれが流れて眼に入る。それを防止するために眉毛がある。なんと素晴らしいことか、と思った訳だ。こうして彼らは、神という概念を支持していたのである。また、人間は言葉を話すが、4つ足動物は話せない。従って、人間は動物よりも上位に位置付けられた。このような前提で考えると、「汝自身を知れ」という言葉の意味が分かってくる。1つには、所詮人間なのだから、神の領域に属することは分からない、ということ。つまり、分をわきまえろということである。「ソクラテスの弁明」の中にも「人間なみの知恵」という表現が出て来るが、このような意味だと思う。また、人間は4つ足動物とは違うのだから、人間としての誇りを持て、という意味にも解釈できる。この点は、父親を殺し、母親と姦淫してしまったオイディプスの絶望を裏付ける。4つ足動物であれば、母親と姦淫することもあるが、通常、人間はそんなことをしない。しかしオイディプスは4つ足動物なみの行動を取ってしまったので、絶望したのである。
神と人間。この文脈で考えると、ソクラテスの思想も整理できる。人間は死ぬとどうなるのか? それは神の領域に属することなので、人間には知ることができない。知らないのに知った振りをするのはおかしい。これが無知の知である。知りもしない死後の世界について、恐れるのはおかしい。だから、死を恐れない。そして、ソクラテスはその思想の通り、安らかに死んでみせたのである。
さて、「汝自身を知れ」という一見謎めいた問いがあって、これはその後の主体論につながった。言い換えれば、私とは誰なのか、私とは何か、という問いである。この問いについては、その後、多くの哲学者や文学者が考え続けてきた訳だが、一応、そこに1つの回答を提示して見せたのが、ユングだと思う。私は、意識と無意識によって構成されており、無意識は個人的無意識と集合的無意識に分かれる。そして、集合的無意識は元型によって組成されている。これがユングの出した答えである。
更にユングは、人間心理が抱える様々な対立関係を解消し、人格を円熟させるべきだと主張した。これが「個性化」というユングの思想である。人間心理は元来、思考と感情、感覚と直観、男性性と女性性などの対立を孕んでいる。それらの対立関係がある場合、ユングはその境界線上に立て、と述べた。それは、対立している双方の立場を理解せよ、という意味だと思う。双方を認識することによって、対立関係が解消される。思考と感情の双方を認識するとどうなるか。端的に言って、怒りを鎮めることができる。男性性と女性性についてはどうだろう。それ超越すると、両性具有的なイメージが現出する。優れた芸術家が、両性具有的な資質を持っている場合は、少なくない。
ユングは、個性化のプロセスは死ぬまで続くと考えていた。しかし私は、更にその先があると思う。例えば、自ら両目を潰し、娘に手を引かれ、物乞いをしながら各地を転々としたオイディプスの心境が、そのイメージに合致する。最早、人格すらも介入する余地のない、ということは個性化というプロセスを超えた境地が、そこにある。そのような境地の中でオイディプスは、自分のおぞましい行為について、それを知らずに行なったのだから自分に罪はない、と考えるようになる。この時、オイディプスは最終的に、自分という人間を認識したのである。それは人生の総体を肯定することで、他人の意見が入り込む余地はない。絶対的な自己評価なのである。
さて、私たちは日本語を話しているが、この言語は日々、変わりつつある。しかしその起源まで辿って行くと、気の遠くなるような長い歴史のあることに気づく。それは縄文時代にまで遡るに違いない。
ソクラテスは眉毛の機能に感動したらしいが、私は、手の機能に感動を覚える。ギターを弾いたり、キーボードを打ったり、グラスを握ったりと、様々な仕事を驚異的なスピードでこなす。この手の機能がどうして出来上がったかと言えば、それは何十万年、若しくはそれ以上の時間の中で、身体が進化を遂げてきたからである。ホモサピエンスの歴史が20~30万年だとしても、我々の遺伝子はもっと長い歴史を持っている。人類が火を使用するようになったのは、150万年も昔のことだと言われている。長い時間の蓄積の上に、私たちは一瞬とも言える人生を生きている。
現在の私の心の中には、3人の元型が息づいている。それは、聖なるアニマ、老賢者、そしてトリックスターである。これらの元型は、人類が心を持ち始めた時から、無意識の中で徐々に形作られた、普遍的なイメージである。
このように考えると、私という卑小な存在の中に、ミクロコスモス(小宇宙)の広がりを感じる。言い換えると、集合的無意識という暗くて巨大な海があり、そこから一瞬だけ飛び跳ねた雫が私という存在であり、すぐに私は元の海に飲み込まれるように帰っていくのだ。
私を知るということの、ある側面は、このミクロコスモスを知るということで、それは人間が到達すべき最終的な境地なのだ。この境地に至るということは、心的エネルギーを使い果たし、静謐な死を迎える全ての準備が整った状態、とも言える。
ステップ1: 人格の拡張・・・心的エネルギー
ステップ2: 人格の分裂・・・意識 対 無意識
ステップ3: 人格の統合・・・円熟の過程
ステップ4: 自己の発見・・・ミクロコスモス
ステップ5: 永遠への回帰・・懐かしい場所への帰還