本稿は、言ってみれば私にとって「心の終活」のようなものになった。途中、意図が変化した部分があって、その点は、申し訳なかったと思っている。今後は、書きながら考えるのではなく、考えたことを書くように心がけたい、と反省している。
思えば、近年、私の心理にも変化があって、そのことが本稿の執筆動機となったように思う。前にも述べたが、私は現役時代、29年もの長きに渡って法務という職種についていた。言わば、ロゴスの世界に生きていた訳だ。これはなかなかにして、生きづらい経験でもあった。私は、何事も論理で解明できると信じてきた。しかし、10年程前に引退して、心のタガが外れたのである。それは樽がタガによって形作られていて、それがはずれるとバラバラになるのと良く似ている。
5年程前、私は伊豆半島の某所に古いワンルームを所有しており、その近辺に野良猫のたまり場があった。私はある時、一匹の野良猫の背を撫でてみた。掌は猫の毛に触れる訳だが、その下に骨格の感触があった。私の心は妙に動かされ、その猫を「花ちゃん」と名付け、餌をやるようになった。現役時代の私には、思いもつかない行動だった。今から思うと、これが私とエロスの出会いだったように思う。
さて、本稿を振り返りつつ、川端康成、ユング、ソポクレスについて触れたい。
川端康成については、かつてこのブログに「背徳の美学」というシリーズ原稿を掲載したことがある。簡単に言うと、三島由紀夫がロゴスの作家だとすれば、川端はエロスの作家だと言えよう。川端作品を読み進める中で、私は、若い頃には感じなかった、奇妙な共感を覚え始めた。その代表例が、「古都」である。この作品に描かれる人物に対し、私は、異常かと思われる程の思い入れを感じた。多分、川端の中に「聖なるアニマ」という元型が住んでいて、私もそれと同じようなものを無意識の中に抱えているのではないか。従って、私は一般的な文芸評論として、川端作品を語るべきではないかも知れない。ただ個人的に、私は「古都」を最大限に賛美したいのである。私をここまで揺り動かした小説は、他にない。
次にユングだが、人間の無意識や芸術について、これほど明確に説明し得る論理を私は、他に知らない。当分、ユングを超える理論は出てこないと思う。と言うのも、近年の心理療法の方法が、ユングらの行っていたカウンセリングから、脳科学に基づく投薬へと移行しているからだ。そう言えば、うつ病は投薬で治るという話を何年か前に聞いたことがある。それはそれで結構なことだと思うが、そのような対症療法で、人間の不条理が解明できるのかと言えば、私は懐疑的にならざるを得ない。
最後に、ソポクレスについて。ソポクレス(前496-前406)は本稿において取り上げたギリシャ神話「オイディプス王」の作者である。この作品には続編とも言うべき「コロノスのオイディプス」と「アンティゴネ」というのがあって、私は両作をちくま文庫の「ギリシャ悲劇II」で読み、酷く打ちのめされた。なんという結末! 特に「アンティゴネ」の方は、人間のロゴスとエロスの相克を描くもので、人間の思いあがった知性(ロゴス)を批判している。これはポストモダンに通底するのであって、人間には2500年たっても解決できない課題、病理のあることを思い知らされた。
人間世界における最大の対立は、ロゴスとエロスにあるのではないか。これは男性的なものと女性的なもの、意識と無意識と言い換えることもできる。ユングのタイプ論に照らして言えば、思考と感情ということになろう。そして、ソポクレスやポストモダンの思想家たちは、ロゴスの暴走を戒めてきたに違いない。またユングは、ロゴスとエロスの統合こそが、個性化のプロセス、すなわち人格変容の要諦だと主張したのである。
人格の分裂と統合 おわり