文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 215 第10章: 文化総論(その1)

 

1.経済の起源

 

本稿の第6章で“物質系”について述べましたが、その中の“機能”という項目が、やがて経済を生む。そして、“呪術”という項目が、科学につながっていく。そういう関係にあるのだろうと思うのです。項目を並べてみましょう。

 

物質系
1. 機能・・・経済
2. 呪術・・・科学
3. 空間表現
4. 象徴

 

人間は、古代から物に機能を付与してきました。例えば石器時代には、鋭利な断面を有している石を使って、又は石を割って鋭利な断面を作り出し、獲物の肉を切り分けていた。やがて、貝殻をアクセサリーとして身に付けたり、小石に穴を開け、ヒモを通してネックレスを作った。このように、物に機能を持たせたことから、その物が“価値”を持つようになる。

 

しかし、原始共産制の時代に、経済活動は生まれない。物は、集団の構成員によって、比較的平等に分配されていたからです。従って、原始共産制の時代においては、所有権という概念すら、存在しなかったはずです。

 

厳密にいつの時代から始まったと言うことはできませんが、狩猟採集を生業としていた時期のある時点で、“所有”という概念が生まれたのだろうと思います。獲物の肉であれば、これは平等に分配をしなければ、女子供が生きていけない。だから、分配された。他方、貝殻のアクセサリーであれば、製作者はそれを独占的に身に付けていたいと思ったに違いない。また、所有できると思えばこそ、それを作ろうという意欲も湧いてきたのだろうと思います。

 

物に機能が付与され、価値が生まれ、所有という概念が生まれ、そこで初めて経済活動が誕生する。そして、人間が最初に行った経済的な行為は、“贈与”だと思われます。これは原則として、相手方からの反対給付を期待せずに、価値のある物をプレゼントすることです。文化人類学の文献を見ますと、無文字社会において、いくつもの“贈与”に関する事例が観察されています。これらの中には、ささやかなプレゼントから、ちょっと想像を絶する程、大規模なものまであります。ささやかなプレゼントであれば、それは人間関係の円滑化を図るという目的が想定されますが、大規模なものとなると、その理由を推し量ることは困難です。富の平準化を目的として、暗黙裡にそういう風習が生まれた、ということもあるでしょう。例えば、何かのイベントにかこつけて、集落の全員に食料をふるまうという事例などが、これに当たります。また、部族間で贈与を行うという事例もありますが、これらの大規模な贈与は、自らの部族の経済的な優位性を誇示するために行っていたのではないでしょうか。俺たちは、こんなに富を持っている。だから、俺たちを攻撃しようなどと考えるな、ということです。

 

贈与の次に生まれたのが、“交換”ではないかと思います。典型的な例としては、海の幸と山の幸を交換する。この例のように、交換が成立するためには、食物の保存、定住、移動などの条件が必要です。よって“交換”は、農耕・牧畜の時代に生まれた経済行為だと思います。

 

やがて、人間は“貨幣”なるものを発明する。貨幣が生まれて、初めて“売買”という経済行為が成立する。

 

このように、物に機能を付与したところから始まって、贈与、交換、売買と経済活動が発展してきたのだと思うのです。

 

2.科学の起源

 

第6章で、呪術と漢方薬について述べました。要約しますと、未だクスリというものがなかった時代でも、人々は病気や怪我に苦しんでいた。何とか痛みを止めたいと願う。そこで、呪文を唱えたり、様々な植物に効能があると信じて、患部に当てたり、煎じて飲んだりしていた。これが呪術です。そして、そういう経験を長い間繰り返していると、偶然、痛みが治まったりする事例が出てくる。理由は分からないが、効果が認められる。そういう経験を体系化することによって、漢方薬が生まれたのではないか。すなわち、呪術がクスリの起源である、という話です。実際、かつてのイワム族など、病気は呪術で治すというのが常識だったようです。

 

上記の話に似ているのですが、もっと大規模な報告もあります。錬金術です。(参考文献/人格心理学/大山泰宏/放送大学教育振興会/2015)

 

錬金術というのは、ご存知の方も多いと思いますが、これは価値の低い金属を加工し、金を作り出すというものです。もちろん、そんなことはできません。できないのですが、これに真剣に取り組んだ人々が西洋にいた。多分、既存のキリスト教が示した世界観に対するアンチテーゼとして、このような思想が生まれたのではないでしょうか。そして、錬金術は黒魔術の一種として認識され、キリスト教徒から忌み嫌われ、西洋の歴史から葬り去られようとした。しかし、そこにスポットライトを当てようとする人物が現われる。なんと、それがユングだったんですね。錬金術は、決して金を生み出したりはしなかった。そのどうにもならない現実に直面し、錬金術師たちは自らのメンタリティの変革を実現したというのです。ユングは、その心理的な働きに注目し、この錬金術師たちのメンタリティが後世の自然科学を生んだと考えたようです。

 

メンタリティに関する話は別として、錬金術、すなわち呪術から科学へとつながる流れは、上に私が記した呪術から漢方薬が生まれたという話に通ずるのではないでしょうか。

 

上記の認識に基づき、私は、経済も科学も、文化が生み出した一つの類型であると考えるのです。

 

この章、続く

ピカソの壺

あまりの暑さに、私は、心身ともに干からびてしまいました。皆様はそのようなことがないよう、どうかお気を付けください。

 

さて、石ころの魅力に取りつかれてしまった私ではありますが、一体、どこへ行けば拾えるのか、皆目見当がつきません。工事の資材置き場などがあると、覗いてみるのですが、なかなか良さそうな石があったりする。しかし、勝手に持って行く訳にはいきません。どうやら、気に入る石に巡り会うためには、しばらく時間がかかりそうだ。さりげなく路傍に立っているお地蔵さんにも魅力を感じる。しかし、私にはそれを作るだけの能力がない。しかし、何か触れる魅力的な物体を身近に置いておきたい。

 

そこで、ふと思い出した物があったので、写真に撮ってみました。

 

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大層な価値のある物かと言えば、そうではありません。そう言ってしまうと、製作者に申し訳ありませんが、実は、2つとも鉄製のブックエンドなんです。そういう機能を持っているので、芸術作品と言うよりは、日用雑貨と呼んだ方が適当かも知れません。しかし、例えば片づけたテーブルの片隅に置いてみる。触ってみる。すると、ちょっといい感じがします。

 

これらは、箱根にある彫刻の森美術館のショップで購入したものです。もう、10年以上も前のことです。しかし、もうちょっといい物が欲しい。どうだろう、1万円も出せば買えるのではないか。いやいや、そんなケチなことは考えないで、3万円位は出してもいいのではないか。レプリカでいい。ただ、日用雑貨ではなく、芸術作品のレプリカが欲しい。そう思い始めると居ても立っても居られなくなり、8月6日に箱根まで出掛けて来たのです。

 

月曜だというのに、大変な人出でした。また、半数以上は外国の方々だったような気がします。チケット売り場で受け取ったガイドマップを片手に、まずは、ピカソ館を目指す。そこにはピカソの作成した多彩な作品群があり、改めてピカソの才能に敬服させられます。中には、狂気の感じられる作品もありました。しかし、私が一番魅力を感じたのは、陶器だったのです。肉厚で、色鮮やかな文様の描かれた、花瓶、皿、そして壺などがあった。そこには、物と人間の豊かな関係性が表現されている。物に関わろうとする人間の豊かな想像力が込められている。

 

そこで私はふと、ペルーの古代陶器を思い出したのでした。幼少期のゴーギャンが接していた、古代人が生み出した原始芸術の数々。そこに通ずる何かを、ピカソが製作した陶器の中に見いだしていたのです。そうだ、ゴーギャンピカソは繋がっている。二人とも、原始芸術に通底している。

 

それにしてもピカソのあの壺、一つ欲しいものだ、などと思いながらピカソ館を出ると近くにカフェがあって、そこの2階が「緑陰ギャラリー」と呼ばれる展示場になっている。モディリアニが作成した木彫りが目に止まる。あの画家のモディリアニだろうか、と思った訳ですが、その木に彫られた人の顔も縦に長いんです。やはり、あのモディリアニに違いない。更に進むと、今度は地面と水平に置かれた作品が目に飛び込んでくる。それは、シングルベッド程の大きさで、黒っぽい地面のような空間があって、その上に小さなオブジェが点々と置かれている。見た瞬間、私は「箱庭だ」と思ったのでした。あのユング派が箱庭療法に用いている箱庭ですね。それと同じ構造をこの作品は持っている、と思った訳です。手前にマッチ箱程の立方体があるのですが、見ると細かな階段がついているんです。その階段の小ささから、逆にそのシングルベッド程の空間が、とても広大であることに気付かされる。大分離れた所に老婆が一人椅子に座っている。ラバのような動物が一匹立っている。更に奥には、抽象的な形をした大きなオブジェがある。恐縮ながらこの作品の作者名は失念してしまいましたが、作品タイトルは「古代への夢」というものでした。作者の気持ちが、私には良く分かるような気がしました。

 

この年になって、やっと美術の本質の一端が見えてきた。そんな淡い満足感に浸りながら、汗だくの体に鞭打って、私は、最後の建物に到着したのでした。しかし、私にはまだ、重要なイベントが残っている。はやる気持ちを抑えながら、土産物売り場に近づく。遠目にも、幾体ものブロンズ像の並んでいることが分かる。良さそうなものがありそうだ。足早に近づき、その価格を確認する。えっ! カンマが打たれていないので、数字が見にくいのです。一、十、百、千・・・。108万円!(消費税込み) 絶句!

 

それは高さ40センチ位のものだったのですが、隣にもう少し小さいものもあった。それでも、価格は40万円程でした。

 

多分、こういうことなんだろうと思います。ブロンズというのは、必ずしもオリジナルが一体という訳ではない。同じ形のものを作者がいくつか作って、販売している。それらは全て本物で、多分、どこかにシリアルナンバーが打たれている。もちろん、芸術作品には著作権だとか、意匠権という権利があるので、勝手にレプリカを作る訳にはいかない。現実には贋作やレプリカも多々、流通しているに違いありませんが、それらは芸術家の権利を侵害している。もちろん、彫刻の森美術館のような一流の団体で、贋作などは扱わない。

 

当分、私はブックエンドで我慢するしかなさそうだ。そう思いながら、私はうなだれて帰路についたのでした。

古池や

暑中お見舞い申し上げます。

 

さて、今回は非公式原稿ということで、日常生活における所感を少々。

 

先日、バスに乗っていましたら、向かいの席に赤ん坊を抱っこした、若い母親が座っておられました。抱っこ紐というのでしょうか、母親と赤ん坊の体は、しっかりと結びつけられている。暑いのに、大変だなあなどと余計な心配をしておりましたところ、赤ん坊がグズり始めた。すると母親はすっくと立ち上がり、吊革につかまりながら、膝を曲げ伸ばしして、体を揺らし始めたんです。よく見る光景ですよね。すると、赤ん坊は機嫌を直したようでした。そこで私は、リズムの起源がここにあるのではないか、と気付いた。

 

母親と赤ん坊の体は、抱っこ紐で連結されている。従って、母親の体の動き、別の言い方をしますと、母親が刻むゆったりとしたリズムを赤ん坊は共有している訳です。同じリズムを共有することで、赤ん坊は母親の存在を強く感じ、安心して、機嫌を直した。

 

いにしえの時代から、人間はリズムを刻み続けてきた。その目的は、複数の人間が同じリズムを体感する、共有することによって、連帯感を育むことにあった。上に記した親子の行動が、その証左である。ひいては、これが音楽の起源であろう。

 

話は飛びますが、芭蕉の句について、考えてみました。

 

古池や 蛙飛び込む 水の音

 

この「古池」という一語によって、空間と過去の時間が表現されている。池というのは空間の説明ですが、それが古い、すなわち過去の時間の蓄積を持っていることをこの単語は指し示している訳です。例えば、池の水は、プランクトンが繁殖して、緑色に濁っているに違いない。台風などの影響で傾いた木が、水面に影を落としているかも知れない。そういうイメージが、沸いてくる。

 

続いて「蛙」が登場する。これは、正確には爬虫類なのかも知れませんが、このブログで繰り返し述べてきた「動く生き物」という意味では、動物の一種だということにしましょう。動物は、動くし、声をあげるので、兎に角、人間の注意を引き付けてきた。そして、この句にも「飛び込む」という動的なイメージを付与している。別の言い方をすれば、「蛙」はこの句において、情景を認識するための象徴的な記号としての役割を果たしている。

 

最後に「水の音」が現れる。ポチャンというその音は、一瞬にして現出し、消える。すなわち、「現在」を意味している。このように考えますと、わずか17文字のこの句には、池という空間、その空間が持っている過去の歴史、そしてポチャンという音が聞こえた「現在」という時間が表現されている。

 

素晴らしい句ですね。記号を通じて、時間と空間を認識しようとしている。

 

しかし、何かが足りない。この句には、人間が出て来ない。蛙が飛び込んだポチャンという音を聞いたのが人間だ、という意見があるかも知れません。しかし、音を聞いたというだけでは、その人間の体温が伝わって来ない。無の境地だ、という人もいるかも知れません。しかし人間というのは、常に何かを思い、その五感を通じて記号を認知し続ける動物です。無ということは、あり得ない。

 

西洋と東洋とで、歴史的な違いがある。一概に、どちらがいいとは言い切れませんが、西洋の歴史は、良くも悪くも振り子の振り幅が大きかったのではないか。一方では、中世の魔女狩りだとか、ナチズムのように残虐非道な歴史があり、他方、哲学や心理学などの内省的な文化を育んできた経緯もある。

 

いずれに致しましても、「人間とは何か」という根本的な問題について、論理的に考え続けてきたのは西洋だという気がします。

No. 215 第9章: 心的領域論(その8)

(第9章は、前回の原稿で終了する予定でしたが、書き漏らしている事項がありましたので、本稿を追加することに致しました。それにしても、暑いですね!)

 

7.好奇心の射程

 

5つの心的な領域があって、各領域の間には壁がある。その壁をダイナミックに越えてみせたゴーギャン。反面、ついに越えることのできなかったゴッホ。二人のこの違いは、どこから来たのでしょうか。生まれ持った素質の違いでしょうか。私はむしろ、二人の経験の差に理由があると思うのです。フランスに生まれたゴーギャンは、ペルーで幼年期を過ごす。そこで、古代の陶器や歴史に接した。その後もゴーギャンは、船乗りになり、世界各地を見て回った。他方、ゴッホは日本の浮世絵などに興味を持ったものの、生涯を通じて、ヨーロッパ圏の外に出た形跡が見当たらない。

 

一般に「広い視野を持て」ということが言われますが、この言葉には2つの解釈が成り立つと思うのです。人間は、時間と空間の中で生きている。従って、より長い時間と、より広大な空間を認識せよ、ということが考えられる。これが1番目の解釈です。そして、ゴーギャンの方がゴッホよりも広い視野を持っていたことが想定されます。

 

例えば、野球少年に「視野を広げろ」と言ったとしましょう。すると、彼はサッカーを始めるかも知れない。例えば、歌うことの好きな少女にも、同じことを言ってみる。すると彼女は、ダンスを始めるかも知れない。しかし、本質的にこれでは、彼らの視野が広がったことにはならないと思うのです。野球もサッカーも、競争系です。歌も踊りも身体系です。これらの領域の壁を乗り越えなければ、本当の意味で、視野を広げたことにはならない。領域の壁を乗り越えろ。これが2つ目の解釈です。

 

だから、若い人、すなわち人生の前半を過ごしている方々に対しては、好奇心を持て、そしてその時間と空間における射程距離を伸ばせ、領域の壁を乗り越えろ、と申し上げたい。

 

ところが、一生を通じて、好奇心の射程を伸ばし続けることは困難です。そもそも、グローバリズムやインターネットなどの開放系の世界というものは、認識することが困難で、いくらその世界に身を置いていたとしても、自らの環世界を構築することはできない。従って、人生の後半を生きておられる方々に対しては、閉鎖系の世界へ行き、そこで手応えのある環世界を構築されることをお勧めしたいと思うのです。タヒチやヒヴァ・オア島を目指したゴーギャンのように。

 

私の作成した「文化とメンタリティの関係図」に照らして言えば、ゴーギャンの人生は、左半分、すなわち身体系と競争系から始まり、右半分、すなわち想像系と物質系において完結したことになります。素晴らしい人生ではないでしょうか。身体的には、衰える。だから、いつまでも身体系の世界に身を置くことは困難だ。また、いつまでも競争系の世界にしがみついていると、周囲に迷惑がかかる。日馬富士暴行事件、日大アメフト部、そして今度はボクシング協会の問題が報道されています。全て序列社会、すなわち競争系の世界で問題が起こっている。権力を手にした者は、その引き際が大切だと思います。

 

ところで、この心的領域論をパースに説明したとしたら、彼はなんと言うでしょうか?

 

「君、全ては記号なんだよ。序列というのも記号だし、人が着飾るのも記号だ。想像すると言ったって、それは言葉という記号を使っているに過ぎない。君は象徴ということを言っているが、その象徴というのは、記号そのものじゃないか!」

 

多分、パースはそう言うでしょう。その通りだと思います。全ては、記号なんです。しかし、全ては記号であると言ってしまうと、何がなんだか分からないじゃありませんか。だから私は、各領域に名前を付けて、すなわち記号化して、認識しようとしているんです。パースには、そうお答えしたい。

 

最後に、ユングが元型と呼んだ古代人から現代人にまで伝わるイメージとは、「文化とメンタリティの関係図」のどこに該当するのか、という問題がある。悩ましいところではありますが、結論から言えば、元型は関係図には現れて来ない。すなわち、元型とは未だ心の様式を備えておらず、心以前の、混沌とした未分化なものだと思うのです。

 

この章、終り

No. 214 第9章: 心的領域論(その7)

ゴーギャンの描く南海の孤島に生きる人々には、不思議な魅力を感じます。そして、その理由が、分かったような気がするのです。鍵は、ユングにあった。心理学者のユングと画家のゴーギャン。この2人には、共通点がある。ちなみに、ゴーギャンユングよりも28才年上ということになります。従って、ゴーギャンユングの著作を読んだ可能性は、ありません。ユングゴーギャンの絵画を見た可能性は否定できませんが、この2人に現実的な接点はなかったものと思われます。

 

さて、ゴーギャンの作品から、2点ほどピックアップしてみました。

 

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まず、右側の絵から。これはゴーギャンが1892年に描いた「かぐわしき大地」という作品です。なんという力強い肉体でしょうか。彼女の太ももから、つま先に至る豊満さ、そして、揺るぎない自信に満ちた眼差し。圧倒的な存在感です。彼女は、このブログの言葉で言えば、“空っぽ症候群”になど、陥ってはいない。ましてや、“序列亡者”になどなっていない。つまり、彼女は現代病に侵されていない。そんなこととは無関係に、彼女はもっと普遍的な真実を見つめている。そこに魅力がある。彼女を“イブ”と呼んで、差支えないでしょう。イブはその2本の足で、しっかりと大地を踏みしめている。

 

ユングは、プエブロ・インディアンの持つ「気品」に感銘を受けた。それは、彼らが持つ宗教的な信念の強さに由来するものであった。ゴーギャンタヒチの女性に、同じような魅力を感じていたに違いない。ここに、1つ目の類似点がある。

 

ユングは、分裂病患者の見る夢と、世界各地の神話に現われるイメージとの間に、共通点を見い出した。そして、これらのイメージを“元型”と呼んだ。神話の時代、すなわち古代から現代まで、脈々と流れ続けて来た人類に共通するイメージがあると考えた。元型にはいくつかの種類があって、代表的なものは、老賢人、グレートマザー、トリックスターなどがある。

 

(注:Wikipediaは、トリックスターについて、次のように説明しています。「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。」)

 

さて、もう一度、ゴーギャンの「かぐわしき大地」をご覧いただきたいのです。ここに描かれているイブは、グレートマザーそのものではないでしょうか。

 

次に、写真の左側の絵について。これはゴーギャンが1902年に描いた「ヒヴァ・オア島の魔術師」という作品です。ゴーギャンが死ぬ前の年に描かれたものです。赤いマントを纏った魔術師、右下には不吉な何かを象徴するキツネと緑色をした想像上の鳥が描かれています。魔術というのは、呪術と同じ意味で考えて良いと思います。現代に生きる私などからすれば、魔術師というのはいかがわしい商売だと思うのです。しかし、この魔術師の瞳も、自信に満ちている。この魔術師は、元型の中の“トリックスター”に似てはいまいか。

 

すなわち、古代から現代にまで伝わる普遍的なイメージがあって、ユングはそれを元型と呼び、ゴーギャンはそれを描いてみせた。追求していたものは、同じだと思うのです。これが2点目の共通です。ユング分裂病患者の夢と向き合い、そしてゴーギャンは未開の地に自ら居住し、そして二人とも神話を研究しながら、古代のイメージを追求したに違いありません。ここに人間の、芸術の、そして文化の原点があると思います。

 

“象徴”ということについて、もう少し考えてみます。「かぐわしき大地」に描かれたイブは、安定、豊穣、生命のシンボルだと思いますが、この絵には不吉な予兆も描かれている。イブの肩口に掛けて、真っ赤な模様のようなものが見えますが、よく見るとこれは、深紅の羽を生やしたトカゲなんです。これも不吉な何かを表わしている。聖書におけるイブがリンゴの実を食べてしまったように、ゴーギャンの描くイブにも、それを脅かす存在が示されている。

 

「ヒヴァ・オア島の魔術師」においては、現実と虚構が対立しているように思えます。魔術師自身は、この絵の中では現実として描かれていると思うのですが、魔術というのは虚構でしかありえません。そして魔術師は、時に人々を惑わせ、時に人々の病を治療する。こう考えますと、一体何が現実で、何が虚構なのか分からなくなってきますが。

 

いずれにしても、人間の世界には、様々な対立軸がある。時間と空間、現実と虚構、男と女、確信と不安。挙げれば、切りがありません。すなわち、人間が生きている世界というのは、調和しておらず、そこはカオスだとも言える。そこで、それらの対立軸なり、不調和を何かによって、調和させる。それが“象徴”ということではないでしょうか。もちろん、ゴーギャンは、その絵画によって調和させようとした。そしてゴーギャンは、このことを原始芸術から学んだに違いないと思うのです。古代人の知恵が、ここにある。

 

上に記した事項は、弁証法によって解釈することも可能かと思われます。すなわち、定立があって、反定立がある。それがアウフヘーベン止揚)され、上位のレベルで総合される。

 

パースは、「広く宇宙全体が、あるいは宇宙に存在するいっさいのものが、カオスから秩序へ、偶然から法則へ、(中略)進化する」と考えていたようです。宇宙全体のことは私には分かりませんが、人間の世界ということを考えますと、少なくとも今後10万年位は、カオスのままではないかと思います。様々な対立があるからこそ、そこにエネルギーが生まれるような気がするのです。

 

最後に、ゴッホゴーギャンの人生について考えてみます。

 

ゴッホのメンタリティは、あくまでも共感を求める身体系と、絵画という物質系にあった。ゴッホは、あくまでもこの2つの領域で生きた。絵を描きながら、ゴッホは他の人の共感を求め続けた。家族も持ちたいと願っていた。そして、ゴッホにとって身体系の世界に通ずる人間は、弟のテオだけだった。確かにテオはゴッホを理解しようとしたし、ゴッホに共感していたに違いありません。しかし、ゴッホの絵は売れず、ゴーギャンゴッホに共感しなかった。ちなみに、ゴッホが耳を切り落としたというのも、身体系のメンタリティの顕われではないかと思います。そして、失意のうちにピストル自殺を図った。天才なるが故の不幸な人生だったのではないでしょうか。ゴッホの絵画を見直しますと、やはり、あの黄色い太陽には狂気を感じる。

 

一方ゴーギャンは、株式仲買人として競争系の世界で成功した。また、メット夫人との間に5人の子供も設け、身体系の世界でも充足していた。しかしゴーギャンは、運命に翻弄されながらも、双方の世界とメンタリティを捨て、画家という物質系の世界に入って行った。続いて、想像して絵を描くという想像系のメンタリティを獲得した。

 

Wikipediaによりますと、実際、ゴーギャンゴッホに“想像で絵を描け”と繰り返し主張したようです。そしてゴッホは、ゴーギャンの意見に従い、何度か想像上の絵を描いてみたのですが、うまくいかなかったそうです。思えば、ゴーギャンも酷なことをした。メンタリティの領域というのは、そう簡単に超えられるものではない。そのことをゴーギャンが知っていれば、ゴッホにそれ程強く意見することもなかったのではないか。ゴッホは、頭ではゴーギャンの意見を理解しようとしたものの、その意見を受容する想像系のメンタリティを持ち合わせていなかった。(ただ、ゴーギャンの名誉のために付け加えておきます。一般にゴーギャンゴッホを見捨てたと思われているようですが、実際には、ゴッホが自殺するまで、ゴーギャンゴッホとの文通を続けていたようです。)

 

ゴーギャンの晩年は、一見、みすぼらしいものだったようです。2度目のタヒチ行きを果たしたゴーギャンは、タヒチの近代化に失望し、更なる未開の地を目指しヒヴァ・オア島に辿り着いた。そして、不衛生で粗末な小屋の中で心臓発作を起こして死ぬ訳ですが、彼の死を看取ってくれる女性はいなかったそうです。

 

身体系と競争系を捨て、物質系(象徴)と想像系の世界を獲得したゴーギャン。彼にとって一番大切なものは、何だったのでしょうか。それは、絵画や木彫りなど、彼が生み出した芸術作品だったはずです。そして、明らかに彼は、自らの環世界を見事に構築した。彼は人間の生きる世界とその本質を認識し、それは確信に至っていたに違いないと思います。期せずして、ゴーギャンの遺作は、自画像となりました。視力も低下したゴーギャンは、眼鏡を掛けています。若かった頃の自画像とは違い、ここに描かれたゴーギャンには、活力が感じられません。しかし、眼鏡の奥から何かを見据える眼光に憂いはなく、そこには皮肉さや不吉な予兆もないのです。遂にゴーギャンは、未開の心を獲得したのだ。私は、そう思っています。

 

この章、終り

No. 213 第9章: 心的領域論(その6)

 

6.ゴーギャン

 

フランス人の画家のゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)が、どうも私の家に住み着いてしまったような、そんな気分です。当初は軽い気持ちで、ゴーギャンについて記載してみるつもりだったのですが、彼の作品や人生と向き合っているうちに、私の心の中でゴーギャンの存在は巨大化し、とても短い文章では語り尽くせないことが分かりました。ただ、ここでゴーギャンについて述べておかないと、私の「心的領域論」は完結できない。そのため今回は、無理を承知で、簡単に記載してみることにします。

 

まずは、彼の略歴を記してみます。

 

1848年(0才) 6月7日、パリに生まれる。
1849年(1才) 一家は、ペルーに移住。ここでゴーギャンは、古代ペルーの陶器に接する。この時点で、ゴーギャンの古代に対する興味が形成された。
1855年(7才) 一家は、フランスへ帰国。
1865年(17才) 見習い水夫となる。その後、世界周航に出る。
1868年(20才) 海軍に入隊。
1871年(23才) 海軍を除隊。株式仲買商に勤務する。以後、株式仲買人として、成功する。絵を描き始める。以後、日曜画家となる。
1873年(25才) デンマーク人のメット・ソフィエ・ガーズと結婚。以後、彼女との間に5人の子供をもうける。
1883年(35才) 勤務先に辞表を出し、プロの画家を目指す。
1888年(40才) アルルにて、ゴッホとの2か月の共同生活。ゴッホの耳切事
件後、パリに帰る。
1891年(43才) タヒチへ移住。
1893年(45才) 健康を害すると共に経済的に破たんし、フランスへ帰国。
1895年(47才) 娼婦との接触により、梅毒に感染する。2度目のタヒチへの移住。
1897年(49才) 愛娘、アリーヌが死去。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を制作。その後、自殺を図るも未遂に終わる。
1901年(53才) タヒチを去って、マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島に移住。
1903年5月8日、心臓発作のため死去。享年54才。

 

まず、心的領域論の立場から、考えてみましょう。

 

25才で結婚したゴーギャンは、本人のメンタリティがどうであったかは別として、仕事(競争系)の世界と家庭(身体系)の領域に身を置いていた。ところがまず、35才で仕事を辞め、画家を目指す。画家というのは物質系(象徴)ということになります。次いで、43才になったゴーギャンは、単身、タヒチへ移住する。タヒチというのは、太平洋のほぼ真ん中に位置しますが、緯度はオーストラリアと同程度です。フランスからタヒチまでの旅は、2か月程度を要したようです。ゴーギャンは、タヒチに到着すると間もなく先住民の少女と同棲を始めます。ここら辺から、ゴーギャンにまつわる“悪役”のイメージが出来上がっているのでしょう。実際、ゴーギャンはその生涯を通じて、結婚や同棲を繰り返し、生活を援助してくれた恩人の妻を寝取るなど、その悪行は数え切れません。ただ、株式仲介会社を辞めたのは、当時、不況となり、辞めざるを得なかったというのが真相のようです。また、ゴーギャンタヒチからも正妻(メット)に手紙を送り、仕事が軌道に乗り次第、一緒に暮らそうと述べています。人間誰しも、複数の側面を持っており、ゴーギャンも例外ではなかったということでしょうか。ただ、ゴーギャンは人並外れて楽観的で、傲慢で、自信家だったことに間違いはなさそうです。画家としてやって行こうと決めた時にも、どうやら「画家というのは儲かるいい商売だ」と考えていたようです。ゴーギャンのこの楽観主義が、彼の破天荒な人生を導いたと言えそうです。

 

また、画家になったゴーギャンは、想像系のメンタリティを獲得していく。この点は、ゴッホとの比較で考えてみると分かり易いと思うのです。

 

ゴッホは、あくまでも共感を求める身体系のメンタリティと、画家として大自然に向き合う物質系のメンタリティを持っていた。しかし、ゴッホが想像系のメンタリティを獲得することはなかった。想像系がないということは、すなわち、ゴッホの作品には物語性がない、ということだと思います。もちろん、ゴッホが描いた麦畑の上空にはカラスが飛んでいる。これは不吉な何かを象徴していると思います。また、ゴッホの描いた向日葵(沢山のバージョンがありますが)は、咲き誇っているものばかりではなく、枯れているもの、種を宿しているものなどがあり、これらは人間の一生を暗示しているように思います。しかし、ゴーギャンのように、それらの象徴的な対象物を追求するという姿勢は、ゴッホにはなかったように思えます。つまり、ゴッホ印象主義だった。あくまでも自然に接し、そこから感じ取られる形を強調し、色彩を強化する。すなわち、印象に基づいて、自然をアレンジする。これが印象主義ですね。しかし、それでは印象主義と言っても、本質的には自然に依存している、リアリズムと同じではないか、という批判も出て来る。

 

これに対して、ゴーギャンは、自然界には実在しない、観念や象徴的なモチーフを追求し続けたと言えます。例えば、旧約聖書に出て来るイブ。アダムと一緒にリンゴを食べてしまった女性のことですが、彼女が姿を変容させながら繰り返し描かれる。その他にも、悪徳を象徴するキツネやカラス、死霊など、ゴーギャンはあくまでも想像上のモチーフを描き続けた。そこで、1891年にアルベール・オーリエという評論家が「絵画における象徴主義」という論文を発表し、ゴーギャンを絶賛したのです。やはり、ゴーギャンは“象徴”なんです。

 

ゴッホ・・・・・身体系、物質系・・・印象主義

ゴーギャン・・・想像系、物質系・・・象徴主義

 

ゴッホは画家になる前、宣教師のような仕事に就いていました。そして、医者も見放した重病人をつきっきりで看病し治癒に導いたとか、貧しい人に自分のコートをプレゼントしてしまったという美談があります。しかし、このゴッホの過剰な感情から、その仕事をクビになってしまう。ゴッホはあくまでも善人であろうとした。これに対して、ゴーギャンの中では、善と悪が交錯している。

 

では、そのようなゴーギャンのメンタリティがどこからやって来たのか、ということを考える訳ですが、その起源は、幼少時に日常的に接していた古代ペルーの陶器にあるように思います。このような原始芸術の中には、善も悪もない。原始芸術においては、人間の根源的なメンタリティが統合され、象徴されているのではないか。そして、ゴーギャンは、誰よりもそのことを知っていた。

 

ゴーギャンは、古代に注目した。そして、南海の孤島に伝わる神話を読み、自分の作品に反映させたのです。その方法に間違いはないと、私も思うのです。やはり、私たちのメンタリティのルーツは、古代にある。そして、古代の芸術や神話の中に、現代人が忘れてしまった何か、大切なものがある。その謎を解く鍵、ゴーギャンが追い求めていたのは、それだと思うのです。

 

この章、続く

No. 212 第9章: 心的領域論(その5)

 

5.閉鎖系の世界へ

 

分析心理学のユングは、アメリカのニューメキシコ州でプエブロ・インディアンに出会った。そこでユングは、初めて白人ではない人と話す機会を得たと述べている。(参考:ユング自伝2 ヤッフェ編 河合隼雄訳 みすず書房 1973)そして、インディアンの村長は、ユングに次のように語った。

 

「つまり、われわれは世界の屋根に住んでいる人間なのだ。われわれは父なる太陽の息子たち。そしてわれらの宗教によって、われわれは毎日、われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ。もしわれわれがわれらの宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう昇らなくなるだろう。そうすると、もう永久に夜が続くにちがいない」

 

続いて、ユングは次のように記している。

 

「そのとき、私は一人一人のインディアンにみられる、静かなたたずまいと「気品」のようなものが、なにに由来するのか分かった。それは、太陽の息子であるということから生じてくる。(中略)知識はわれわれを豊かにはしない。知識は、かつてわれわれが故郷としていた神秘の世界から、われわれをますます遠ざけてゆく。」

 

すなわち、ユングが出会ったプエブロ・インディアンは、気高く、気品に満ちているとユングは感じていた。そして、その理由が、彼らの宗教にあることをユングは理解したのである。彼らは、人類を代表している。そして、彼らが神と崇める太陽に祈りを捧げている。彼らが祈ることを止めれば、いずれ太陽は昇らなくなる。それだけ重要な役割を彼らは担っているのだ。だから、彼らには自信と誇りがあり、彼らは豊かな精神生活を送ることができていたのだ。

 

なんともスケールの大きな話です。プエブロ・インディアンの認識する世界、すなわち“環世界”は、宇宙にまで達していた。ユングは、彼らを羨ましく思うと共に、そういう確信を持てなくなった現代人の悲哀を述べている訳です。最早、そういう神秘的な仮説を、現代人が信じることはできない。

 

プログレッシブ・ロック系で、“キング・クリムゾン”というバンドがあり、バンドに詩を提供していたのはピーター・シンフィールドという人です。Confusion will be my epitaph (混沌こそ我が墓碑銘)という一節で有名なEpitaphという曲があるのですが、この曲の歌詞には、次の一節も含まれている。Knowledges are deadly friend。(知識とは人々に死をもたらす友人である)。ユングが言っていることと、同じだと思います。

 

どうやら、メンタリティということを考えますと、ここら辺に現代人の課題が見えて来る。このブログでは、“空っぽ症候群”と呼んで、ニートや引きこもりの人たちを批判的に見てきた訳ですが、彼らがそうなってしまったことには、現代的な理由がある。それは、今、世界的な規模で、特に先進諸国で、進行している現象だと思います。また、ビジネスの世界では、うつ病が蔓延している。これは本当に多くて、正確な統計は知りませんが、20人に1人位の割合で、罹患しているのではないでしょうか。

 

何十年か前に、こういう現象に危惧した人たちがいて、「プラグを抜け」ということが良く言われたようです。プラグとは電源のコンセントのことで、つまり、テレビばっかり見るな、ということだったようです。しかし、その後、ネットが登場し、事情は更に深刻になった。今風に言えば、スマホばっかり見てるんじゃない、ゲームばっかりやってるんじゃない、ということになる。

 

この問題を少し文化論の立場から見てみましょう。プエブロ・インディアンの“太陽を手伝っている”という発想は、想像系の中の融即律(未開の直観)ということになります。知識によって、そのような仮説が成立しなくなったということは、想像系の領域に影響を及ぼしていることを意味している。ということは、それ以前のアニミズムも成立しない。その後の“物語的思考”も成立しにくくなって来たのではないか。論理的思考は成立しますが、これは難解である上、環世界の構築には寄与しないような気がします。

 

<想像系>

アニミズム・・・成立しない
融即律・・・・・成立しない
物語的思考・・・成立しにくい
論理的思考・・・成立するが、難解で、環世界の構築には寄与しない

 

記号系から出発して、身体系へと進む。そこに留まっていられる人はまだいいと思うのですが、そこから先に進もう、確固とした環世界を構築しようとした場合、どこへ進めばいいのか。競争系には“序列亡者”が沢山いる。想像系も頼りない。このように考えますと、“空っぽ症候群”に陥った人たちの気持ちも、分かってきます。記号系へ戻ろうと思いたくもなる。

 

また、身体的な能力や美貌というのは、年令と共に衰えて来るので、身体系のメンタリティというのは、ある程度、若くないと維持しにくいのではないか。ここら辺に、中年期の心理的な危機の理由があるように思います。

 

消去法で考えますと、残るのは物質系ということになります。物質系の中の“機能”ではありません。それはもう、充足されている。かと言って、普通、ピラミッドや巨大な建物を作ること(空間表現)はできません。すると、残るは“象徴”ということになる。

 

もう一つ。私たちが認識できる時間や空間の範囲には、限度があります。従って、強固な環世界を構築しようとした場合、その世界には限定が必要だと思うのです。換言すれば、その世界は閉鎖的、閉鎖系の世界である必要がある。冒険小説、宝島の舞台は一つの島だった。ジャングル・ブックの舞台はジャングルの中だった。そういう閉鎖系の世界に生きているからこそ、“象徴”という文化やメンタリティが生きてくるのではないか。反対に、開放系の世界とは、ネットの世界や、都会での生活、グローバリズムなどということになります。これらの世界はどこまでも広がり、物は代替可能で、いや、人間すらも交換可能な世界だと思うのです。豊かな自然に囲まれた“田舎”に転居する人たちの気持ちが分かります。

 

さて、現代人の抱える大きな問題に直面してしまった訳ですが、この章の締め括りとして、ゴーギャンについて、検討してみたいと思っております。自ら南国の孤島に身を置き、絵を描き続けた彼の人生の中に、何かヒントがあるような気がするのです。

 

この章 続く