文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反権力としての文明論(その3) 権力についての試論 - 宗教型

 

突然ながら、このシリーズ原稿において、私が提示すべき概念モデルのイメージが、固まりつつある。

 

主 体 → 文 化 → 権 力 → 真 理

(身体)   ←―――――(知)―――――→

 

例えば、ソクラテスのような偉人の人生を考えてみよう。幼少期においては、ソクラテスだって、遊んでいたに違いない。自分は、どれだけ速く走ることができるだろうか。どれだけ長く歩き続けることができるだろうか。遊びながら、そんなことを学んでいたに違いないのだ。すなわち、「私」(主体)を構成する最も重要な要素とは、身体なのだ。やがて、性の問題に直面する。更に年令を重ねると、文化の領域に入る。そこには、食生活をはじめとする生活技術に関する「知」があり、そして芸術がある。成人期になると、ソクラテスは様々な権力と衝突する。ソクラテスは当時のアカデミズムに疑問を持ち、権力の象徴とも言える政治家に幻滅した。そこで、権力を超える「知」、すなわち真理の獲得を目指したのである。

 

上の図は、そのようなソクラテスの人生の縮図である。但し、この図はもっと普遍的な意味をも持っているのであって、これは現在、私たちがその中で暮らしている現代文明をも表わしているに違いない。

 

例えば、ジョン・ロックは王様が持っている権力を解体しようとしたし、三権分立を唱えたモンテスキューは権力をコントロールしようとした。すなわち哲学とは、権力を超える「知」の力を構想する試みの歴史なのだ。

 

こう書き始めると、言葉が溢れ出てくるが、これは私の独りよがりである。そのように主張するためには、最低限、キーワードを定義しなければならないだろう。

 

では本論、すなわち「宗教型」の権力について考えてみよう。

 

宗教は、古代から現代に至るまで、その姿を変えながら文明の中で生き続けている。そこから生まれる権力も、時代と共に変化してきたに違いない。宗教を形作る主要な要素は、神であり、天国であり、地獄である。これは人間の想像力が生み出した、1つの世界観だと言えよう。現代における科学的な常識からすれば、それは明らかに間違っている。従って、科学に関する教育を徹底すれば、宗教は消滅するのではないか。そのような仮説が成り立つし、実際にそう考えた思想家もいた。しかし、現実はそう単純ではない。この点、アメリカの政治学者であるイングルハートは、次のように述べている。

 

- マルクスマックス・ウェーバーなどの古典的近代化論においては、科学的知識が普及すれば、宗教的価値観が低下すると考えられていた。しかし、実際にはそうなっていない。あくまでも「生存に対する安心感のレベル」が向上した場合に、世俗化が進む。(文献1)-

 

そうしてみると、宗教とは、その教義や経典に書かれていることの正しさではなく、人間の不安や恐怖心を利用するところにその本質があるように思える。イングルハートは、恐怖心をその基礎に持つメンタリティを「物質主義的価値観」と呼び、その傾向を以下のように指摘した。

 

・宗教を重視する。

出生率は高い水準で維持される。

・集団内の規範が尊重される。

・よそ者を排除する。

・強力な指導者を求める。

 

このようなメンタリティを持つ政治勢力は、今日の日本においても支配的な力を持っている。それは保守とか、右翼と呼ばれる集団のことであって、今日の日本においては自民党であり、公明党のことである。公明党の支持母体が宗教団体であることは公知となっているが、自民党と宗教団体の関係は、あまり語られることがない。しかし近年、「日本会議」という宗教団体に関する著作が発表されるなどして、次第にその実態が明らかになりつつある。また、相変わらず彼らは靖国神社に参拝しようとする。

 

この宗教型の権力が標的とするのは、人間の恐怖心である。

 

次に、この宗教型における権力者は誰なのか、という問題がある。宗教の初期において、その権力を保持していたのは、聖職者である。やがて、その権力は王様や殿様へと移行する。更に時代が進むと、今日のように権力は保守、右翼と呼ばれる政治家へと移った。但し、「恐怖心」を基礎に置くという本質に変化はないように思える。かつての聖職者は「神に祈らなければ、地獄へ落ちる」と言い、今日の政治家は「中国が攻めて来る」と言って、人々の恐怖心を煽るのである。

 

その被害者は誰だろう。直接的に言えば、対立する勢力であるリベラル、左翼の人々ということになろう。しかし、それだけではない。恐怖心に基づく政治は、判断を誤る可能性が高い。政治の誤りによる被害者は、国民である。

 

最後に、この宗教型権力の目的は何だろうか。宗教の起源においては、素朴に、部族の由来などを考えるものだったはずだ。例えば、自分たちの部族の起源はバナナであるとか、オオトカゲであるとか、そのような説を唱えたのである。そして、神話ができる。聖書などの経典ができる。そうしてみると、宗教型権力の目的も、少しずつ変化してきたのだろうと思えるのだ。当初は、世界観を持つという目的を持っていたに違いない。それが次第に、人間集団の差異を強調する方向に動く。差異、すなわち集団の内と外を認識しようとしたのである。やがて集団の内部における権力が生まれる。この集団内の権力は、集団の結束と現状維持を求めるのだろう。そのために、恐怖心が煽られることになる。この権力の目的を端的に表現すると、それは「現状維持」ということではないだろうか。

 

<宗教型>

背 景: 宗教

標 的: 恐怖心

権力者: 聖職者、王様、保守、右翼

被害者: 国民

目 的: 現状維持

実 例: 宗教団体、保守、右翼政党

 

このように考えると、人間の差異から生まれる権力は、変異を繰り返してきたことが分かる。それはあたかも、コロナウイルスのようではないか。

 

(参考文献)

文献1: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/山﨑聖子(訳)/勁草書房/2019

 

反権力としての文明論(その2) 権力についての試論-暴力型

 

私たちの暮らしのそこかしこに、権力は存在する。時にそれは、とてつもなく不愉快なものであるが、人々はそれに気づくことなく、権力を行使したり、またはその被害者となったりしているに違いない。権力には、例えば国家権力のように大きなものから、男女間や家庭内に発生するような小さなものまである。また、権力は時代と共にその態様を変化させてきたのだろうと思う。

 

では、権力とは何か。その本質を見ることは可能なのか。そう思う訳だが、何故か、真正面から権力について語るような文献に、私は巡り合ったことがない。そこで私は、権力について、自分で考えてみることにした。

 

まず、権力が行使される場合には、ある背景となる力が存在するはずだ。例えば、2人の人間がいたとして、両者の属性が全く同一であった場合、権力は発生しないのだろうと思う。この場合でも諍いが生ずる可能性はあるが、その場合でも、2人が戦う条件はイーブンなのだ。そうではなくて、2人の間に何らかの属性上の差異がある場合に、権力は生ずるのである。このように、個人間や集団と集団、もしくは集団と個人の間に存在する差異をここでは「背景」と呼ぶことにする。

 

次に権力は、人間に対して向けられるのだと思う。もちろん、自然破壊や動物虐待は言語道断だが、それは権力とは別の問題ではないか。では、権力は人間の何を攻撃するのだろう。この権力の攻撃対象をここでは「標的」と呼ぶことにする。

 

次に、権力の特質を考える上で、それを行使する者の属性を特定する必要があるだろう。また、権力に従属させられる者についても、同様である。ここでは権力を行使する者を「権力者」、権力に従属させられる者を「被害者」と呼ぶことにしよう。

 

また、権力を行使するのは、権力者が何らか利益を実現させようとするからであるに違いない。その利益のことを「目的」と言うことにする。

 

上記の評価項目を検討すれば、権力の類型化が可能となる。そして、私の検討結果は次の通り、5種類の権力を抽出することとなった。記載順は、概ね、古いものから新しいものへと並べてみた。

 

暴力型

宗教型

組織型

知性型

経済型

 

では、評価項目に従って、順に考えてみよう。

 

<暴力型>

 

最も単純な権力とは、腕力にものを言わせて、他人を従わせるというパターンだと思う。これが暴力型であって、それは古代より人間社会に蔓延していたに違いない。この暴力型は近年、DV(Domestic Violence)としても脚光を浴びている。

 

また、単なる腕力に留まることなく、人間は武器を開発して、その戦闘能力を高めてきた。武器を用いた大規模な闘争は、戦争となる。敗戦国は、戦勝国の権力下に置かれる。現在の日米関係もしかりである。

 

暴力型における権力者は、当然、腕力や武力の強い者ということになる。強者が弱者に勝つ。また、単純に考えれば、大きな国は小さな国よりも強い。この2つの原則に従えば、より大きな国が小さな国を統合していき、最終的に世界は1つの国になるはずだが、現実は、そう単純ではない。ある集団が大きくなると、その内部において、新たな権力闘争が始まるに違いない。そうであれば、いつまでたっても、世界が1つの国になることなど、あり得ない。もう1つ言えそうなことは、人間集団は大きくなる程、権力が強くなるということだ。反対に言えば、集団の構成員が少なければ少ないほど、民主的である可能性がある。例えば、14億人の人口を抱える中国における権力は、強大である。反対に、比較的人口の少ない西欧諸国においては、民主主義が根付き易いのだと思う。わが日本はどうか。私は、人口が多すぎると思う。直接民主制を採用できた古代ギリシャの人口には諸説あるようだが、せいぜい2万人である。

 

次に、権力者は何故、この暴力型の権力を発動するのか。それは、権力者の内部事情によるに違いない。例えば、かつて教師は日常的に生徒を殴っていた。体罰である。教師たちは、生徒のためを思って殴っていたのだろうか。いわゆる、愛の鞭というやつだ。私は、そうではないと思う。殴られる生徒の側に、落ち度がないと言うつもりはない。しかし、規律を保つのは、教師の責務である。その職責を果たすため、すなわち教師の側の内的な事情によって、教師は生徒を殴っていたに違いないのだ。

 

かつて、アメリカはイラク大量破壊兵器を保持していると主張し、同国に対し武力を行使した。しかし、最終的にそのような兵器がイラクにおいて、発見されることはなかったのである。では、何故、アメリカはそのような戦争を始めたのか。それは、アメリカの内部事情による。September 11と呼ばれる大規模なテロがあり、アメリカ国民の怒りは頂点に達した。アメリカ政府は、そのような国民の怒りの矛先を、どこかへ向ける必要があったのだ。そこで、確たる証拠がないにも関わらず、イラクへの攻撃を始めたのである。

 

この権力者の内部事情のことをエゴイズムと言い換えても良いだろう。被害者の事情は、ほぼ、関係がないのである。一方的に権力は自らのエゴイズムに基づき、この暴力型の権力を発動する。では、そのエゴイズムの中身はどうなっているのだろう。それを類型化することは可能だろうか。そう思う訳だが、残念ながら私にそれはできない。エゴイズムの内容は、千差万別なのである。極端な例を挙げれば、通り魔殺人というのがある。誰でもいいから殺したかった、という理由なき殺人のことである。人間の内奥を探っていくと、そこには狂気やカオスが存在するのであって、エゴイズムもそこに端を発している場合があるのだ。

 

また、権力を発動する者とは、正に「主体」である。そうしてみると、権力について「主体」の問題を除外して検討することはできない。なるほど、そういう関係にあった訳だ、と今更ながらに反省する次第である。よって、本稿においても、主体の問題を含めて検討することにしよう。

 

権力 - 知 - 主体 - 文化

 

では、簡単に一覧にしてみよう。

 

背 景: 腕力、武力

標 的: 人間の身体

権力者: 腕力、武力の強い者。大国

被害者: 腕力、武力の弱い者。小国

目 的: エゴイズム

実 例: 暴力、戦争、DV

 

この「権力についての試論」は、一挙に掲載しようと思っていたが、思いのほか大変だ。今回はここまでとして、一区切りつけさせていただこう。

 

反権力としての文明論(その1) はじめに

 

国内において、犯罪が多発しては困る。だから、犯罪者を取り締まる警察権力が必要だ。国の外に目を向ければ、沢山の外国があって、どこかの国が攻めてくるかも知れない。だから、国民は一致団結して、強い権力を持った国家を設立する必要があるのだ。そう主張したのは、トマス・ホッブズだった。

 

しかし、本当にそうだろうか?

 

人類史上、最初に権力を作り出したのは宗教である、というのが私の意見だ。そして、権力はどこまでも自己増殖を繰り返し、膨張し、腐敗するのである。従って、宗教は権力と共に腐敗する宿命にあるに違いない。また、科学は権力に取り込まれる性質を持っている。権力を凌駕する科学など、稀にしか存在しない。つまり、宗教も科学も、原則的には権力に勝つことができないのだ。

 

ところで、フーコーの哲学を構成する要素は3つあって、それをフーコー三角形と呼ぶ。その要素は、権力、知、主体である。このように、フーコーが権力の問題を重視していたのは間違いない。しかし、フーコーの権力論は未完に終わったという説がある。フーコーは遺作となった「性の歴史」の第1巻、「知への意志」で権力論に取り組んだが、その後、つまり第2巻以降、興味の対象がギリシャ哲学の方へ移ってしまったというのが、その理由らしい。

 

例えば私は、こう考えている。普遍的な真理とは「全ての人々が幸福になるための方法」のことだ。そして、この普遍的な真理に到達した人はいない。到達することが可能なのか否か、それすら分からないのである。従って、全ての思想は未完なのだ。フーコーといえども、事情は変わらない。仮にフーコーがあと5年生き永らえたとしても、彼の権力論は未完であったに違いない。

 

そうしてみると、私がこのブログに何を書こうと、その原稿は未完であるし、普遍的な真理に到達することはないのである。しかし、だからと言って思考することを止めてしまってはいけない。思考せよ、知への意志を持て、というのがギリシャ哲学の、そしてフーコーの主張であったはずだ。思考すれば、私にとっての真理、すなわち個別的な真理に到達することは可能かも知れない。

 

現在、私は、本稿の羅針盤を持っている訳ではない。若干のアイディアがあるだけだ。例えば、現代の文明を見ていくと、権力や知の及ばない領域があるのではないかと思うのだ。それは、遊び、芸術、文化などに関わる領域のことである。権力のシステム化が進み、息苦しくてたまらない現代社会ではあるが、それでも私たちには、ほっとできる文化領域とでも呼ぶべき時空間が残されているように思う。例えば、田舎の子供たちは、今でも自然の中で遊んでいるのではないか。例えば、私たちには和食という貴重な文化があって、醤油を付けて刺身を食べるとき、私たちはほっとしていないだろうか。

 

してみると、フーコーが考えた権力や知という要素に、この文化という要素を加えて検討してみれば、何か、新しい主張が生まれるかも知れない。

 

権力 - 知 - 文化

 

権力によって権力を倒したとしても、新しい権力を生むだけである。それでは、権力に勝ったことにはならない。権力を倒すには、権力の存在価値、それ自体を否定することではないか。そのような意味で、私は「反権力」という言葉を使用したいと思っている。

 

上に記した発想をベースに、このブログに若干の原稿を掲載していきたいと思う。

 

フーコー三角形

 

ミシェル・フーコーの思想を形作る重要な要素は、3つある。それは権力、知、主体であって、これらの3要素を線で結んだものをフーコー三角形と言う。

 

一体、何の話? そう思った方のために、極めて分かりやすく私の考え方を説明しようというのが、本稿の趣旨である。そのためには、まず、健康診断に関する私の実体験から説明しなければならない。

 

10年程前のことになる。私は現役のサラリーマンで、誕生月には必ず健康診断を受けていた。身長、体重、血液検査、心電図などの検査を受ける。その結果が記されたカルテを持って、最後には医師との面談を受けなければならない。

 

医師は、厳しい顔つきをしながら私のカルテを見ている。

 

- 少し、血圧が高いですね。薬が必要かな。まあ、もう少し様子を見ますか。-

 

医師はそう言った。私は、憂鬱な気分でその部屋を出ようとした。その時、女性の看護師さんが私に近づいて来て、耳元でこう言ったのである。

 

- 大丈夫ですよ。あなたの血圧は、年令、相応です。-

 

私はほっとして、頭を深々と下げて、その部屋を出た。一体、どういうことなのだろう。私は、ネットなどで血圧に関連する情報を収集した。「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(幻冬舎新書)という本も読んだ。

 

思えば、世の中には不思議なことが沢山ある。1日に摂取すべき野菜の量は、とんでもなく多い。そんなに野菜を食べることはできない。そこで、必要な量を摂取できるという野菜ジュースが売られているのである。ネットでも、人の不安を煽るような記事が無数に掲載されているが、それらの記事を読むと、最後には必ず薬を飲めと書いてある。

 

本当かどうかは分からないが、大病院には必ず薬漬けになっている植物状態の患者が2~3人はいるらしい。薬漬けにすると、病院は儲かる。そのような患者を若干数は保持していないと、病院の経営が成り立たないというのだ。

 

世の中、怪しげな話ばかりだ。

 

7年程前に現役を退いた私は、これで健康診断から解放されると思って喜んだものだった。しかし、今度は区役所から健康診断を受けろという通知が来るのだ。3年程これを無視していたら、何と、区役所から電話が掛かってきた。多分、役所では健康診断の受診率を管理していて、それを上げるよう上司から指示されているに違いない。

 

- 私には、健康診断を受けない自由がありますよね。-

 

電話口でそう言うと、区役所の人はその通りだと言った。以後、電話は掛かって来ない。

 

上記の経緯により、私はかれこれ7年以上、健康診断を受けていないし、野菜ジュースも飲んでいないが、体調は良好である。他方、毎年ガン検診を受けていたにも関わらず、ガンで死んだ知人もいる。

 

(注: 本稿は、健康診断を受けるな、野菜ジュースは必要ないということを主張するものではありません。これらの点は、各自が判断してください。)

 

さて、それでは話をフーコー三角形に戻そう。まず、上の話における権力者とは、製薬会社のことだ。結局、薬を沢山売って儲かるのは、製薬会社なのである。そして、医学的な知を司っているのは、医師である。一体、血圧がどの程度になると薬が必要なのか、そんなこと素人の私に分かるはずはない。そんな私の前に、偉そうな顔をして、白衣を着た医師が現われて、判断を下すのである。ちなみに世の中には、製薬会社の社員が大病院の医師を接待したり、金品を渡したりするという話もある。

 

そして、この権力者と知を司る者をつなぐ、複雑なシステムが存在する。上の例で言えば、現役の者も引退した者も、片っ端から健康診断をするというシステムがある。そこで何らかの症状が発見された者には、自動的に薬が投与されるのだ。このように考えると、システムとは権力と知を結び付ける制度のことだ、という仮説が成り立つ。

 

更に、そんなシステムを見て、逡巡する「私」が登場する。「私」は自らの態度を決めなければならない。これが「主体」の問題である。

 

権力 ・・・ 製薬会社

知  ・・・ 医者

主体 ・・・ 私

 

このように考えると、同じような話は他にもある。例えば、王様が国を統治していた時代の西欧社会においては、王様が権力者で、王様の権力は神に授けられたものだと主張する神学者(知を司る者)がいて、そこに暮らす人々(主体)がいた訳だ。

 

哲学は、私たち人間が生きている世界を認識し、そして、私たち自身がその世界とどのような関係を取り結ぶべきか、それを考える学問である。そこで、フーコーは世界の成り立ちを権力と知に求め、そこに主体の問題を加えて、思考したのだろうと思う。

 

右翼と左翼の源流

 

そもそも、政治の世界には何故、右翼と左翼が存在するのだろう。どうもその理由は、歴史の中に答えがある。結論から言ってしまおう。右翼の源流は宗教にあり、左翼のそれは科学にある。

 

右翼・・・宗教

左翼・・・科学

 

どうりで、この2つの折り合いは悪い訳だ。

 

このブログでは、宗教が発生した歴史やメカニズムについては、既に、検討済みである。簡単に述べると、古代に動物信仰が発生し、その後、文字が発明され、宗教上の経典が記される。そこから権力が生まれ、体系化された宗教が生まれたのである。これは、人間が歩んで来た自然の流れである。従って、本稿では、何故、左翼思想が生まれたのか、その経緯を検討してみることにしよう。

 

西欧社会においては、主にキリスト教が政治や文化の中心的な役割を担っていた。その規律は禁欲的であり、合理主義に反するものでもあったのだ。人々は息苦しさを感じる。そんな歴史が長く続いた訳で、それに反対する文化として、例えば14世紀には人間復興、ルネッサンスが生まれた。従って、反宗教的な文化的な土壌は、既に育まれていたと言っていい。

 

そして、17世紀になるとガリレオらが地動説の正しさを証明し、ニュートン万有引力の法則を発見する。これらの科学的な進展の影響もあって、啓蒙思想が誕生する。啓蒙とは、未だ暗闇(蒙)の中にある人々の心を開こう(啓)とする18世紀西欧における思想的な運動のことである。百科全書、博物館や植物館が登場したのもこの時代のことである。啓蒙思想は伝統、権威、宗教を批判し、科学的な思考を尊重した。

 

この思想的な問題について、1784年11月、カントは「ベルリン月刊」という雑誌に「啓蒙とは何か」という記事を寄せた。その記事の中で、カントは次のように主張した。

 

今日とは、昨日に対する差異である。また、未成年とは、他人の権威を受け入れてしまう状態のことである。そして「脱出」とは、私たちを未成年の状態から脱却させる過程のことである。人間は、自分の未成年状態に責任がある。だからこそ、自分が自分自身に対して実行する変化によってしか、人間は、未成年状態から脱出できない。

 

啓蒙とは、意志、権威及び理性の使用の間にそれまで存在していた関係の変化である。啓蒙は、集団的プロセスであると同時に、個人的に実行すべき勇気の行為でもある。これを一言で表わすと、「知る勇気を持て」ということになる。

 

啓蒙は、次に記す3種類の理性と共に存在する。

  • 理性の普遍的な使用
  • 理性の自由な使用
  • 理性の公的な使用

 

啓蒙は、人類がいかなる権威にも服従することなく、自分自身の理性を使用する時(モーメント)である。

 

カントの主張の要約は、上記の通りである。

 

そして、カントの思想はヘーゲルが、ヘーゲルの思想はマルクスが、それぞれ批判的に継承したのである。ヘーゲル弁証法的に人間の社会は進歩すると考え、マルクスはその進歩の原理を労働や生産手段に求めたのだろう。そもそもヘーゲルが唱えたアウフヘーベンと、マルクスが唱えた革命という概念は、別の次元へ上昇するという意味において、似ているような気がする。

 

カント → ヘーゲル → マルクス

 

つまり、このような思想的な潮流があって、その頂点に位置するマルクスにおいて、左翼思想が生まれたのである。マルクスまでが、近代だと言える。

 

このような対立構造は、今日においても健在である。例えば、自民党の支援団体には、未だに宗教団体が軒並み名を連ねている。他方、日本共産党の綱領には「科学的社会主義を理論的な基礎とする」と書かれている。

 

右翼と左翼。宗教と科学。どちらがいいのかという問題がある訳だが、どちらもダメと考えるのがポストモダンの立場なのだと思う。

 

新しい思想

 

いきなり私事にて恐縮だが、私は、日本の政治を諦めることにした。アベ友の山口敬之による準強姦事件をもみけした中村格が、警察庁の長官に昇進したらしい。この国に正義はないのである。私は長い間、巨悪が究明され、司法の手によって罰せられることを望んできた。モリ、カケ、サクラに広島の選挙買収事件。結局、何一つ、真相は解明されていない。期待して裏切られるのは、もう疲れた。少なくとも私の目が黒いうちに、この国の政治という舞台において、正義が実現することはない。そう思うことにした。

 

諦めたら負けだ、それでは権力者の思うツボだ。そう主張する識者は少なくない。しかし、それでは一体どこに希望があると言うのだろう。国会は空洞化し、行政は腐敗し、司法は機能不全に陥っている。第4の権力とも言われるメディアの大半は、広告主である大企業と政権与党に尻尾を振っているのである。

 

私が応援している「れいわ新選組」の支持率は一向に伸びないし、立憲民主党は大企業労組の団体である連合の支配下から抜け出るつもりがなさそうである。

 

現在、自民党の総裁選が話題になっており、私も、それなりに興味をもって成り行きを見守っているが、所詮、自民党というシステムの内部における闘争に過ぎない。正義とは、常にシステムの外側からもたらされるのだ。

 

さて、老人のボヤキはこの程度にして、新しい思想や社会制度が生まれるメカニズムについて、考えてみよう。

 

仮にAという思想があったとする。それを打ち破る新しい思想Bは、Aを否定することによって生ずる。マルティン・ルターカトリックに対するアンチテーゼとしてのプロテスタントを提唱したし、ジョン・ロックは王権神授説を否定して、平等を訴えた。

 

A → B

 

ここに異論はないだろう。さて、それではCという思想が生まれる時は、どうだろう。CはBを否定することによって、成立する。それは、上に述べた原理と同じである。では、CとAの関係はどうだろう。Cは、BのみならずAをも否定しなければ、成立しないのである。仮にCがAを肯定した場合、CはすなわちAと同じか、Aの亜流となってしまうからである。すなわち、新しい思想であるCを生み出すためには、必ず、その直前の2つ、すなわちAとBの双方を否定する必要があるのだ。

 

A → B → C

 

このように述べると、ヘーゲル弁証法を思い浮かべる方がおられるかも知れない。AとBが対立する。するとアウフヘーベンしてCに至るという、あの考え方である。しかし、私がここで述べようとしていることは、弁証法とは異なる。人間の思想や社会制度は、アウフヘーベンなどしない。いつまで待っても、人間の社会は進歩しないし、解決されない問題だらけなのである。もしヘーゲルが生きていたなら、日本の現在の惨状を教えてやりたい程である。アウフヘーベンしないので、私の説は、どこまで行っても水平の関係にある訳で、上昇しない。

 

少し飛躍するが、このABCの関係を現代文明に当てはめてみよう。すなわち、まず、資本主義がある。これがA。そして、資本主義に対抗して共産主義が生まれた。これがB。資本主義と共産主義は激しく対立しているが、どちらの世界も一向に良くはならない。従って、新しい思想Cの登場が待たれている。そして、新しい思想Cは、その直近の2つの思想の双方を否定しなければ成立しないのである。換言すれば、資本主義と共産主義の双方を否定しなければ、新しい思想Cは生まれないことになる。

 

A・・・資本主義

B・・・共産主義

C・・・新しい思想

 

そもそも共産主義における歴史観は、「唯物史観」と呼ばれるものだ。これは、次のように要約される。(哲学中辞典/知泉書館

 

- 物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。-

 

つまり、物質的な環境や条件が、人間の精神を規定すると言っているのである。しかし、人間の歴史とは、そんなに単純な原理で動いてきた訳ではない。そこには多くの偶然があり、虚構が介在し、狂気を孕みながら、動いてきたに違いないのだ。これが、私の意見である。

 

また、共産主義を構成する重要な要素として、革命を挙げることができる。確かに共産主義革命を果たしたかつてのソ連や中国においては、資本家の権力は失われたのだろう。しかし、資本家が持っていた権力は、官僚や共産党に移行したに過ぎない。権力Aが権力Bに変わっただけで、人々を拘束する権力が消失した訳ではないのだ。

 

そもそも、今日の日本のように経済原理としての資本主義と、政治原理としての民主主義を採用している諸国において、共産主義革命など起こるはずはないのだ。選挙によって、政権を替えることが可能なので、革命を起こす必要すらないのである。また、革命の目的は、権力構造を変えることにあるのだろうと思うが、現代の日本の権力構造は、とてつもなく複雑で、一体、どこをどういじればそれを変更できるのか、それ自体が定かではない。現代日本の権力者とは、政治家であり、資本家であり、裁判官であり、官僚であり、メディアなのであって、権力の実態とは彼らが作り出すシステムそのものではないのか。

 

従って共産主義では、資本主義と民主主義によって構築された堅牢なシステムに対抗することはできない。まずは、そのことを前提としなければ、新しい思想Cは生まれないと思う。

 

ソクラテスの魂(その9) あとがき

 

約3か月に渡って掲載してきた本シリーズを終わるに際して、雑駁にはなるが、これまで書き洩らしてきたこと述べたいと思う。

 

まず、歴史的な背景について。古代ギリシャにおいてもシャーマニズムが息づいていたことに、私は少なからず驚きを覚えた。洋の東西を問わず、歴史を遡って行くとシャーマニズムに行き着くのだ。哲学さえもが、シャーマニズムから生まれたのである。しかしながら、シャーマニズムに関する学術的な研究は、ほとんどなされていないように見える。本屋へ行っても、関係文献を見かけることはほとんどない。本来的には、文化人類学がこれを研究すべきではないのか。

 

文化人類学は、当初、歴史主義的なアプローチを取っていた。その頃、アミニズムに関する若干の学説は存在していたのである。しかし、そこにレヴィ=ストロースが登場し、神話、親族関係、トーテミズムなど、学問として成立し得る分野のみを研究対象とするようになったのだろう。しかしそれでは、人間の本当の姿を探究することにはならない。そこら辺に、アカデミズムの限界がある。いくら文化人類学者たちが無視しようと未だにシャーマンは世界各地に存在するだろうし、人々は麻薬でハイになり、ロックコンサートで熱狂しているのである。シャーマニズムについて研究しない限り、これらの現象を説明することはできない。

 

余談になるが、たまたま見ていたYouTube番組で、面白い情報に出会った。なんと古代ギリシャの研究者であるカール・モイリ(1891-1968)という人は、アイヌ文化についても研究していたというのである。古代ギリシャにも動物信仰の痕跡があり、そこにアイヌ文化との共通点を見ていたのである。

 

次に、ギリシャ哲学について考えてみよう。アテナイをはじめとする都市国家を舞台として隆盛を極めたギリシャ哲学。そこに、人類史上稀に見る高度な思想が生まれたのである。政治的な状況の変化もあって、やがてギリシャ哲学は終息する。しかし、紀元後300年頃、「ギリシャ哲学偉人列伝」という文献が記される。この文献とギリシャ哲学は、その後、千年以上の永きに渡り、眠りにつく。人々の興味は、哲学よりも宗教へと向かったからである。ところが印刷技術が進展した西洋において、この「ギリシャ哲学偉人列伝」が復活する。この本、学術的には少し怪しいところがあるそうだが、物語風に書かれていて、とても面白いらしい。そして、西洋の近代思想家であるトマス・ホッブズなどに影響を与えたのである。なんというドラマだろう! この本、ちなみに日本でも岩波文庫で発刊されたようだ。その目次に記された哲学者の人数を数えてみると、約80人もいる。思想の黎明期ということもあって、多くの哲学者たちが様々な思想を展開していたことが分かる。

 

ところでソクラテスの死後、彼を批判するパンフレットのようなものが出回ったそうだ。これに怒ったソクラテスの弟子たちは、一斉にソクラテスを賛美する本を書き始めた。プラトンもその中の1人である。その数は200冊とも300冊とも言われ、これらの文献を総称して「ソクラテス文学」と呼ぶ。これ、何かに似ている。パロールの偉人、キリストがいて彼の死後に新約聖書が書かれた。ブッダの死後、ブッダの発言を記した無数の経典が書かれた。それにも関わらずソクラテスが宗教の教祖とならなかったのは、彼の思想が集団の結束を弱める危険を孕んでいたからだろう。

 

文明論的な見方をしても、ソクラテスは様々な論点を提起している。まず、哲学と政治の関係。既述の通り、ソクラテスは哲学を志す者は政治家になるべきではないと述べた。また、ソクラテスは自己の名誉や金銭のことに夢中になるべきではない、とも述べている。言ってみれば、これは経済原則に対する批判だと受け止めて良いだろう。また、ソクラテスソフィストと呼ばれる「詭弁を弄する知識人」についても批判している。特に、ソフィストは高額の対価を得た上で、家庭教師のようなことをしていて、この点をソクラテスは批判しているように思える。ちなみに、ソクラテスは多くの若者や弟子たちに知識を提供したが、対価を受領したことはないのだ。これは、現代文明に照らして言えば、教育やアカデミズムに対する批判だと解釈できそうである。

 

現代的な観点から興味深いのは、哲学と科学との関係である。ソクラテスが登場する前に自然哲学と呼ばれる思想が生まれていた。この自然哲学を主張する者たちを自然学者と呼ぶ。そして今日における言わば科学万能主義のような考え方を「自然主義」と呼ぶ。自然主義者たちは、人口知能の効用を喧伝し、やがてシンギュラリティが訪れ、ロボットの知能が人間のそれを上回るだろうと主張する。

 

このような考え方に反対する立場は、反自然主義ということになる。今日、先頭に立って反自然主義を訴えているのは、若き哲学者であるマルクス・ガブリエルではないか。このように、現在、哲学と科学の対立関係は先鋭化しているのだ。

 

この問題、私は哲学の立場を支持することに決めた。確かに、科学は文明を進展させるために、それなりの役割を果たしてきたと思う。しかし、それはあくまでも補助的なものであって、科学が人間の本質を言い当てることはない。ガブリエルは、次のように述べたらしい。

 

「世界を救うのは、新しい哲学である。」

 

私は、この立場を支持しようと思う。結局、現在、人類の文明は行き詰っているのである。環境問題があり、資本主義の暴走がある。ただ、私が重要視しているのは、芸術の衰退ということだ。それは古代文明が作り出した1つの認識方法だと思う訳だが、芸術の衰退した文明は、味気ない。人間が豊かで充実した人生を送るためには、芸術は不可欠の要素なのである。そんなことを科学は、教えてくれない。