文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

自発的隷従論/ボエシ

 

これほど多くの論点を提起している本は、珍しい。ちくま学芸文庫から刊行されているエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」は、翻訳者自身による解説のみならず、20世紀の思想家たちや監修者である西谷修氏による解説が含まれている。それぞれの執筆者の立場が多様であることから、そこで提起されている論点も多岐に渡るのである。

 

 

「自発的隷従論」はフランス人であるボエシ(1530-1563)が、16才(1546年)か18才(1548年)のときに書いた論文である。ボエシの早熟振りには驚かされる。ボエシの思想的背景について、本書の訳者である山上浩嗣氏は、次のように述べている。

 

- キケロアリストテレスプラトンの影響を背景に、さまざまな古典的著作からの引用を重ねる彼の手法は、当時の大学においてむしろありふれたものだったという批評は可能である。(P.141)-

 

つまり、若いボエシには当然のことながら人生経験が少なく、人間社会の仕組みについて、彼は、古代ギリシャ古代ローマ哲学書や逸話などを題材に学習していたのである。ボエシの「自発的隷従論」は、必ずしも論理的だとは言えない。これは哲学的な論文と文芸との中間に位置するようなものだと思う。従って、この論文を論理的に分析するには、困難が伴う。そこで思案する訳だが、私はまず、ボエシが想定していた人間の区分に従い、それぞれのタイプをボエシがどう評価していたのか、そのことを整理してみたいと思う。「自発的隷従論」に登場する人間のタイプは、圧政者、共謀者、学識者、民衆の4種類である。

 

圧政者・・・悪い政治を行う独裁者のこと。「ひとりの者が十万の人々を虐待し、その自由を奪うなどということが、あらゆる国々で、あらゆる人々の身の上に、毎日生じている。(P.18)」 また、「圧政者は決して愛されることも、愛することもない(P. 76)」のであって、「圧政者は、自分の意志こそが道理であるとみなすこと、仲間など一切もたず、すべての人の支配者であることをもって旨とする(P. 77)」のである。そしてボエシは圧政者の孤独について。次のように述べている。「圧政者は、自分の下にすぐれた者がひとりもいなくなるまでは、権力をその手にしっかりつかんだとは決して考えないものだ。(P. 51)」

 

共謀者・・・共謀者とは「圧政者たちから与えられる直接間接の好意、直接間接の恩恵のせいで、結局のところ、圧政から利益を得ているであろう者(P. 67)」のことである。また、共謀者は「圧政者に尻尾をふり、この者の支配と民衆の隷従から利益を得ようとする(P.70)」連中のことである。そして共謀者は「圧政者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。彼の命に従って働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さねばならない。(P. 70)」。

 

学識者・・・「いつの世にも、ほかの者よりも生まれつきすぐれていて、軛(くびき)の重みを感じ、それを揺さぶらずにはいられない者がいる。そんな者たちは、決して隷従には飼い慣らされず、(中略)自分の自然の特権について考えたい気持ちを抑えることができ(P.44)」ないのである。「彼らは、たとえ自由が世界中から完全に失われたとしても、みずからの精神においてそれを想像し、感じとり、さらにはそれを味わうだろう。(P.45)」

 

民衆・・・「哀れでみじめな、愚かな民衆よ、みずからの不幸にしがみつき、幸福には盲目な人々よ! (P. 21)」。「このような災難、不幸、破産状態は、いく人もの敵によってではなく、まさしくたったひとりの敵(圧政者)がもたらしている。そしてその敵をあなたがたは、あたかも偉大な人物であるかのように敬い、その者のためなら勇ましく戦争に行き、その威信のためなら、自分の身を死にさらすことも決していとわないのである。(P. 22)」

 

これでボエシの人間観の概略は、お分かりいただけただろうか。1つのポイントは、結局、自発的に権力に隷従している者は、上記のうち共謀者と民衆であるということだ。

 

次にボエシは、人間が自発的隷従へと向かうメカニズムについて説明している。ボエシはまず、人間の自然状態という概念を措定する。そして、自然状態において人間は自由を希求しているはずだ、と考える。例えば野生動物を見るがいい。捕まえようとすると、彼らは必死になって、人間の手から逃れようとするだろう。それと同じで、自然状態にある人間だって、自由がどれ程大切なのか、身に染みて分かっているはずなのだ。そんな自由を求める自然状態にある人間が、何故、自発的に権力に隷従するようになるのか。ボエシはそこで、「災難」という言葉を持ち出す。自然状態にある人間が、何らかの災難を経験することによって、本来は命と同じ位大切な自由を、いとも簡単に手放してしまう。

 

続いて、ボエシは災難とは習慣と教育だと述べる。

 

- 習慣はなによりも、隷従の毒を飲み込んでも、それをまったく苦いと感じなくなるようにしつけるのだ。 (P. 35)-

 

- 教育はつねに、自分の流儀で、どうしてもわれわれを自然に反して作りあげるものだ。 (P. 36)-

 

自由を希求する自然状態の人間

 ↓

災難(習慣と教育)

 ↓

自発的に権力に隷従する人間

 

では、どうすれば人間は自発的隷従の罠から逃れることができるのか。その方法はないのだろうか。この点、ボエシは次のように述べている。

 

- あなたがたは、わざわざそれから逃れようと努めずとも、ただ逃れたいと望むだけで、逃れることができるのだ。もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨象のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。 (P. 24)-

 

本当だろうか? 人間はそんな簡単な決意によって、自由を獲得できるのだろうか? そんな懐疑的な印象を持つのは、私だけではあるまい。そして、ボエシの思考は続く。

 

- しかしながら、医師たちはなるほど、不治の傷には手を触れぬようにといつも忠告する。そこで私も、上のことに関して、民衆に説教を試みることが賢明だとは思わない。彼らは長らく判断力を完全に失ってしまっているのであり、もはや自分の不幸をも感じとれないことからして、その病が致命的だということが、十分にうかがえるのだから。 (P.24)-

 

ボエシに言わせれば、民衆とは不治の病に侵された愚か者ということになる。そして、ボエシは、次の結論へと至る。

 

- 私としては、圧政者と共謀者に対する格別の罰を、神が来世で用意してくださっていると確信している。 (P.81)-

 

しかし、本当のことを言えば、来世なんてものはどこにもないし、神も想像上の産物に過ぎない。つまり、若き日のボエシは、自発的隷従という人間の愚かな習性に対し、これといった解決策を提示できずに、この論文に幕を引いたのである。

 

蛇足かも知れないが、整理をしてみよう。

 

圧政者・・・圧政者は、いつ身内から裏切られるか分からない。暗殺される可能性だってある。そういう孤独な存在が、圧政者なのである。そして、圧政者は孤独であるが故に、圧政を続ける宿命にある。ボエシは、圧政者を非難している。

 

共謀者・・・共謀者は、圧政から何らかの利益を掠め取ろうとして、自発的に圧政者に隷従する者である。ボエシは、共謀者を非難している。

 

学識者・・・学識者は、自由の意味を知っており、権力に隷従しない。しかし、学識者は少数なのであって、圧政に対抗することは困難である。

 

民衆・・・民衆は、愚かなるが故に、自発的に権力に隷従する。しかし、その病は不治なのであって、民衆を説得しようと試みることに意味はない。ボエシは、民衆を愚かだと言ってはいるが、非難はしていない。

 

これがボエシの考えた当時のフランス社会の構造なのである。異論があるかも知れないが、私はこのように「自発的隷従論」を絶望の書として読んだのである。

 

では、本書を監修した西谷修氏が何故、470年以上も昔の論文を発行しようと考えたのか。それは西谷氏が、現在の日本と日本人の状況について、自発的に隷従するという本質を見ているからなのだろう。西谷氏は、次のように述べている。

 

- 世界戦争以後のとりわけグローバル化した世界では、支配秩序は一国規模にとどまらない。占領下の日本の統治がアメリカの権威のもとに置かれていたように、そして冷戦下でアメリカが「自由世界の盟主」であり、日本がその「核の傘」の下にあったように、日本の統治構造、それに支配層やエリート層にとっては、アメリカ(とその大統領)は他でもない世界秩序の頂点に立つ「一者」にあたっている。そしてその「一者」の支配秩序を日本に浸透させ、日本を他に類のない「親米国家」に仕立て上げているのが、支配エリートたちのこの「自発的隷従」なのである。 (P.240)-

 

まさにその通りではないか? 但し、上に引用させていただいた西谷氏の言葉の中に、私は、微かな希望を見るのである。日本が米国に従属しているその理由が「自発的隷従」にあるのだとすれば、それを止めれば、日本は米国から独立できるかも知れないのだ。ボエシが言った「共謀者」、西谷氏が言っている「支配エリート」たちに思い知らせることができれば、日本が独立することだって、不可能ではない。

 

「自発的隷従論」は、今日に至るまでの射程を持った普遍的な名著だと言える。

 

 

自由とは何か

 

前回の原稿で、権力を構成する3つの要素について述べた。

 

  • 暴力
  • 思想
  • 経済

 

シンプルな例で、少し、補足したい。

 

昭和の時代に、頑固親父と放蕩息子がいたとしよう。頑固親父は、戦時中に青年期を過ごし、特段、オリジナルな思想というものを持ち合わせていなかった。一方、放蕩息子は初恋に胸を焦がし、ロックバンドに夢中になっていた。学校には全く興味が湧かず、勉強なんてものはくだらないと思っていた。頑固親父は、そんな放蕩息子をしょっちゅう殴った。最初は平手打ちだったが、一向に効果がないと知ると、今度は拳固で殴った。放蕩息子の方は、しょっちゅう鼻血を出していた。

 

何せ、頑固親父は突然怒り出すので、放蕩息子の方は戦々恐々とした日々を過ごしていた。頑固親父の決まり文句は2つあった。1つ目は「親の言うことが聞けないのか!」というもので、2つ目は「学費を出してやらないぞ!」というものだった。

 

そこで私は、いや、放蕩息子は考えたのだった。何故、自分は頑固親父に勝てないのか。その理由は、圧倒的に頑固親父の方が権力を持っているからだった。では、その権力の背景には何があるのか。そして、上に記した3つの要素に行き着いたのだった。

 

まず、暴力がある。ひと度、暴力を振るい始めると、頑固親父は錯乱状態に陥る。下手に反抗すると、何をしでかすか分からない。殺されるかも知れない。従って私は、ひたすら身体的な痛みに耐える他はなかったのである。次に、思想がある。頑固親父としては、親は子よりも偉いと考えていたのである。これは統一教会などが主張している家父長制に立脚したものだ。女よりも男の方が偉い。年少者よりも年長者の方が偉い。そういうことを前提とした思想なのである。そして、3つ目は経済だ。何しろ放蕩息子は、金を持っていなかった。家を追い出されて、学費を自分で稼ぐことなど、とても考えられなかった。そこで、頑固親父の権力に屈する他はなかったのである。

 

しかし、そんな権力は長く続かない。やがて放蕩息子は成長し、頑固親父よりも立派な体格になった。すると、頑固親父は暴力を振るわなくなった。自然の成り行きである。また、放蕩息子は様々な経験を積み、本を読み、考えるようになった。そして、思想的に頑固親父を凌駕するようになったのである。最後に、放蕩息子はなんとか就職し、経済的に自立したのだった。これで、放蕩息子は頑固親父の権力から完全に脱したのである。但し、言うまでもなく社会に出た放蕩息子は、より大きな権力と向き合わなければならなかった。

 

さて、上に記した例は、言わば小さな権力である。では、もっと大きな、例えば国家権力についても3つの要素に分解して考えることはできるだろうか。私は、できると思う。国家権力について分析しようと思えば、憲法がその素材となるだろう。憲法とは、国家権力に歯止めを掛けようとするものだ。従って、憲法を分析すれば、国家権力の類型を導き出すことが可能となる。

 

暴力の本質は、身体に対して直接的な影響力を行使することにある。そして憲法は、第18条において奴隷的拘束および苦役を禁止すると共に、第36条において拷問や残虐刑を禁止している。次に思想についてだが、憲法は第19条において思想および良心の自由を保障している。経済について憲法は、第25条において文化的な最低限度の生活を保障すると共に、第29条において財産権を保障している。

 

では、権力に対抗する概念とは何か。憲法には自由、権利、人権などの用語が登場する。権利と人権とは、ほぼ、同じ意味だろう。そしてこれらが措定するのは、国家権力によって侵害されることのない事柄を意味しているに違いない。これは消極的な意味を持つ。他方、自由という言葉には、積極的な意味も含まれるだろう。権力とは離れて、自ら何かを創造しようとする積極的な意味をも包含するに違いない。ここでは、より普遍的な意味を含む自由という言葉を採用しよう。

 

では、自由とは何か。

 

権力に関する3つの区分をベースに考えてみよう。

 

まず、自由とは暴力から解放されることである。

 

次に、自由とは、あらゆる洗脳から解き放たれ、自らの思想を持つことに他ならない。

 

そして、自由とは、経済的に自立し、必要な、若しくは欲しいと思う財産を取得し、維持できるだけの経済力を保持することである。

 

自由という言葉は、広い意味を持っている。そこには、前述したような反権力としての消極的な意味があると同時に、権力を超越した脱権力としての積極的な領域が含まれているに違いない。

 

権力 - 反権力(消極的自由) - 脱権力(積極的自由)

 

ここまで考えると、個々人の生き方に関する説明も可能となる。権力を求める人もいれば、自由を求める人もいるからだ。私は、自由を求めるべきだと思う。永遠に続く権力などというものは、存在しない。完璧な正義というものも、人類史上、確認されたことはない。しかし、権力が粗暴で、醜悪であるということだけは、確かなのだ。だから、人間は自由を求めて生きるべきなのだと思う。

 

権力とは何か

 

権力は「知」を背景とするが、往々にして権力は「知」を捻じ曲げ、抑圧し、骨抜きにする。例えば、企業にとって法令を遵守すること、すなわちコンプライアンスが重要だという「知」は、もう何十年も前から一般化されている。しかしながら、近年においても企業の不祥事は絶えない。これはコンプライアンスという「知」を、企業経営者が無視している証左に他ならない。自動車業界で言えばトヨタグループの日野自動車ダイハツ豊田自動織機らの認証試験に関わる不正、日産自動車の下請法違反などが記憶に新しい。

 

モンテスキュー三権分立を説いたのは1748年のことだが、日本においてそれが機能しているとは言い難い。国会における与党から内閣総理大臣が選任され、内閣は最高裁の裁判官を任命できる。すなわち、日本においては総理大臣が立法、行政、司法の3権を掌握できる仕組みになっているのだ。自民党議員の裏金問題について、検察が及び腰だったのも無理のない話なのである。彼らの上司は、法務大臣なのだから。日本の検察は権力者の味方なのであって、彼らに正義を期待することはできないと思う。

 

権力の起源を考えると、最初に存在したのは暴力だろう。これは、動物の世界にも見られる。次に、シャーマニズムが登場し、宗教的な「知」が生まれ、これも権力を構成した。宗教上の「知」は、人々の思想を統制するものだ。やがて貨幣が登場し、経済力を背景とする権力が生まれた。権力の基本的な要素はこれら、暴力、思想(統制力)、経済の3つだと思う。

 

私はかねてより、上記のように考えてきたが、誰か同じようなことを考えていた人はいないものだろうか。そう思っていた訳だが、遂に発見した。「政治学のナビゲーター」という本(文献1)は、大学生を読者として想定して書かれたものだと思われるが、高齢の私でも興味深く読むことができた。その中に、次の記述があった。

 

- 実体説は、権力を、暴力(物理的強制力)、財力(経済的強制力)、影響力(心理的強制力)など、人間が保有する何らかの力としてとらえる。権力を目に見えるものとしてとらえる、やや古典的な権力観である。 (文献1 P.5)-

 

Bingの人口知能で調べてみると、この説は、ジョン・ロックが人間悟性論(1690年)の中で提唱したものらしい。文献1はこの説にやや批判的な立場を採っている。そして、その後で、関係説を次のように紹介している。

 

- 政治学の発達に従って登場したのが、関係説である。関係説では権力を行使する側と行使される側の相互作用から権力関係が成立すると考える。権力の行使は、権力者から相手(権力を行使される側)に対して一方的になされるのではなく、相手の反応によって権力者の強制力行使の程度は変化する、と考えるのである。 (文献1 P.5)-

 

私としては、この関係説に価値を見出すことはできない。例えば、現在ガザ地区で行われているイスラエルによるジェノサイドを見るがいい。パレスチナ人の反応など関係なく、女性や子供を含めて皆殺しにしているのだ。また、実体説における影響力(心理的強制力)を「思想統制力」と解釈すれば、これは私の説と同等なのである。

 

では、権力の3要素について、順に考えてみよう。

 

まず、暴力。昔の日本社会においては、現在よりも暴力が横行していた。実際、私は親や教師に殴られた経験が少なくない。現在の常識からすれば、ちょっと信じ難いかも知れない。昔は、どこの学校にも竹刀を持ち歩いている教師がいたのではないか。それは威嚇の意味もあったのだろうが、実際に竹刀で生徒を叩いていたのだ。

 

次に、思想。大学を卒業して私が就職した会社には、民社党系の労働組合があった。そして、この組合が洗脳教育を徹底し、選挙活動を強制してくるのだった。嫌悪感しかなかったが、上司である管理職までも結託して、思想統制を行ってくる。民社党やその系列の労組の思想とは、簡単に言うと反共思想だった。とにかく、共産党の悪口しか言わない。最近になってネットで調べてみると民社党は、CIAから資金援助を受けていたらしい。どこか、統一教会に似ている。そんな思想を会社ぐるみで強制するのだから、悪質、低レベルとしか言いようがない。幸い数年後にはその労組のトップが失脚し、思想統制は急速に緩和されていったのだが。

 

現代の日本社会において、上記のようなあからさまな思想統制は、影を潜めてきたのではないか。反面、マスコミによる洗脳が横行しているに違いない。それはそれで、悪質だと思う。テレビばかりを見ている人は、高い確率で自民党支持者になるに違いない。

 

最後に、経済。簡単に言うと、経済的に自立している人、裕福な人が自由に暮らすのは、左程、困難なことではない。労働から解放されれば、気ままな暮らしが可能となる。他方、経済的に余裕のない人は、あくせくと働かざるを得ない訳だ。これが現代日本社会における最大の権力構造だと思う。権力者は、労働者を貧困にさせることによって、つまりはお金の力によって、縛り付けているのだ。それは明らかに、意図的に行われている。非正規労働を導入し、最低賃金は低水準に抑え、更には移民を導入することによって、更なる低賃金化を目指している。

 

このように考えると、行使されている権力を分析すれば、文明や社会、若しくは国家の構造が見えてくる。日本は、未だに暴力や思想統制が横行している北朝鮮のような国よりは余程マシだとは思うが、多くの権力者たちが拝金主義に陥っている理由も見えてくるのである。

 

文献1: 政治学のナビゲーター/甲斐祥子・宮田智之 著/北樹出版/2018

 

ブルーの相棒

 

一昨日から本日に掛けて、2泊3日で房総半島(千葉県)の南端に行ってきた。

 

もうお酒を飲むことは諦めざるを得ないようだ。ブルーの相棒だけが、今の私の励みとなっている。

 

ブルーの相棒

昨日は嵐のような天候だったが、初日と今日は天候に恵まれた。

 

野島崎灯台

最近、次の本を読んだ。

 

〇 ヒトラーユダヤ人/大澤武男/講談社現代新書

 

〇 ナチスの「手口」と緊急事態条項/長谷部恭男・石田勇治/集英社新書

 

〇 政治学のナビゲーター/甲斐祥子・宮田智之/北樹出版

 

いろいろ思うこともあるので、近いうちに原稿にまとめたいと思っている。

 

夕暮れ

 

14日目の断酒生活

 

大腸ポリープを切除した関係上、私は、医者から飲酒を禁じられたのである。この禁酒は、9日間続いた。この期間については、「禁酒期間」と言おう。9日も酒を飲まずにいると、流石に体調は良くなる。胃酸の逆流による胸の痛みも発生しなかった。そこで私は、少しだけ酒を飲んでみることにした。すると残念ながら、物の見事に胸の痛みが再発したのだった。こうして、胸の痛みと飲酒との間に明確な因果関係が認められたのである。これはいけないということで、今度は自発的に酒を断ってみた。この期間は「断酒期間」と言おう。そして、断酒してから、今日で14日目なのである。

 

冷気を吸い込むと、胃酸が逆流する。寒い日、風の強い日が続いたこともあって、私は、あの強烈な胸痛を忘れずに過ごしてきたのだ。そんなこともあって、私は、14日にも及ぶ断酒生活を成し遂げることができたに違いない。但し、今日はとても暖かく、胃酸が逆流する気配を感じない。どうしよう。少しだけ、飲んでみようか。そんな気にもなる。

 

お酒を飲まない人は、それがどうしたと思うだろう。しかし私は、過去50年に渡って酒を飲み続けてきたのである。50年も続けてきた生活習慣を変えることがどれほど大変か、そのことを想像していただきたい。

 

断酒生活において、私が気をつけているのは、比較的簡単な事柄だ。

 

・腹八分目

・食後、3時間は横にならない。

・特に食後は、姿勢を正す。

・煙草の本数を減らす。

 

そんな生活を続けていると、良いことも起こる。1つには、生活費が大幅に削減されるということだ。今日まで私は、如何に酒にお金を費やしてきたのか、そのことを思い知らされた。また、ダイエット効果もあった。私は、2022年の11月に体重が69.7キロまで増加し、以後、入浴ダイエットに務めてきた。入浴ダイエットは時間さえあれば、楽にできる。とにかく、風呂に入って汗をかくという方法だ。これで私は7キロ痩せた。これ以上は無理かなと思っていたのだが、断酒生活によって、更に3キロ痩せた。合計10キロ。できないと思っていることでも、ひょんなことから、それが可能になる場合もあるのだ。一般に1キロ痩せるとウエストは1センチ縮まると言われている。これは私の実感とも合致するのであって、私のウエストは、10センチ位縮まったのである。

 

また、食後3時間は横にならないということを厳守していると、昼寝の習慣がなくなるのだ。大体、眠くなるのは食後だが、3時間もたつと眠気が失せてしまう。昼寝をしないと1日が長く感じる。することがない。本でも読むかということになり、ここのところ読書が捗っている。では、最近読んだ本を紹介しよう。

 

1.「人口ゼロ」の資本論

  - 持続不可能になった資本主義 -  大西 広 著

 

2.資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか  ナンシー・フレイザー 著

 

上記の2冊について、私は、政治学者である白井聡氏の動画によって知った。興味のある方は、是非、ご覧ください。

 

【白井聡 ニッポンの正体】社会も仕事も回らない!~人口減は、資本主義の終わり~ (youtube.com)

 

3.デモクラシーの宿命  猪木武徳 著

 

4.ザイム真理教  森永卓郎 著

 

そして今は、「ヒトラーユダヤ人」(大澤武男 著)を読んでいる。私がこれらの文献を消化するためには、今少し、時間が掛かるかも知れない。

 

最後になるが、大西恒樹氏の動画も紹介させていただこう。

 

株価上昇という悲報を解説する@大西つねきのパイレーツラジオ (youtube.com)

 

私たちが生きている現代の文明社会にはおかしなことが沢山あって、それは多分、持続可能ではない。そのことに気づいている人たちが、思想上の試みに挑戦している。私たちに残された時間は、あまり長くないのかも知れない。大きな破綻がやって来るとすれば、それは多分、アメリカから始まるのだろうと思う。

 

 

ブルーのスイフト・スポーツ

 

いくつになっても、新たにクルマを手に入れるのは嬉しいことだ。ここのところ、病気続きだった私だが、今日は久しぶりに笑みがこぼれた。

 

私自身が老いぼれてきたので、せめてクルマだけでもと思い、少し派手な色を選んだ。

 

スピーディー・ブルー・メタリック

 

 

脱権力としてのアナーキズム

 

2月8日に大腸ポリープの切除を受けた訳だが、その後、女医は私にこう言ったのだった。

 

女医・・・今後1週間、お酒は控えてください。それから、熱いお風呂もダメです。

 

煙草はどうなのだろう。そうは思ったのだが、どうせダメと言うに決まっているので、私はそのことを質問しなかった。私は、病院を出ると近くの喫煙所へと直行し、続けて3本吸ったのである。

 

何故、酒や風呂がダメなのかと言うと、切除した箇所から出血するリスクがあるからなのだ。煙草は止められないので、せめて酒だけは止めようと思い、私の禁酒生活がスタートしたのだった。それも今日で8日目となる。その間私は、グラス1杯のビールも、おちょこ1杯の日本酒さえも口にしてはいない。ポリープ切除のダメージが残っている間は、酒を飲まないことに左程の苦痛は伴わなかった。しかし、すぐに切除に関する記憶は薄れる。ましてや、何の痛みもないのである。一昨日頃から、次第にアルコールが恋しくなってきた。解禁日は、明後日である。今から、その瞬間のことを妄想している。どこの店へ行こうか、やはり最初の一口は生ビールにしようか、つまみは何にしようか。そんなことばかりを考えているのだ。

 

胸の痛みが発生する前、私は、週に3日程、近くの日帰り温泉に通っていた。午前中からたっぷり2時間はかけて、温泉につかる。その施設には適当なレストランがあって、風呂上がりの生ビールを2~3杯、堪能する。これはたまらない。帰宅すると直ちに横になり、2時間程、昼寝をする。ああ、もう他には何も望むことはない! そのような生活を送っていたのだが、あの忌まわしい胸痛(きょうつう)によって、私の暮らしは一変したのである。

 

温泉に行かず、ビールも飲まず、昼寝もしない。そのように暮らしてみると、大きな変化が生ずる。まず、あの胸痛が嘘のように消えたのだ。これで症状が改善されたのか、酒を飲むと再びあの胸痛が再発するのか、それは分からない。2つ目の変化としては、1日が長くなったということである。特に夕食など、あっと言う間に終わってしまう。ゆっくり晩酌をしていた頃は、ミステリードラマ1本を見終わるようなこともあった。しかしアルコールを抜くと、夕食なんてゆっくり食べても30分もかからない。結果として、ミステリードラマは4日に1本見る計算になるが、これだと見終わる頃にはストーリーを忘れている。一体、どのような殺人事件があって、この刑事はこのような捜査をしているのか。それが判然としなくなる。

 

いずれにせよ、長い1日をどう過ごすかという問題だが、結局、本でも読もうということになる。とりあえず、次の本を読んだ。

 

アナキズム / 栗原 康 著 / 岩波新書

 

これは大変、面白かった。なお、表記の問題だが、アナーキーと記して、何故、アナーキズムと記さないのか。実際の発音からしても、ここはアナーキズムと記すべきだと思うので、本稿はその表記を採用する。

 

さて、アナーキズムとは何か、ということを説明する必要がある。一般的には、無政府主義と訳されるが、これでは本来のアナーキズムの一部を説明したに過ぎない。アナーキズムとは、もっと広範な意味を持つ言葉なのだ。栗原氏は、次のように述べている。

 

- 「だれにもなんにも支配されないぞ」とか、「統治されないものになれ」ってのがアナーキーになる。で、それを思想信条としましょうってのが、アナキズムだ。(中略)政府ってのは、統治の一機関だからね。それで「無政府主義」とも訳されたりするのだが、まあまあ、政府だけじゃなくて、あらゆる支配はいらねえんだよってのが、アナキズムだ。 (P. 9)-

 

- 社会の支配から離脱していこうという意志 (P. 237)-

 

では、私が印象に残った本書の要旨を記そう。

 

とかくこの世には、支配者と被支配者が存在する。政府と国民。経営者と労働者。夫と妻。数え上げれば切りがない。このような支配関係の中で、多くの人々が自己を規制し、不本意な人生を送っている。そのような支配を否定し、自己を解放し、今を生きようではないか。例えば、暴力的なデモに参加して自己を解放した際、人間は曰く言い難い高揚感に包まれる。そして、そのような経験を積むことによって、自分にはできないと思っていたことが可能となったり、自己の生が拡張されたりするのだ。

 

自己の解放とは、時として違法性を帯びる。実際、今日まで多くのアナーキストが投獄されてきたのである。そこまではできない、と思う人も多いだろう。しかし、少なくともアナーキズムは、人間がその生を新たなものとして生まれ変わる、変革する力を持っているのだ。人間には、未だ知られていない可能性がある。

 

要約は以上である。いくつかの視点から考えてみたい。

 

まず、文化人類学的な視点から。人類は太古の昔から、高揚感、エクスタシーを求めてきた。例えばそれは、三日三晩踊り続けることによって、自分の身体を傷つけることによって、得られる。そして、そこから人間は啓示を受け、仮説を立ててきたのだ。これは文明の起源だとも言える。このような観点からすれば、アナーキズムは閉塞した現代に対し、太古の知恵をもって対抗しようと主張しているように思える。

 

次に、精神分析的な観点から。フロイトは、人類には物事や他者を包摂しようとするエロスが備わっており、その対極として、他者を攻撃し、排斥しようとするタナトスがあると主張した。タナトスは「破壊欲動」と訳される。全てを破壊してしまいたいと願う、その衝動のことである。そしてフロイトは、タナトスこそが人間を戦争へと駆り立てる原動力だと述べた。アナーキズムは、人間の理性を超えて、このタナトスを解放しようと主張するものではないか。

 

文学的な観点から言えば、アナーキズムは近代以降の犯罪小説と似ている。例えば、三島由紀夫の「金閣寺」においては、金閣寺に放火することによって自己を解放しようとした主人公が描かれている。もちろん、放火という行為は犯罪であって、社会的に許容される行為ではない。しかし、主人公が自らを解放するためには、それ以外に手段はなかったのである。

 

最後に私の文明論に照らして考えてみよう。私の主張はこうだ。文明は身体を中心とした文化領域から出発して、やがて、身体に対するアンチテーゼとして「知」が生まれた。「知」は必然的に権力を構成し、権力が社会秩序を作った。そして近代以降、この権力に対抗する、若しくは権力と相容れない主体というものが認識されるに至った。アナーキズムとは、この権力や秩序に対抗して主体を賛美する思想なのだ。

 

アナーキズムは、一見、反知性主義と類似するように見える。しかしその内実は、反知性主義とは、全く異なるのである。思考に思考を重ねて生み出された、人間が主体を守る、解放するための方法論なのである。

 

アナーキズムは、閉塞し切った現代社会において、何とかそれを打破しようとする1つの試みだと言えよう。但し、私はアナーキストになろうとは思わない。それは、とても過酷な選択だと思うし、第一、既に年老いた私は、自己の内面にタナトスを感じ取ることができないのである。

 

また、本書にはもう1つ重要な主張が含まれている。権力をもって、権力に対抗しようとしてはいけない、というものだ。例えば、経営者に対抗するために強固な組合を作るとする。すると、今度は組合自体が権力構造を持ち、組合員を支配しようとするのだ。これでは、何も変わらない。日本の政治で言えば、自民党に対抗する組織として、共産党が存在する。しかし、共産党員になると、今度は共産党から支配を受ける。昨年、松竹さんという党員の方が、党首の公選制を求めた。するとあろうことか、共産党は彼を除名したのである。何という非民主的な政党だろう。従って私は、労働組合共産党も大嫌いなのである。

 

アナーキズムとは、反権力ではなく、脱権力なのだと思う。