文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

コロナと自然科学

 

結局、現在、コロナウイルスがどのようなメカニズムによって感染しているのか、誰にも分かっていないのではないか。

 

基本的なことを言えば、1)飛沫感染、2)物を経由した感染、3)空気感染 の3種類があると思う訳だが、現在の主流は「空気感染」にあるのではないか。そうでなければ、百人を超えるようなクラスターが発生している現状に対し、説明がつかない。では、この空気感染は屋外で、すなわち外気の中でも発生するのだろうか。多くのクラスターは、医療機関、老人ホーム、学校などの「屋内」で発生している。しかし、屋外における空気感染についての論議が一向に報道されない所を見ると、分かっていないに違いない。

 

感染経路についても、その詳細は分かっていない。

 

そもそも、現在、日本国内に蔓延しているコロナは、何型なのか。コロナウイルスの変異は、武漢型、東京・埼玉型、欧米型とあった訳だが、最近、イギリス型と南アフリカ型が出て来て、昨日あたりから更にその変異型が日本に流入しているという報道がある。

 

では、現在、日本に蔓延しているコロナウイルスに対して、有効なワクチンはあるのか。この点、アメリカ製のワクチンは、イギリス型にまでは有効であろうという予備的な研究結果が発表されているようだが、その研究のスポンサーは2社のワクチンメーカーである。とても信じられるような代物ではない。

 

結局、現代の自然科学のレベルは、はなはだ不十分なのだ。ジグソーパズルに例えてみよう。7つのピースを正しく組み合わせると1つの絵が完成するとしよう。自然科学は、そのうち4つのピースを提供することができる。しかし、残る3つのピースを提供することができない。従って、自然科学に頼っていては、永遠にこの絵を完成させることができない。

 

では、残る3つのピースを探す方法について考えてみよう。

 

1つ目は、組み合わせだ。人間の直観力と言ってもいい。古代人が病を治すために片っ端から、様々な草木を煎じて飲んで、漢方薬を探し当てたのと同じ方法で、現代人は今、コロナに有効な物質を探している。抗エイズ薬はどうかとか、実は紅茶が効くのではないかという話があった。今日になって、ある日本メーカーの薬品が有効だという説が出てきた。何かが発見されることを祈るばかりだ。

 

次は、想像力だと思う。リスクマネジメントの世界では、よく、最悪の事態を想定せよと言われる。但しこれを英語で言うと、Worst Case Scenarioということになる。すなわち、最悪の事態に陥る道筋(シナリオ)を考えろ、という意味だ。では、私なりに想像力を働かせて、最悪のケースを描いてみよう。

 

既に日本には新型のコロナウイルスが蔓延している。その感染力は、強大だ。従って、感染者数は指数関数的に増え続ける。また、ウイルスは進化を続け、世界中で次々に変異種が発見される。そして、それらの変異種に対して、現在、日本政府が導入を予定しているアメリカ製のワクチンは効力を持たない。医療は既に崩壊しているが、更に医師や看護師の退職が止まらず、営業を止める病院が出てくる。自宅や路上で死亡する「変死者」が増加する。医療が崩壊すると、介護や学校へとその影響が連鎖する。やがて、地下鉄が止まり、東京の首都機能が失われてゆく。

 

嫌な気持ちにさせて申し訳ないが、リスクマネジメントというのは、現実を直視することによってしか成り立たない。また、上記のシナリオを阻止するために現在すべきことは何か、それを考えることが大切だ。感染拡大を防止できないのであれば、感染してしまった後の対応体制を強化する以外に方策はない。換言すれば、それは病院を、医療従事者を守ることではないか。彼ら、彼女らの要望を聞き、即座に対応していく。そういうことを政府はやるべきなのだ。防護服が足りないのであれば、政府は全力を挙げてこれを提供すべきだ。一律100万円のボーナスだって、支給すればいい。

 

3つ目のピース。それは言葉の力だと思う。リーダーが持つ言葉の力によって、人々の心をまとめ、総力を挙げて困難を克服していく。人間には、そういう歴史があるはずだ。ドイツのメルケル首相のように、日本のリーダーも国民に対し語り掛けるべきなのだ。最近、スカ総理の会見とか、NHKの番組などを見たが、あきれるばかりだった。質問には答えず、予め準備した原稿を読み上げる。私は、失望しか感じなかった。人々を感動させる言葉というのは、考え抜いた者だけに許されているのだ。考えていない人間の言葉は、軽い。最近、スカ総理は馬鹿なのか、それとも馬鹿のフリをしているのかという論議があるが、私は前者の方だと思う。

 

まとめよう。最近、科学万能主義とも呼ぶべき風潮がはびこっていて、私は、これに異議がある。

 

「科学的根拠を示せ!」

エビデンスはあるのか!」

「データーを出せ!」

 

こういう人たちの気持ちは、分からないでもない。しかし、現代の自然科学のレベルは、ある意味、とても低いのだ。科学では解決できない困難に直面している現在、科学万能主義は機能しない。そして、私としては、直観力、想像力、言葉の力によって、自然科学では解明できない課題に立ち向かうべきだと考える次第だ。

 

休日中は、PCR検査の件数が少ない。よって、休日明けの初日に検査数が増える。その結果は、3日後に判明する。こういう原理がある訳で、すると現在の3連休明けの翌日に検査数が増え、その結果は、次の金曜日(1月15日)に出ることになる。とんでもない数値が出ないことを祈っている。もう、手遅れなのかも知れないが・・・。

 

#スガは辞めろ

#尾身も辞めろ

#小池も辞めろ

 

コロナが襲った呪術の国

昨日、東京都の感染者数は1591人で、全国ベースでは約6千人だった。メディアもこの話題で持ち切りだが、私にはいくつかの不満がある。

 

まず、感染の原理についての解説が少ないことだ。素人ながら思うに、人間の発声、咳、くしゃみなどによって飛沫が拡散し、それが 1)直接他人を感染させる、2)物を介して感染させる、3)空気を通じて感染させる、という3種のパターンがある。すると、マスクの着用が重要なのであって、マスクをしていない時には声を出さない、声を出すのであれば、必ずマスクを着用する、というモラルを徹底することが重要ではないのか。例えば、ビジネスパースンたちのランチは、重大なリスク要因となっているのではないか。ネット上では、食後に彼らはマスクもせずに大声で歓談しているとの指摘もある。

 

次に、アビガン。コロナの初期症状には、アビガンが有効だという話があった。そして、日本はアビガンを大量に他国へ供与したのではないか。しかしその後、政府はアビガンを認可しなかった。そうは言っても、自宅療養を余儀なくされるケースは増加しており、その際、何の薬も使用できないよりは、アビガンを利用できるようにすべきではないのか。実際、多くの病院で、既にアビガンを使用しているのではないか。まさか、アメリカ製のワクチンを大量に使用するため、日本製のアビガンを抑制しているということはないと思うが・・・。

 

GoToキャンペーンもはなはだ、疑問である。これ、昨年の12月27日までは実施されていた。冬になって気温が下がれば、コロナの感染が広がるということは、素人でも分かる。旅行に行けば、旅行先で食事をする。GoToキャンペーンがコロナを全国に拡散させたのではないか。

 

最後にオリンピック。そんなもの、できるはずがない。

 

ところで、人間の世界を「生存領域」と「認識領域」に分けるという考え方だが、簡単に述べてみたい。

 

かつて人間は、狩猟・採集を生業としていた。集団で暮らし、その空間が全てだった。狩猟・採集から、農耕・牧畜へと転換していく途中の段階で、人間は「家」を発明する。家ができたことによって、私的領域が生まれる。同じ家で暮らす者、それが家族だとも言える。反射的効果として、家の外に職業領域が生まれる。分業が進むにつれ、職業領域は分化して行ったに違いない。そして、哲学から分岐した科学が生まれ、学問が発達する。それらを子供たちに教育しようということになり、学校ができる。子供たちを秩序化しようということで、狩猟の際に用いていた人間の身体能力を体系化し、スポーツが生まれる。貨幣が流通し、経済領域が拡大する。ざっと述べると、こんな所ではないか。

 

<生存領域>

・私的領域

・職業領域

・科学領域

・教育領域

・スポーツ領域

・経済領域

 

次に、生存領域から「認識領域」が分化する。

 

まず、人間は遊び始める。遊びとは、自らルールを決めるのであって、その点がスポーツとは本質的に異なる。遊びが体系化されると呪術が生まれる。(呪術:物に願いを込める行為)呪術が発展すると芸術が生まれる。芸術が更に発展すると宗教となる。宗教、特にキリスト教から、近代の思想が生まれる。(キリスト教と思想の結節点は、ジョン・ロックである。)

 

<認識領域>

・遊び領域

・呪術領域

・芸術領域

・宗教領域

・思想領域

 

西洋の歴史を鑑みるに、認識領域というのは上記の流れを持っている。では、日本はどうだろう。正月になれば神社へおまいりをし、お札をもらう。それは交通安全祈願だったり、安産や受験に関する祈願だったりする。鏡餅を飾り、門松を置く。そういう人は減りつつあるかも知れないが、これは日本伝統の習俗であって、その本質に変わりはない。すなわち、上の一覧で言えば、「呪術」の段階にある訳だ。

 

日本の食文化は素晴らしいが、言ってみれば、これは「生存領域」にあるのであって、そこから芸術として十分に分化を果たしていない中間的な領域だと言えよう。着物もそうだし、陶芸も同じだ。西洋の絵画は、「生存領域」とは切れていて、そこに実用性はない。他方、日本の屏風絵や襖絵などは、生活空間の中に存在するものであって、「生存領域」から分化を果たしているとは言えない。

 

このような見方をすると、日本人の「認識領域」の水準は「呪術」にあることが分かる。宗教と言っても、それは生活習慣に密着してはいるが、思想性はないのである。結婚式は教会で挙げ、葬式は仏式で、お札は神社へ行ってもらうのである。宗教について、真剣に思考する日本人は、稀だと言っていい。

 

呪術の国。それは日本なのだ。

 

結局、明治維新があって、日本人は西洋の文化を必死に学んだのだろうが、それは模倣を試みたに過ぎないのであって、その本質を理解してはいないに違いない。「認識領域」における日本人の水準は、多分、江戸時代から進化していないのだ。天皇陛下は神様で、総理大臣はお殿様だと思っている。多くの日本人は、芸術、宗教、思想などに興味は持っていない。憲法など、どうでもいいのだ。資本主義や社会主義も、どうでもいいに違いない。そんなことはどうでもよくて、ただ、ひたすらに日々の生活と経済に向き合っている。日本人は徹底的に「生存領域」で生きていて、そこでは世界的に見ても目を見張る技術を持っているのだが。

 

そこに、コロナが襲ってきたことになる。

 

コロナがターゲットにしている領域は、「生存領域」である。これは大変だ。日本人がメインで生きている領域が、今、コロナによって脅かされている。そこでやっと、メディアも政権に対する批判を始めることになったのだ。コロナに襲われて、日本人はやっと重い腰を上げ、思考し始めたに違いない。

 

宇宙、生命、人間、そして文化

宇宙の成り立ちについて、何かの本で読んだ話はこうだった。

 

まず、点があった。その点の中には、全宇宙を構成する質量とエネルギーが存在していた。どこにあったのか。それは、言えない。何故なら、未だ、空間が存在していなかったのだから。いつからあったのか、それも言えない。何故なら、未だ、時間が存在してなかったのだから。

 

そして、その点が大爆発を起こす。ビッグバンだ。その爆発と共に、空間と時間が生まれる。その爆発の影響は今日においても続いていて、宇宙は膨張を続けている。以前は、万有引力の法則があるので、やがて宇宙の膨張は止まると考えられていた。すると、宇宙空間は収束に向かう。一つの点に回帰して行くのだ。面白いのは、宇宙が収束に向かい始めると、時間が逆行するはずだ、と科学者たちは考えていたことだ。時間が、遡る?

 

しかし、その仮説は間違っていることが判明した。宇宙の膨張は今日も続いているが、そのスピードは増加しているのだ。すると宇宙は、永遠に膨張を続けることになる。永遠に膨張を続けるとどうなるかと言えば、宇宙空間の密度は低下する。そして、最後は無に帰するらしい。宇宙がなくなるのだから、もちろん人類は滅びる。但し、そのずっと前に太陽が燃え尽きるので、その時点で人類は滅びるに違いない。

 

この現象を3段階で記すと、最初に点のようなものがある。これをここでは、「起点」と呼ぼう。そして、「起点」が拡散する。最後に、全てが消失する。この3ステップということになる。

 

次に、生命の誕生にまつわる話はこうだ。昔、海底にマグマの噴出する場所があった。そこで、科学反応が起きて、偶然、たった一つの細胞が生まれる。その細胞が分裂を繰り返し、地球に生命体が誕生する。全ての生命体の起源は、偶然生まれたたった一つの細胞だと言われている。魚だって鳥だって、皆、2つの目と鼻と口を持っている。祖先を遡れば、人間と同じだったはずだ。幸い、人類は未だ生き延びているが、既にマンモスや恐竜は死に絶えた。いずれ人類だって、死に絶えるだろう。その時期は、きっと太陽が燃え尽きるよりもずっと前であるに違いない。起点としての細胞があり、それが拡散し、最後は絶滅するのだ。

 

人間はどうか。細胞が分裂して、生命体が生まれ、恐竜の時代にネズミのような動物がいた。このネズミのような動物が進化を繰り返し、サルが生まれる。サルは樹上で生活していたが、気候変動によって、ある時、森が消失する。そして、地上に降り立ったサルが2足歩行を始めたという説がある。サルは原人となり、旧人へと進化を遂げる。そして20万年前に、アフリカのある村で、突然変異が起こる。そして、ホモサピエンスが登場する訳だ。現在、地球上に70億人いると言われる我々ホモサピエンスも、元をただせばわずか数十人の村人に過ぎない。ホモサピエンスは、6万年程前にアフリカ以外の地域へと拡散を始める。ヨーロッパに向かった者は、そこでネアンデルタール人を滅ぼした。ユーラシア大陸へと向かった者は、そこでヒマラヤ山脈の北側ルートに向かった者と、南側ルートに向かった者とに分かれる。そして両者は、アジアで再会を果たす。ホモサピエンスは更に移動を続ける。当時は地続きだったベーリング海峡を越え、北米に渡り、南米大陸へと到達する。

 

ここでも、アフリカのある村を起点として、その後、拡散するという原則を見て取ることができる。人類は、未だ、消滅はしていなのだが。

 

このような原則は、実は、文化にも当てはまるのではないか。

 

ある起点のようなものがあって、それが枝分かれし、拡散していくのだ。そして、拡散すればする程、その密度は低くなり、やがて消失する。先の原稿にならって、人間が生きていくために必要な領域を「生存領域」とし、それ以外の人間が仮説をたて、それを実践し、何かを認識しようとする営みを「認識領域」とするならば、その傾向は特に「認識領域」において、強固なのだと思う。

 

では、認識領域の起点はどこにあったのか。この点は、アイヌ文化において「呪術的仮装舞踊劇」なるものが存在したという事実に出会った時、私は、これだと直観したのであるが、実は、和人の文化においても同じようなものの存在することが分かった。「神楽」(かぐら)である。笛や太鼓が奏でる音楽に合わせ、仮面を被った者が、劇を演じる。ちなみに神楽は、神に捧げる儀式として演じられていたという説もある。してみると、神楽には音楽があり、信仰やアニミズムがあり、コスプレの原点があり、物語(文学)があり、美術があるのだ。芸術や宗教を取り巻く全ての要素が含まれているのである。これを起点として、様々な分岐や拡散を通じ、後の芸術や宗教へとつながっていったに違いない。

 

神楽は日本に固有のものだが、中国文化には「京劇」があり、シャーマニズムは世界各地に存在していることが分かっている。

 

サルと人間の違いはどこにあるか、という問題がある。この点、いくつもの説がある。火の取り扱い、二足歩行、言語など、多くの相違点を挙げることができよう。ただ、私の立場からすれば認識領域を持つのが人間で、それを持たないのがサルだ、と言えるように思う。そして認識領域というのは、バーチャルな世界を作り出す所から出発しているのだ。あくまでも現実世界を模倣し、そこに想像力を加味し、虚構の世界を作り出す。そうやって、人間は世界を認識しようとしてきたに違いない。

 

そもそも、真理は存在するのか。多くの哲学者たちが、この問題を議論してきたに違いない。しかし、議論をするのであれば、その前に真理とは何か、それを定義する必要がある。あいにく私はその定義を知らないし、自ら定義する能力をも持ち合わせていない。ただ、原理は存在すると思っている。ある原理があって、その原理に従って世の中は動いているのだし、人間も行動しているはずなのだ。宇宙の原理と文化の原理を結び付けるのは、いささか強引に過ぎるだろう。しかし、起点があって、それが拡散し、やがて消滅するという原理は、文化の世界にも当てはまるように思う。私たちが意識していないだけで、実は、多くの文化が既に死滅しているに違いない。

 

遅くなりました。

 

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。

 

この世は宴

 

人生とは、路上のカクテルパーティーである。

 

ミック・ジャガーは「シャタード」という曲の中で、そう歌った。(Life is a cocktail party on the street.) なるほど、うまいことを言うものだ。人間は無から生まれ、無に帰ってゆく。その間、無数の人々と出会い、別れ、1人で死んでいく。その間の一瞬の人間の営みは、宴に似ている。だから、誰かが歌ったり、隠し芸をしたり、面白いことを言ったりする方が良い。そうでなければ、宴は盛り上がらない。黙って座っているより、何かを発信した方がいい。宴を盛り上げることとは、文化を前進させることに他ならないのだ。

 

ところで、物事には様々な見方がある。特に、人文科学が対象としている分野については、無数の見方があるのであって、未だ、これと言った決定版は生まれていないように思える。例えば、「人間の歴史とは、秩序化の歴史である」と主張する人がいる。確かに、そうだろう。道路を見れば良い。全てのクルマは左側を走り、赤信号の前で人々は立ち止まる。一方私は、「人間の歴史とは、個別化の歴史である」と言いたいのだ。かつて人々は、集団で行動していた。寝る時も、狩りをする時も、人々は群れをなしていたはずだ。ところが現代において、人々は狭く区切られたコンクリート製の住居を好み、ほとんどの人間が自分の部屋を持つに至った。職業にしても、考え方にしても、着るものから食べ物の好みに至るまで、現代人は千差万別なのだ。

 

「秩序化」と「個別化」。一見、相矛盾するこれらの指摘は、どちらも正しいに違いない。若しくは、どちらも部分的には正しいが、総体としては間違っている、と言った方が正確だろうか。ここら辺が、数学のように割り切れない難しさである。

 

例えば、私はこのブログに「文化領域論」と称する原稿を掲載した。これは文化の領域を想像系、身体系、記号系、物質系、競争系の5種類に分類するというものだ。私は、今でもこの考え方を支持しているし、そんなことを考えたのはこの世で私だけなのだから、それは今でも誇らしく思っている。

 

その後、私はミシェル・フーコーの思想に影響を受け、権力やシステム、「知」ということを考え始めた。加えて、日本の伝統や美についても気に留めるようになった。すると、5つの文化領域の中の一体どこに、それらが存在するのか説明できないことに気づく。

 

つまり、私の「文化領域論」も「秩序化」や「個別化」と同じであって、一面、それは正しいのだが、総体を表わしてはいない、ということではないか。これは困った。

 

困った時には、人間の原点に遡って考えるのが、私の思想の特徴だ。いや、もっと遡ってみよう。人間がまだ、サルだった時代にまで。

 

サルは集団で移動しながら、小動物や木の実を食べて生活している。時折、他の集団とメスを交換したりしながら、その集団の中で暮らしている訳だ。食べることと、子孫を残すための生殖活動だけなのだ。ある意味、サルの生活はとても合理的だと言える。無駄なことは一切しない。自分が生きて、子孫を残す。この必要不可欠な行動領域を仮にここでは「生存領域」と呼んでおこう。

 

しかし、サルが人間になるにつれ、変化が訪れる。古代人は、一見、生活に必要だとは思えない行動を取り始める。古代のヨーロッパ人は、洞窟の壁に狩りの絵を描いた。かつてアイヌの人々は、「呪術的仮装舞踊劇」なるものを演じ始める。これらの行動は、明らかに「生存領域」に属するものとは異なる。その目的は呪術や慰霊にあった訳だが、そこから人間は、この世界を認識しようと努力し始めたのだ。動物たちの世界はどうなっているのだろう、死んだ先にはどのような世界があるのだろう。そのような疑問が、人々をこれらの試みに導いたに違いない。この一見、人間が生存し続けることに対しては意味をなさないと思われる行動の分野を、ここでは「認識領域」と呼んでおこう。

 

つまり人間の歴史には、まず、生存に必要不可欠な「生存領域」というものがあって、そこから、一見、必ずしも必要とは思われない「認識領域」が分岐したのだ。

 

やがて「生存領域」は、衣食住に関わる文化を生む。そこに美の発見があり、伝統が生まれる。貨幣が作られ、経済の発展へとつながる。

 

他方、「認識領域」は芸術を生み、宗教に発展する。哲学から分岐した科学が発展を遂げる。時代の価値観を主導する「知」は、この領域に存在する。

 

そして、複雑化した現代社会も、実は上記2つの領域をベースに成り立っていると考えられないか。まだ、アイディアの段階だが、この考え方を発展させれば、私の文化論とフーコーの哲学を融合させることができるに違いない。

 

ところでこのブログですが、フーコーについては「快楽の活用」と「自己への配慮」を検討した上で、原稿を掲載する予定です。その後、上記の考え方を発展させることができれば、新しいシリーズ原稿に取り組みたいと思っております。来年も、宜しくお願い致します。

 

それでは皆様、どうかコロナにはお気をつけいただき、良い年をお迎えください!

日本のシステム

 

この国に生まれ落ちると、まず、届け出に基づき戸籍が作成される。日本の戸籍制度は、多分、世界的に見ても例を見ない程、精度が高い。官僚の几帳面さがそうさせるのか、それとも家系にこだわるという半ば宗教的な価値観がそうさせているに違いない。やがて義務教育が始まる。この教育制度というのは、初等の段階では文化的な内容を多く含む。歌ったり、絵を描いたりという所から始まり、高等教育に進むにつれ、それは職業訓練的な色彩を強めていく。そのプロセスは、あたかも千差万別の個々人を予め定められた職業のカテゴリーに当てはめて行くことを目的としているように思える。はい、あなたは役人に、あなたは看護師になりなさい。そういう振り分けを行うのが教育というプロセスではないのか。

 

ところで西側諸国の一員である日本においても、格差が拡大している。コロナ禍が、その傾向を助長している。ホームレスが増える、自殺者が増える。そういう現実がある訳だが、何故か、政府は彼らを助けようとしない。私には、そう見えてならない。この寒空に1人、路上に放り出される人たちの気持ちはどうだろう。そういうことを政府は想像していないだろうし、マスメディアもほとんど報じない。これは不作為という問題ではなく、彼らは意図的に貧困者を増加させているに違いない。

 

例えば、この国における唯一とも言えるセイフティー・ネットは生活保護だが、その申請に訪れた人々を、役所は何とか断ろうとする。これは水際作戦と呼ばれている。何故、かくも無慈悲なことをするのか。貧困者を増加させ、一般の国民に貧困という恐怖心を抱かせることを目指しているのではないか。狂っているとしか言いようがない。

 

政府は貧困を意図的に助長している。その前提で考えてみると、思い当たる節がある。結局、一般の国民を貧しくさせておいた方が、権力者にとっては都合がいいのだ。日々の暮らしに精一杯の国民は、本を読む時間を持たない。政治になど、興味を持たない。

 

では、どのような方法で国民を貧しくさせているのか。それは、デフレ政策によるのだろう。「国の負債は国民の借金」という奴だ。私は経済学の門外漢ではあるが、この程度のことは分かる。シンプルに考えてみよう。まず、政府と銀行を除外して、世の中に出回っているお金がある。仮にその額を100万円としよう。そこで、Aさんが銀行から10万円を借りたとしよう。すると、世の中に出回っている金額は10万円増えて、110万円となる。そして、Aさんが銀行に対して1万円の利子を付けて11万円を返済したとする。すると、世の中に出回っている金額は、110万円マイナス11万円で、都合99万円となる。おや、当初の100万円よりも1万円程、少なくなっているではないか。

 

このように誰かが銀行から借金をして、利息を含めてその額を返済するたびに世の中に出回っているお金の総量は減少していく。すると個人消費が冷え込み、企業の業績が悪化する。給料が下がる。そして個人消費が低下するというデフレスパイラルに陥るのである。日本は、この状態を20年以上も続けている。そんな国は、世界中で日本だけなのだ。(ちなみに、昨今では大企業が膨大な金額を内部留保として保持しているため、世の中に出回るお金は、その分、減少している。こんなことで、景気が良くなるはずがない。)

 

では、他の国ではどうしているかと言えば、それは政府が通貨を発行して世の中に供給しているのである。現行の法制度に従えば、政府が国債を発行すれば良いことになる。但し、そこで得た金額を日本銀行にブタ積みしていたのでは意味がないのであって、これを世の中にばら撒く必要がある。その方法は、適切な公共投資でも良いし、コロナ対策として全国民に一律10万円が給付されたが、そのような方法でも良い。政府の借金は国民の借金ではなく、国民の資産なのである。日本政府は借金を返済してはならないのであって、政府の借金は世の中に対する資金供給なのだ。

 

日本政府は通貨発行権を持っているので、世の中にいくら通貨を供給したとしても、返済不能に陥ることはない。但し、過度なインフレは好ましくないので、一応、インフレターゲットの2%が達成される時点が、通貨供給の上限ということになる。

 

このように意図的に貧しくさせられた国民に対し政府が何をするかと言うと、特定の業種、業界を対象に補助金をばら撒くのである。GoToトラベルなどが、その典型である。考えてみると、これは自民党にとってはとても都合の良い施策なのである。まず、キャンペーンで中抜きできる企業が儲かる。キャンペーンで顧客を集めることのできた旅館やホテルが儲かる。そして、キャンペーンを利用した一般国民が喜ぶ。結果として、彼らの多くは自民党に感謝し、自民党の支持率が上がり、次の選挙での集票を期待することができるという訳だ。正に、政府なり自民党にとっては一石三鳥の施策だと言える。

 

悪く例えるならば、日本の一般国民は、釣り堀の魚に似ている。釣り堀の魚というのは、腹が一杯だと客が垂らす針が仕掛けられた餌に食い付かない。だから、常に空腹な状態に保たれている。生かさず殺さずという訳だ。

 

先般、野球場に多くの観客を入れて、どれだけコロナが感染するかという実証実験が行われた。これ、ツイッター上では人体実験だと呼ばれていた。そんなものに参加する人がいるのかと思ったが、プロ野球の格安チケットに多くの人々が集まったのである。正に、飢えた釣り堀の魚と言う他はない。

 

GoToキャンペーンに限ったことではなく、補助金によって世論を操縦するという方法は、幅広く行われている。これは一般に「補助金行政」と呼ばれている。この補助金を得るためにありとあらゆる業界団体が、こぞって自民党に政治献金を行う。

 

年末の忙しい時期にこの原稿を書いていて、私自身、だんだん馬鹿馬鹿しくなってきたが、大切な話だと思うので、もう少しお付き合いいただきたい。

 

これだけ国民を愚弄する政治が行われているにも関わらず、それを告発しようとする者は、何故、かくも少ないのか。そこには、共犯関係に基づく暗黙の掟があるに違いない。例えば、5人で銀行強盗を行ったとする。この5人は、共犯関係にあるので、誰も自首しようとはしない。仮に、良心にかられて自首しようとする者がいたら、他の4人が必死になって止めるだろう。このような、共犯関係が権力者の間には存在するのだと思う。(これは私の説ではなく、何かで読んだ話だ。)

 

マスメディアは、政府と一緒になって「国の負債は国民の借金」という主張を繰り返してきた。読売や産経だけではない。左寄りと言われている朝日や毎日も同じだ。一般に独禁法に基づいて、小売業者が物品をいくらで販売するかということを拘束することは禁止されている。法律上、これを「再販価格の維持」禁止と言う。ところが、新聞はこの法規制の例外として認められているのである。スーパーのお惣菜などは、夜になると値引きされるが、新聞が値下げされたという話は聞いたことがない。消費税についても新聞は、優遇措置を受けている。大手の新聞社はオリンピックを共催しているので、その開催には反対しない。つまり、朝日や毎日だって、権力と共犯関係にある訳だ。テレビの場合は、最近、政権から直接圧力を掛けられているようだが、共犯関係にあることに変わりはない。愚民政策を推進している分、テレビは新聞よりも悪質だと言えよう。

 

加えて、大手メディアの給料が高いのは、ここに理由がある。お互い悪いことをやっているが、それはお前も高額の給料をもらっているのだから同じだろう、という訳だ。NHKの給料が高いのは有名だが、新聞だと読売、朝日、日経の3社が特に高いらしい。高額の給料をもらっているメディア関係者が、本気で政権を批判する訳はないのである。

 

大学も補助金漬けになっているに違いない。ネットで検索するといくつもの記事がヒットする。そして、補助金を受領した大学や教授は、政権に従順になる。御用学者の誕生である。

 

まとめてみよう。

 

日本のシステムは、デフレスパイラルによって、「国民の貧困化」を促進している。

 

貧困に喘ぐ国民は、「補助金行政」によって容易に操縦される。(釣り堀の魚)

 

政府、メディア、学者、大企業などの権力者は、互いに「共犯関係」にあり、真実を語らない。

 

ざっと言うと日本のシステムは、このような関係になっているのだと思う。そして、このシステムの根底を支えるのは、人間は働くべきだとする「勤労主義」にある。勤労主義が、働けない子供や老人、そして身体障碍者の人権を奪おうとする。出産や育児という課題を背負った女性を差別しようとする。また、補助金行政が官尊民卑という価値観を醸成しているに違いない。

 

この馬鹿馬鹿しい日本のシステムを脱却するためには、政権交代が必要だが、それよりも大切なことは、誰かが新しいシステムを考案し、提案し、国民の1人ひとりがそれを受け入れる準備をすることではないか。

 

反逆のテクノロジー(その26) 「知」を開くリスクマネジメント

今日、東京都におけるコロナ新規感染者は、822人に達した。日本における累計の死者数は2千768人に及ぶ。(NHK調べ) その他にもコロナ不況に伴う解雇や雇止めが広がり、経済的な理由から自殺する人も急増している。大変な時代になった。これはもう、生きているだけで勲章ものだと思う。

 

未だに「コロナは風邪と同じ」だと思っている人もいるようだが、とんでもない。コロナの場合、死に至らなくても重篤な後遺症を誘発するリスクがある。また、コロナは変異を繰り返している。当初のものは「武漢型」と呼ばれ、その後、「東京・埼玉型」、「欧米型」と変異を遂げた。現在、欧米で流行しているものの正体は不明だが、最近、イギリスで更に新しいものが蔓延し始めているらしい。

 

ちなみに、アメリカにおけるコロナによる死者数は30万人を超えた。ざっと数えて、日本の100倍である。日本では何故、死亡率が低いのか。その理由は分かっていない。仮に、ファクターXと呼ばれている。理由が分かっていないのだから、ファクターXが変異を遂げた新型のコロナに対しても有効なのか、それは誰にも分からないのだ。だったら、外国人の流入を防ぐべきだと思うのは、私だけではないだろう。

 

政府の無為無策にはあきれるばかりだ。当然、政府に対する支持率は、急落している。毎日新聞世論調査によれば支持率が40%で、不支持率は49%だった。最近は、政府寄りと思われるメディアも、公然と菅政権を批判し始めている。自民党内部でも、非難の声が上がり始めている。してみると、菅総理は来年秋の任期満了まではもたないのではないか。自民党菅総理を引き摺りおろし、首をすげ替えて総選挙。そういうシナリオではないだろうか。

 

それにしても、日本政府は何故、対策を講じないのだろう。医療の最前線で戦っている医師や看護師の方々に対して。経済的に困窮している人々に対して。そもそも、国民のことなど考えていないのだろうか。それもあるだろう。日本政府は無能なのか。それもあるに違いない。しかし、それだけではないように思う。もっと、根本的な原因がある。

 

そもそもリスクマネジメントは、過去の体制を批判するという特色を持っている。ある時代の体制側の人間集団というものがあって、彼らが、例えばビルを建設する。その後、大地震がやって来て、そのビルが倒壊する。調べてみると、手抜き工事だったことが分かる。すると、過去の体制側の人間が非難されることになる。

 

また、リスクマネジメントは、権力構造の変化を誘発する力を持っている。だから権力者は、これに消極的になるのだ。現在、私たちが直面しているコロナ禍について、私たちは陰気な顔をした総理大臣の意見を聞きたいと思っているだろうか。それよりも、疫病対策に関する専門家の意見に耳を傾けたいと思っているに違いない。有能な専門家がいれば、その人を厚生労働大臣に任命すべきだ、という意見だって出てくるだろう。現状維持を目的とする権力者は、これを嫌がっているに違いない。

 

権力者がリスクマネジメントを嫌う理由は、もう1つある。それは、権力者だけが持っていた「知」なり情報が開示されることだ。これを嫌がっているに違いない。私など、昨年までは厚生労働行政などというものに興味を持ったことはなかった。しかし、コロナ禍が発生してからは、保健所や病院の数はどうなっているのか、医師や看護師に対する支援体制はどうなっているのか、そういうことに興味を持ち始めた訳だ。そういうことが今、国家単位で起こっているに違いない。大阪では維新が保健所などの統廃合を進めてきたらしい。厚労省は、病床の削減計画を進めているらしい。おいおい、それは反対だろう。病床を増やせ! 

 

また、コロナ対策の場合は、全国民に協力を求める必要がある訳で、その際、何故、そのような要請を出すのか、政府なり行政機関は説明しなければならない。その時、政府などが持っている情報が、開示される。すなわち、リスクマネジメントに取り組むということは、必然的に「知」を開くことになる。

 

すなわちリスクマネジメントは・・・

 

・過去の体制を批判する。

・権力構造を変えようとする。

・「知」を開く。

 

すなわち、リスクマネジメントとは、権力に対し反逆を試みる理論的な体系なのである。

 

なお、行政が頼りにならない現状に鑑み、私たちは、自らの身を守る必要がある。1つの方法としては、想像力を働かせ、因果関係を考えることではないか。どのような感染経路があるのか、それぞれの感染経路に対してどのような予防措置が可能なのか、感染してしまった場合に取るべき行動は何か。そのような事柄を考えておいた方が良い。全てのリスクを除外することはできない。では、自分が負うことのできるリスクが何で、自分としては決して負担することのできないリスクは何なのか。年末年始をどう過ごすか。

 

コロナの問題は新しい段階に入りつつあり、最後は個々人の想像力と判断によるのではないか。いずれにせよ、近い将来、ワクチンの問題に直面するだろう。ワクチンを接種するのか、しないのか。アメリカで使用されたワクチン、ツイッター上では既に重篤な副作用が報告されている。

 

ジョンの人生

 

昨日は、ジョン・レノンの命日ということもあって、ジョンに関するいくつかの記事や写真がブログやツイッターに掲載された。つらつらとジョンについて考えていると思い当たることがあって、この記事を書くことにした。

 

思うに、人間が生きている世界を単純化して考えれば、次の3つの水準に分けて考えることができるのではないか。

 

個人的水準・・・自我、無意識、狂気、家族、性、恋愛

 

文化的水準・・・芸術、美、伝統、中間集団、職業、調和

 

政治的水準・・・国家、憲法、法、戦争、思想、対立

 

この世に生まれてくると人間はまず、家族に出会う。やがて自我が芽生える。厄介なことに、それは無意識や性、狂気などを孕んでいる。これが「個人的水準」。やがて、中間集団に所属する。それは学校であったり、職業集団だったりする訳だが、ここで伝統的な技術や芸術に接することになる。これが「文化的水準」。この水準においては、美の発見があり、物事を調和させることが可能である。更に認識の射程を広げると国家が見えてくる。国家を構成する憲法があったり、国家間の対立があったり、その究極的な事象としての戦争があったりする。この水準において、物事は対立する。

 

ジョンの場合を見てみよう。ジョンは、貧しい港町リバプールで船員の息子として生まれる。母であるジュリアは職業に就いていたこともあって、ジョンは「ミミおばさん」に育てられる。そこら辺の事情から、ジョンの人生には女性が大きな意味を持つ。不良少年だったジョンは、若くしてシンシアと結婚する。ここまでが、ジョンにとっての「個人的水準」の時代。

 

その後、ジョンはポールと出会いビートルズを結成する。ビートルズの活動が、ジョンにとっては「文化的水準」の時代となる。ビートルズは、メンバーがそれぞれの恋愛感情などを文化的水準に引き上げて、表現したと言えよう。但し、ビートルズというバンドは、「政治的水準」を視野に入れてはいない。例えば、ポールの作品であるLet It Be(そのままにしておけ)は音楽的に傑作であることに疑いの余地はないが、そこに特段の思想は認められない。

 

ビートルズの活動中、ジョンは前衛芸術家のヨーコに出会う。ジョンはシンシアとは離婚し、ヨーコと結婚する。ヨーコとの出会いによって、ジョンの中で何かが弾ける。そして、あくまでもビートルズの活動継続を望んだポールとは反対に、ジョンはその活動に対する興味を失う。ビートルズを脱退したジョンは、政治的なメッセージを発し始める。ある日、ヨーコがベトナム戦争に関するビデオをジョンに見せたのがきっかけだった。ジョンは、急速に政治的な方向に向かい始める。思いつくままに、当時のジョンのメッセージを並べてみよう。

 

Power to the people / 人々に力を

God is a concept / 神とは、概念に過ぎない

War is over, if you want it / 戦争は終わる。もし、あなたがそう望めば

All we are saying is give peace a chance / 平和に機会を

I do not want to be a soldier / 兵士になんて、なりたくない

 

つまり、政治的水準を認識の射程に入れたジョンがいて、それを認識しようとしなかったポールがいた訳で、ビートルズ解散の理由は、そこにあったのだろう。ビートルズ脱退後のこれらの時期がジョンにとっての「政治的水準」の時代だったのだ。

 

ただ、そこでジョンは終わらなかった。もう一度、「文化的水準」に戻ったのだ。そしてジョンは、あの「イマジン」を発表する。「イマジン」においてストレートな政治的メッセージは消え、分かりやすいメロディーにのせて、ジョンは人々に平和と融和を優しく歌いかけた。つまりジョンは、文化的水準に回帰したのである。

 

ジョンの人生 / 個人的水準 → 文化的水準 → 政治的水準 → 文化的水準

 

ポールの人生 / 個人的水準 → 文化的水準

 

同じような例は、画家のゴーギャンゴッホにも言える。株式の仲買人をしていたゴーギャンは、一念発起して画家に転ずる。ゴッホとの共同生活を経て、ゴーギャンは1人、南海の孤島を目指す。ゴーギャンは、近代西洋文明に絶望したに違いない。そうでなければ、祖国や家族も含め、全てを捨て去ることなどできるはずがない。ちなみに、西洋文明を否定して原始への回帰を求める芸術的な運動を指して「原始主義」という。

 

最後にゴーギャンは、文明の影響を最小限に留めるヒバ・オア島に辿り着き、市井の人々の中に美を発見する。そこで孤独な死を遂げたゴーギャンもまた、最後は、絵画という文化の世界に回帰したのだ。

 

対するゴッホは、あくまでも自身の無意識や狂気、そして取り巻く自然と向き合いながら、最後は、ピストル自殺に及ぶ。自殺というショッキングな行為の影響もあって、ゴッホは死後、最高峰の画家としての評価を得たに違いない。そのことに異を唱える訳ではない。しかし、2人の人生を考えた場合、私はゴーギャンに軍配を上げたいのだ。

 

先の原稿に記した武田泰淳も同じだ。政治的水準までを認識の射程に収めた上で、最後は、文化に回帰する。ここに、人生の極意がある・・・と、私は思う。