文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

人格の分裂と統合(その4) 人生の道程

 

最近は、「人生」などという大仰な言葉は使われなくなった。最早、それは禁句であるとさえ言える。何故かと言うと、それだけ時代の価値観が冷めているからだと思う。しかし、人は誰しもたった1回限りの人生を歩んでいることは確かで、そうであるのだから、より良く生きたいと願うのが普通だろう。若い人が人生について語らないのは、多分、彼らがまだ人生とは何か、知らないからだと思う。だとすれば、いい加減、お迎えの近づいてきた老人にこそ、それを語る責任があるのではないか。

 

ところで、オイディプスの悲劇についてだが、若干、補足がある。オイディプスはテバイの街で、スフィンクスという怪物と戦った。「地上には声は1つであるのに、2本足でも、4本足でも、3本足でもある者は誰か?」 オイディプスは「それは人間である」と答えた。「なぜなら幼児は4本足で、大人になると2本足で、老いると杖をつくので3本足になるからだ」。これが一般的な解釈ではあるが、別の解釈もある。正しい答えは、「オイディプス自身である」とするものだ。その時、オイディプスは2本足で立っていた。しかし、実母と交わることになるので、それは人間のすることではなく、4本足の動物のすることだ。そして、自分の両目を潰すことによって、オイディプスは杖を必要とし3本足となる。もちろん、スフィンクスのクイズに回答した時点で、オイディプスは自分に降り掛かる運命を知らなかったのではあるが・・・。

 

さて、先の原稿で人格の成長プロセスを拡張、分裂、統合にあるのではないかという私の仮説を述べた訳だが、オイディプスの悲劇について考えるうちに、統合の先にある段階が見えてきた。そこで、私の仮説をバージョンアップさせていただきたいのである。それは、次のものである。

 

ステップ1: 人格の拡張

ステップ2: 人格の分裂

ステップ3: 人格の統合

ステップ4: 主体の発見

ステップ5: 永遠への回帰

 

この際、その全容を述べてみたい。

 

ステップ1: 人格の拡張

これは、人間の成長段階だと言ってもいい。知識を増やす、経験を積む。もう少し具体的に言うと、例えば、旅に出る。旅に出て、誰かと出会う。見知らぬ土地の自然や風土を経験する。何か技術を習得して、職業に就く。オイディプスの例で言えば、デルポイへ行って神託を聞く、テバイに言って怪物を倒す、などのプロセスである。「伊豆の踊子」の学生は、伊豆へ出かけて踊子に出会った。「雪国」の主人公は越後湯沢へ行って、駒子に出会ったのである。「人格の拡張」とは、全ての人々が通る道である。

 

ステップ2: 人格の分裂

人間は、向き合っている外部の事情、すなわち運命的な何かの影響を受け、人格的な分裂を起こす場合がある。オイディプスの場合は、その劇中において、あたかも謎解きをする推理小説のような展開によって、自らの穢れが明かされていく。そして、オイディプスの人格は、分裂したのである。この人格の分裂とは、精神的な錯乱であり、敗北であり、挫折である。しかし、意図的にこの分裂を引き起こそうとする試みもある。それをやったのが、ソクラテスだ。ソクラテスは市場(広場)に出掛けては、誰かに話しかけ、その相手が本当は知らないのに知っているような振りをしている、若しくは知ったようなつもりになっていることを暴こうとした。相手方にしてみれば、それは人格の平安を乱されることであり、そんなことをして欲しいとは思っていない。だからソクラテスは嫌われ、裁判に掛けられ、殺されてしまったのである。

 

ソクラテスは哲学の始祖である。仮に誰にでも議論をふっかけ、相手の人格を分裂させようとするのが哲学の本質であるとするならば、哲学は、そのような分裂に耐えうる強固な人格を持った一部の人々にのみ許されているのであって、換言すれば、哲学は大衆を切り捨てると言っても過言ではない。但し、別の見方をすれば、それでもそれが人間としてより良く生きる道なのだから、あえて困難に立ち向かえということでもある。

 

このように考えると、人格の分裂とは、人々が本能的に回避しようと思っている心の現象であって、誰しもがこれを経験する訳ではない。しかし、本当の人生を歩もうとするならば、このステップは避けて通れない、とも言える。

 

ちなみに早熟な芸術家が、この混乱の中で新しい作品を生み出す場合がある。

 

ステップ3: 人格の統合

オイディプスの例で言えば、自ら両目を潰した後、旅に出た期間がこれに当たる。自分の身に起こったことを振り返ってみる。簡単に言えば、心の断捨離が「人格の統合」である。もう一度、我が身に起こったことを振り返り、何が大切で、何が真実で、何がそうではなかったのかを吟味する。捨てるべきものを捨て、残すべきものを残す。成熟とは、まさにこのような作業によって達成される。

 

ステップ4: 主体の発見

人格を統合するプロセスの中で、若しくはプロセスの後で、人は何かを発見する。ザルに入れた砂を洗い続けると、底の方に微かに砂金が残る。これは、そんな作業に似ている。オイディプスの例で言うと、それは長年に渡る旅の途中で、ふと、自分は何も知らなかったのだから自分に罪はない、という気付きがあった訳で、それこそがオイディプスが発見した本当の自分だったのだ。それは人間が到達し得るささやかな自由であり、自らに対する許しでもある。

 

ステップ5: 永遠への回帰

永遠への回帰とは、すなわち人間の死のことである。古代ギリシャにおいては、神と精霊とは不死であると考えられていた。そして、オイディプスは死と同時に精霊になったのであり、文字通り永遠に回帰したと言える。通常の人間に為し得ることではない。これは人間にとって究極の美である。私が知る範囲で言えば、プラトンの「パイドン」という作品に描かれたソクラテスも、永遠への回帰と呼べる死に方をしている。ここにはプラトンの思想が色濃く反映されており、脚色がされているに違いない。つまり、プラトンはイデア論を唱えており、魂は冥府で本当のイデアに触れていて、人の死後も生き続けると考えていたのだ。そこで、ソクラテスが死んだとしても、彼の魂は不滅なのであって、ソクラテス自身がそう信じていたという前提で、臨終の場面が描写されている。但し、ソクラテス自身が死を恐れていなかったことは明らかで、このパイドンにおけるソクラテスの死に際には、人間の営為を超えた、霊的な美が存在する。

 

かつて、三島由紀夫もこのような死に方を模索していたに違いない。

 

上記の5つのステップが、人生の道程であるというのが、私の立てた仮説である。

 

人格の分裂と統合(その3)

 

古代ギリシャにテバイというポリス(都市国家)があった。テバイの王はライオスと言った。ライオスは「自らの息子に殺されるだろう」という神託を受けていた。そのためライオスは、妃のイオカステとは交わらないようにしていたのだが、ある夜、酒に酔ったライオスはイオカステと枕を共にしてしまう。妊娠したイオカステは、元気な男の子を出産した。困ったライオスは、男児の踵(かかと)にピンを刺し歩けないようにした上で、部下の羊飼いの男にこの男児を捨ててこいと命じた。羊飼いは王の命令に従うが、どうも男児が不憫でならない。すると途中でコリントス(ポリス)の羊飼いに出会い、男児を預けてしまう。コリントスの羊飼いは、子宝に恵まれなかったコリントスの王に男児を委ねる。コリントスの王と妃は、男児をオイディプスと名付け、実子のようにかわいがって育てた。

 

オイディプスは、立派な青年へと成長したが、ある時、自分が王や妃の実子ではないという噂を耳にする。そこでオイディプスは真偽を確かめるために、デルポイに出向き、神託を仰いだ。すると神託はオイディプスの質問には答えず、代わりに「おまえは父を殺し、母と結婚するだろう」と告げた。コリントスの養父母を実の父母だと思っていたオイディプスは、2度とコリントスには帰るまいと誓う。

 

コリントスに背を向けて歩き始めたオイディプスは、丁度、デルポイに向けて旅をしていたテバイの王、ライオスと三叉路で出くわす。道を譲れ、譲らないと言い争いになり、オイディプスはその老人が自分の実の父であることを知らずに、殺害してしまう。

 

旅を続けたオイディプスは、テバイに辿り着く。テバイでは、スフィンクスという怪物が人々を襲撃するので困っていた。スフィンクスは、テバイの人々にクイズを出して、答えられなかった者を殺害していた。オイディプスは、このスフィンクスの退治に挑戦する。スフィンクスは、オイディプスに質問を出す。「地上には声は1つであるのに、2本足でも、4本足でも、3本足である者は誰か?」 オイディプスは「それは人間である」と答えた。「なぜなら幼児は4本足で、大人になると2本足で、老いると杖をつくので3本足になるからだ」。これは正解だったので、スフィンクスは断崖から身を投じて死んでしまった。オイディプスはテバイの人々から歓待を受け、テバイの王座に就くと共に、未亡人となったイオカステを妻に娶ったのである。

 

・・・ここまでが、オイディプスの「拡張期」である。旅に出て、父親を殺害し、怪物を退治し、妻を娶る。様々な経験を重ねることによって、彼の人格は拡張されたと考えて良いだろう。年月が過ぎ、オイディプスはイオカステとの間に2男2女をもうける。やがて、テバイの街を疫病が襲う。困った人々が陳情のために、王であるオイディプスの宮殿前に集合する。この場面から、ソポクレスの書いた演劇の幕が上がる。

 

オイディプスが嘆願者の代表格である神官に、嘆願の理由を尋ねる。神官はテバイの街の惨状を訴える。作物は枯れ、疫病が蔓延している。オイディプスは、イオカステの弟であるクレオンをデルポイにやり、神託を聞くようにと命じていると答える。丁度クレオンが帰還する。クレオンは神託の内容が「ライオスを殺害した下手人どもを罰せよ」ということだったと報告する。一同は下手人を探すために、盲目の予言者、テイレシアスの意見を聞くことにする。テイレシアスは、発言を拒むがオイディプスから再三に渡る説得を受け、遂に、ライオスを殺害した下手人がオイディプス自身であること、そしてイオカステがオイディプスの母であることを告げる。これを聞いたオイディプスは、激怒する。

 

イオカステが登場。イオカステは、ライオスが殺されたのは三叉路であったこと、また、かつてライオスとの間にできた子供については、ライオスが留め金で踵(かかと)を刺し貫いたうえで、人を介して捨てさせたと述べる。これを聞いてオイディプスには、三叉路で老人を殺害した記憶が蘇る。聞けば殺害されたライオスの一行には、1人だけ難を逃れて帰国した者がいる。そこで、一同はその男を呼び寄せることにする。オイディプスは、三叉路における殺害事件をイオカステに話す。イオカステはライオスとの間にできた子供は既に死んでいるので、自分との関係を心配することはない、とオイディプスを諭す。

 

コリントスから使者がやって来て、オイディプスの父(実は養父)が寿命により死亡したことを伝える。但し、その使者はコリントスの王(養父)とオイディプスの間に血縁関係のなかったことを告げる。そして使者は、かつてテバイの羊飼いから男児を受け取り、その子をコリントスの王に委ねた当の本人であることを明かす。そして、使者は当時、両足を貫いていた留め金を引き抜いたことを明かす。その男児がオイディプス本人であったことは、オイディプスという名前が「腫れた足」という意味を持っていることからも、明らかとなる。

 

羊飼いの男が登場する。羊飼いの男はオイディプスから問い詰められ、かつてライオスから捨てて来るようにと言われた男児をコリントスの使者に手渡したことを白状する。こうして、オイディプスがライオスとイオカステの間に生まれた子であったことが判明する。

 

ショックのあまり、イオカステは館の中で首を括ってしまう。イオカステの遺体を床に下したオイディプスは、彼女の上着を飾っていた黄金の留め金を引き抜くなり、それを自分の両目に深く、何度も突き刺したのだった。

 

・・・これがオイディプスの「分裂期」である。ソポクレスが台本を書いた演劇は、ここで終わる。あまりの結末に、言葉もない。それから約20年が経過し、ソポクレスは90才にして、この世を去った。但し、ソポクレスは死の直前にして、この物語の続編、「コロノスのオイディプス」を書きあげたのだった。残念ながら私の手元にそのテキストはない。参考文献とネット情報から得られる情報を記す。

 

盲目となったオイディプスは、娘のアンティゴネーに手を引かれ、物乞いとして各地を転々とした。テバイに災厄をもたらしたオイディプスは、どこへ行っても疎まれ、長居をする訳にはいかなかった。やがてオイディプスは、自分のおぞましい行為について、それを知らずに行なったのだから自分に罪はない、と考えるようになる。やがてオイディプスは、コロノスに辿り着き、自らの死期を悟る。娘たちに別れを告げたオイディプスは、不思議な死を遂げ、精霊として神々に迎え入れられる。

 

・・・これがオイディプスの「統合期」である。ソポクレスが自らの死の直前にこの場面を書き上げたことに、何か、不思議な符号のようなものを感じざるを得ない。いずれにせよ、ソポクレスが自分の人生とオイディプスの生きざまを重ね合わせていたことは確かだろう。ちなみに、オイディプスが死に場所として選んだコロノスは、ソポクレスの生まれ故郷だったそうだ。

 

あまりに過酷な人生だった訳だが、オイディプスはその人生の最後において、自分を許したに違いない。言い方を代えれば、苦闘の末、オイディプスは自分が何者なのか、それを知ったのだと解釈できないだろうか。デルポイにあるアポロン神殿のゲートか壁にこのような文言が記されている。「汝自身を知れ」。私はこの言葉とオイディプスの物語が無関係であるとは思えないのである。

 

(参考文献)

オイディプス王/ソポクレス/藤沢令夫 訳/岩波文庫

ギリシャ神話/吉田敦彦/青土社/2014

マンガ はじめて読むギリシャ神話/ナツメ社/2015

 

人格の分裂と統合(その2) オイディプス王

 

ギリシャ神話も当初は口頭で伝承されていたのであり、それがいつの時代に始まったのかということは、最早、誰にも分からないのである。現在、文字データとして残っている最古のものはホメロス(前9~8世紀)の書いたイリアスとかオデュッセイアだと言われている。

 

ここに紹介するオイディプス王の物語も、その正確な起源は分からない。ただ、その一部はソポクレスによって書かれ、紀元前427年に演劇として上演されたらしい。

 

識字率の低い当時のことなので、人々は神話を読むのではなく、上演される演劇を鑑賞したり、広場で詩人の語る神話を聞いたりしていたのである。当時の人々にとって、神話とは、教養であり、芸術であり、娯楽であり、世界を認識する方法だったに違いない。ギリシャ神話には悲劇と喜劇があるが、悲劇は神々や上流階級の人々が登場する昔話で、悲惨な結末を迎える。対する喜劇は、市井(しせい)の人々を描く現在の物語で、ハッピーエンドに終わる。喜劇とは、現代に言うところのエンタメだったのだろう。

 

神話には神託ということが頻繁に登場し、物語の中で重要な役割を果たす。神託の中で最も格式の高いものは、デルポイの神託である。デルポイというのは地名で、アテナイから少し離れた場所に位置する。そこに神殿があって、アポロンという神が祭られている。そこに巫女と神官がいて、彼らにお願いをして神のお告げを聞くのである。これは現実に行われていた儀式であって、当時、重要な政治的、社会的な意思決定を行う際には、必ずと言ってよいほど執り行われていたらしい。ちなみにこのデルポイの神託は、「ソクラテスの弁明」にも登場し、物語の始まりを告げる役割を果たしている。

 

さて、「オイディプス王」についてだが、これは「お前は父を殺し、母と姦淫するだろう」という呪われた神託を受けたオイディプスの物語だ。多くの人が、少しは耳にしたことがあるのではないか。少し概略を述べたいと思うのだが、その前に、本稿における基本的な仮説について述べる必要がある。

 

その仮説とは、人格の成長段階に関するもので、それは次のステップによるのではないか、というもの。まず、「人格の拡張」ということがある。例えばあなたは、幼児のくったくのない笑顔を見て、驚いたことはないだろうか? 幼児の人格はそれだけシンプルなのである。それが大人になるにつけ、知識を得て、人生経験を積むと、笑顔1つを取っても複雑になってくる。苦笑い、薄ら笑い、嘲笑などとそれを表現する言葉も沢山ある訳だ。人格は必ず、多層的になり、拡張するのである。この人格が拡張する時期をここでは「拡張期」と呼ぶ。

 

次に、人格の分裂ということがある。これは何らかの挫折であったり、悲しいできごとであったりする訳だが、それによって人格が分裂することを言う。例えば、人は大好きだった恋人と別れることがある。すると、好きだったという気持ちと、うとましいと思う気持ちが相半ばする。このようにして、人格の内部における葛藤が生ずる。これが人格の分裂であり、その時期をここでは「分裂期」と呼ぶ。

 

やがて、分裂してしまった人格を再度、統合しようという働きが生ずる。少しずつ、過去の出来事や悲しみを乗り越えていこうとする段階のことである。但し、この段階に到達する人生もあれば、その前に消えてしまう人生もある。例えば、ゴッホの人生を考えてみると、彼は、自らの人格を統合することができず、ピストル自殺を図ってしまったと言える。この人格を統合する時期をここでは「統合期」と呼ぶ。

 

拡張期 → 分裂期 → 統合期

 

このように考えると、一見、複雑な神話や小説、あるいは現実世界における芸術家や思想家の人生が、良く見えてくるのだ。

 

但し、それでは無事に統合期を経過した人間はどうなるのだろう、という疑問が残る。何かを悟る場合もあるし、何らかの行動を決意する場合もあるだろう。あるいは死が待っている場合もあるに違いない。残念ながら、現時点の私には、その答えが見つかっていない。なんとか、その答えを探しながら、本稿を進めてみたいと考えている。

 

タイトルにある「オイディプス王」の話には辿り着かなかったが、今回はこの辺で。

 

人格の分裂と統合(その1) はじめに

 

ネットなどでニュースを見るにつけ、暗い気分になる。戦争とジェノサイドに関わるものばかりで、ロクなニュースがない。どうすればいいのだろうと、今月70才になる私でも、そんな青臭いことを考える。思うにどんなに立派な制度や組織、ルールを作っても、最早、意味がないのではないか。米国やイスラエルにも、立派な法律があるだろう。そして、世界には国連という組織もあるし、国連憲章というルールだってある。しかし、それらを遵守しようという気概のある人物がリーダーにならなければ、意味をなさない。トランプやネタニヤフがもっと優れた人格を持っていれば、現在のイラン戦争は起きていないし、何千人もの人々の命が救われたのではないか。

 

平和ということを考えると、私は、宗教に希望を見出すことができない。かつて宗教戦争があったし、現代に眼を転じてみても米国にはトランプを支えるキリスト教福音派があり、イスラエルはユダヤ教で、イランはイスラム教シーア派である。イラン戦争は、現代の宗教戦争なのではないか。

 

人類は、戦争を止めることができないのか? これは普遍的な問いだが現代の思想は、やや悲観的に過ぎるような気がする。この問いは、人間は自由なのか、という問いとも重なる。仮に人間が自由であれば、その意志で、戦争を止めることができるという結論になる。反対に、人間には自由が許されていないということであれば、戦争を止めることはできない、という結論になる。

 

古代ギリシャの哲人たちは、ロゴスということを積極的に考えた。ロゴスという言葉には様々な意味があるが、理性、言語、真理の3つが主たるものだろう。人間であれば誰しも食欲があるし、お酒だって飲みたい。性欲もあれば、お金は欲しいし、名誉も欲しい。これは古代ギリシャ人も同じだった。しかし、心の中で渦巻くそれらの本能や欲望の上にロゴスというものを措定し、そのロゴスに従って、自己を統治する。そうすることによって、人間は自由を獲得できるはずだ。最初にこのように考えたのが、ソクラテスであろう。ソクラテスの思想は、プラトンを経て、ストア派へと引き継がれる。ストア派は古代ギリシャの崩壊後も生き残り、古代ローマへと継承される。やがて、キリスト教の嵐が西洋に吹き荒れ、哲学は低迷期を迎える。

 

キリスト教の厳格な戒律に疲弊した人々は、人間復興を訴える。14世紀のイタリアに端を発したこの動向が、ルネッサンスである。そして、ルネッサンスと共に古代ギリシャの神話や芸術が脚光を浴び、それは哲学に対する関心を呼び起こしたのである。

 

ロゴスという言葉は、理性という言葉に置き換えられはしたものの、その思想は例えばカント(1724-1804)の純粋理性批判などにおいて、継承された。一般に、欧州における近代哲学が理性中心主義と呼ばれるのは、これが理由である。

 

人間には理性というものがあって、すなわち人間は自由なのだという思想は、カント以降もヘーゲル、マルクス、サルトルへと批判的に継承されていく。しかし、このような思想に対するアンチテーゼが次々に登場する。まずは、精神分析のフロイト。人間を支配しているのは、理性ではなく無意識なのだ、と彼は主張した。次に、構造人類学のレヴィ=ストロース。彼は、人間は構造の中で生きているのであり、構造の外に出ることはできないと考えた。この思想は、構造主義と呼ばれた。そして、ミシェル・フーコーが登場し、「言葉と物」の中で、人間はエピステーメー(知の枠組み)の中で生きており、そこから脱却することはできない、と主張した。これらの思想は決定論と呼んでいいだろう。つまり、予め決定されているので、「なるようにしかならないさ」という態度なのである。この時点で、あたかも哲学は終わったというような雰囲気に包まれたのだと思う。「ふん、哲学なんて終わったのさ」と斜に構えて、ブランデーグラスでも傾けていれば、女性にモテたのではないか、と私などはやっかみ半分に思うのである。

 

但し、私の読みとしては、フーコーはその場に留まらなかったのだ。人間には、本当にロゴスというものはないのか、人間は自由になれないのか、と問い続けたに違いない。フーコーの思想家としての本領は、むしろここから発揮されたのである。そしてフーコーはキリスト教が登場する前の古代ギリシャにまで遡って、その遺作「性の歴史」を執筆したのである。もう一度、主体性やロゴスの関係を掘り起こそうという試みである。

 

雑駁ではあるが、以上が私の歴史観である。つまり私は、平和主義者で、反宗教で、反決定論者である。そこで、人間がロゴスを獲得するためにはどうすれば良いのかと考える訳だが、そのヒントは成長にある。成長しない人間は、ロゴスに出会うことなく、一生を終える。では、何を成長させるのかという問題があるが、あまり心理学的な言い方はしたくないので、本稿において、私はそれを人格と呼ぶことにする。

 

人格を成長させるということは、より良い人生を送るということでもある。そして私は、そこには1つの原理のようなものが存在するのではないかという仮説を持っていて、そのことを証明しようというのが、本稿の趣旨である。

 

お付き合いいただければ、幸いです。

 

見え始めた米国の孤立化(その2)

 

前回の原稿を掲載した翌日には、孤立化する米国の姿が明らかとなった。米国はイラン戦争への応援を要請したが、NATO加盟国を中心に、ほぼ全ての国々がこれを拒否したからである。そんな中、高市総理の訪米があった。トランプに抱き着く彼女の姿を見て、私は哀れに思った。媚びを売るあの姿態は、日本の姿そのものを象徴していたからである。但し、かつて米国の1の子分は英国であったが、今や日本こそがその座にいるとも言える。最早、どこの国にも相手にされなくなった米国は、日本を頼りにしているのである。

 

結局、米国という国は、何年かに1度は、戦争を仕掛けないと持たない国家構造になっているに違いない。国内には軍産複合体というのがあって、彼らのビジネスは、武器を製造し、消費することによって成り立っている。また、トランプの支持層にキリスト教福音派と呼ばれる人々がいるが、彼らの思想は終末思想とイエスの再臨にあるらしい。また、イエスの再臨は「ユダヤ人のイスラエル帰還」が前提となっており、これはシオニズムと親和的であり「クリスチャン・シオニズム」と呼ばれる。こうして米国は、ユダヤ対イスラムの紛争に参加し、中東における戦争を主導することになる。そして、いくらでも発行できると思われてきた国際基軸通貨である米ドルが、戦力を下支えしている。

 

無神論者である私などからすれば、まったくもって馬鹿馬鹿しい話である訳だが、そんな戦争に巻き込まれて死んでいく子供たちのことを思うと、胸が痛む。

 

また、そんな狂気に満ちた米国に支配されているのが日本なのだから、絶望したくもなろうというものだ。しかし、日本は既に政治、経済、軍事からマスコミに至るまで、米国に支配されているのだから、独立などできるはずがない。万が一、反米勢力が台頭しようものなら、最終的には日本に76カ所もある在日米軍基地が、その制圧に動くかも知れない。今は、亀のように首をすくめて、やり過ごすしかないのだ。

 

しかし、希望がない訳ではない。日本が独立できるチャンスは、意外にも早く到来する可能性がある。それは、米国の力が弱まり、米軍が韓国や日本から撤退するというシナリオである。

 

フランス人の学者で、エマニュエル・トッドという人がいて、彼は2024年に「西洋の敗北」という本を著している。ここに言う西洋とは、主に米国を指している。トッドが指摘する米国が敗北する理由は、次の3点に集約される。(AIによるまとめ)

 

  • 実体経済の消失・・・米国のGDPは金融やサービス業で膨らんでおり、武器やインフラを作る工業生産能力が劇的に低下している。
  • 教育水準の低下と虚無主義・・・読解力や計算力の低下。虚無主義が横行し、予測不能で攻撃的な外交を招いている。
  • 世界の少数派への転落・・・LGBTなどリベラルな価値観を推し進める余り、伝統的な価値観を重んずるグローバルサウスの国々と乖離している。

 

 つまり、米国の内部崩壊が始まっているとの指摘である。では、この内部崩壊はどのような段階を踏んで進行するのか。トッドは、次の3ステップを想定している。

 

ステップ1: 米国の経済が実体を伴わないことが、ウクライナ戦争などで露呈し、ドルの信頼が揺らぎ始める。

 

ステップ2: 教育水準が低下し、国家としての維持能力が失われる。

 

ステップ3: 虚無主義が生み出す空白を埋めるために、米国は敵を作り続け、予測不能で破壊的な外交を展開し、他国を米国離れ、脱ドル化へと向かわせる。

 

驚くべきはトッドがこのような予測を2024年、すなわちトランプが2期目の大統領に選出される前、もちろんイラン戦争(Epic Fury)が始まる前の段階で指摘していたということである。

 

では、米国の敗北がいつ可視化されるのか、という問題だが、トッドはこの点、「2020年代後半までには米国の覇権崩壊が誰の目にも明らかな形で完了する」と推測している。

 

つまり、2026年現在の私たちは、既に米国敗北の兆候を目撃していると言っていい。イラン戦争における誤算、ミサイルの不足、ホルムズ海峡の混乱、西側諸国の非協力など、これらは米国覇権の急激な凋落を意味しているに違いない。

 

私は、戦争における大失態、経済的な破綻と米ドルの暴落、米国内における内乱などを具体的な事象として想定している。

 

日本は今、米国に依存し、米国の属国として縛られている。しかし、否が応でも米国から自立しなければならない時が、差し迫っているのではないか。その時を待ち、その時に備えるべきだと思う。

 

「見え始めた米国の孤立化」は、これにて終わります。

見え始めた米国の孤立化(その1)

 

最近の選挙における投票行動だとか、世論調査の結果を見ていると、日本人のメンタリティーの中心には、恐怖とヒューマニズムがあるように思えてくる。まず、世界情勢としてはウクライナ戦争があり、イスラエルのガザ虐殺がある。これは恐怖だ。そこで日本人は何とか、米国に守ってもらいたいと思ったに違いない。すると高市総理が来日したトランプに連れられて米軍の空母を訪れる。そして、トランプの横に立ち、笑みを浮かべながらピョンピョンと飛び跳ねて見せたのである。日本人の多くは、高市総理であればトランプとうまくやってくれるだろうと思ったに違いない。その直後に行われた衆院選で、自民党は圧勝した。

 

そして、イラン戦争が始まった。米軍のミスにより、イランの女子小学生165人が殺害された。これは、可哀そうでならない。新聞の世論調査でイスラエルと米軍によるイラン攻撃を支持するかという設問があったが、8割以上の日本人が「支持しない」と答えた。私はこの結果を見て、日本人の心の中には、正常なヒューマニズムが残っているのだと思い、安堵したのである。

 

恐怖とヒューマニズム。言ってみれば、日本人とは素朴な人々なのかも知れない。

 

次に、米国のミサイル不足について。最近、米国の迎撃ミサイル不足が話題になっている。当初、私は、イスラエルのアイアンドームに使用するミサイルが不足しているのだと思っていたのだが、AIとの会話を繰り返すと、もっと根本的な問題のあることが分かった。すなわち、米国では長年に渡って製造業が軽視されてきたのである。製造業は利益率が低い。もっと儲かるのは金融やITである。そちらの方に注力した結果、米国における製造業が衰退し、ミサイル等の生産能力も落ちたというのである。実際、日本が米国に迎撃ミサイル(パトリオット)を売却するという話があるし、韓国に設置されていた迎撃ミサイル(サード)をイスラエルに移設するという話もある。日本が武器輸出に関する法制度を変更したのも、米国の製造能力低下に起因している。AIによれば、ロシアは米国のミサイル在庫が枯渇するのを待って、ウクライナ戦争を引き延ばしているという説まである。これはもう、世界に誇る米軍の衰退ではないか?

 

米軍におけるミサイル等の在庫不足が本当であれば、当然、米国はイラン戦争の早期終結を望む。一方、イスラエルはイランを徹底的に叩くことを希望している。そして、イランは、国と民族の存亡を賭けて、徹底抗戦する構えである。すると、この戦争は長期化することになる。長期化すれば、それは米国の財政にも悪影響を及ぼす。米国は貿易赤字、財政収支の赤字、経常収支の赤字に苦しんでおり、米国内には約30万人のホームレスがいるとも言われている。但し、戦争が長期化した場合の米国やトランプが抱える最大のリスクは、イスラエルの敗北ではないのか。

 

現在Xには、イランのミサイルが雨のようにイスラエルのテルアビブに降り注ぐ映像が、無数にアップされている。それら映像の中で、アイアンドームはほとんど機能していない。但し、これらの映像はAI(grok)がことごとくフェイクだと判定している。従って、それら映像の真偽を私が判断することはできない。しかし、イスラエル国内でひっきりなしに避難警報が鳴り響いていることは、マスコミも報道しており、この点は確実だと思われる。そこに、米国やイスラエルの側の迎撃ミサイル不足という情報を加味して考えれば、既に、イスラエル国内で相当程度の被害が出ているであろうことは、容易に想像できる。また、イスラエル最大の弱点は、国土が狭いことではないか。同国の国土面積は、大体、日本の四国と同じ位である。イランは、その狭い国土を集中して攻めれば良いことになる。なお、イスラエルは自国の死亡者数を公式には発表していない。

 

イスラエルが敗北する可能性がある、というのは私の個人的な見方である。但し、追い詰められたイスラエルが核兵器を使用するリスクがあると指摘する専門家はいる。してみると、私の見方が必ずしも的はずれとは言い切れないのではないか。イランが必死なら、イスラエルも必死なのだ。そして、どのような結果になろうと、トランプと米国に何らかの責任があることは言うまでもない。

 

複雑な心境

 

最早、この世への未練を失った私ではあるが、それでも生きている訳で、心静かに暮らしたいと願っている。本でも読もうと思い、本棚を眺めて見ると、今の私に丁度良い本が見つかった。「ソフィーの世界」である。帯にはこんな宣伝文句が書かれている。

 

- 世界で一番やさしい哲学の本 -

 

奥付を見ると初版が1995年で、私が持っているのは1996年版である。つまり、私は30年前にこの本を読んだのである。一度読んだとは言え、もう内容は忘れているし、今の私ならば、当時よりもこの本を深く理解できるに違いない。そう思って読み始めた訳だが、現実世界においては、私の心をざわつかせる出来事が後を絶たないのである。

 

1つには、イスラエルと米国によるイラン攻撃(Epic Fury)である。これは全くもって摩訶不思議な軍事侵攻なのだ。イスラエルは中東における覇権を求めており、同国がイランを攻撃する理由は明白だ。問題は、何故、米国がこの攻撃に加わったのかという問題である。米国を起点にして見れば、イランはほとんど地球の反対側にある。また、米国は自国内でエネルギーを調達できるし、ベネズエラから購入することもできる。イランは核開発を止めることに前向きだったし、米国にとっては何ら安全保障上のリスクはなかったように思う。それでも米国はイスラエルに引き摺られるような形で、徹底的なイラン攻撃を始めた。以後、トランプは多くの言説を公表しているが、どうも信用できない。嘘が紛れ込んでいると言うよりは、ほとんど嘘しか言っていないように見える。こんな人間を大統領に選び、米国民は恥ずかしくないのだろうか、と心配になってしまう程だ。

 

実態としては、米国の大統領でさえも抗うことのできない権力システムがあるのではないか。例えば米国内の軍産複合体や、トランプの支援団体であるキリスト教福音派など。その他にも米国とイスラエルにまたがる国際金融資本や、エプスタイン事件の真相を把握している勢力なのかも知れない。そうであれば、最早、この問題は政治のレベルでは解決できないことになる。誰が大統領になろうと、この権力システムに逆らえないのだから。

 

日本に目を向けても、同じような問題に行き当たる。高市総理は、3月19日に訪米するようだが、そこで彼女が日本の国益に沿った交渉を行うとは思えない。日本の外交や安全保障に関する方針は、政治家ではなく外務省などの官僚が決定しているという説がある。そして、官僚組織は日米合同委員会などを通じて、米国に牛耳られている訳だ。すると、日本の政治家にも、決定権はないことになる。政治家は選挙で代わるが、官僚組織が変わることはない。誰が総理になっても同じなのである。

 

その昔、私は、日本は独立国家だと思っていた。その後、本を読んだりネットで調べたりするうちに、日本は米国の属国だと知った。すると自然の成り行きとして、日本は独立すべきだと考えるようになった。しかし、更に詳細な情報に触れるにつけ、日本が独立するのは困難だと思うようになった。米国のベネズエラ侵攻や、今回のイラン戦争などを見るにつけ、私には恐怖心が生じた。米国は怖い国だ、逆らったら何をされるか分からない。但し、そのような恐怖心を抱くのは、私だけではないはずだ。日本国民の多くが、同じような恐怖心を抱いているのではないか。

 

そこまで考えると、米国が世界を震撼させるような戦争を起こす度に、日本では自民党が選挙で大勝ちするという因果関係が見えてくる。自民党は自ら米国に隷従するので、国民としては、とりあえず安心できるという訳だ。米国が行なった戦争と、高い支持率を得た自民党の総理大臣を列記してみる。

 

アフガン侵攻・・・中曽根康弘

イラク戦争・・・小泉純一郎

北朝鮮の挑発、イスラム国・・・安部晋三

ベネズエラ侵攻、イラン戦争・・・高市早苗

 

このように考えると、先の衆院選で自民党が圧勝した理由も分かろうというものだ。

 

私の心をざわつかせるもう1つの出来事があって、それはれいわ新選組に関するものだ。最近のれいわの支持率は1%前後なので、興味を持っている人は少ないに違いない。私は同党が結成された2019年当時、大変な支持者だった。献金もした。しかし、大西恒樹氏の除名問題があり、山本太郎が東京都知事選に立候補したあたりから懐疑的となり、その後アンチへと変わった。山本太郎のおしゃべり会というのがあり、これはYouTubeで公開されている。当初は見ていたが、次第にマンネリになってきた。また、良く聞いていると山本太郎が質問に答えないことにも気づく。例えば、安部晋三の国葬が開かれた時のこと。質問者は、山本の元にも招待状は来たか、と尋ねた。山本は準備していたスライドに基づき、20分にも渡り国葬の説明をしたが、結局、招待状を受け取ったのか否か、その答えはなかった。どんな質問を受けても自分が話したいことを話すばかりで、質問や意見には答えないのである。

 

今年の2月に実施された衆院選で、れいわは壊滅的な結果となった。それまで9議席あった(多ケ谷氏の離党前)のが1議席になった。それでも山本は党の代表職と選挙対策委員長の座を明け渡しはしなかった。代表職は党の金を握り、選挙対策委員長は党の公認権を握る。同一人物が両役職を兼任するとは、すなわち独裁ということではないか。ましてや衆院選で大敗したにも関わらず、山本は雲隠れしたままで、支持者に対する説明も謝罪も一切していない。そこで、ネット上では支持者とアンチの間で不毛な論争が沸きあがることになる。

 

そして本日、れいわに関する醜聞が「デイリー新潮」によって、公開された。ヤフーの記事にもなっている。明日は「週刊新潮」において、更に詳しい記事が公開される予定。最早、独裁者山本太郎とその取り巻きを一掃しない限り、れいわは終わると思う。かつての支持者としては、複雑な心境である。