文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その15) 想像力の功罪

私が敬愛するブルース・ギタリストの一人に、ジョニー・ウィンターという人がいる。彼はアルビノで、視力もほとんどなかった。アルビノというのは色素欠乏症のことで、肌は透き通るように白い。髪から眉から、とにかく全身が白いのだ。そんなジョニーが愛したブルースは、黒人の音楽である。人種差別の激しかった1960年代のアメリカで、ジョニーは黒人ばかりが集まるクラブで、ブルースを演奏していた。ある日、ジョニーは黒人からこう言われる。

 

「ここは黒人のミュージシャンが演奏する場所だ。白人は出て行け」

 

するとジョニーは、次のように答えた。

 

「君たち黒人は肌の色が黒すぎるから、差別を受けているのだろう。俺は肌の色が白すぎるから、差別を受けている。だから、俺にもブルースを演奏する権利がある」

 

若き日の私は、この話にシビレタものだ。

 

ところで、今日においてもアメリカでは白人警官による黒人への虐待が続いている。そこで、黒人の命も他の人種と同様に大切なんだ、と訴えるBLM(Black Lives Matter)という運動が起こっている。言うまでもなく、マジョリティとしての白人が、マイノリティの黒人を迫害している訳だ。ところが、アフリカのザンビアでは、正反対のことが起こっている。

 

ザンビアにおけるマジョリティは黒人だが、そこに2万5000人のアルビノがいる。そればかりか、ザンビアではアルビノの肉体には呪術的な力があると信じられており、アルビノの身体の一部や死体が高額で取引される。殺されたり、生きたまま腕を切断されたりするアルビノの人々が、後を絶たない。21世紀の日本に生きる私たちからしてみれば、ちょっと信じられない話だろう。人間の肉体にそんな呪術的な力があるはずはない。

 

呪術というのは人間の、特に古代人の直観に基づくものである。そして、そこに想像力が加味され、宗教へと至る。そのように考えると、ザンビアの悲劇が普遍性を持っていることに気づく。例えば、中世のヨーロッパで行われた魔女狩りなども、この文脈で考えることができる。15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ全土において、4万人~6万人が処刑されたのだ。まったくもって馬鹿げた話で、そもそも人間が箒に乗って空を飛べるはずがない。言うまでもなく、魔女は人間の想像力の産物に過ぎない。

 

そんな馬鹿げた話は他国に限ったことであって、我が日本に限ってそんなことはない、と考えたいところだが、そうは問屋が卸さないのである。かつて日本においては家を建てる際、神に対する生贄として子供を生き埋めにしたという話がある。その子供の霊が「座敷わらし」として出現するという説もある。「座敷わらし」を生み出したのも、想像力に他ならない。

 

いずれにせよ、想像力が生み出す無数の悲劇を経験した後、それらに対するアンチテーゼとして、ヨーロッパで近代理性というものが生まれたのだろう。迷信を信じるのは止めようと考えた人間は、科学を発明する。論理的思考と言っても良い。例えば、「あそこの家の奥さんが、箒に乗って空を飛んでいるところを見た」という噂が立つ。しかし、そう述べる人を1人ずつ詰問して行けば、それが根も葉もない噂話に過ぎないことが判明する。自然科学の世界で成果が生まれたこともあって、人文科学が発達し始める。それは本当に、事実なのか。そのことは、証明できるのか。そういうマインドが普及するにつれ、想像力は悪いものだ、という風潮が生まれたに違いない。

 

しかし、本当にそうだろうか? 想像力とは、悪いものなのか?

 

ここまで考えると、以前このブログで取り上げたチャールズ・サンダース・パース(1839-1914)が主張したアブダクションのことを思い出す。パースは、アメリカの記号学者で、論理学についても研究していた。そこで、従来の帰納や演繹に加え、アブダクションという論理的思考が成立すると主張した。アブダクションとは、簡単に述べると次の3つのステップによる思考方法だと言える。

 

1)驚くべき事実を発見する。

2)その驚くべき事実を説明できる仮説を立てる。

3)その仮説によって、驚くべき事実を説明できる場合、その仮説は正しいことになる。

 

まず、「1」については、「疑問を持つ」と言い換えても良いだろう。疑問を持つところから、アブダクションは作動するのだ。そして、「2」の仮説については、想像力に依っていると言える。あれこれと想像することによって、仮説が生まれる。つまり、想像力なくして、このアブダクションは成立しないのだ。

 

但し、このアブダクションは不完全な論理だと言わざるを得ない。何故なら、1つの「驚くべき事実」に対し、複数の仮説が成立する可能性があるからだ。例えば、ビートルズの音楽はとても素晴らしく、とても感動する。これは驚くべき事実だ。そこで、何故、ビートルズの音楽がそのように素晴らしいのか、仮説を立ててみる。ある人は、ジョン・レノンが天才だったからだと考える。しかし、別の人はポール・マッカートニーが天才だったからだ、と考えるかも知れない。そして、この2つ仮説はどちらも正しい。つまり、どちらの仮説も部分的には正しいが、総合的に見た場合、誤っている。このような誤謬を引き起こす可能性があるので、アブダクションは不完全なのだ。

 

しかし、現実世界に目を転じた場合、想像力を含むアブダクションなくして私たちが認識できることは、とても少ない。例えば、明日の天気であれば、ある程度、予想することができる。しかし、例えばあなたが恋愛をしているとして、その恋がどうなるか、そのことを言い当てることのできる論理など、どこにも存在しない。明日の株価がどうなるか、それすら人間には分からない。

 

ちなみに、私がかつてこのブログで検討した「認識の6段階」という概念モデルがあるが、これを要約すると人間の認識というのは、まず、知識があって、それが想像力を経て、論理的思考に至るというものだった。ここでも、「想像力」は不可欠の要素となっている。

 

結局、人間の想像力というのは、誤りを犯しやすくとても頼りないものであるが、それなくして人間の思考は成り立たない、という関係にあるのではないか。想像力を駆使し過ぎると、アルビノの人々を殺戮したり、魔女狩りなどという馬鹿げたことをしたりしてしまう。しかし、想像力を用いず人間が思考できる範囲というのは、せいぜい実験によって事実を確認できる自然科学の世界に限定されるのではないか。

 

この点、ミシェル・フーコーの「言葉と物」の中に、次の一節がある。

 

- 想像力は人間のなかで、霊魂と肉体との縫い目にある。じじつ、デカルト、マルブランシュ、スピノザは、想像力を、まさにこのような位置において、誤謬の場であると同時に数学的真理にさえ到達する能力として分析した。(P.95)-

 

想像力とは、人間が決して飼い慣らすことのできない怪物なのだ。

 

ちなみに現代の日本社会においては、想像力が不足しているのではないか。例えば、自分のことを一方的に話し続ける人というのは、少なくない。自分の経験を語るという行為において、想像力は要求されない。他方、誰かに質問をする場合には、その相手の経験や興味などを想像する能力が求められる。そもそも、何に対しても疑問を持たない人だって、少なくはない。疑問を持たなければ、思考の回路は停止したままだというのに。

 

反逆のテクノロジー(その14) 労働とベーシックインカム

前回の原稿で、人間はその初期設定の段階で狂気を孕んでいる、ということを述べました。このように考えますと、肩の荷が降りたような、少し楽な気持ちになってきます。これまでの私は、自民党はけしからん、モリ・カケ・サクラはどうなっているんだ、とか、日本の司法に正義はないのか、とか、新自由主義はけしから、と思ってカリカリしていた訳です。そのような見方に変化はありませんが、しかし所詮、人間は不完全なもので、その不完全な人間が作り出す世の中が、狂っていないはずがない。学者の世界や教育の世界だって、例外ではない。そう思うと、冷静になれる。かと言って、それは諦めるということではありません。クールに、静かに、考える。その方が、思考能力が高まるような気もします。

 

さて、ミシェル・フーコーはその著作「言葉と物」の中で、人間は3つの事柄に規制されていると述べました。

 

- 人間は労働と生命と言語に支配され、その具体的実存は、それらのもののうちにみずからの諸決定を見出している。- (P.333)

 

確かに人間には寿命があって、それが尽きれば死ぬ運命なので、「生命」に支配されているということは納得できます。また、人間は「言語」によって認識し、思考するので、これに支配されているということも理解できます。ちなみに、言語心理学という学問があって、こちらではチンパンジー、カラス、イヌなど、言語を持たない動物も思考するので、人間も言語によって思考するとは言えない、という学説が主流になっているそうです。しかし、チンパンジーなどの動物は、経験的に学習することはあっても、直線を発見したり、文字を発明したりすることはありません。思考の複雑さの程度というは本質的な相違をもたらしているのであって、人間だけが持つ思考能力は言語に依存していると思います。

 

さて、問題は「労働」です。人間は本当に、「労働」に支配されているのでしょうか。フーコーが「言葉と物」を出版したのは、1966年です。それから54年の歳月が流れています。その間に、情報技術をはじめ、多くのテクノロジーが発展したことは言うまでもありません。

 

思えば、現代の社会システムや権力構造というのは、この「人間は働くべきだ」というテーゼ(以下、便宜上「勤労主義」という)を前提にしている。仮に、このテーゼをひっくり返すことができれば、それは人類がかつて経験したことのような、大きなパラダイムシフトが引き起こされるに違いない。そしてこの課題は、コロナ禍が引き起こすであろう目前に迫った世界恐慌との関連で、検討されるべきなのです。

 

そもそも、勤労主義というのはどこから来ているのか。日本でも「働かざる者、食うべからず」という言葉があります。これをWikipediaで調べてみますと、その起源は新約聖書にあると書いてある。なるほど、新約聖書にそう書いてあるので、聖書を重んじるプロテスタントが勤労主義を支持し、それが資本主義を支えることとなった。そういう経緯があるのではないでしょうか。

 

もう一つは、日本国憲法の第27条1項です。

 

- すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。-

 

ここにも勤労主義が定められている訳ですが、何故、このような条文になっているかと言うと、当時、マルクス主義者である憲法学者が主張した、という説があります。(Wikipediaで「勤労の義務」を調べると説明の詳細を読むことができます。)レーニンも「働かざる者、食うべからず」と述べたことがあるらしい。つまり、社会主義共産主義は、働ける者は皆働き、その成果を国民全員で平等に分配しようという考え方なので、必然的に勤労主義に至る訳です。

 

勤労主義が、戦前の軍事政権が唱えた「富国強兵」と合致するのは言うまでもありません。現代社会を支配している国際金融資本の場合は、どうでしょうか。彼らの手口というのは、大衆を貧しくさせておいて、労働によって拘束する。そういう手法を採っているように思います。してみると、キリスト教プロテスタント)、マルクス主義軍国主義グローバリズムなど、様々な政治勢力が共通して勤労主義を支持してきたことが分かります。これらの勢力を説得して、若しくは打ち勝って、ベーシックインカム(以下“BI”)を導入するのは、並大抵のことではなさそうです。

 

そもそも、人間は本当に働かなければならないのか。この点、私はそうではないと思うのです。狩猟・採集を生業としていた古代人は、現代人ほどは働いていなかった。中世の貴族もほとんど働かなかったし、宗教の聖職者たちだって、経済的な生産活動には従事していない。むしろ、働かない人たちこそが文化や芸術を支えてきたのではないか。

 

では、導入するとすればどのようなBIが適切なのか。それは、国民が現代社会で生きていく上で必要最小限の金額に若干の余裕をもたせた金額を、全国民に給付するということだと思います。仮にその金額は月額15万円としておきましょう。贅沢はできない。そこで、贅沢をしたい人は、働く。ただ、働くか否かという判断は、個々人が自由に決める。生活保護は廃止。国民年金に加入している人達の平均的な年金受給額は月額6万円程度なので、差額の9万円を支給する。その他の年金制度は、何十年かの時間をかけて、段階的に廃止していく。ざっくりと言いますと、そのようなBIがいいのではないでしょうか。

 

そもそもBIは可能なのか、という問題がありますが、YouTubeで複数の動画を視聴しますと、どうやらこれは可能らしい。衣食住という観点で検討してみても、既に、各分野での機械化は進み、生産性は各段に向上している。何も、現在のように多くの人々がシャカリキになって朝から晩まで働かなくとも、国民の衣食住を維持することは十分可能なのです。今後、人口知能などの技術が進歩した場合、この傾向は更に強まります。

 

ただ、BIの導入は天と地がひっくり返るような変化ですので、段階を追って進める必要があります。まず、定額給付金などのコロナ対策を継続する。そして、消費税の廃止。MMTに基づく積極財政への転換。そしてBIへと進める。そういう道筋が見えます。

 

BIを導入する上で最大の障壁は何かと言うと、それは前述の勤労主義者たちをどう説得していくか、ということではないでしょうか。彼らは一様に、変化を望んでいない。既得権にしがみつこうとする人も少なくないでしょう。そして、そもそも自由を望んでいない人たちだって、少なくはない。背広を着て、ネクタイを締めて、働く以外にすることがない。いざ、自由になってみると、何をしていいか分からない。定年退職をして、途端に老け込むお父さんというのは、日本全国にいる。彼らには趣味がない。遊びを知らないんです。今の日本には、81才にもなって自民党の幹事長として働いているおじいさんだっている。陰気な顔をした総理は、71才だったでしょうか。こういう人たちというのは、引退しても何をすればよいのか分かっていないに違いない。日本には欧米のようにバカンスを楽しむという習慣もない。

 

長い目で見ますと、それらの仕事人間に対し、仕事以外にも楽しいことは沢山あるんだよ、ということを教える必要があるように思います。北風ではなく、太陽のように。そして、特にやりたいこともないのに、いい年をして権力にしがみついていることは恥ずかしいことなんだ、という価値観を醸成する必要があるのではないでしょうか。働くだけが人生の目的ではない。人生にはもっと楽しいことが沢山ある。もっと大切なことだってある。それを証明する力はどこにあるか。それは、文化の中にある。文化には、そういう力があると思うのです。

 

グローバリズム、国際金融資本に関するおススメ動画

グローバリズムの手口について三橋貴明氏がYouTubeで分かりやすく説明してくれているので、リンクを貼っておきます。

 

三橋TV 第296回 グローバリズムは我々の「祖国を愛する気持ち」までをも利用する

26分 

https://www.youtube.com/watch?v=K_brhkr6Nfw&t=1126s

 

 

同じく三橋TVですが、こちらは国際金融資本(ロスチャイルド & ロックフェラー)についての解説です。

 

三橋TV 第299回 国際金融資本の真相を知り、「日本国民の国」を取り戻そう

28分

https://www.youtube.com/watch?v=7k3awZjwq2A

 

お時間のある時に、是非!

 

反逆のテクノロジー(その13) 人間のデフォルト

工場を出荷する段階でのコンピュータは初期設定の状態にあり、これをデフォルトと言う。人間にも、同じことが言えるのではないか。生まれたての人間の状態、人間の初期設定の状態は、どうなっているのだろう。

 

かつて西洋人は、世界各地を訪れ、先住民たちを観察した。すると、どの民族も信仰を持っていることに気づく。そこで西洋人は、人間は生まれながらにして、換言すればそのデフォルト状態において、神という概念を持っていると考えた。これに対し、ジョン・ロックは「生まれたての人間の心は白紙なのであって、その内実は経験によって醸成される」と考えた。これが「経験主義」と呼ばれる思想だ。このような考え方に似たことを私も考えている訳だが、そのアプローチは少し違う。そもそも人間の心は、その初期設定状態において、正常なのか、それとも最初から狂いを生じているのか。そういう疑問がある。私は今日まで、人間の心というのはその初期設定状態においては正常なのであって、誤った教育を受けたり、過酷な経験をしたりすることによって壊れていくのだろうと考えてきた。しかし、本当にそうだろうか? いくつかの事例を通じて、そのことを考えてみたい。

 

まず、私が敬愛しているイワム族の事例を取り上げたい。私がイワム族を知ったのは、吉田集而氏の著作「性と呪術の民族誌」(平凡社/1992)を通してのことだった。吉田氏は民俗学者であると共にフィールドワーカーであり、パプアニューギニアに何年か滞在し、その経験をこの文献において活写している。それは小説のようでもあり、私は、この本に魅せられた。そして、吉田氏がイワム族を愛したように、いつか私の心の中にもイワム族が棲みついた。私の呪術に対する考え方などは、この本に拠るところが大きい。

 

著作の年次は逆になるが、その後、私は同じく吉田氏の著作である「不死身のナイティ」(平凡社/1988)を読んだ。しかしこちらの文献は、驚くべき記述から始まる。まず、イワム族のグループAの男が、グループBの男によって殺害される。怒ったグループAは、だまし討ちを掛けて襲撃し、グループBを皆殺しにしてしまう。そして、殺害したグループBの死体を持ち帰り、皆で分け合って食べたというのだ。1956年のこと。あまりの記述にショックを受けた私は、この本をそれ以上読み進めることができなかった。飢えたピラニアなどが、水槽の中で共食いをすることはあるだろうが、人間以外の哺乳類において、共食いなどということはあるのだろうか? そもそも人間は、狂っていないか?

 

カニバリズムは、イワム族に固有の現象かと言うと、そうではないらしい。「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー/上巻/青土社/2015)から、引用させていただこう。

 

- カニバリズムは長い間、原始的な残忍さの見本と見なされてきたが、文化人類学者のなかには、カニバリズムの報告は隣接する部族による「血の中傷」〔差別や虐殺の口実として、でっちあげられた事実無根の噂〕だと片づける者も少なくなかった。しかし、近年の法医考古学の研究により、カニバリズムは先史時代に広範囲に行われていたことが明らかになった。人間の歯形がついた人骨や、動物の骨のように折ったり火を通したりして、食べ物のゴミとして捨てられたものなどが証拠として見つかっている。 -

 

次に、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」(新潮社/発行2020。フーコーの執筆は、1975年)を取り上げたい。私は、この本をまだ読み始めたばかりだが、こちらもショッキングな描写から始まる。それは1757年のパリにおける死刑執行の様子である。まず、死刑囚の体に灼熱した“やっとこ”を押し付ける。そこに溶かした鉛などを浴びせかけ、最後は、死刑囚の四肢をロープにつなぎ、それぞれのロープの端を馬に曳かせたという。そしてこの刑罰は、公衆に公開の上で執行されたとのこと。繰り返しになるが、私は、この手の話が苦手だ。フーコーの著作なので、読み進める覚悟はしているのだが。

 

このように残酷な刑罰の方法というのは、フランスや西洋に固有の事象だったのかと言うと、そうではないのだろうと思う。日本においてもかつては打ち首、晒し首、切腹などの刑罰が執行されていたはずだ。

 

現代に目を転じてみよう。トランプは今日までに「消毒液を注射すればコロナは治癒するのではないか」とか「コロナの99%は完全に無害だ」などと発言している。現実には、ホワイトハウスクラスター化し、既に21万人の米人がコロナで死亡している。これが世界一の軍事力を誇るアメリカの実情かと思うと、背筋が寒くなる。

 

日本では今年の8月に1845人が自殺したとのこと。これらは遺書が発見されたケースだけだろうから、実際にはもっと多くの方々が自ら命を絶っているに違いない。コロナ禍の影響で経済が停滞し、派遣社員の多くの方々が職を失っている。その影響から、女性の自殺者が急増しているらしい。現在の日本だって、狂っていないだろうか?

 

歴史上のジェノサイド(大量殺戮)を数え上げれば、きりがない。

 

そうしてみると、人間というのはその初期設定の段階において、既に狂気を孕んでいると考えた方が自然ではないだろうか。そして、その狂気は人間集団におけるマイノリティにおいて顕在化するばかりか、時として、マジョリティを構成する人々を凶行に走らせる。歴史を通じて、人間社会から狂気が消え去ったことはないのではないか。私たちは、現在も狂気と向き合って、日々の暮らしを立てているに違いない。今も狂気は犯罪を生み、人々の精神をむしばみ、時に自殺に走らせ、社会を狂わせている。

 

こういうことを考え始めると、その人は最後には「自分は狂っていないか?」という疑問に行き当たると、何かの本に書いてあった。私が狂っている? そうかも知れないし、そうでないかも知れない。それは、誰にも分からないのではないか。人間の認識能力というのは、極めて不確実で、限定的なのだから。

反逆のテクノロジー(その12) 経済原則に依存した現代のシステム

ミシェル・フーコーは、人間が自ら生きているその時代のエピステーメーを認識することは不可能だと考えていた。そうかも知れない。何しろ、思考の前提から情報から、全て、その時代のエピステーメーに依存しているのだから、それを第三者的に、若しくは客観的に認識することは不可能、又は極めて困難だと言わざるを得ない。しかしフーコーは、「現在」について思考せよ、とも言っている。もちろん、私たちが最も知るべきエピステーメー、それは現在のそれであるのだから。

 

ところで、このブログでは過去の歴史を4つの時代に区分して、それぞれの認識方法や社会制度について検討してきた経緯がある。今思えば、これはフーコーが提唱したエピステーメーという考え方に似ている。では、現代をどう表現するか。それは「経済的認識」と「グローバリズム」と表現するのが分かりやすいのではないか。以前提示したもの(2020.02.18 文化認識論 その23)を若干バージョンアップしたものを以下に示す。

 

古代・・・芸術的認識・・・シャーマニズム

中世・・・宗教的認識・・・君主制

近代・・・科学的認識・・・国家主義(民主主義 & ファシズム

現代・・・経済的認識・・・グローバリズム

 

自然科学が目覚ましい発展を遂げた近代においては、人間や人間社会を対象とする学問もそれにならって科学的であろうとした。そして、社会科学、人文科学という分野が登場する。近代思想を象徴する一つの言説として、日本国憲法がある。私はそこに記載された理念を支持している。しかし、日本国憲法が地域に根差した村落共同体や、職業単位で構成される同業者組合のような中間集団を解体してきた、との指摘もある。いずれも憲法22条によって、居住及び移転の自由が保障され、職業選択の自由が認められたからに他ならない。つまり、近代思想はそれらの中間集団に依拠する社会像を捨てて、国家という単位で秩序化を図ろうとするものだったのだ。

 

そして、グローバリズムが登場する。グローバリズムは、国家という単位を否定し、世界標準で人間の社会を運営していこうとする思想に他ならない。但し、グローバリズムが破壊したのは、国家だけではない。本来、国家だけが持ち得た基本的人権の尊重や、法治主義という理念さえも破壊してきたのだ。例えば、日本国内で殺人事件が起きたとする。すると、日本には警察機構があって、それが国家権力を背景として、犯人を逮捕し、刑事裁判に付すことができる。一方、例えば中国がウイグル自治区などで少数民族の人権を蹂躙しているということは、ほぼ確実な事実だと思えるし、最近の香港における人権弾圧には目を覆いたくなる。しかし、日本はこれらの問題に介入することができない。日本のみならず、国際社会全体が問題を解決できずにいる訳だ。すなわち、国家の内部であれば、警察力によって秩序を維持することが可能だが、国際社会においては、この強制力が働かない。もちろん、条約や国際的な協定は存在する。しかし、これらは強制力を持たないため、実効性が担保されていない。最終的な強制力ということで言えば、それは軍事力を用いた戦争ということになるが、核兵器が拡散してしまった今日において、戦争は現実的な解決手段たり得ない。

 

加えてグローバリズムは、文化をも破壊してきたのだ。文化はそもそも、制限された時間や空間の中においてしか、成立しない。相撲には土俵があり、野球は野球場で、コンサートはコンサートホールで行われる。そのような制限(リミット・セッティング)があるからこそ、人間は認識することが容易となり、文化の内実を楽しむことが可能となるのだ。日本各地には、それぞれの民謡や民話、そして祭りがあった。それらは衰退する一方で、代わって出てきたのがサッカーなどのグローバルで行われているスポーツや、ハロウィンなどのイベントである。こうして、エンターテインメントの世界まで、規格化、画一化が進んでいる。

 

もっと深刻なのは、現在、日本語が危機的状況にあることだろう。かつて、日本語には美があった。「円かな月に、夢を結ぶ」。かつて私たちの日本語には、このような美しさがあったが、失われてしまった。いくつか理由があるのだろうと思う。1つには、現代の日本から美しい自然が失われてしまったということがある。美しい自然を描写するから、美しい言葉が生まれる。もう1つには、日本語の世界にアルファベットや数字が頻繁に登場するようになったこと。もしあなたの身近にペットボトルや缶飲料があれば、手に取って眺めて欲しい。そこにはアルファベットが記載されているはずだ。これら商品の世界に加え、エンターテインメントの世界にもアルファベットや数字が浸透しつつある。AKB48の例を出すまでもないだろう。またインターネットの世界には、アルファベットが溢れている。YahooとかGoogleなど。例えばフランスでは、無闇に外国の文字を使用することは、法律で禁止されているらしい。中国も同じではないか。かつて中国を訪れたとき、街の看板に「電脳」という文字を見たことがある。なんとなく、電子を使った頭脳、すなわちコンピューターのことではないかと思ったので、記憶に残っている。

 

日本語から美が消えてしまった今日、果たして日本文学は成立するのだろうか? 私は、懐疑的にならざるを得ない。

 

グローバリズムが何をもたらしたかと言うと、それは経済原則に基づく権力のシステムだろう。拝金主義、弱肉強食の新自由主義と言ってもいい。これらは地球環境をひたすら破壊し、人々の経済格差を拡大した。

 

このシステムを運営している連中が、権力者ということになる。それはアメリカかも知れない。国際金融資本と呼ぶべきかも知れない。あるいは、陰謀論の文脈で語られるロスチャイルドやロックフェラーなのかも知れない。私は一次情報を持っていないので、確定的なことは言えないが、そういうこともあり得るような気がする。しかし、権力者が誰なのかということが最も重要な問題なのかと言うと、そうではない。見えにくい権力者を探し出すことよりも、私たちがこのシステムから抜け出すことの方が、余程、重要だと思う。

 

では、このシステムがどのような手口で大衆を管理しているのか、考えてみる。列挙してみよう。

 

・情報を与えない。

・不安を与える。

・気晴らし(エンタメ)を与える。

・考える時間を与えない。

・金を与えない。

 

一般に愚民政策として語られる内容と重複していると思う。2番目の「不安を与える」というのは、仮想敵国を作って、その脅威を喧伝するという方法だ。日本で言えば、北朝鮮からミサイルが飛んで来るとか、中国に尖閣を奪われるとか、そういう情報がこれに当たる。しかし、ミサイルは一向に飛んで来ないし、尖閣よりもむしろ中国に北海道の土地を爆買いされていることの方が、余程脅威ではないのか。4番目の「考える時間を与えない」というのは、特に、学校の教員にその傾向が強いように思う。子供というのは権力者にとって他者であり、教育を司る教員たちが本気で考え始めては、子供たちに影響が及ぶ。それをシステム側の人間は恐れているに違いない。だから教員は皆、忙しいのだろう。そして最後の「金を与えない」ということだが、ここらがポイントだと思う。大衆が経済的に裕福になれば、彼らは勤勉に働かなくなる可能性がある。そして、価値観が多様化する。システムを運営する側にとってみれば、これこそが最大の脅威なのではないだろうか。大衆を貧しくさせておく。そして、コロナ禍の真っ最中であるにも関わらずGo Toトラベルなどというキャンペーンを打つと、中高年の支持率が一気に上がる。携帯電話の料金を下げると言えば、貧しい若者たちがこぞって政府を支持する。

 

日本の状況を見ると総理大臣などの権力者とそれに隷従する大衆というのは、基本的に同じタイプの人間ではないかと思える。そこら辺の仕組みについては、既にオルテガの「大衆の反逆」にて検討したので、繰り返さない。なお、権力者や大衆の愚かさについては、エティエンヌ・ド・ボエシという人が書いた「自発的隷従論」という本がちくま学芸文庫から出版されていて、こちらも参考になる。

 

但し、この権力側が運営するシステムも疲弊している。あちこちに亀裂が入り、軋み音を立てている。こんなシステムをいつまでも続けられるはずがない。別の言い方をすれば、彼らはシステムを維持するために必死になっているに違いないのだ。私には、彼らの断末魔の叫びが聞こえる。

 

グローバルで見た場合、やはりインターネットの影響は大きいに違いない。政治的な情報は、ツイッターで瞬時にして拡散する。ここまで来ると、誰もネットの勢いを止めることはできない。消費税の欺瞞は暴かれ、MMT(Modern Monetary Theory)も拡散しつつある。従来シンギュラリティとの関連で語られていたBasic Income(“BI”)の論議が、コロナ禍を契機として急速に高まりつつある。コロナだから、大衆は働けないのだ。働けないから、政府が金を刷って配れ、という論議が高まっている。ちなみに、BIには2種類あるので、ご参考まで。

 

“天使のBI”・・・現在の年金制度や生活保護制度を維持しつつ、インフレターゲットが達成されるまで、BIとして国民に金銭を給付するというもの。山本太郎氏、池戸万作氏などが主張している。

 

“悪魔のBI”・・・年金制度や生活保護制度を廃止し、一律、7万円をBIとして給付するというもの。悪名高き竹中平蔵が主張している。(月7万円で暮らせるはずがない!)

 

地球環境は急速に悪化しており、現在のシステムを継続する訳にはいかない。私が子供だった頃、夏でも30度を超えると大騒ぎだった。今の日本の夏は異常だ。北極の氷が解けると、北欧の国々が沈み、国土が縮小する可能性がある。

 

コロナ禍がどうなるか、それは誰にも分からないが、この冬にパンデミック(第3派)が発生する可能性がある。アジア諸国においては、未だ謎の理由(ファクターX)によって、死亡率は高くない。しかし、欧米諸国での死亡者数には愕然とさせられる。

 

コロナなので、在宅勤務、リモートワークを推進しろという説もあるが、これには限界がある。そもそも会社においては、仕事を通じて、上司が部下を手取り足取り教育する必要がある。これをOJTと言うが、リモートワークではこのOJTが機能しない。ある程度自律的に仕事をこなせるのは、一部のマネージャークラス以上の従業員に限定される。すると、そもそも会社という組織自体、そのあり方が問われるかも知れない。アウトソーシングが加速し、会社はどんどん空洞化する。働ける個人は会社と雇用契約を結ばず、出来高払いの請負方式に変わっていくかも知れない。

 

いずれにせよ永遠に続くエピステーメーなど、存在しない。今のシステムが、永遠に続くなんてことは、あり得ない。世界のどこかの国で、何かが起こり、新しいエピステーメーが世界を席巻する。そういう日が来るに違いないのだ。

 

但し、その起爆剤となる国は、日本ではないだろう。日本では、既にほとんどの機構が、システムに飲み込まれてしまった。新しい時代と文化、その芽が出てくるのは、ヨーロッパのどこかの国ではないだろうか。

 

ひとまとまりの原稿としては、以上で終わりだが、どうしても書いておきたいことがもう1つある。やはり、人類の歴史というのは、秩序化、システム化のプロセスだと思う。そして、各時代のシステムが対象としてきた人数というのは、着実に増加してきたのだ。大雑把に記してみよう。

 

古代・・・シャーマニズム・・・70人

中世・・・君主制・・・・・・・7千人

近代・・・国家主義・・・・・・7千万人

現代・・・グローバリズム・・・70億人

 

このように並べてみると、各時代のシステムが対象とする人間の数が、指数関数的に増加してきたことが分かる。そして、グローバリズムまで行き着いてしまうと、これが天井で、これ以上増やすことはできない。だから、現代という時代は「どん詰まり」の時代なのだ。この状況を打破するためには、時代を遡って対象人数を減少させるという方法が考えられる。国家主義まで戻るのか、もっと少ない人数の集団を措定するか。しかし、時代を遡るという発想には疑問がある。何故なら、時代の流れが逆行したことは、未だかつて一度もないのだ。そうではなくて、全く新しい発想で、人間集団というものを考え直す必要があるような気がする。仮に、そのアイディアが出て来ないというのであれば、とりあえず、国家主義にまで戻すべきではないか。

 

反逆のテクノロジー(その11) 直線の発見

古の哲学者たちは、三角形について考えるのが好きだった。最小限の直線によって、面を構成するのが三角形で、そこから幾何学が始まる。例えば、三角形の内角の和は180度であるとか、そういうことを考えた人がいる。三角形の2辺の長さの和は、残る一辺よりも長い。それは経験によらずして知ることができる。カントはそのような経験に基づかない知識を尊重した。

 

いいだろう。三角形は重要だ。そのことに、私も異存はない。ピラミッドの壁面だって、三角形で出来ている。しかし、三角形を構成しているのは3本の直線であって、私はその直線そのものについて考えることの方が、余程、本質的ではないかと考えている。何しろ、直線がなければ、三角形だって成立しないのだから。

 

そもそも、自然界にはほとんど直線は存在しない。地平線や水平線だって、よく見れば湾曲している。では、物を落とした場合は、どうだろう。確かに、手に持った石をそっと離すと、それは直線の軌道を描いて落下する。しかし、その軌道を肉眼で見ることはできない。杉の木は、確かに直線に近い。しかし、それは多くの枝で遮られている。滝はどうだろう。水が落下するのだから、その軌跡は直線であるに違いない。しかし、多くの場合、風の影響を受けるので、水が垂直方向に落下することはない。

 

では、人類はどのようにして、直線なるものを発見したのだろう?

 

私はとても長い間、この問題について考えてきた。そして、アイヌ文化と出会う。すると、こんなことが分かる。アイヌの人々は、特定の木の樹皮を剥いで、持ち帰る。それを煮ると、樹皮は分解される。そこから、繊維を取り出すことができるのだ。この繊維を手作業で結っていくと、糸ができる。その糸を織ると布ができて、布から着物を作ることができる。

 

そう、糸なのだ。糸の両端を引っ張ると、直線ができる。こうして、人類は直線を発見したに違いない。直線とは「2つの点を最短距離で結んだ線」と定義されている。もちろん、糸の両端を引っ張ることによって、最短距離を実現することができる。

 

直線は、人類の生活に多大な影響を及ぼした。それは幾何学のみならず、建築物や生活空間を一変させた。そして直線は、記号の世界にも入り込む。アルファベットのEやF、漢字の一二三などは、どれも直線によって描かれている。

 

直線や、三角形から作り出される平面が、人類の秩序化の歴史の発端だったのではないか。フーコーも人類の秩序化に向けて、「マテシス」なるものが一役買ったと述べている。

 

注)マテシス・・・数学の明証性と演繹性をモデルとした諸学の統一化、普遍化のくわだて。

 

いずれにせよ、人類が直線や平面を作り出すために岩を削り出し、樹木を伐採してきたことは明らかだ。例えば、直線の道を作ろうとする。そこに障害物があれば、人類はそれを取り除いてきたのだ。邪魔な物を取り除いて、秩序を作り出す。そして、この秩序を生み出そうとする力が人間に向いた場合、それが原始的な権力となったのではないか。

 

そもそも、人間の認識というのは言語に基づいている訳だが、この言語そのものが秩序の形成作用であると言える。例えば、虹の色は微妙に変化していて、私たちはそれが7種類だと認識している。しかし、それは連続的に変化している色彩を7つに切り取っているに過ぎない。実際、虹の色を5色だと認識している民族も存在する。連続している自然を切り取って、言葉による名称を付け、人間は自然を認識しているに過ぎない。

 

このように考えると、かつて人類が狩猟・採集を生業としていた時代は、現代人の目からすれば、カオスに近い状態だったのかも知れない。やがて、人口が増え、狩猟・採集では食料を賄うことができなくなる。そして、人類は定住を始め、農耕・牧畜を始める。ここら辺のタイミングで、秩序化は急速に進展したに違いない。そして、文字によって記載された経典を持つ宗教が生まれる。宗教も、人類の秩序化というプロセスの中にあるのだろう。

 

時代を経るにつれ、この秩序化は加速し、それはやがて複雑な構造を持つようになる。これを「システム」と呼んで差し支えないように思う。人類による自然破壊や、権力もシステム化される。貨幣経済もシステム化される。反射的な作用として、システムにとって邪魔になるもの、認識できない他者などが、排除されるようになる。そして、その排除すべき対象者を見つけるための監視システムが出来上がる。

 

西洋において、この秩序化、システム化に一役買ったのが、プロテスタンティズムではないか。プロテスタンティズムは、ルターが「万人祭司」と主張した所に起源がある。ルターは、人間である牧師などが、勝手に聖書を理解したり説教したりすることに異を唱えた。そうではなくて、真理は聖書そのものの中になるのであって、神の下に人間は平等である、という主張につながる。これが発展すると民主主義となる訳だが、プロテスタンティズムの中には、秩序化、システム化を促進するという危険が潜んでいる。神の下に平等だという考え方はいいが、あくまでも聖書を尊重するという立場から、人間の価値観を固定化し、人間を規格化し、秩序の維持、権力の維持を支持しようとする立場につながる。現代においても、福音派と呼ばれるプロテスタントは、アメリカで人口中絶や同性愛に強く反対している。

 

プロテスタンティズムは勤労を強く推奨していて、これが資本主義経済の発展に貢献したというマックス・ヴェーバーの説もある。

 

そうしてみると、「直線の発見」から、「宗教の出現」につながり、そこから「資本主義社会」へとつながっているように思える。

 

いずれにせよ、「直線の発見」というのは、人類史上特筆すべき出来事であって、それは2足歩行の開始、火の使用などと同列で語られるべき事柄ではないか。よく人類と他の動物との違いは何かという論議があるが、「直線を発見したのが人類」であって、他の動物との違いはそこにある、とさえ言いたくなる。

反逆のテクノロジー(その10) 3つの絶望

フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは、その生涯を通じて、少なくとも3つの絶望に直面したのだと思います。本稿では、そのことについて書いてみたいと思います。

 

1.「人間の終焉」という絶望

 

最初に挙げたいのは、「言葉と物」のラストを飾る「人間の終焉」という予言です。近い将来、人間という存在が終焉を迎えるというのですから、これは絶望だと言っていい。では、フーコーは何故、そう言ったのか。文献2は、次のように解説しています。

 

- (前略) 現代文学が投げかける作品空間は、明らかに言語が人間の手の内から逃れ去り、逆に人間を規定する方向性を持つ。そこでは、言語自体の存在がますますあらわになり、人々は人間に関する根拠づけを放棄し始めているのではないだろうか。(中略)フーコーによるなら、西欧文明において、かつて人間の実存と言語の存在は、一度たりとも両立したことはないという。それゆえ、言語の存在がせり出しつつある今日、新たな思考の地殻変動が生じているのではなかろうか。もし、そうであるとするならば、と慎重な姿勢を取りながらも、フーコーは新たなるエピステーメーの到来を予感する。そのエピステーメーとは、言語の存在の前で人間の能動性が奪われ、口をつぐみ、消えてゆく時代である。フーコーにおける「人間の終焉」という表現は、この新たなエピステーメーの到来を表わしている。-

 

現代文学だとか「言葉」と言われても、ちょっとピンと来ないのではないでしょうか。但し、ここは思い出して欲しいのです。フーコーは人間存在よりも上位にあり、人間を規定するような事柄をシステム、権力、エピステーメー、言葉などの用語によって表現しています。これらは、構造主義者たちが主張する「構造」という用語と、ほぼ同じ意味ではないでしょうか。すると、ここで言われている「言葉」という用語を、例えば「システム」という用語に置き換えてみてはどうでしょうか。

 

- システムの前で人間の能動性が奪われ、口をつぐみ、消えてゆく時代である。-

 

こう読み替えてみると、意味が見えてくるのではないでしょうか。そして、21世紀の日本の状況を考えますと、それはフーコーが50年以上も前に予言した通り、人間存在が消えかけている。私には、そう思えてなりません。

 

2.「侵害としての認識」という絶望

 

哲学の本流が認識論にあるとして、フーコーの「言葉と物」の本質もそこにある。このブログで先に述べました「連続性原理」、「非連続性」、「他者」、「エピステーメー」などの概念も、認識論の範囲内にあるのだろうと思います。そして、フーコーは人間の認識能力に絶望していると思うのです。文献5から引用させていただきます。「真理と裁判形態」に関する1973年の講演録から。

 

- 認識と認識が対象とすべきものの間には、自然的連続性といった関係はなにもありえない。そこには暴力、支配、権力と力、侵害といった関係しかありえない。認識は、認識すべきものに対する侵害(violation)でしかありえないのだ。それは知覚でも再認でもないし、またあれらこれらといったものの同一化でもない。-

 

1970年以降、フーコーは権力やシステムについての検討を重ねており、上記の引用箇所は、その流れに沿ったものです。例えば、裁判においては、冤罪という問題が生じる。このような場合には、上記の指摘がそのまま当てはまります。しかしフーコーは、そのように限定された場合を指して言っているのではない。人間の認識そのものの暴力性について述べているのです。これは人間存在に対する率直な否定だと思われます。

 

3.「哲学の終焉」という絶望

 

フーコーの有名な言葉の1つとして、次のものがあります。性の歴史II-快楽の活用の序文から。(文献5)

 

- 今日、哲学とは -私が言いたいのは哲学の活動ということであるが- いったい何だろうか? 哲学が思考の思考自身に対する批判的な作業ではないのだとしたら。そしてまた、人がすでに知っていることを正当化するのではなく、別なように考えることがどのように、そしてどこまで可能であるのか、このことを知ろうと企てることに、哲学が存するのでないのだとしたら。-

 

フーコーは、哲学の衰退について嘆いていた。(文献8)既に哲学には、ほとんど誰も関心を示さず、それは大学の中でしか、語られることがなくなっていた。そして哲学を教える教授たちでさえ、哲学の歴史や過去の哲学者の思想については教えるものの、自分たちの頭では哲学を考えなくなっている。そのことを踏まえて、もう一度、上記の引用箇所を読んでいただけないだろうか。そこには、フーコーの深い悲しみが読み取れる。

 

1984年6月25日、フーコーはパリのサルペトリエール病院で息を引き取った。(文献2)訃報を知った人々が集まり、病院の中庭で、儀式が執り行われた。その際、かつての盟友ドゥルーズが、上記の文章を読み上げたそうです。

 

(参考文献)

文献1: FOR BEGINNERS フーコー/Cホロックス/白仁高志訳/現代書館/1998

文献2: フーコー今村仁司・栗原仁/清水書院/1999

文献3: 言葉と物/ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明訳/新潮社/1974

文献4: ミシェル・フーコー、経験としての哲学/阿部崇/法政大学出版局/2017

文献5: ミシェル・フーコーの思想的軌跡/中川久嗣/東海大学出版会/2013

文献6: 図説・標準 哲学史/貫 成人/新書館/2008

文献7: 哲学中辞典/尾崎周二 他/知泉書館/2016

文献8: フーコー・コレクション1 狂気・理性/ミシェル・フーコーちくま学芸文庫/2006