文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化防衛論/三島由紀夫(その14) 文化的エネルギー

 

三島は、様々な対立構造について語った。例えば、天皇言論の自由。三島は天皇人間宣言を批判している。つまり、天皇を相対的なものではなく、絶対的な、超越的な存在であるべきだと考えていた訳だ。但し、三島が理想とした天皇とは、戦時中、政治利用されたようなものではなく、権力とも切り離された「文化概念としての天皇」なのである。この点、単純な軍国主義を唱える右翼とは、明確に異なる。三島は民主主義を肯定していたし、何よりも言論の自由を尊重していた。言論の自由を尊重すると、当然のことながら、天皇を批判する言説も出てくる。また、皇室が週刊誌のネタになったりもする。従って、天皇言論の自由とは相容れないように思えるが、その不安定さ、フレキシビリティーが重要だと三島は考えていたのである。その他の対立構造についても、結局のところ、三島はAとBとの対立があったとして、確定的にどちらか一方が正しいという風には考えていなかったように思う。むしろ、そのような対立構造を作り上げ、若しくは維持することによって得られるエネルギーが大切だと思っていたのではないか。作用があれば、反作用がある。そのエネルギーこそが重要なのであって、そのエネルギーこそが文化を育み、醸成するのである。この訳の分からない力のことを、私は、文化的エネルギーと呼びたい。振り子の振れ幅は、大きな方が良い。比喩的に言えば、そういうことなのだ。

 

もちろん三島は、アラブ人とユダヤ人の対立だとか、そのような不幸な対立構造を望んでいた訳ではない。そうではなくて、例えば、当時、三島は左翼学生と対立していた訳だが、そのような事例において、私はある種の幸福を見るのである。

 

簡単に言えば、当時の左翼学生たちは、言論の自由が許容される共産主義社会を夢見ていたのである。対する三島は、そんなユートピアのような国家形態は存在しない。共産主義の国家になれば、必ず言論は統制され、秘密警察や強制収容所が待っていると考えていた。但し、今の世の中ではダメだ、もっと良い世の中にしたいという根源的な願望を持つという点において、両者は共通していたのである。

 

当時の出来事を時系列に並べてみよう。

 

1968年10月5日: 三島、楯の会を結成

1968年10月21日: 新宿騒乱事件

1969年1月18日: 東大安田講堂事件

1969年10月21日: 新宿でのデモ(盛り上がらず)

1970年11月25日: 三島、自決。

 

三島が楯の会を結成する以前から、学生運動はその激しさを増していた。そこで、三島はそれに対抗する目的で、楯の会を結成したのではないか。少なくとも三島が楯の会を結成した理由の1つには、学生運動があったと思う。実際、その直後には新宿騒乱事件が発生している。翌1969年1月には、東大全共闘安田講堂に立て籠るという事件が発生したが、彼らはいともた易く、機動隊に排除された。少なくとも、テレビを見ていた一般国民の目には、そう映った。学生運動などしても、国家権力に勝てるはずはない。以後、学生運動は、急速に収束して行く。

 

作用としての学生運動があり、その反作用として楯の会があったのだと思う。

 

1969年10月21日にも新宿でデモがあったが、これはさっぱり盛り上がらなかった。この時、三島はヘルメットを被って見物に出かけているが、デモ隊の惨状を嘆いている。1970年2月27日付、三島はドナルド・キーン氏に宛てた手紙に次のように記した。

 

- 世の中はすでに、1960年の安保のあとのように急にシーンと落ち着いてしまひ、何の危機感もなくなり、・・・従って僕も元気がなくなりました。危機感は僕のヴィタミンなのに、ヴィタミンの補給が絶えてしまったのですからね。(文献11:P. 190)-

 

このように、世の中には平穏が訪れ、無風状態となり、そんな中で三島は決起したのだった。

 

さて、4時間を超えるYouTube番組の最後で、三島はその本音を語っている。(4:14:50頃)

 

https://www.youtube.com/watch?v=-fVyfKS2l-U&t=15347s

 

ポイント書き起こしてみよう。

 

- 到達不可能なものが、芸術である。到達可能なものが、行動である。こう考えると文武両道は、簡単に割り切れちゃう。行動は死に至るが、芸術においては、死が最高理念ではない。-

 

- この芸術と行動とによって、体が2つ引き裂かれる。これが「豊饒の海」のモチーフです。-

 

文と武の対立構造の中で、体が引き裂かれる。それは小説のモチーフであったと同時に、三島の人生そのものだったのだと思う。

 

三島にとって、「文」とは文化の様式のことで、その中で中心的な役割を果たすのが文学である。これは永遠に、到達することがない。一方、「武」とは武士道のことで、行動の様式のことである。但し行動は、死に到達することが可能だ。この相反する2つの様式の中で、三島の自我は引き裂かれたのである。そして、三島の魂に救いの手を差し伸べたのが、天皇だった。天皇は日本という文化共同体における文化の総体を映し出す鏡であると共に、その構成員が行動を起こす時の大義となる。大義とは、人間が死ぬための理由である。大義なくして、人は行動すること、死ぬことは困難である。だから三島はあれだけ天皇にこだわったに違いない。三島が求めた天皇とは、文と武に引き裂かれた自己を統合し、救済する絶対者だったのだ。

 

ところで三島は、日本の文壇に絶望していた。

 

- 「暁の寺」はひどい冷遇ぶりで、ますます日本の文壇に絶望しました。しかし本は呆れ返るほど賣れます。つまらぬ批評、無知な批評家たち・・・ (文献11:P. 196)-

 

文壇ばかりでなく、三島は、人間にも絶望していたのだと思う。三島が自決した1970年においては、既に文化的なエネルギーは失われ、人々は目先の金と権力に目を奪われていたのである。しかし、三島は自分の人生には、満足していたと思う。やり残したことなど、1つもないのだから。あえて三島は勝者だったのか敗者だったのかということを言えば、私は勝者だったと思う。

 

さて、三島が自決してから54年が過ぎた。日本列島に住み、日本語を母語とする私たちの文化共同体は、どうなっただろう。幸い、戦争は起きていない。暴動も革命も起きていない。昭和の天皇崩御されたが、その後、平成の天皇、令和の天皇と皇統は維持されている。自衛隊も変わらず、私たちは日本語を話し続けている。しかし、武士道精神はすたれ、ほとんどの男たちは腰抜けになり、新宿などへ行けばふしだらな女たちが氾濫している。豊かな表現に満ちていた日本語は痩せ細り、カタカナ言葉が横行するようになった。最早、美を探すのは困難となり、倫理さえもその存続が危ぶまれている。

 

そう、私たちの文化共同体からはあらゆるエネルギーが失われ、あれだけ大きく左右に振れていた時計の振り子は動きを止め、その針は最早、時間を指し示してさえいない。三島の自決とは、そのことを私たちに教える最後の事件だったのだ。

 

補記)以上をもちまして、文化防衛論に関するシリーズ原稿は終了致します。

 

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977

文献6: 最後の思想 三島由紀夫吉本隆明富岡幸一郎/アーツアンドクラフツ/2012

文献7: 赫奕たる逆光/野坂昭如文芸春秋/昭和62年

文献8: 決定版 三島由紀夫全集 13/新潮社/2001

文献9: 魂と意匠-小林秀雄/秋山駿/講談社/1985

文献10: 『葉隠』の武士道/山本博文PHP新書/2001

文献11: 三島由紀夫 未発表書簡/三島由紀夫中央公論新社/2001

 

文化防衛論/三島由紀夫(その13) 言語化を拒む死

 

人間の中には、野生がある。この野生を解放し切った場合、どうなるのか。人間の世界には、殺人やレイプなど、ありとあらゆる犯罪が蔓延するだろう。そして三島は、人間の野生を人間性と呼び、そこから人間を守らなければならないと考えた。この人間を守る手段として、文明はいくつかの方策を用意した。

 

- 「人間」を「人間性」の危険から守るために宗教が起こり人間性に含まれる自然の脅威から人間を守るために反自然的なキリスト教が発明され、かつ宗教の欠点を矯正するために政教分離が起り、政治が宗教の一部を受け持って、人間を人間性から保護するために秩序維持の着務(ママ。責務の間違いでは?)、ないし使命を負うたのである。(本文献:P. 134)-

 

上記の文章の中に、西洋史のエッセンスが表現されている。いくつか前の原稿で三島が野坂昭如と「エロチシズムと国家権力」というタイトルで対談したという話を書いたが、今にして思えば三島は上記の内容、すなわち、人間性としてのエロチシズムから人間を防御するために国家権力が必要になるという趣旨のことをしゃべったのではないか。

 

さて、上記引用箇所における「政治」という言葉を便宜上、「国家」に置き換えてみよう。すると、人間をその野生から防御するために文明が発明したものは、宗教、国家、そして文化の3種類ということになる。なお、ここに言う国家とは近代国家をイメージしている。なお、現代人である私たちは、国家というものを信じて疑わない傾向にあるが、三島は懐疑的だった。

 

- 私は国家というものを普遍的な政治概念として規定することを好まない。(本文献:P. 350)-

 

言うまでもなく日本には、明治憲法が制定される遥か昔から連綿と続く歴史がある。また、近代国家とは、西洋文明の産物なのであって、その概念や理念が必ずしも全ての地域や民族に適合するかと言えば、そうではない。元来、狩猟採集民族に国境は存在しなかったし、アフリカを直線の国境で分断したのは白人だった。

 

宗教と国家の違いは、比較的簡単に説明できよう。聖書などの教典を重んじるのが宗教で、憲法や法律を重視するのが国家である。順序としては、宗教の方が古い。しかし、双方とも文字に依拠しているという共通点がある。ちなみに旧約聖書はいつ書かれたのかネットで検索してみると、紀元前12世紀から紀元後2世紀とのことである。何を言いたのかと言えば、西洋の文明というのはそのルーツを文字に置いているのではないか、という点である。これに対して日本の文化は、もっと古い、人が文字を持つ前の時代にそのルーツを置いているのではないか。例えば、古事記は、どこかアイヌの神話に通ずる。私はアイヌの神話や童話が好きでYouTubeの「アイヌ絵本」という番組を見ているのだが、ここにも2項対立に準拠しない物語が豊かに語られる。日本の神話にはヤオロズの神が登場するし、アイヌの神話にもいたずら好きの様々なカムイが登場する。

 

文字に依拠する文明においては、真理は自分の外にあることになる。自分で考えるよりも聖書などの教典を熟読しようということになる。対して、文字を持たない人々は、例えば、自然との触れ合いの中から、何かを発見しようとする。日本には、そのような伝統がある。そして日本人は、文字を持った後でもそのような伝統を継承したのではないか。俳句には季語が必要だし、松尾芭蕉は自然の中に人間を投影して見ていたに違いない。

 

真理は、即ち、私の心の中にある。心即理という陽明学の思想を、一神教の信者たちが受け入れることは決してないだろう。彼らにとって真理とは、自分の外側に存在する経典や法律の中にあるに違いない。

 

ところで、三島について語るからには、彼の死に関する問題を避けて通ることはできない。但し、反対論もある。

 

- 割腹死を決意させたものの核心が何であったかを、解明できると思うことがいかに不遜であるかは、承知しているつもりである。自分なりの結論にせよ、解明できたと思う時は、永久にこないであろう。(文献6:P. 158)-

 

上記の引用文は、吉田満氏の弁である。確かにソクラテスは「不知の自覚を持て」と主張したのであって、最終的に解明できると思うことは不遜であるに違いない。しかし、ソクラテスは「人間並みの知恵」を目指して思考せよ、とも述べていたのではないか。私は、不遜であるから思考しない、という態度は取りたくない。

 

では、この問題について三島自身はどう述べていたのだろう。

 

- 行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせないからこそ行動なのである。ことばでとらえた行動というものは、煙のように消えていき、そこに何ら痕跡は残らず、また、行動の理論体系を立てるということ自体が、行動家の目から見ればすでに滑稽である。(文献2(行動学入門):P. 67)-

 

 

なるほど、三島は行動というものを言語化することはできないと主張しているのである。しかし、三島はドナルド・キーン氏に宛てた最後の手紙の中で、次のようにも述べている。ちなみに、決行の日、三島の自宅のテーブルには3通の手紙が置かれていた。そのうちの1通が、これである。

 

- 小生、たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓讀は学問的に正に正確でした。小生の行動については、全部分かっていただけると思ひ、何も申しません。ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました。(文献11:P. 197)-

 

一体、どうしたことだろう? 行動学入門においては、あれだけ言語化できないと言っておきながら、親しいキーン氏に対しては「全部分かっていただける」と述べている。この点、三島は、日本文学に造詣の深いキーンさんに対する儀礼としてそう述べたのだろうか。いずれにせよ私が思うのは、分かることと、分からないことがあるのではないか、ということである。その前提で、私の理解を進めてみたい。

 

まず、三島は少年時代、祖母に連れられてよく能を鑑賞していた。このような文化的な環境下にあって、三島の文学的な素養が育まれていく。実際、三島は16才の時に執筆した「花盛りの森」で文壇デビューを果たしている。また、三島は「私は初めは芸術至上主義者でした」と述べている。(本文献:P: 290)

 

その後三島は、次第に「行動をして精神が動かされなきゃいかん」と思うようになる。行動ということを考えるうちに、三島は敵が必要だと思った。「私はどうしても敵が欲しいから共産主義というものを拵えたのです」ということになる。但し、共産主義は三島が便宜上措定した敵に過ぎず、真の敵ではなかったに違いない。

 



 

三島の変遷を上図に当てはめてみよう。まず、三島は自我から出発している。そして、文化の領域を目指した。三島にとっての文化とは、当初は、能であり文学だった。しかし、三島はそれに飽き足らず、同じ文化領域にある行動に着目した。三島の行動に関する理論的な背景は、陽明学葉隠だった。そして、三島は敵を見出す。三島は日本の文化、伝統に込められた様式の中に自身を昇華させることを望んでいた。つまり、三島にとっての本当の敵とは、日本の文化、伝統に反逆を試みようとするあらゆる勢力だったのである。

 

自我 → 文化 → 敵としての近代国家

 

ここで疑問が湧いて来る。それは三島の自我と文化との関係である。三島の自我は、果たして文化と完全に一体化したのか、という問題だ。

 

文化とは、三島が型、フォルム、様式などの言葉を用いて表現したものである。能には型がある。剣道にはフォルムがある。文学には様式がある。この問題を突き詰めて行くと、人間の言語自体、様式によって成り立っているとも言える。

 

少し話は脱線するが、三島は、日本語として美の絶頂を極めたのは古今和歌集だと述べている。

 

- われわれの文学史は、古今和歌集にいたって、日本語というものの完熟を成就した。文化の時計はそのようにして、あきらかな亭午を斥すのだ。(文献6:P. 181)-

 

代表的な和歌とは短歌であり、それは57577という様式によって成り立っている。その様式の中にこそ、三島は日本語における最高峰の美を見ていたのである。そうしてみると、三島はその遺作、豊饒の海において、古今和歌集のような日本語の究極的な美を追求したのではないかと思えてくる。

 

話を戻そう。ここで私が提起したい問題とは、本来不定形である三島の自我は、様式の中にすっぽりと納まったのか、という問題である。例えば、古池や蛙飛び込む水の音、と詠んだ松尾芭蕉は、これで全てを言いきったと感じていたのか、本当は他にも言いたいこともあったのか、という問題なのだ。多分、芭蕉は、その心情を言い切ったのではないか。つまり、芭蕉の心は俳句という様式と完全に合致したと見ることができる。では、三島の場合はどうか。三島の自我は、文学や武士道の様式と完全に合致していたのだろうか。その答えは、ノーだと思う。三島の自我は、文化の持つ様式を目指し、ほとんど一体化したのだろうと思うが、そこで三島は自我を完結することはできなかったのだ。そこには収まり切らないエネルギーがあり、三島は敵と戦わざるを得なかったのだと思う。そして、様式と合致させられなかった余剰の部分を切り捨てるために、最後の手段として、自らの身体を抹殺したのではないか。つまり、三島は腹を切ることにより、自らを様式に完全に合致させたのである。こうして、三島という男は日本の文化、伝統の化身となったのだ。死ぬことによってしか完成させることのできない美学。三島は、それをやり遂げたのだと思う。

 

さて、私が推測できるのは、ここまでである。では、三島は何故、そのような美学に向かったのか、という問題が残る。それは、三島の自我に関わる問題だ。しかし人間は自我、主体、「私」とは何かという設問に答えることはできないのではないか。心理学的に言えば、そこは無意識に支配されている領域である。そして自我の中には、人間の野生が密かに息づいている。形を持たない、得体の知れない熱を帯びた、まるで泥水のような自我。それは理解されることを拒んでいる底なし沼のような闇なのだ。

 

 

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977

文献6: 最後の思想 三島由紀夫吉本隆明富岡幸一郎/アーツアンドクラフツ/2012

文献7: 赫奕たる逆光/野坂昭如文芸春秋/昭和62年

文献8: 決定版 三島由紀夫全集 13/新潮社/2001

文献9: 魂と意匠-小林秀雄/秋山駿/講談社/1985

文献10: 『葉隠』の武士道/山本博文PHP新書/2001

文献11: 三島由紀夫 未発表書簡/三島由紀夫中央公論新社/2001

 

文化防衛論/三島由紀夫(その12) 文武両道

 

三島は繰り返し文武両道を主張していたが、これがなかなか難しい。例えば、本文献(文化防衛論)には、次のような記述がある。

 

- 私が文武両道と申しております意味は、そのような優雅な文学が一方にある、一方には武士道があるというのが日本文化の一番本質的な形であるにもかかわらず、日本ではいま優雅のほうも、私がなよなよ文学をやっていなければ、ますます中間小説の粗雑なガサガサ文学だけになってしまう。武士道の方も、私が恥を曝して剣道でもやってなければ、いまのように武士道が忘れられて、甚だ感情の錯乱したようなサイケデリックな時代に陥ってしまう。(本文献:P. 200)-

 

上記の引用箇所だけでは、その本意を理解できないだろう。何か、ロジックで考えた場合、いくつかのステップが欠落していると思う。僭越ながら、その欠落部分を私なりに補充してみようと思う。

 

まず、100年以上の永きに渡って育まれてきた文化には、何らかの意味なり重要性というものがある。それは人間にとって必要だから、若しくは何らかの魅力を持っているから、人々はそれを伝承してきたのである。従って、そのような文化に接してみる、参加してみる、理解しようと努めてみることには、意義がある。例えば「文」、これは文学を指す訳だが、それだけを取り上げて日本の文化、伝統を語る訳にはいかない。逆もまたしかりであって「武」、これは武士道を指すが、それだけを経験しても、文化の全容を把握したことにはならない。そして、片方の極である文学を三島は「なよなよした」と表現しており、その対極にあるのは言わば「ごつごつした」武士道ということになる。両極を理解すれば、文化の全容を把握したと言えるのではないか。そこで、文武両道ということになる。

 

次に、過去の人が伝承してきた文化を自らが、次の世代に伝承するにはどうするか、という問題がある。これは、自らがその文化に参加する、その文化について発信する以外に方法はないと思う。例えば、街にあなたの気に入ったパン屋さんがあったとしよう。あなたは、是非、そのパン屋さんに長く営業を続けてもらいたいと思う。するとあなたにできることと言えば、その店でパンを買うこと、その店のパンがいかにおいしいかご近所に広めることだろう。

 

このように考えれば、上に引用した三島の発言の意図が明確になったのではないか。つまり、三島は日本の文化、伝統を理解するために文学と武士道の双方を実践し、理解に努めたのである。更に、それを伝承しようと思った三島は、積極的に発信も続けた。

 

三島が述べている優雅で、なよなよした文学の方の最高傑作は、その遺作「豊饒の海」だろう。これは1巻と2巻が出た後で川端康成をして「源氏物語以来の傑作」だと言わしめている。ちなみに、三島は没落貴族を好んでテーマに選んだ。「豊饒の海」もその1つである。左翼にしてみれば、そんな金持ちの話は聞きたくない、と思うのではないか。しかし、貴族社会には様々な儀式や風習があり、その1つひとつに文化の結晶が秘められている。それらを表現する独特な言葉も豊富にある。そのような貴族世界を放置すべきではない、と三島は考えていたのだと思う。そこに文化の精華を見ていたに違いない。そして、貴族の中の最高峰に位置するのが、天皇である。つまり、天皇制の歴史やその意味を考える上でも、三島にとっては貴族社会を描く必要があったのだと思う。

 

剣道の方は四段の腕前で、五段の昇進試験を受ける意志はあったようだが、あるいはその前に決起したのかも知れない。

 

余談になるが、私はかつて文武両道に関する三島と武田泰淳の対談を雑誌で読んだような記憶がある。当時、私は中学生だったと思う。右翼であるはずの三島と左翼であるはずの武田が、その対談においては妙に意気投合しており、その理由が私には分からなかった。武田泰淳と言えばあの「ひかりごけ」という短編の傑作を残した作家であり、かつ「赤い坊主は生きられるか」と自らに問うような人生を歩んだ人でもある。親がお寺さんをしていて、武田は家業を継いだのである。しかし、武田は共産主義に傾倒してしまう。坊主でありながら、共産主義者で、小説家だったのである。そんなことも合わせて考えると、文武両道の本質は、幅の広い人生を歩め、視野を広く持て、何でも飲み込んでみろ、という点にあるような気がしてくる。これは足し算の思想だと言えないか。

 

文化防衛論/三島由紀夫(その11) 文学の力

 

三島の思考対象は、広範に及んでいる。むしろ人間世界の全体に及んでいると言っても過言ではない。三島は、あたかも雑食の恐竜のように、世界のありとあらゆる事象を丸呑みしたのではないか。例えば、決起の日にあのバルコニーからばら撒かれた檄文は、ソクラテスの弁明に似ている。更に三島は、カント、サルトルオルテガハイデッガーなどの西洋哲学にも精通していた。日本の歴史は言うに及ばず、中国やインドの思想にまで触手を伸ばしていた。また、流暢な英語を話す傍ら、自らボディービルや空手、剣道などを実践していたのである。書いた原稿は、4万枚に及ぶと言われている。わずか45年の人生を三島は片時も留まることなく、疾駆したに違いない。だから、三島の思想や行動の一部を切り取って心理学的な分析を試みたとしても、それは嘘っぽく、浮薄で、信用できない。

 

例えば、春の雪(豊饒の海 第1巻)には、次の記述がある。この場面は、松枝清顕(まつがえきよあき)が2歳上の聡子とキスをするエロチックな場面の直後に登場する。雪の残る校庭で、本多繁邦(ほんだしげくに)が語る。

 

- 俺はこの間うちから、個性といふことを考えてゐたんだよ。俺は少なくとも、この時代、この社会、この学校のなかで、自分一人はちがった人間だと考えてゐるし、又、さう考へたいんだ。(中略)しかし、百年たつたらどうなんだ。われわれは否応なしに、一つの時代思潮の中へ組み込まれて、眺められる他はないだろう。美術史の各時代の様式のちがひが、それを情容赦もなく証明してゐる。一つの時代の様式の中に住んでゐるとき、誰もその様式をとほしてでなくては物を見ることができないんだ。(中略)様式のなかに住んでゐる人間には、その様式が決して目に見えないんだ。だから俺たちも何かの様式に包み込まれてゐるにちがひないんだよ。金魚が金魚鉢の中に住んでゐることを自分でも知らないやうに。(文献8:P. 108)-

 

上の引用箇所における様式という言葉は、本文献(文化防衛論)の中に登場するフォルムと同義である。また、これを構造という用語に置き換えることもできるだろう。つまり、上の引用箇所に記された思想は、構造主義そのものなのだ。

 

構造主義を簡単に説明すると、人間は構造の中に住んでいるのであって、その外に出ることはできない。全ては構造によって決定されるので、人間には個性も自由も存在しない、とするものだ。構造主義者たちは様々な現象を捉え、その中に構造を見つけた。もしくは、見つけたと主張したが、結局のところ、この考え方は人間には虚無しかないという考えに行き着く。この路線で小説を書いているのが、村上春樹である。

 

この構造主義を踏まえた上で、それでも人間には何かがあるのではないかと考えた日本の思想家が、小林秀雄だったのではないか。三島が構造主義の哲学に触れた形跡はないが、小林秀雄は、バルトやラカンなど構造主義の思想を学んでいる。そして三島は、23歳年上の小林から強く影響を受けた。西洋思想に関する両者の記述を並べてみよう。まずは、小林から。

 

- 僕等は西洋の思想に揺り動かされて、伝統的な日本人の心を大変微妙なものにして了つたのだが、その点に関する適確な表現を現代の日本人は持ってゐないのである。(文献9:P. 151)-

 

次は三島の言説。

 

- われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の蔭に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬ってきた。われわれは西洋に対して戦うというときに何をもとにして戦うかを、ついに知らなかった。そして、西欧化に最終的に順応したものだけが、日本の近代における覇者となったのである。(文献2:P. 227)-

 

似ていると言うか、全く同じなのだ。そして2人とも、その答えとして日本の文化、伝統に至ったのである。

 

構造主義で虚無に陥った世界の思想家たちは、その対処について、つまり人間の文明をどちらの方向へ向ければ良いのか、その対応案を示すことはできなかった。ポスト構造主義と呼ばれる思想家の代表選手は、フーコーデリダドゥルーズの3人だが、誰もその壁を超えてはいないのだと思う。フーコーの到達点を一口に言えば、「文明をゼロから作り直せ」ということだと思う。(学術的な根拠はなく、これは私の意見である)また、私はデリダドゥルーズについては知らないが、彼らが文明の進むべき道を示したという話は、聞いたことがない。

 

こうしてみると、その壁、つまり虚無を越えた小林や三島の思想は、ポスト構造主義よりも新しいのではないかと思えてくる。彼らは文化、伝統へ回帰せよと、文明の進むべき方向を具体的に示しているのである。但し、小林と三島がフーコーよりも優れているとは言い切れないような気もする。何故かと言うと、小林と三島は日本人だったからである。日本という特殊な長い伝統と歴史を誇る文化大国にいたからこそ、そのような発想が生まれたのではないか。歴史の浅い国、戦争ばかりやっていた国、極度な貧困が継続している地域などにおいては、日本のように優れた美と倫理を醸成する重厚な文化が発達しているとは思えない。

 

さて、もう少し三島の思考方法について、掘り下げてみたい。私が思うのは、実は、三島は2項対立で物事を考えていなかったという点である。2項対立とは、昼があれば夜がある、天があれば地があるといった具合に、物事を対立する2つの事項に分けて考える方法である。例えば、私たちは政治的な立場を思い浮かべる時、右と左に分けて考える。それは自然なことで、2項対立とは複雑な物事を単純化して理解し易くする思考方法の一種なのだ。これなくして、私たちが物事を整理して考えるのは困難だ。しかし、三島は違っていたのではないか。

 

例えば、戦時中と戦後。戦時中の日本における権力者は、天皇と軍部だった。当時、二十歳だった三島は、死ぬことばかりを考えていたのである。それが8月15日の玉音放送を境に、事態は一変する。鬼畜米英などと言って、あれだけ蔑んでいた米国から派遣されたマッカーサーGHQが権力を掌握したのである。すると多くの日本人は、掌を返してGHQに擦り寄り、権力のおこぼれにあずかろうと必死になった。戦時中と戦後とでは、日本人の意識は180度変わったに違いない。しかし、三島は違った。確かに状況は変わったが、三島はそれでも変わらない人間の本質を見続けていたのだと思う。日本は、その後の朝鮮戦争を契機とした経済復興などを経験するが、三島は冷徹な目で日本人を観察していたに違いない。確かに戦時中にも酷い日本人は少なくなかった。勝ち目のない戦争に突き進んだ軍部の人間もいたし、権力を振りかざした憲兵の横暴などもあった。しかし、時代に翻弄されながらも、純粋な気持ちで日本のために死んでいった青年たちのことを三島は忘れることができなかったのである。例えば、2・26事件における青年将校や、神風特攻隊として南の海に散っていった若者たちのことである。三島にとっては、戦時中と戦後という時代は連続していたのであって、そこに区分は認められなかったのだと思う。

 

生と死という2項対立もある。しかし、生物とは何かと言えば、それはいつか死ぬ者のことである。死を抜きにして、生は存立し得ない。死を前提とするからこそ、生は輝く。

 

左翼学生と楯の会も、対立する。1960年代は学生運動が盛んで、日本でも本当に共産主義革命が起こるのではないかと危惧されていた。そこで、国内の治安を確保するため、三島は民兵組織としての楯の会を組織したのである。共産主義とは全体主義なのであって、そこに言論の自由は存在しない。言論の自由がなければ、文化は醸成されない。共産主義とは、必然的に粛清、秘密警察、強制収容所を必要とする。三島はそう考えていたが、左翼学生たちは言論の自由が保障される共産主義社会という、ユートピアを夢見ていたのである。では、三島は左翼学生たちを敵とみなし憎んでいたかと言えば、必ずしもそうではない。三島は、全学連について次のように述べている。

 

- 全学連運動、いわゆる新左翼の思想の根底には認識と行動との一致、陽明学にいわゆる知行合一のエトスが潜在していると思われる(以下略)(文献2:P. 196)-

 

- 安保闘争はじつに政治的に複雑な事件で、あれに参加した青年たちは、何か自分の身を挺するものを探して参加したにすぎず、かならずしもイデオロギーに支配されたり、あるいは自分で安保条約の条文を精密に研究して行動したわけではなかった。彼らは相反する自分の中の衝動、反抗と死の衝動を同時に満たそうとしたのである。(文献10:P. 98)-

 

そもそも、三島は若い人が好きだった。だから、様々な大学へ出かけては、学生たちとの討論を繰り返したのである。

 

西洋と東洋という対立軸もある。三島は日本の文化を守れと主張していたのだから、さぞかし西洋を憎んでいただろうと思いがちだが、そうではない。自宅は西洋建築で、庭にはギリシャ風の彫刻が置かれていたし、トーマス・マンゲーテも好んで読んでいたのである。つまり、物事の表層だけを見て2項対立を設定するのではなく、常に本質を見て、連続的に、かつ総合的に思考していたのだと思う。このような態度は、例えば肌の色や民族、宗教などによって対立軸を設定するやり方とは、認識の方法が根本的に異なるのである。

 

蛇足ながら、世の中には男と女という対立軸もある。しかし、三島は男色家でもあった。

 

さて、上に記したような認識の方法とは何かと考える訳だが、これにはいくつかのアプローチが可能かも知れない。それは神話的な思考方法だとも言える。例えば古事記に登場するスサノオは、畑を荒らす悪い神様だった。あまりに悪さをするからアマテラスオオミカミは天の岩屋戸にお隠れになったのである。しかしスサノオは、その後、ヤマタノオロチを退治してみせる。では、スサノオとは悪い神様だったのか、良い神様だったのか。どちらとも言えるというのが、正解だろう。

 

しかし、このような見方が神話の中だけに存在するかと言えば、そんなことはない。近代小説も同じ方法を取っている。蜘蛛の糸に登場するカンダタだって、生前、一匹の蜘蛛を助けたことがあるし、罪と罰の主人公ラスコーリニコフは金貸しの老婆を殺害したが、最後には改心したのである。

 

2項対立のように物事を分解することなく、あるがままに受け止める。それが神話であって、文学はその原理を今日に至るまで受け継いでいるに違いない。人間が生きる現実の世界というものがあって、その全てを飲み込むように吸収する。それが文学的な方法であって、三島の作品は、そのように出来上がっているのではないか。例えば、現実世界にはエロティシズムが存在する。他方、構造主義という考え方も存在する。そして三島の文学作品においては、その双方があたかも並列で、連続的に、扱われる。このような科学的でもロジカルでもない伝統的な、ある認識方法にこそ、文化を支える原動力があるのではないか。それこそが、文学の力だと思うのだ。

 

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977

文献6: 最後の思想 三島由紀夫吉本隆明富岡幸一郎/アーツアンドクラフツ/2012

文献7: 赫奕たる逆光/野坂昭如文芸春秋/昭和62年

文献8: 決定版 三島由紀夫全集 13/新潮社/2001

文献9: 魂と意匠-小林秀雄/秋山駿/講談社/1985

文献10: 『葉隠』の武士道/山本博文PHP新書/2001

 

文化防衛論/三島由紀夫(その10) 行動

 

三島のこととなると、私は、ほとんどまともな評価というものを読んだり聞いたりしたことがない。例えば、野坂昭如は「赫奕たる逆光」(文献7)という本の中で、次のようなエピソードを紹介している。

 

野坂は、三島の推薦を受け「エロ事師たち」という作品で、文壇にデビューした。事件は、昭和41年の秋に起こる。中央公論が、三島と野坂の対談を企画したのだった。三島に恩義を感じていた野坂が、その申し出を断れるはずはなかった。野坂が約束の時間に指定された料理屋へ入ると、既に三島が座っていた。そして、野坂にこう言ったのである。

 

「今日あなたと、国家とエロチシズムについて、しゃべってみたいと考えています。昨夜少し勉強してきました。」

 

それを聞いた野坂は、正気を失った。野坂はその時の感想を「エエ? ウッソー」と記している。頭の中がはてなマークで溢れたに違いない。誰だって、突然、国家とエロチシズムについて話せと言われれば、それは気が動転するだろう。それって一体、何か関係があるの? 私だってそう思う。それはあたかもタワシとカカシの関係について述べよと言われるのに等しい。当然のことながら、対談を通して、野坂はまともなことを何一つ述べることができなかった。

 

帰り道、ヤケを起こした野坂は、六本木で弱そうなヒッピー風の男に喧嘩を売った。そして、右手の小指を骨折したという。

 

余談だが、この時の対談は三島由紀夫全集の第39巻に「エロチシズムと国家権力」として収録されている。

 

上に記した野坂の体験とコメントは、正直で大変結構だ。しかしながら、当時の大御所とも言える知識人の発言となると、話は別である。

 

そもそも、三島は自衛隊の市谷駐屯地で何を主張したのか。バルコニーに立ち、肉声でがなり立てる音声も残っているが、それは罵声と騒音にかき消されていて、細部まで聞き取ることはできない。しかし、三島が自衛隊員に配布した檄文というものがあり、その内容はネットで確認することができる。

 

三島由紀夫 檄文 全文

https://naniwoyomu.com/3834/

 

三島が非難しているのは、自己の保身、権力欲、偽善に陥った政治家とそのような政治家を支持する日本人なのである。そして、本来は国軍として位置付けられるべき自衛隊が、憲法9条によって否定されるというパラドックスに陥っている。そこで、三島は自衛隊員に対し、武士として共に決起しようと呼びかけているのだ。また、武士として決起するということは、すなわち死を意味している。三島は「共に起って義のために共に死ぬのだ」と主張したが、賛同する自衛隊員はいなかった。三島はバルコニーで最後に「天皇陛下万歳」と三唱し、その直後、総監室に戻り、割腹自殺を遂げた。

 

これが事実であるが、当時、江藤淳小林秀雄が次のように発言している。(昭和46年『諸君!』7月号に掲載、出典は文献6)

 

江藤・・・僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。たいした歴史の事件だなどとは思えないし、いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えませんね。

小林・・・いえ、ぜんぜんそうではない。三島は、ずいぶん希望したでしょう。松陰もいっぱい希望して、最後、ああなるとは、絶対思わなかったですね。三島の場合はあのとき、よしッと、みな立ったかも知れません。そしてあいつは腹を切るの、よしたかもしれません。それはわかりません。

 

まず江藤が、リアリティが感じられないと言っているのは、三島に死ななければいけない必然性があったのか、という問題提起だと思う。大義と言い換えても良い。吉田松陰には大義があったが、三島にはない。そう言いたいのだろう。松陰は別にして、少なくとも大塩平八郎西郷隆盛には、その必然性があった。彼らは、大義のために死んだのである。三島には、どうしても死ななければならない必然性や理由はなかったと思う。この点は、私も同感なのだ。全ては芝居のようで、自衛隊という場も、楯も会も舞台道具に過ぎなかったのではないか。しかし、そこから導かれる結論が、私と江藤では正反対なのである。ソクラテスの場合を考えてみれば良いのだ。ソクラテスの死も、回避不能ではなかったのである。逃げることだって可能だった。しかし、ソクラテスは逃げず、自ら進んで毒杯を煽ったのである。三島も同じだと思う。大義のために死んだ人々は立派だ。しかし、そうではなくて、自ら死んでみせるという人間の悲劇的な選択にこそ、人々の魂は激しく揺さぶられるのである。

 

また、江藤は「いわんや歴史を進展させているなどとはまったく思えませんね」と発言しているが、三島はそんなことのために死んだのではない。三島は「文化には改良も進歩も不可能であ」ると述べており(本文献:P. 47)、そのような文化の中で、自らの命を絶ったのだ。江藤の頭の中は、せいぜい夏目漱石で止まっていたのではないか。

 

一方、小林は江藤の発言に対して、三島を庇おうとしたのかも知れない。つまり、全てが計算されていた訳ではない、自衛隊員が誰も三島に同意しなかったから、止むを得ず三島は自決したのだ、三島には大義があった、と言いたかったのだろう。実際、小林は早くから三島の才能を高く評価し、激励していたのである。しかし、ここには重大な事実誤認がある。三島は自衛隊員に対し、決起をしてクーデターを起こそうと呼びかけたのではない。共に、大義のために死のうと言ったのだ。仮に、みんなが決起していれば、その全員で腹を切っていたことになる。

 

次に、吉本隆明は次のように書いている。1971年2月号の「試行」32号に掲載されたものである。

 

- 三島の死は文学的な死でも精神病理学的な死でもなく、政治行為的な死だが、その〈死〉の意味はけっきょく文学的な業績の本格さによってしか、まともには測れないものとなるにちがいない。(文献6:P. 14)-

 

当時、吉本のこの発言がきっかけとなったのだと思うが、三島の死が政治上の死なのか、文学上の死なのか、議論が巻き起こった。

 

こうしてみると、確かに三島の主張には、憲法9条(特に2項)に反対するという政治的な意味合いが込められているし、何しろ、三島が選んだ場所は自衛隊という国家権力を象徴するような場所なのだ。しかし、三島の行動を政治的であるとするのは、矮小化である。三島の主張には、現実の政治では把握仕切れない広がりがある。

 

では、文学的な死なのか。そう言ってしまうと、それも同様に矮小化することになると思う。確かに、檄文の表現は文学的に完成されたものであって、それは倫理を超えた美の域に達していると思うが、三島の死は現実の世界における出来事なのである。

 

加えて、三島が死に惹かれていたのも事実である。生前、三島は英雄的な死、死の美学に取り憑かれていたのであって、それは三島が持つ強烈な自我に起因している。

 

すなわち、三島の行動、その死とは、政治的であり、文学的でもあり、かつ、その根っこには三島の自我があると見るべきだというのが、私の意見である。むしろ、それらの領域が重なる究極の結節点、それが三島の行動の位置であると思う。

 

 

三島由紀夫という人間は、巨大なスケールを持っている。もちろん本業は作家だった訳だが、それと同時に彼は武士であり、思想家でもあった。従って、その全体像を掴むのは確かに困難であるが、当時の文壇が彼に激しく嫉妬したであろうことは、想像に難くない。三島の業績を率直に評価してしまうと、並み居る作家や評論家たちのメッキが、いとも簡単に剥がれ落ちてしまうからだ。そう考えると、三島が痛切に感じていたであろう孤独感の一端を垣間見るような気がする。

 

 

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977

文献6: 最後の思想 三島由紀夫吉本隆明富岡幸一郎/アーツアンドクラフツ/2012

文献7: 赫奕たる逆光/野坂昭如文芸春秋/昭和62年

文化防衛論/三島由紀夫(その9) 文化を育む環境条件

 

三島の複雑で難解な思想を、どう言い表せば良いのか。三島自身、何とか多くの日本人に分かってもらおうと努力した訳で、その一例が「文化防衛論」なのだと思う。三島のそのような努力にも関わらず、彼の思想が人々に理解されたとは言い難い。三島はそのことを死の直前まで嘆いていたに違いない。

 

さて、人間の本性について、性善説性悪説があることは前に述べたが、この点、私は人間には善悪双方の特性があるのだろうと思う。例えば、フロイトはそれをエロスとタナトスという用語を用いて説明した。陽明学においても、汚れた心の中にも良知というものがあって、人間はそれを自らの心の中に発見し、育てるべきだと考えられている。

 

人間を何かにたとえてみようと思う訳だが、そこで私が思いついたのは、泥水である。人間とはあたかも泥水のように、箸にも棒にもかからない不定形な存在なのだと思う。結局のところ、男も女も旺盛な性欲を持ち、自分勝手で、ほとんど何も理解することができない。おまけに人間は狂いやすく、他者を殺すばかりか自ら死のうとさえする。そんな動物を、人間以外に私は知らない。

 

泥水を水槽に入れてみたとしよう。それは汚らしいばかりで、そんなものに興味を持つ人はいない。しかし、その水槽を放置しておくと、次第に泥だけが水槽の底に沈殿していき、上部には無色透明の水が現われる。陽光を浴びれば、その水はキラキラと反射して輝くに違いない。但し、水槽を揺すったり、中の水をかき混ぜたりした場合、泥水はいつまでたっても泥水のままなのである。

 

人間という泥水を、泥と水とに分離すること。すなわち、人間の中に潜む悪徳と良心とを分離し、良心を育て上げること。それが文化を育むということだと思うし、それには一定の環境条件が必要なのだと思う。その条件を以下に述べてみよう。

 

1.まず、人間集団がある訳だが、これは出入り自由の、言わば開放系の集団であってはならない。文化は閉鎖系の集団が価値観を共有することによって、育まれる。

 

2.その閉鎖系の集団は、共通の言語を持っていなければならない。閉鎖系の集団の構成員は、何らかの価値観なり美を発見した場合、それを言語化するに違いないのだ。そして、その言語が共有されることによって、集団の構成員はその価値観なり美を認識することが可能となる。

 

3.その閉鎖系の集団は、生命の危機に晒されていてはならない。そのような危険な状況にあっては、人は生命を維持することばかりに気を取られてしまうからである。また、その集団は、ある程度、経済的にも安定していなければならない。

 

4.文化を育むその集団は、長く存続しなければならない。何故なら、文化は伝承されることによって、その純度と完成度を高めるからである。武士道には千年の、古事記には千三百年の歴史がある。

 

5.その集団内において、言論の自由が保障されていること。それがなければ、その集団内のメンバーは、文化を醸成するという遠大な営為に参加することができない。

 

このように考えると、文化を育む環境条件の最も整った国、それは正に日本ではないかと思えてくる。日本は島国だし、江戸時代には鎖国をしていたので、正に閉鎖系の国だったのだ。また、日本には様々な方言があるものの、基本的には日本語を共通言語としてきた。そして、日本は恵まれた土壌と気候のおかげで、古くから稲作に従事してきた。稲は他の作物に比べ生産効率が良く、災害などの被害は避けられないとは言え、日本人は他の地域の人々よりも恵まれた食生活を送ってきたのである。日本の皇室が、様々な文化の担い手であったのも、彼らの生活が安定していたことにその理由があると思う。そして、日本においては革命も独立戦争も起こったことがないのである。仮に革命があったとしても、それは大化の改新明治維新位のものである。

 

戦争を繰り返してきた西洋の諸国や、歴史の浅いアメリカにおいて、日本のように文化が発達しているとは考えにくい。また、中国には永い歴史があるが、建国は1949年である。加えて、毛沢東が推進した文化大革命により、文化的、歴史的な遺産は、片っ端から反革命的であるとの理由により、破壊されてしまったのである。ちなみに、1967年、川端康成三島由紀夫、安倍公房、石川淳の4名は文化大革命に抗議し、学問芸術の自由を擁護すべきとする声明文を公表している。

 

そもそも美とは、人間社会において当初から存在するものではない。それは、多くの人が美しいと思い、美しいと解釈する共通の感性があるから、美しいのである。それは倫理も同じで、多くの人々が当然のごとく、そんなことをしてはいけないと思うから、それが共通認識となり、人々を規制するのである。つまり、美も倫理も、文化が産み出すのだ。

 

三島は最後の時、自衛隊の市谷駐屯地のバルコニーから声を張り上げて演説をぶった。それは、アメリカ人に聞かせるためでも、中国に向けてのものでもなかった。それは日本列島に居住し、日本語を母語とする私たちに向けてのものだった。

 

文化防衛論/三島由紀夫(その8) 古事記

 

敗戦後、最初に迎えた元旦、詔書が発布された。いわゆる天皇人間宣言である。戦前、天皇は現人神と呼ばれていた訳だが、これが否定され、天皇も人間であることが宣言されたのである。戦後生まれの私などからすれば、当然のことと思う訳だが、これに三島は激怒した。その詳細は、「英霊の聲」という作品に述べられている。本稿では、その理由を考えてみたい。

 

ところで、皆様は古事記に興味をお持ちだろうか。私は、今から半世紀も前だと思うが、スサノオヤマタノオロチを退治するアニメを見たような記憶がある。白黒の時代である。その後、古事記とは無縁の生活を送り、今から10年程前に一般人向けのガイドブックを購入した。それによれば、古事記とは皇統の正当性を証明するために日本人向けに作成されたものであって、中国や韓国などの外国に向けて作成されたのが、日本書記であるとのこと。なんだ、作り話じゃないか。そう思って、それ以上の興味は湧かなかった。改めて読み返してみると、そのガイドブックには、古事記について次のように記されている。

 

- 上、中、下巻の全3巻で構成され、天地のはじまりから語り出し、第33代の推古天皇までを記す。

 編纂を命じたのは天武天皇(第40代)で、朝廷や各氏族が伝える帝紀天皇家の系譜)と旧辞(朝廷の伝承、説話や物語)に間違いが多いとして、それを再編集して誤りを正し、稗田阿礼に読ませて暗唱させた。(中略)歴史書としての性格が強い日本書記に対し、古事記は多数の歌を織り込んで演出を加え、神の嘆きや復讐の物語、人間の愛情や哀切も描き、文学的色彩が強い。-

 

そんなものかと思いつつ、そのガイドブックを読み進めると、これがなかなか面白い。

 

イザナギイザナミという夫婦の神様がいた。2人はセックスを重ね、その都度、新たな神様を産み出した。最後にイザナミは火の神を出産するが、この時に大やけどを負って死んでしまう。死んだイザナミは黄泉の国へ行くが、亡き妻に対する思いを断ち切れなかったイザナギも彼女を追って黄泉の国へ向かう。するとそこには・・・。

 

このように古事記には、現代人でも思わず引き込まれてしまう面白さがある。但し、これは昔の人だから作れた物語なのであって、最早、現代人はそのような能力を失っているだろう。

 

そんなことをつらつらと思っていた訳だが、ここで私は重大な問いに直面したのだった。古事記とは、文学ではないのか?

 

当初私は、「なんだ、作り話じゃないか」と思った訳だが、逆に考えれば、史実を正確に記した文書は歴史書であり、記録である。むしろ、人間の想像力なり、感性なり、美意識が織りなす「作り話」こそ、文学と呼ぶべきものではないか。では、私が当初の印象を持った理由は何かと考える訳だが、それは古事記の匿名性にある。私たち現代人が思い浮かべる文学作品には、必ず作者の氏名が付されているが、古事記にはそれがない。古事記の実質は、伝承なのである。稗田阿礼は、それを丸暗記して太安万呂に筆録させたに過ぎない。長い時間を掛けて、無数の人々によって口頭により伝承された物語、それが神話であり古事記なのだ。

 

匿名の神話と近代小説の決定的な違いは、近代的自我の有無にある。匿名で語り継がれた神話には、特定の誰かが持つ思想が含まれていない。仮に含まれていたとしても、それは希薄なのである。一方、近代小説は最初の1行から、最後のひと言に至るまで、作者の自我に裏打ちされている。

 

「おれは自我があるなんて信じたことはないよ。」と述べた三島は、近代小説と同等に、若しくはそれ以上に神話としての古事記を評価していたに違いない。文献6によれば、生前三島は、日本文学の歴史を網羅的にカバーする本の出版を考えていたらしい。そして、その本が最初に取り上げたのは、古事記だった。

 

- その自決によって未完となった『日本文学小史』は、この国の千年をこえる日本語文学への三島の視点を簡潔かつ鮮明にした極めて重要な評論である。昭和四十七年十一月に講談社より刊行されているが、当初の構想からすれば、三分の一程で終わっており、これが完成していればこれまでにない日本文学史としての姿を明らかにしたと思われる。

 構想によれば、次の十二の作品について言及されるはずであった。「古事記」、「万葉集」、「和漢朗詠集」、「源氏物語」、「古今和歌集」、「新古今和歌集」(以下略)(文献6:P. 177)-

 

古事記には、神々の系譜が記されており、その子孫として初代の神武天皇が位置づけられている。そして古事記は、政治的にも文化的にも日本の象徴として君臨し続けた天皇制を支えてきたのである。これは日本最大にして最強の神話であると共に、最高峰に位置する日本文学だと言えよう。最早、誰もこれを超える文学を創造することはできないのだ。また、文学の力が人の世に与える影響の大きさが計り知れないものであることを思い知らされる。

 

最初に提起した問題に立ち戻ろう。つまり、天皇人間宣言とは、古事記と日本文学の伝統を否定するものだったのだ。だから、三島は激怒したのである。

 

<参考文献>

本文献: 文化防衛論/三島由紀夫ちくま文庫/2006

文献1: 人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトスフロイト中山元訳/光文社文庫/2008

文献2: 行動学入門/三島由紀夫/文春文庫/1974年(第1刷)

文献3: 武士道の逆襲/菅野覚明講談社現代新書/2004

文献4: 新・武士道/岬龍一郎/講談社+α新書/2001

文献5: 続 葉隠神子侃徳間書店/1977

文献6: 最後の思想 三島由紀夫吉本隆明富岡幸一郎/アーツアンドクラフツ/2012