文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ご挨拶

ようやく春めいて来ましたが、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。また、様々な形でこのブログにご協力をいただきました皆様、このブログを読んでくださった皆様、本当に有難うございました。とても励みになりました。

 

さて、「領域論」ですが、前回の原稿をもちまして、終了致しました。思えば、これは摩訶不思議な主張であって、仮にここに記したことが正しいとすれば、私たちは、歴史、宗教の成り立ち、芸術の本質、人間のタイプ、政治などについて、理解することができます。反面、「領域論」はある種の毒をも含んでいます。「領域論」をもってすれば、人間の発展段階を評価することが可能となるからです。仮にそんなことを面と向かって誰かに告げたとすれば、その人は怒り出すに違いありません。この点、ご留意いただきたく、宜しくお願い致します。

 

日本国憲法によって、私たちは男女の間に、人種の間に、境界線を引くことができなくなっています。それは正しいことだと思います。しかし、区別をしなければ私たちは認識することができません。そこで私は、「領域論」において新たな境界線を引いてみた訳ですが、それは新たな差別を生む危険を孕んでいるのかも知れません。

 

思えばこのブログは2016年7月に始め、その後、約4年半が経過したことになります。山登りにたとえますと、「領域論」において私は、山の頂上に至ることができたように思っています。もっと高い山、もっと険しい山の登頂に成功した人は、沢山おられることと思います。それらの人々に、私は敬意を払いたいと思います。しかし、私はこのブログと共に成長したのであり、「領域論」を書くことによって、私は強くなったのだろうと思います。その意味で、私はとても満足しています。私は、私が登りたいと思った山の頂上に立つことができたのですから。但し、「いかに書くか」という点から評価致しますと、これははなはだ完成度の低い結果となってしまいました。何しろ、途中で基本方針を変更したことが少なからずあったのですから。また、例えば「生存領域」とは言わずに「生活領域」とした方が、分かりやすかったのではないか、など反省点は少なくありません。

 

そこで、このブログの今後の運営方針を考える訳ですが、現時点では白紙です。1つのアイディアとしては、「領域論」に至る思索の全てを捨て去り、新しい山の登頂を目指すという方法が考えられます。但し、それは年令的に、私には無理なような気がします。(私は、来月で65才になります。)そうしてみると、「領域論」を新たに全面的に書き直すということが考えられます。バージョンアップさせるということです。原稿を書き上げた上で、推敲を重ね、完成度の高いものをブログにアップさせる。この場合、1年か、2年か、その程度の年月が必要になるような気がします。(重ねて申し上げますが、必ず完成させると約束できるものではありません。)

 

そこで、今更ながらという気もしますが、私のメールアドレスを公開することに致します。もし、「領域論」に対する批判的なコメントがありましたら、お気軽にお寄せください。

 

メールアドレス: yamakawa9356@gmail.com

 

2021年3月15日

山 川  哲

 

領域論(その21) 領域と自由

 

<主体が巡る7つの領域>

 

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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人間は、その置かれている環境を認識しなければ不安でたまらないし、適切な判断を下すこともできない。だから、時間を認識するために時計があり、場所を認識するために地図があるのだ。そして、認識するということは、同一性と差異を明らかにして、識別することを意味している。別の言い方をすれば、認識するということは、境界線を引くことに他ならない。そして、ここにお届けした「領域論」とは、人間の世界に境界線を引いてみる1つの試みだったのだ。

 

哲学者のオルテガは、「私は私と私の環境である。この環境をも救わないなら私をも救えない」と述べた。かつて、私はこの意見に賛同した。しかし、今は心境の変化が生じたことを認めざるを得ない。私たちが生きている現在の世界にはコロナウイルスが蔓延しているし、原発からは放射性物質が漏れ続けている。権力者の嘘や横暴が止むことはなく、困窮者は増え続けている。理不尽な出来事や犯罪が報道されない日はない。それらの全てに関わっていては、心の平静を維持することができない。

 

そこで私は、私にイクスキューズを与えることにしようと思う。まず、様々な出来事と私との距離を計測するのである。例えば、南米のアマゾンで森林伐採が続いている。このことに私は、心を痛めている。しかしこの出来事は、私から遠い所で発生しているし、そのことに私が関与できる可能性は、ほぼ皆無なのである。このように現在の私が関与できないこと、それは諦めるしかない。

 

他方、現在の私にも関与できることはある。例えば、選挙。確かに私が投票しようがしまいが、選挙の結果に及ぼす影響は微小である。しかし、私には投票権があるし、何よりも私は選挙に関与することが可能なのだ。従って、私は選挙に対し、懸命に関与していこうと思う。沢山の情報を収集し、正しい選択を心がけよう。一球入魂ならぬ、一票入魂である。

 

ここで、たとえ話「荷車を曳く人」に戻ってみよう。

 

「ある人が荷車を曳いているとしよう。荷車は、リヤカーと言い換えても良い。荷車には沢山の荷物が積んである。それを曳くのは、難儀だ。特に上り坂では。」

 

以前の原稿にも書いたが、この荷車を曳く人を救済する方法は2つだ。1つには、荷車に積んでいる荷物を軽くすること。これは、仏教的な発想だろう。仏教の修行に籠山行というのがある。何年もの間、山に籠って、世間から離れるのだ。座禅にしてもそうだが、仏教の方法は、外界を認識することを諦めてしまうところに特徴がある。そして、ひたすら自己の内面と向き合う。信者は、釈迦なり僧侶を信じ、自ら思考することを断念する。その本質は、他力本願と言って良いだろう。それで救われる人は、それでいいと思うが、私にはとても無理だ。外界を、世界を認識しなければ、不安で仕方がない。但し、荷車を軽くするために、何かを断念する、いっそのこと忘れてしまう、荷物を捨てるという方法については、賛成である。

 

他方、どこまでも認識しようと努める立場もある。例えば、66種類の記号が存在すると主張したパースなど。どちらの立場が正しいのだろうと思う訳だが、この問題を2者択一で考える必要はないのだ。つまり世界を、7つの領域を認識するよう努め、その上で、不要な荷物を捨てれば良いのではないか。それが成長するということであり、強くなる方法であり、自由に生きる秘訣なのではないか。

 

「荷車を曳く人」は、主体と自己領域の関係、すなわち「私」について述べたものだ。私にとって、この世で最も大切な人間、それは「私」なのであって、だからこそ私は「私」を大切にする必要がある。また、私たちは誰か他の人間を支配したりコントロールしたりすることはできないが、ただ1人、私自身についてはそれが可能なのである。ミシェル・フーコーが最後に述べたかったのは、そのことなのだろうと思う。

 

フーコーの「自己への配慮」から一文を引用してみよう。

 

- 自己への回帰はまた、一つの道程でもある。その道程のおかげで人は、全ての依存関係とすべての隷属関係を脱して、ついには自分自身に復帰するのである。暴風雨を避ける港のように、あるいは城壁に守られている城塞のように。(P. 86)-

 

私は、この心の中に城を築くという話に魅了されている。思えば、その城は既に存在するのだ。

 

中に入ると、そこにはとても広いロビーがある。床は大理石で、窓には美しいステンドグラスが張られている。壁には、様々な絵画が掛けられている。ゴッホの向日葵やゴーギャンの「いつお嫁に行くの」もある。正面の壁にはポロックの「ブルー・ポールズ」がある。モディリアーニの裸婦もあるし、キスリングの「女道化師」もある。もちろんウォーホルの作品など、1つもない。

 

奥に進むと、そこはライブ・ハウスになっている。昨晩は、マイルス・デイビス五重奏団が演奏したし、今夜はジミ・ヘンドリックスバンド・オブ・ジプシーズが出演予定だ。

 

上の階には、応接室がある。ソファーは革張りで、床の絨毯はペルシャから取り寄せた特注品だ。私はこの部屋にユングやパース、そしてフーコーを招いて、お互いの人生について語り合うのが好きだ。

 

この城の中には、貨幣というものがない。そもそも、数字という記号すら存在しないのだ。

 

時折、金や権力の亡者たちが尋ねてくる。しかし私は、そのような者を決して城内に入れてはならないと、門番たちに強く言い渡している。この城は、いつだって私が帰っていく唯一の場所なのだから。

 

「領域論」おわり

領域論(その20) 領域と人格

 

<主体が巡る7つの領域>

 

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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世間には、「この道一筋」に生きている人々がいる。彼らは幸せそうに見えるし、彼らの生き方を否定するつもりはない。私が敬愛しているジェイムス・コットンはブルース一筋の人生だったし、サックス・プレイヤーのソニー・スティットは生涯、ビバップを演奏し続けた。どちらも優れたミュージシャンである。彼らにとって、それは天職だったに違いない。しかし、天職などというものに、ついぞ巡り合うことのない人生もある。例えば、私のように。私は、多くの物事に挑戦してきたが、不幸にも才能というものを持ち合わせていなかった。また、現役時代は37年にも及ぶサラリーマン人生を過ごしたが、それが私の天職だと思ったことは、ただの1度もない。しかし、複雑化した現代社会においては、私のような人生を歩む人の方が、むしろ普通なのではないだろうか。

 

ところで、今回の原稿のポイントを予め述べておこう。人間の人格は、領域を超えたときに変容する。領域を超えることによって人間は成長する、ということなのである。

 

分かりやすい例として、まず、れいわ新選組山本太郎さんの半生を考えてみよう。

 

太郎さんは、高1のときに「元気が出るテレビ」に出演する。全身にオイルを塗って、海パン一丁で踊った。これはメロリンQと呼ばれ、芸能界にデビューするきっかけとなった。これは娯楽で、すなわち「生存領域」である。

 

やがて太郎さんは、俳優として本格的な映画に出演したり、舞台に立ったりするようになる。これは、原始領域である。

 

そして、2011年の東日本大震災が発生し、福島第一原発メルトダウンが起こる。ショックを受けた太郎さんは、まず、それまで政治に興味を持たず、選挙にも行かなかった自分を反省する。ここで、自己領域に目覚めた訳だ。

 

その後、危機感を持った太郎さんは原発の勉強を始める。また、芸能事務所を退社し、政治家に転身する。しかし、反原発について呼び掛けるよりも、人々はもっと身近な生活に興味を持っていることに気付く。そこで太郎さんは、経済の勉強を始め、現在の反緊縮という経済論に至る。そして、生存領域に基軸を置くれいわ新選組を立ち上げる。

 

喪失領域・・・

生存領域・・・メロリンQ、れいわ新選組

原始領域・・・俳優、役者

秩序領域・・・

認識領域・・・

記号領域・・・原発の勉強。経済学の勉強。

自己領域・・・東日本大震災を契機に反省。

 

このように、ある人の経歴を見ていくと、その人の人格を構成する主要な要素を見て取ることができる。また太郎さんは、領域を超える度に、成長している。そのことに反対する人は、いないのではないか。

 

辛口のコメントをさせていただければ、太郎さんには認識領域の経験がない。従って、経済には滅法強いが、法律はダメなのである。演説(パロール)は天才的だが、文章(エクリチュール)は今一つなのだ。ここら辺に、かつて私が違和感を持った理由があるに違いない。しかし、完璧な人など存在しない。彼は今、好きなお酒も断って、努力している。また、積極財政を掲げる政党は、れいわ新選組しかない。私は、これからもれいわ新選組を応援しようと思っている。

 

画家に転身する前、ゴーギャンは株式仲買人だった。これは、記号領域である。そこからゴーギャンは一気に原始領域へと向かった。そしてゴーギャンの才能は、南海の孤島において開花したのである。余談だが、ゴッホは画家になる前、牧師のような仕事をしていた。これは原始領域。しかし、ゴッホは困った人に自分のコートをプレゼントして、今度は自分が困ってしまうというようなことがあったのだ。周囲の人たちが見かねて、ゴッホは牧師の仕事をクビになってしまった。思えばゴッホにおいては、すべてが過剰だったに違いない。その感情が、情熱が、そして狂気が。もしゴッホゴーギャンの助言に従って、原始領域へと移行することができていたならば、ゴッホはあのピストル自殺を回避できたのではないか。原始領域には、人を癒す力があるのだから・・・。

 

他の黒人と同様に、マイルス・デイビスも差別を受けていた。若い頃、ジャズ・クラブに出演していたマイルスは、休憩時間にクラブの外に立っていた。すると白人警官がやって来て、どこかへ行けと言う。マイルスは、ただ、休憩しているだけだと答えた。すると白人警官は、マイルスに暴行を働いたのである。最近、この時の写真をネットで見たのだが、マイルスの着ている白シャツの胸の辺りが血に染まっており、私はショックを受けたのだった。

 

この黒人差別という問題は、マイルスの自己領域を構成する重要な要素となっていたに違いない。実際マイルスは、黒人でボクシングの世界ヘビー級チャンピオンになったジャック・ジョンソンの記録映画において、サウンドトラックを担当した。また、南アフリカアパルトヘイトに反対するSUN CITYというアルバムにも楽曲を提供している。但しマイルスは、自らのバンドには、多くの白人ミュージシャンを雇い入れた。この点、他の黒人から批判もあったが、マイルスはミュージシャンの能力と肌の色は関係がない、と主張した。つまり、白人に対する憎しみという自己領域の問題を、人種差別に反対するという認識領域の問題に昇華させて、決着を図ったのである。

 

このように、人間は領域を超えたときに成長するのである。では、どのようなときに、人は領域を超えることができるのか。それは、何らかの出来事を経験したときに、可能となるに違いない。但し、これらの経験だけで、領域を超えるという現象は、発生しない。その経験を受け入れるだけの心理的な柔軟さが必要だと思う。3.11の原発事故があったにも関わらず何も反省しない人だって、沢山いるのだ。そのような人々には、心の柔軟さが欠けているに違いない。英語で言うと、Open Mindということだろう。原発事故があって、更に太郎さんにはこのOpen Mindがあった。だから変われた、成長できたのである。

 

もう1つ言えるのは、芸術の力だ。芸術に慣れ親しんだ人は、それとなく自分にとっては未知の領域の存在を察するに違いない。最初はその意味を理解することが困難であっても、繰り返し、永い時間を掛けて芸術作品に接していると、次第にその魅力を理解する能力が養われる。そして、そのような時期は、若い頃に経験しておいた方が良いだろう。若い頃に芸術作品に接するか否か、それは人生の分かれ目だと言える。

 

「人は領域を超えたときに成長する」という原理は、人間集団にも当てはまるはずだ。ある集団があって、その構成メンバーがどんどん成長していけば、その集団自体が成長するに違いない。

 

この観点から言えば、現代の日本社会は、未成熟だと言わざるを得ない。その理由を考えてみよう。

 

1つには、歴史的な事情がある。第2次世界大戦に敗れた後、ドイツは大いに反省した。ナチズムに対する批判が世界中から浴びせられ、ドイツの国民は深く考えたに違いない。他方、日本はA級戦犯だった者がGHQによって重用され、総理大臣にまでなってしまったのである。反省する間もなく朝鮮戦争が始まり、日本は復興を果たした。加えて、アメリカでは2大政党制が定着しており、一定の期間内に必ず政権交代が起こる仕組みになっている。他方、日本では小選挙区制が採用され、確かに2度程それは起こったが、今日においても相も変わらず自民党の1強体制が続いている。日本の民主主義は、明らかに未成熟だと言えよう。

 

次に、経験の多様性が欠落しているという点を挙げることができる。日本社会においては、政治家のみならず医者や学者、魚屋から八百屋に至るまで、世襲制が浸透している。これでは、多様な経験を期待することはできない。

 

3つ目の理由としては、再チャレンジが許されない社会風土ということがある。官僚になったり、大企業に就職したりしようと思ったら、コースをはみ出ることは許されないのだ。高校、大学と受験戦争を勝ち抜き、新卒のタイミングで就職しなければならない。就職後も自制し、上司におべっかを使わなければ、出世は難しいのである。一度、ドロップアウトすると元のコースに戻るのは至難の業である。その観点から言えば、エリートの方が経験の幅が狭く、成長しないという傾向があるに違いない。

 

4つ目の理由として、日本においては芸術が未成熟なのではないか。絵画で言えば、日本はフランスに及ばないし、ジャズで言えば、東京はニューヨークに及ばない。芸術を育成しようとする文化が、日本には不足している。確かに、芸術は生きていくために必要ではない。しかし芸術は、文明を成熟させるためには、必要不可欠なのだ。

 

心の機能ということを先人たちは、真剣に考えてきた。その中で1番重要なのは想像力だと、今の私は思う。想像力が欠如していては、他人の痛みを理解することすらできない。想像力が不足していては、明日という日を切り開くことすらできない。そして、人間の想像力を培うものは何かと言えば、まず、現実の経験があって、次に、疑似的な経験とでも呼ぶべき芸術があるのだ。また、記号領域や認識領域を理解するためには、本を読む必要がある。(野生動物と触れ合うことも大切だ。)すなわち、これら経験などの多様性が確保されなければ、その文明は成熟しないのである。

 

日本においては、権力やシステムが強過ぎるに違いない。現在の日本社会は硬直化し、文明を成熟させるだけの余地が失われている。

 

領域論(その19) 領域と政治

 

それぞれの領域を古いものから新しいものへ、並べ変えることはできないだろうか。そこで、次のように考えてみた。

 

喪失領域・・・かつて人間は、境界線のないカオスの中で生きていた。

生存領域・・・やがて人間は家を作り、人間らしい生活を始める。

原始領域・・・衝動を昇華し危機を克服するために祭祀を始め、それは宗教に至る。

秩序領域・・・人間は監獄、学校、会社、軍隊などを作り、戦争を始める。

認識領域・・・戦争への反省から、平和主義が誕生する。

記号領域・・・先進国同士の戦争はなくなり、人間は科学と経済に専念する。

 

この順序の方が、分かりやすくないだろうか? 誠に恐縮ながら、例の一覧の記載順も、上の通りに変更致します。但し、記載内容に変更はありません。

 

<主体が巡る7つの領域>

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

 

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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ふと思ったのだが、トランスを目指す祭祀には、人間が根源的に持っている狂気や衝動を発散させる、昇華させる目的があったのではないだろうか。部族内の秩序を保つ。そのための知恵が、祭祀を支えていたのかも知れない。

 

さて、上のように歴史的時間軸に沿って各領域を並べ変えてみると、新しい発見がある。人類には長い歴史があり、その最先端に立つ現代という時代は、とても複雑であるということ。また、今日の日本に暮らす多くの人々が立脚する領域は「記号領域」なのであって、それには歴史的な理由がある。わずか30年で世の中は一変したのだ!

 

さて、今回の原稿では、領域論の立場から、現在の日本における政治状況について、考えてみることにする。まず、政治権力の変遷について。

 

政治的な権力の起源は、「原始領域」にあった。邪馬台国で権力を持っていたのは、女性シャーマンの卑弥呼だった。そして、聖徳太子の時代になると、武力を背景として持つ豪族が登場した。その後、永い時間を掛けて権力は緩やかに組織や軍隊へと、つまり「秩序領域」へと移行したに違いない。現在は更に、「記号領域」へと移行しつつあるのだと思う。

 

原始領域 → 秩序領域 → 記号領域

 

「記号領域」と権力と言うと、ちょっとイメージしづらいかも知れない。しかし、原発がその象徴だと考えてみてはどうだろう。科学の力で、原発を造る。それは電力会社に多大な、経済的な利益をもたらす。そして原発は、巨大な利権構造を作っている。科学と経済と権力。これが現代社会における最新の権力構造なのではないか。

 

現在の日本においては、最早、戦時中のように召集令状を発行して、若者を戦場に駆り立てるようなことはできないだろう。しかし、見えにくくなりはしたが、権力は確実に存在する。

 

様々な見方があるだろうが、ここでは税金を起点に権力構造を考えてみよう。

 

政府は国民から、高額の税金を徴収している。そしてそれは、財務省の管轄となる。財務省はこれを予算として、各省庁に分配する。ここに財務省の権力が発生する。各省庁は、これを特定の産業や地方、個別の施策などに割り振る。この段階で政治が介入し、利権が生じる。地方の政治家や企業は、その分配にあずかろうと手を尽くす。補助金を有難いと思わせるためには、地方や国民を貧しくさせておく必要がある。すなわち、現在の権力にとって国民は、貧しく、政治のことなど考える暇がないほどに忙しく、そして税金を支払ってくれる存在である必要があるのだ。

 

政府と官僚組織、司法や検察、そしてマスコミまでもが共犯関係にあるに違いない。加えて、記号領域のメンタリティは、広告代理店が仕掛けるイメージ戦略に弱い。この点を理解しない限り、政権交代などあり得ないと思う。

 

従来の右翼という立場を「秩序領域」に、そして左翼を「認識領域」に当てはめてみると分かりやすいと思う。左翼がいくら正しいことを主張し、一生懸命「秩序領域」と戦ったとしても、そこに権力の中枢はないのである。

 

認識領域・・・左翼、立憲民主党

秩序領域・・・右翼、宗教団体など

記号領域・・・権力の中枢。自民党経団連など。

 

では、「記号領域」に対抗できる領域はどこなのか。それは、「生存領域」ではないか。「生存領域」が政治に対抗した例としては、百姓一揆を挙げることができる。イデオロギーではない。もうこれでは食えないという切実な現状があって、そこから立ち上がるのが「生存領域」の抵抗なのである。

 

この「生存領域」に立脚する政治勢力はと言うと、まず、「国民の生活が第一」をモットーとする小沢一郎を挙げることができる。れいわ新選組を立ち上げた山本太郎もこの立場だ。立憲民主の中にも、4割程度はこの立場を支持するメンバーがいるらしい。この勢力が拡大すれば、もしかすると政権交代が起こる可能性が出てくるのではないか。彼らには、論理的なバックグラウンドとしてのMMT(Modern Monetary Theory)があるのだから。

 

領域論(その18) 領域と芸術

 

<主体が巡る7つの領域>

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

人間の世界には7つの領域があり、そして、各領域を代理するように、それらを分かりやすい形で示す芸術があるのだ。別の言い方をすると、7つの実体的な領域があって、それらを表象する、代理する、記号としての芸術作品がある。従って、私たちは芸術作品を通じて、人間世界に存在する7つの領域を認識することができるに違いない。

 

既に領域と文学、領域と音楽の関係については述べた。残るは美術ということになる。美術の世界は主に、2次元の絵画と、彫刻やブロンズなど3次元の分野に分かれる。但し、この3次元の世界に存在する「物」ということを考えると、その起源は祭祀に使う道具としての祭具にまで遡ることになろう。私は、楽器も祭祀に使用するために作成されたのではないかと思っており、この話を始めると祭祀から呪術、そして大量生産による「商品」までを記述する必要が生じる。よって、ここでは美術とは言わず、絵画に限定して、また、過去の原稿との重複を避けながら、まず、領域と絵画の関係について述べてみたい。

 

ゴッホから始めよう。ゴッホが描いたのは、向日葵、麦畑などの自然である。加えてゴッホは、身の回りにいる市井の人々の肖像も描いた。郵便配達夫や、ガシェ医師など。従って、ゴッホはその軸足を「生存領域」に置いていたと言える。加えてゴッホは、自画像も描いている。自ら耳を切り落とした後で、包帯でぐるぐる巻きになった自画像が有名だろうか。ゴッホは、自分の中に潜む狂気とも戦っていたのである。これは「自己領域」に該当する。

 

ゴッホと同棲生活を送っていたゴーギャンは、「想像力で描け」とゴッホに助言した。実際、ゴッホはそう試みたが、うまくはいかなかった。このゴーギャンの助言は、何を意味していたのか。それは、その後、ゴーギャンが描いた作品を見れば分かる。ゴーギャンの作品には、野生動物や呪術師、死霊などが登場する。すなわち、ゴーギャンは想像力を駆使して「原始領域」を描いたのである。このように考えると、2人の画家の相違は明白だ。

 

では、本稿において未だ説明していない、領域と絵画の関係について見てみよう。

 

認識領域・・・日本人画家の中には、広島の原爆や沖縄戦の惨状を描く画家がいる。世界的には、ピカソゲルニカが有名だろう。これは、反戦のシンボルだと言われている。

 

記号領域・・・マリリン・モンローの肖像や、トマトスープの缶詰を描いたアンディー・ウォーホルがいる。これらは、ポップアートと呼ばれている。面白い作品を描くので、当時、メディアや評論家はこぞってウォーホルにインタビューを申し入れたそうだ。斬新な芸術論を期待してのことだろう。しかし、ウォーホルからそのような話を聞くことはできなかった。多分、ウォーホルに思想などなかったに違いない。空っぽなのである。

 

秩序領域・・・記録として、若しくは英雄などを賛美する目的で描かれた戦争画がある。また、権力者の肖像画なども少なくない。

 

では、領域と絵画の関係を一覧にまとめてみよう。

 

原始領域・・・ゴーギャン

生存領域・・・ゴッホ

認識領域・・・ゲルニカ反戦のシンボル)

記号領域・・・ポップアート、アンディー・ウォーホル

秩序領域・・・戦争画、権力者の肖像

喪失領域・・・ジャクソン・ポロック

自己領域・・・自画像

 

ここまで考えると、宗教と芸術の差異について説明することができる。

 

まず祭祀があって、その様式化が進む。そして、神話と結びついたのが宗教である。それは文字によって書かれているが故に、変化することを許さない。宗教においては、その人的な集団を維持し、活性化させるために、新たな刺激を求めた。そこで、個人崇拝へと向かったのだ。神とは抽象的な概念で、大衆が認識するには遠い存在である。釈迦にも同じことが言える。もっと身近な、実在する人間を信仰の対象とする必要が生じたに違いない。すると、ここに序列が生まれる。キリスト教で言えば、神が上で、その下にイエスが位置づけられる。仏教で言えば、釈迦が最上位にいて、その下に親鸞とか最澄などの宗祖が位置づけられることになる。やがて宗教教団においては、階級が細分化されてゆく。階級は、権力を生む。このように考えると、宗教は今日においても原始領域に留まり続けているが、それは人類がやがて秩序領域を生み出す、その必然性を内包していたに違いない。

 

芸術は、宗教と同じように祭祀を起源とする。しかし、芸術は宗教とは別の道を歩んだ。芸術は宗教より、もっと人間の根源的な所に留まり続けたのだ。つまり、もっと感動的な話はないか、もっと心を癒してくれる音楽はないか、もっと魅力的な絵は描けないか。そのような人間の欲望や、悲しみや、希望に寄り添い続けてきたのが芸術なのである。確かに、戦時中の軍歌のように、芸術も権力に屈することはあった。しかし、芸術家の側から権力を欲したことは、多分、ない。すなわち、芸術は権力者のものではなく、それは大衆の中から湧き上がってくるものなのだ。

 

領域論(その17) 領域と音楽

 

<主体が巡る7つの領域>

 原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

音楽の起源は、リズムにある。そしてリズムの起源は、人間の心臓の鼓動にあるのではないか。グズっている赤ん坊を若い母親が優しく揺らすと、赤ん坊は泣き止むのである。赤ん坊は、胎内で感じていた鼓動を感じて、安心するのだろう。本質的に、リズムは人に共感させる力を持っているに違いない。

 

やがて祭祀が生まれ、人々はリズムに合わせて踊り始める。リズムに合わせて、動物の鳴き声を真似て声を出してみる。若しくは、リズムに合わせて何かを話してみる。そして、歌が生まれる。歌の歌詞は、それだけを取り出すと「詩」になる。

 

歴史的な時間軸で考えると、コード(和音)が生まれたのは、最近のことであるに違いない。コード進行の基本は、スリー・コードと呼ばれるもので、西洋音楽やブルースはこの原理に従っている。コードは沢山あるだろうと思われるかも知れないが、基本はこの3つで、それらに音を加えたり、代理させたりすることによって、様々なコードとその進行スタイルが生まれているに過ぎない。

 

簡単な例で言うと、スリー・コードとは、ドミソ、ドファラ、シレソのことである。この中にいくつの音が含まれているかと言うと、ドレミファソラシの7つである。つまり、最低限7つの音を同時に出すことができなければ、スリー・コードは成立しない。

 

しかしながら、例えばアイヌの楽器、トンコリには5本の弦しかなく、しかも、ギターとは違って、フレットというものがない。つまり、トンコリを用いて同時に出せる音の数は、5つである。

 

これでは、前述のスリー・コードを奏でることはできない。

 

どうするのだろう。そう思って、アイヌユーカラや、安東ウメ子氏の歌を聞いてみると、使用されるコードは1つ、または2つなのである。そんなことを考えながらアイヌの音楽を聴くと、感慨もひとしおである。

 

さて、文学と同じように7つの領域は、それぞれ独自の音楽を持っている。では、順に見ていこう。

 

原始領域・・・強烈なリズムとそれを叩き出す打楽器なくして、祭祀は成立しない。これに麻薬が加わると、人々は容易にトランス状態に入るのだ。それを嫌ったキリスト教徒は、原始的な祭祀を禁じてきたのである。多分、仏教徒も同じことをしたのではないか。ところが、人間の歴史においては、不思議なことが起こる。1960年代後半の欧米において、祭祀が復活したのである。ロックミュージックの誕生だ。1969年にはアメリカのウッドストックにおいて、40万人の聴衆集め、3日間に渡るコンサートが開催されたのである。これは人類史上、最大規模の祭祀だったに違いない。聴衆はマリファナを吸い、トランスを楽しんだ。ステージ上には次々とミュージシャンが登場した。そして彼らは、祭祀におけるシャーマンの役割を担ったのだ。中でもジミ・ヘンドリックスは、立派にその責任を果たした。ロックミュージックの歴史的な意義が、ここにある。トランスを目指す。それがロックミュージックの本質である。

 

生存領域・・・平穏な生活と共に育まれてきた音楽も、少なくない。民謡、童謡、子守歌などを挙げることができる。黒人のブルースも、その起源は労働歌である。

 

認識領域・・・戦争に対する反省から生まれた思想があり、それを音楽にしたのが、反戦歌である。

 

記号領域・・・音楽の世界における主たる記号とは、音符である。音を音符に置き換えて、科学的に音楽を構成したのが、クラッシック音楽だと言えよう。この音楽においては、楽器の持つ音域やその可能性と、人間が習得できる技術の限界を追求したに違いない。ジャズもその影響下にある。

 

秩序領域・・・組織に対する忠誠心を要請する音楽も存在する。軍歌、社歌、校歌など。

 

喪失領域・・・フリージャズ。1970年前後のマイルス・デイビス。晩年のジョン・コルトレーンなど。

 

自己領域・・・私的な事柄や自らの経験に根差した音楽も、存在する。ラブソングは概ね、作曲家が自らの経験を音楽にしているのではないか。また、後期のジョン・レノンは典型的に、この領域に属すると思う。ジョンは、ストレートに女房であるヨーコや、息子のショーンを賛美する歌を作った。

 

では、まとめてみよう。

 

原始領域・・・祭祀と共に演奏される打楽器、ロック

生存領域・・・民謡、童謡、子守歌、歌謡曲、労働歌、ブルース

認識領域・・・反戦

記号領域・・・クラッシック、ジャズ

秩序領域・・・軍歌、社歌、校歌

喪失領域・・・フリージャズ、プログレッシブ・ロック

自己領域・・・ラブソング、後期のジョン・レノン

 

 

ところで、文学の世界にドストエフスキーという領域を超えた大作家がいたのと同じように、音楽の世界にも複数の領域を股にかけて活動した天才、マイルス・デイビスがいる。

 

マイルスも最初は、楽器を練習するかたわら、楽譜の読み方を勉強した。更に、音楽理論を勉強するために名門ジュリアード音楽院にまで進学する。しかし、夜な夜なチャーリー・パーカーとのセッションを行い、ドラッグに耽溺していったマイルスは、ジュリアードを中途退学する。この時代の音楽は、ビバップと呼ばれるが、これは「記号領域」にあると言って良いだろう。コード進行に合わせて、早いフレーズを吹きまくるというスタイルだった訳だ。その後マイルスは、クールジャズ、モードジャズ、エレクトリックへと演奏スタイルを変えていく。やがて、フリージャズが流行したことも影響してか、マイルスもその方向へと進む。1970年の作品で「Live Evil」というのがあるが、これはフリージャズだと言って良いだろう。多分、相当ジャズを聞き込んだ人でなければ、その魅力を理解するのは困難だと思う。ここへ来て、マイルスは「喪失領域」へと移行したのだ。この音楽は、正に混沌としている。

 

その後マイルスは、1972年に問題作「On The Corner」を発表する。この音楽は、一体、何なんだろうと、私は永年疑問に思ってきた訳だが、実はこれ、最近アフリカ音楽に似ていることに気付いた。良かったら、さわりだけでも聞いて欲しい。

 

マイルス・デイビス / オン ザ コーナー

Miles Davis - On The Corner (1972) - full album - YouTube

 

アフリカン ヴードゥ ドラム ミュージック

African Voodoo Drum Music - YouTube

 

どちらも打楽器が中心で、そこにコード進行はない。すなわち、マイルスはここへ来て、原始領域へと移行したのである。

 

体調を壊したマイルスは、1975年に一線から退く。そして、1981年にカムバックする訳だが、それ以降マイルスは、シンデイ・ローパーやマイケル・ジャクソンの楽曲を取り上げて、ポップチューンへと回帰した。こちらは、生存領域である。

 

上に記しただけでもマイルスは、以下の領域を渡り歩いたことになる。

 

記号領域

喪失領域

原始領域

生存領域

 

ここまで考えると私は、私があるパラドックスに陥っていることに気付くのだ。すなわち、私は、ドストエフスキーやマイルスのように、7つの領域の全体を見るべきだと思っている訳だが、他方、対象範囲を限定した方が、人間の認識能力は高まる(相撲は土俵の中で成立する)のである。どちらが正しいのか? この問題は本稿「領域論」の中で、決着をつけたいと思っている。

 

領域論(その16) 領域と文学

 

<領域論/主体が巡る7つの領域>

 

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

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上の一覧に記した通り、本稿では7つの領域について見てきた。これは、私が見る世界の全体図である。それぞれの領域は特徴的で、独立している。これらの領域を歴史的な時間軸に従って並べてみることも可能だろうと思うし、ある領域は他の領域の反作用として生まれたに違いない。但し、7つの領域に共通して、それらを貫く、人類が生み出したある営為の形があるのだ。その1つが、文学である。別の言い方をすれば、人類は原始領域を生み出して以来、片時も忘れることなく、言葉によって各領域を表現しようと努めてきたことになる。

 

文学と言うと、多くの人は近代以降の文字によって書かれた小説を思い浮かべることだろう。しかし、言葉によって物語を紡ぐという営為の歴史は、もっと古くから存在するのであって、ここではそれらを含め、文学と呼ぶことにする。

 

また、例えば川端康成を例に考えてみると、「眠れる美女」のように喪失領域を描いた作品がある一方、「伊豆の踊子」や「雪国」のように日本の風俗、すなわち生存領域を描写した作品も存在する。従って、以下の分類は作家単位で考えるべきではなく、あくまでも作品単位で考えるべきことを予め、確認しておきたい。

 

では、各領域と文学の類型について、検討してみよう。

 

原始領域・・・典型例として、神話を挙げることができる。無文字社会の人々も、多くの神話を持っているのであって、それらは口頭によって伝承されてきたのである。また、宗教はどこかの段階で個人崇拝へと移行する。抽象的な概念としての「神」だけでは、人々は信仰を維持することが困難なのだ。長く信仰心を維持するためには刺激が必要なのであって、もっと身近で、もっと具体的なイメージを必要とするのである。キリスト教であれば、神はその代理人とでも言うべき、イエスへと変容を遂げたし、ヒンドゥー教には予言者が出現する。日本の仏教で言えば、法然親鸞空海最澄などのビッグネームが登場し、それぞれの物語が作られる。歴史的に見ると、この辺りから「偉人伝」が生まれる。アメリカのインディアンにおいては、勇敢に白人と戦ったアパッチ族のシャーマン、ジェロニモの物語が語り継がれている。やがて、白人から差別を受け続けた黒人奴隷の間で、黒魔術が生まれる。それは、アフリカのブードゥー教などにおいて、その傾向が顕著となる。他人に不幸をもたらすことを神にお願いするのは気が引けるだろうし、神がそのような願いを聞いてくれるとも思えない。多分、そこで悪魔が誕生したのだ。また、既存の宗教が地獄を描く手段として、鬼、仁王、幽霊などの概念を作ったのだろう。いずれにせよ、人々に恐怖心を抱かせる存在が登場する訳で、それらを描いた怪談や怪奇小説が生まれたに違いない。

 

生存領域・・・語り部によって伝承された、民話が存在する。民話を子供向けにアレンジすると童話になる。生存領域においては、人々の暮らしに役立つ文化が生き永らえるのだ。童話は、子供たちに対する教育的な効果を持っているだろうし、それは、子供を寝かしつけるために語られたのかも知れない。日本の「桃太郎」は、親の男の子に対する元気に育って欲しいという願いを、それとなく表現しているのではないか。それを聞いた男の子の方も、親のそのような願いを、この童話を通じて、察してきたのではないか。ちなみに、アフリカのマサイ族においては、村はずれで老婆が子供たちに童話を語る習慣があるようだ。YouTubeで、一人の老婆を十数人の子供たちが取り囲んでいる映像を見たことがある。どの子供たちの表情も、真剣そのものだ。童話には、多くの動物が出てくる。そして、童話を通じて子供たちは動物の名前や特徴を学習するのである。

 

認識領域・・・戦後の文学は、戦争や核兵器がもたらす悲惨さを描いた。そもそも、社会契約論は宗教戦争に対する反省から生まれたのであって、戦後、日本に平和憲法がもたらされたのも、その流れに沿っている。

 

記号領域・・・自然科学は驚異的な発展を遂げているが、それに伴いSF(サイエンス・フィクション)という小説ジャンルが誕生した。また、因果関係を論理的かつ科学的に検証する推理小説も登場する。また、記号が実体を凌駕するという観点から言えば、村上春樹の作品は、このジャンルだと言えよう。そこには、大金持ちや哲学に熟達した者などが登場するが、それら登場人物の内実は、外観に比して貧弱なのである。空っぽと言っても良い。では、どこが空っぽなのかと言うと、それは主体と自己領域、すなわち「私」が空っぽなのだと思う。

 

秩序領域・・・平和主義とは反対で、戦争を賛美するような文学も存在する。戦国時代の武将を美化するものや、戦時中の国策に沿った文学もある。また、組織内部の人間模様を描くサラリーマン小説というジャンルもある。堺屋太一など。

 

喪失領域・・・前回の原稿で紹介した「眠れる美女」や「金閣寺」など。これらを純文学と称して問題はないだろう。また、マルキド・サドや谷崎潤一郎が描いた異常性愛小説も、この領域に属する。

 

自己領域・・・自らの体験を綴る私小説は、この領域を示す典型例だろう。その他にも教養小説と呼ばれるものがある。これはインテリジェンスを問うものではない。主人公が内面を見つめながら、いくつかの出来事に直面していくのだ。決して主人公は社会的な成功を収めたりはしない。しかし物語を通じて、主人公は成長を遂げるのである。日本では、「次郎物語」など。

 

では、一覧にしてみよう。

 

<領域と文学>

原始領域・・・神話、偉人伝、怪奇小説

生存領域・・・民話、童話、恋愛小説

認識領域・・・戦後文学

記号領域・・・SF、推理小説

秩序領域・・・戦記もの、サラリーマン小説

喪失領域・・・純文学、犯罪小説、異常性愛小説

自己領域・・・私小説教養小説

 

しかしながら、全ての領域を描くというスケールの大きな作品も存在する。そのような作品を描いたのは、私の知る範囲においては、ドストエフスキーだけだ。左側に領域を、右側に「罪と罰」のあらすじを書いてみよう。

 

(主 体)・・・主人公であるラスコーリニコフは、

記号領域・・・金貸しの老婆を

喪失領域・・・殺害する。

認識領域・・・罪の意識に苛まれたラスコーリニコフは、

生存領域・・・家族のために身体を売っているソーニャに、

原始領域・・・聖書を読んでもらう。

自己領域・・・ラスコーリニコフは、ソーニャの勧めに従い自首をし、

秩序領域・・・監獄に入る。

 

上の記述は、少し短絡的に過ぎるかも知れない。しかし、このような見方をすると、ドストエフスキーは私と同じように、人間世界の全体を再現して見せる、「世界を記述する」ことを目指していたように思う。

 

また、「罪と罰」と三島の「金閣寺」を比較してみると、面白い発見がある。どちらも犯罪を扱っているが、小説の構成としては、決定的な差異がある。作品のハイライトとなる犯罪行為の描写、その位置が違うのだ。罪と罰において、主人公であるラスコーリニコフは、小説の冒頭で金貸しの老婆を殺害する。対して、金閣寺の方は作品の最後で、主人公である溝口が金閣寺に火を放つ。この差は、何だろう。

 

金閣寺の場合、主人公の置かれた状況と、そこに生きる主人公のあり様が描かれる。そして、犯罪行為に向けて、主人公のメンタリティは一直線に進むのだ。それは、純化されていく、と言っても良いだろう。但し、別の言い方をすれば、主人公は、領域を超えないのである。金閣寺の主人公は喪失領域の中で生きていて、小説自体も金閣寺に放火するという犯罪行為においてそのピークを迎える訳だが、喪失領域の外に出ることがない。

 

反面、罪と罰ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を殺害した後、考えを巡らし、様々な人々と出会い、領域を超えていくのである。これは教養小説に似ていて、主人公は各領域の間にある境界線を超えて、他の領域に移動することによって、成長するのである。この自己の成長、自己の陶冶を図るという点は、ミシェル・フーコーがその遺作「自己への配慮」の中で述べていたことと共通するのであって、多分、そのメカニズムの中に自己の救済という哲学の目標が、人生の謎を解く鍵が、隠されているに違いない。

 

作品の総合性という観点からしても、自己の成長という観点からしても、2つの作品を比較した場合、罪と罰の方に軍配を挙げざるを得ない。金閣寺は三島31才の作品であって、これを世界の文豪と比較するのは酷かも知れない。しかし、ここに三島の限界があるのではないか。普遍化して言えば、そこに日本文学の、日本が持つ文明の、限界を見て取ることができるのではないか。