最近は、「人生」などという大仰な言葉は使われなくなった。最早、それは禁句であるとさえ言える。何故かと言うと、それだけ時代の価値観が冷めているからだと思う。しかし、人は誰しもたった1回限りの人生を歩んでいることは確かで、そうであるのだから、より良く生きたいと願うのが普通だろう。若い人が人生について語らないのは、多分、彼らがまだ人生とは何か、知らないからだと思う。だとすれば、いい加減、お迎えの近づいてきた老人にこそ、それを語る責任があるのではないか。
ところで、オイディプスの悲劇についてだが、若干、補足がある。オイディプスはテバイの街で、スフィンクスという怪物と戦った。「地上には声は1つであるのに、2本足でも、4本足でも、3本足でもある者は誰か?」 オイディプスは「それは人間である」と答えた。「なぜなら幼児は4本足で、大人になると2本足で、老いると杖をつくので3本足になるからだ」。これが一般的な解釈ではあるが、別の解釈もある。正しい答えは、「オイディプス自身である」とするものだ。その時、オイディプスは2本足で立っていた。しかし、実母と交わることになるので、それは人間のすることではなく、4本足の動物のすることだ。そして、自分の両目を潰すことによって、オイディプスは杖を必要とし3本足となる。もちろん、スフィンクスのクイズに回答した時点で、オイディプスは自分に降り掛かる運命を知らなかったのではあるが・・・。
さて、先の原稿で人格の成長プロセスを拡張、分裂、統合にあるのではないかという私の仮説を述べた訳だが、オイディプスの悲劇について考えるうちに、統合の先にある段階が見えてきた。そこで、私の仮説をバージョンアップさせていただきたいのである。それは、次のものである。
ステップ1: 人格の拡張
ステップ2: 人格の分裂
ステップ3: 人格の統合
ステップ4: 主体の発見
ステップ5: 永遠への回帰
この際、その全容を述べてみたい。
ステップ1: 人格の拡張
これは、人間の成長段階だと言ってもいい。知識を増やす、経験を積む。もう少し具体的に言うと、例えば、旅に出る。旅に出て、誰かと出会う。見知らぬ土地の自然や風土を経験する。何か技術を習得して、職業に就く。オイディプスの例で言えば、デルポイへ行って神託を聞く、テバイに言って怪物を倒す、などのプロセスである。「伊豆の踊子」の学生は、伊豆へ出かけて踊子に出会った。「雪国」の主人公は越後湯沢へ行って、駒子に出会ったのである。「人格の拡張」とは、全ての人々が通る道である。
ステップ2: 人格の分裂
人間は、向き合っている外部の事情、すなわち運命的な何かの影響を受け、人格的な分裂を起こす場合がある。オイディプスの場合は、その劇中において、あたかも謎解きをする推理小説のような展開によって、自らの穢れが明かされていく。そして、オイディプスの人格は、分裂したのである。この人格の分裂とは、精神的な錯乱であり、敗北であり、挫折である。しかし、意図的にこの分裂を引き起こそうとする試みもある。それをやったのが、ソクラテスだ。ソクラテスは市場(広場)に出掛けては、誰かに話しかけ、その相手が本当は知らないのに知っているような振りをしている、若しくは知ったようなつもりになっていることを暴こうとした。相手方にしてみれば、それは人格の平安を乱されることであり、そんなことをして欲しいとは思っていない。だからソクラテスは嫌われ、裁判に掛けられ、殺されてしまったのである。
ソクラテスは哲学の始祖である。仮に誰にでも議論をふっかけ、相手の人格を分裂させようとするのが哲学の本質であるとするならば、哲学は、そのような分裂に耐えうる強固な人格を持った一部の人々にのみ許されているのであって、換言すれば、哲学は大衆を切り捨てると言っても過言ではない。但し、別の見方をすれば、それでもそれが人間としてより良く生きる道なのだから、あえて困難に立ち向かえということでもある。
このように考えると、人格の分裂とは、人々が本能的に回避しようと思っている心の現象であって、誰しもがこれを経験する訳ではない。しかし、本当の人生を歩もうとするならば、このステップは避けて通れない、とも言える。
ちなみに早熟な芸術家が、この混乱の中で新しい作品を生み出す場合がある。
ステップ3: 人格の統合
オイディプスの例で言えば、自ら両目を潰した後、旅に出た期間がこれに当たる。自分の身に起こったことを振り返ってみる。簡単に言えば、心の断捨離が「人格の統合」である。もう一度、我が身に起こったことを振り返り、何が大切で、何が真実で、何がそうではなかったのかを吟味する。捨てるべきものを捨て、残すべきものを残す。成熟とは、まさにこのような作業によって達成される。
ステップ4: 主体の発見
人格を統合するプロセスの中で、若しくはプロセスの後で、人は何かを発見する。ザルに入れた砂を洗い続けると、底の方に微かに砂金が残る。これは、そんな作業に似ている。オイディプスの例で言うと、それは長年に渡る旅の途中で、ふと、自分は何も知らなかったのだから自分に罪はない、という気付きがあった訳で、それこそがオイディプスが発見した本当の自分だったのだ。それは人間が到達し得るささやかな自由であり、自らに対する許しでもある。
ステップ5: 永遠への回帰
永遠への回帰とは、すなわち人間の死のことである。古代ギリシャにおいては、神と精霊とは不死であると考えられていた。そして、オイディプスは死と同時に精霊になったのであり、文字通り永遠に回帰したと言える。通常の人間に為し得ることではない。これは人間にとって究極の美である。私が知る範囲で言えば、プラトンの「パイドン」という作品に描かれたソクラテスも、永遠への回帰と呼べる死に方をしている。ここにはプラトンの思想が色濃く反映されており、脚色がされているに違いない。つまり、プラトンはイデア論を唱えており、魂は冥府で本当のイデアに触れていて、人の死後も生き続けると考えていたのだ。そこで、ソクラテスが死んだとしても、彼の魂は不滅なのであって、ソクラテス自身がそう信じていたという前提で、臨終の場面が描写されている。但し、ソクラテス自身が死を恐れていなかったことは明らかで、このパイドンにおけるソクラテスの死に際には、人間の営為を超えた、霊的な美が存在する。
かつて、三島由紀夫もこのような死に方を模索していたに違いない。
上記の5つのステップが、人生の道程であるというのが、私の立てた仮説である。