文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その5) 希望としてのエクリチュール

 

それにしても、酷い世の中になった。コロナウイルスが蔓延しているからではない。疫病の流行は、何も、コロナが初めてのことではない。そうではなくて、政府の対策がことごとく失敗していることの方が、私にしてみれば、余程危機的だと思えるのだ。そもそもコロナの感染メカニズムは、飛沫感染ではなく、空気感染だと考えるのが妥当なのだ。従って対策の主眼を飲食店(=飛沫感染)に置くのではなく、職場や学校の換気をターゲットにすべきだと思う。

 

また、コロナ対策における最重要項目がワクチンの接種にあることに、私は、反対していない。実際、65才の私は、既に2度のワクチン接種を完了している。しかし、何らかの事情でワクチン接種を拒否する人も少なくない。アレルギー体質だとか、既往症だとか、年令だとか、中には宗教上の理由による場合だってある。それらの人々にワクチン接種を強要することはできない。どうだろう。他の先進国においても、ワクチンの接種率は、概ね、7割程度が上限となっていて、それ以上は増えないのではないか。そうしてみるとコロナ対策は、ワクチンのみに頼るのではなく、PCR検査と隔離、下水道からのウイルス検出など、複数の方策を総合的に講じていくべきことになる。

 

しかし、日本の政府と御用学者たちは、一向に対策を講じようとしない。マスコミは何も追求せず、オリンピックなどという利権にまみれた娯楽を優先しようとしている。

 

そもそも私は、スポーツが嫌いだ。いくら身体を鍛えて飛んだり跳ねたりしたところで、その人の魂が磨かれることはない。そんな暇があったら「魂のこと」に専念すべきなのだ。それがソクラテスの思想である。

 

かつて私は、人間を以下の4種類に分類するという説を書いた。

 

・権力者

・大衆

・芸術家

・単独者

 

それはそれである種の正しさを持っていると思うが、私は今一度、オルテガの「大衆の反逆」を思い出すのだ。オルテガの説によれば、かつて西洋社会においては、それなりに立派なことをした人が貴族となり、社会を統治していたのである。そこで終われば良かったのだが、何故か、貴族という身分は世襲によって継承されたのである。そして、取り立てて立派なことをしたことのない2世、3世の貴族が、社会を統治するようになった。この「取り立てて立派なことをしたことのない人」をオルテガは、大衆と呼んだ。そして、この大衆が権力を持つに至った現象を「反逆」と言ったのである。

 

オルテガの主張は、現代の日本にも当てはまるだろう。日本の権力者とは「権力を持った大衆」のことなのである。そして、権力を持たない大衆が権力者を支えていると考えれば、辻褄が合う。人間誰しも、自分には理解できない他人を嫌う。そして、自分に似た者を支持するのである。こうして、大衆が支持する大衆による支配構造が完成されるのだ。中学生並みの言語能力しか持たない男が総理大臣になり、官僚はすぐにばれるような嘘をつき、メディアの人間は何事に対しても疑問を持たないのである。

 

ソクラテスの時代に話を戻そう。フーコーの「性の歴史」によれば、古代ギリシャにおいては、「若者愛」という制度が確立されていた。これは、成人男性と未成年男子との間における同性愛を差す。実は、この奇妙な関係と哲学との間には、密接な関連があるのだ。すなわち、男子はある程度の年令に達し、誰かから何かを学びたいと思うと、師匠の元へと弟子入りするのである。そしてこの弟子入りが、すなわち「若者愛」という形を取るのである。師匠と性的な関係を持ち、濃密な時間を過ごす訳だが、その間に様々な教育を受けるのである。

 

そうしてみると、気になるのはソクラテスとその弟子、プラトンとの関係だ。プラトンソクラテスに弟子入りした訳だが、その際の年令にはいくつかの説がある。二十歳だったという説もあれば、16才だったという説もある。ここから先は私の想像だが、それは多分、16才だったのだろう。そして、ソクラテスプラトンは、「若者愛」の関係にあったのではないか。ちなみにアリストテレスも、16才のときにプラトンに弟子入りしたらしい。こちらも、多分、そういう関係にあったものと推測される。

 

また、ソクラテスは生涯を通じて、一冊の本も書かなかったのである。その理由についても諸説あるのだろうが、上記の「若者愛」との関連で考える必要があるのではないか。ソクラテスには多くの弟子がいたし、広場に出かけては誰かれとなく話しかけて議論をしたそうだ。すなわち、ソクラテスは徹底してパロール話し言葉)を尊重したのである。

 

そして、ソクラテスの言動を今日、私たちが知ることができるのは、プラトンの功績による。ソクラテスの死にショックを受けたプラトンは、ソクラテスの思想をとにかく書き留めたのである。ソクラテスの思想を広く社会に伝えたい、後世に伝えたいと考えたプラトンは、膨大な著作を残したのである。こちらは、エクリチュール(書き言葉)に注力したと言える。

 

このようにパロールエクリチュールの問題は、古代ギリシャの時代にまで遡るのである。

 

ちなみに最近の文献によれば、パロールは音声言語、エクリチュールは文字言語と訳すらしい。確かにこちらの方が正確だと思うので、私も今後は、こちらを採用することにしよう。

 

ソクラテス ・・・ パロール ・・・・・・ 音声言語

プラトン ・・・・ エクリチュール ・・・ 文字言語

 

西洋の社会においては、永い間、パロールの方がメインでエクリチュールは補助的な役割しか果たさないと考えられてきた。これに異議を唱えたのはポスト構造主義ジャック・デリダである。私は、デリダの思想を勉強したことがないし、デリダはどうも肌に合わない。(デリダフーコーを批判した経緯があり、フーコーを支持している私としては、どうもいけ好かないのである。)

 

デリダはさて置き、私なりに思うところがあるので、このパロールエクリチュールの問題について、述べてみたい。

 

結論から言おう。私は、エクリチュールこそが大切なのであって、そこにこそ希望があると考えている。

 

そもそも現代日本において「若者愛」という習慣はないし、そんな制度によって何かを誰かから学びたいとは思えない。この「若者愛」による思想の伝承が成立する一つの要因は、年令差である。経験の少ない若者であればこそ、師匠の教えを素直に聞いたのではないか。それが同年代ともなれば、当然、意見の相違が生じるに違いない。実際、広場でソクラテスに議論を吹っ掛けられた多くの人々は、不愉快な思いをしたのである。

 

パロールは必ず、それを聞く相手を前提としている。相手がいるから、その相手に向けて話すのである。そして多くの場合、何かを話すという行為は、相手方の共感なり同意を求める。この行為は必然的に、パターナリズム(上から目線)、同調圧力、マウンティングなどの弊害を伴うことになる。人間は千差万別、十人十色なので、同意に至るなどということは、まず、ないのである。実際ソクラテスは、人々から嫌われ、死刑宣告を受けるに至った。

 

他方、エクリチュールは、特段の読み手を想定せずに書かれる場合も少なくない。例えば、現在、私はこの原稿を書いている訳だが、どこのどなたにお読みいただけるのか、皆目、分からないのである。また、読者の側からすれば、この原稿が気に入らなければ、そもそも読まなければいいのである。つまり、エクリチュールというコミュニケーション手段においては、先に述べたパターナリズム等の弊害を回避することが可能なのだ。そもそも、エクリチュールがなければ、私たちはフーコーソクラテスの思想に触れることすらできない。エクリチュールは、時空を超える。

 

そもそも、パロールは身体から発せられる声のことで、抽象的な意味での身体性から離れることは難しい。身体があって、音声があって、それによって共感や同意を求めるということは、そこに権力関係の萌芽を見て取ることができる。

 

私も、身体が大切でないとは言わない。しかし、身体よりも大切な魂というものがある。では、その魂について何かを伝える、魂について考える方策としては、何がいいのか。そう考えると、自ずとエクリチュールの重要性が明らかになる。今日まで、いつの時代でも、どこの国でも、魂とは個別的であって、反権力なのだ。

 

身体 ・・・ パロール ・・・・・・ 権力

魂  ・・・ エクリチュール ・・・ 反権力

 

人は、人から学ぶのだ。自らの魂を成長させるということは、先人たちの魂について学ぶことに他ならない。そして、その際に用いるべき記号、それがエクリチュールなのである。自己の魂に配慮するということ、それはエクリチュールと共に生きるということなのだ。無意識から意識へ、狂気から理性へと歩みを進めること。それはエクリチュールによってのみ、可能となる。そこに、大衆に支配された現代社会を改変していくための鍵がある。

 

ソクラテスの魂(その4) 個別的な真理

 

身体は死滅しても、魂は死なない。だから、身体よりも魂の方が重要なのだ。ソクラテスはそう考えたので、自らの魂に忠実であろうとした。そして、死刑の評決に従って、毒の盛られた盃を飲み干して死んだのである。このようにショッキングな死に方をしなければ、ソクラテスは今日のように有名にはなっていなかったかも知れない。

 

そして、ソクラテスの命日は、紀元前399年4月27日なのである。それがどうしたと言われるとちょっと困るのだが、この4月27日という日、実は私の誕生日なのである。一瞬、私はソクラテスの生まれ変わりなのかと思ったりしたが、そんな馬鹿なことがあるはずはない。それでも、ちょっと嬉しい。何しろ、この427という数字は「死にな」と読める。とても縁起の悪い日なのである。しかし、それがソクラテスの命日と重なるとなれば、事情は異なる。このことを私は、何かの本で読んだのだ。どの本だったのだろう? そう思って手持ちの本の頁を繰るのだが、その記述は見つからない。勘違いだったのだろうか? 夢の中にそのような話が出て来て、私は、それを現実のことと勘違いしたのではないか? 半ば諦めかけたのだが、念のため、ネットで検索してみた。「ソクラテス 命日」と打って検索を掛けると、見事に複数の記事にヒットした。それはやはり、4月27日だったのである。そして、ソクラテスを偲んで、この日は「哲学の日」とされているとのこと。なんという偶然! 私の本名は哲学の哲と書いて、サトシと読むのである。

 

哲学の日に生まれたので「哲」になったのであれば、これは随分と教養の高い家庭に生まれたことになる。しかし、実際は違う。私の祖父はタカシで、父はヒトシ。そして、私がサトシなのだ。明らかにこの名は、単なる語呂合わせで生まれたものである。

 

それにしても、ソクラテスの命日が哲学の日となり、その日を誕生日に持つ日本の哲という男が、今、ソクラテスの勉強をしているのである。これはシンクロニシティではないのか!

 

ところで、前回の原稿について、少し補足させていただきたい。ソクラテスの思想には、矛盾がある。その1つにソクラテスは、人間は自己の魂に配慮せよ、すなわち学べ、思考せよと言っている訳だが、それでも人間が真理に到達することはない。それでは何故、人間は思考すべきなのか、という問題がある。この点、どうやらソクラテス自身も悩んだようなのである。この問題を解決するためにソクラテスは、「人間並みの知恵」という概念を作り出した。人間は、この「人間並みの知恵」を得ることができるのだから、学ぶべきだ、思考すべきなのだ。しかし、それはあくまでも「人間並み」なのであって、神の知恵には遠く及ばない、と考えたのである。

 

ここまで書いて、私は、フーコーの言葉を思い出す。

 

「普遍的な真理というものに、私は懐疑的だ」

 

とても複雑で、難解なフーコーの思想も、その骨格はソクラテスに依拠しているのではないか。ソクラテスは人間の能力を「人間並みの知恵」に限定されると考え、フーコーは普遍的な真理に対し、懐疑的だと述べている。似ている。

 

そうしてみると、ソクラテスの思想に現代的な意義を見出すことが可能となるのではないか。ソクラテスは、まず、神の存在を信じた。そして、死後にも生き続ける魂の存在を信じていた。私は、この2点については全面的に否定したい。神や不滅の魂など、存在するはずがない。

 

少し、整理をしてみよう。概念上、「普遍的な真理」というものを設定しよう。これは、いつの時代においても妥当するものである。それは、決して変化することがないのだ。そして、真理と言うからには、それは人間にとってとても重要な何かのことである。今日現在、そのような原理だとか、システムは発見されていない。古代に生まれた芸術も、中世に育まれた宗教も、近代を象徴する理性を基軸とした思想も、決して全ての人々を幸福に導くことに成功はしていない。それどころか、それらの歴史の最先端にある現代において、人類による環境破壊は進み、資本主義はとてつもない格差を生み出し、行き詰まっている。ホモサピエンスという形態に至ってからでも、既に20万年が経過しているというのに、人類は未だに普遍的な真理を発見できずにいる。すると、今後ともそれを発見することはできない可能性がある。それを発見するか、その前に滅亡するのか、それは誰にも分からないので、フーコーのように「懐疑的だ」と述べるのが限界なのではないか。

 

次に、便宜上、「個別的な真理」という概念を措定しよう。これは、ソクラテスが「人間並みの知恵」と呼んだものに相当する。そして、「個別的な真理」は各時代の科学的知見、常識、価値観など(エピステーメー)に影響を受ける。エピステーメーは変化し続けるので、その影響を受けている限りにおいて、人間が普遍的な真理に到達することはない。すると、人間はエピステーメーの外側に出ることができるのか、という問題があることになる。結論から言えば、それは不可能であるに違いない。人間はエピステーメーの内側でしか、思考することができない。それはソクラテスにも言えることで、神や不滅の魂という発想自体が当時の常識(エピステーメー)であったことは明らかだし、その他にもソクラテスをはじめとするギリシャの哲人たちは、当時の社会が容認していた奴隷制に疑問を提起していない。ソクラテスといえども、エピステーメーの内側で思考していたのである。

 

このエピステーメーの内側の思考とは、正に「人間並みの知恵」に相当し、普遍的な真理には至らないので、これを「個別的な真理」と呼びたい訳だが、これは1つの仮説のようなものである。こうなっているのではないか、こう考えればうまくいくのではないかという仮説。それが宗教であり、イデオロギーなのである。しかし、その正しさが実証されたものなど、1つもないのである。占星術キリスト教マルクス主義も、仮説に過ぎない。もう少し普遍化して言えば、全ての思想は未完なのである。個別的な真理を求め、仮説を立てて、失敗を繰り返す。それが人類の歴史だとも言える。

 

次に魂について考えてみよう。ソクラテスの弟子だったプラトンは、魂とは何かということを真剣に考えた。魂という概念があって、それがデカルトを経て心に変わったという説もある。しかし、ここでは、簡単に次のように考えてみよう。魂、それは心の奥底にあって、その人が決して妥協できない何か、切実に訴えたいと思っている信念のことだ、と定義するのはどうだろう。魂という言葉は現代にも生きているし、現代人である我々は、概ねそのように理解しているはずだ。それは身体と共に滅びるが、だからと言って魂が重要ではない、ということにはならない。

 

そして、自己の魂に配慮せよというソクラテスの主張は、個別的な真理に到達するための方法論であることに留意する必要がある。また、個別的な真理とは、人間集団の中にあるのではなく、それは個々人の魂の中に存在するということを示唆している。私はこの主張に賛成である。そもそも、人間というのは、3人集まれば派閥ができると言われている。2人対1人になる訳だ。そして、数の力が働いて、2人の方が権力を持つことになる。権力を持った者は、それを維持しようとする。権力を持った者が何かを始めると、それは経路依存性を持ち、たとえそれが破滅に向かう道であっても、突き進もうとするのだ。つまり、人間集団の内部には必ず権力が生じ、往々にして権力は集団を狂気へと導く。全ての人間集団と集団の論理は、狂気に充ちているのである。

 

この点、前の原稿で戦争を強行したアメリカ政府と、戦場から戻りPTSDに苦しむ米兵の例を書いた。そんな例は、枚挙にいとまがない。例えば、古くから裁判制度は冤罪を生んできた。集団の側に立つ裁判という制度。これは狂いがちなのだ。そして、刑事事件であれば必ず真犯人がいる訳で、真犯人の魂は、自らが犯した罪について認識しているのである。

 

現在、五輪のスポンサーになっているマスコミは、五輪を開催する方向へ世論を誘導しようとしている。あの朝日新聞毎日新聞でさえも、事情は変わらない。コロナの第5波を迎えつつある現状に鑑み、私は、これらのメディアは狂っていると思う。朝日新聞は、五輪のスポンサーを降りるべきだという意見が、ようやく出て来たが、多分、既にそのタイミングは逸しているのだろう。ここでも、一縷の望みがあるとすれば、それはメディアに働く個々人の良心しかないのである。真実を伝える。正しいことを主張する。メディアに働く個々人が、自らの魂の声を聴くべきなのである。

 

つまり自らの魂に配慮するとは、狂気に充ちた集団の中にあっても、自分だけは壊れない、狂わないようにしようとする強い意志を持つことに他ならないのだ。

 

以上が、私の考えるソクラテスの思想の現代的な意義である。

 

ソクラテスの魂(その3)

 

結局人間は、互いに理解し合うことはできないのではないか。昔から「十人十色」などと言うが、それは1億2千万人(日本の人口)いれば1億2千万色になる訳で、同じ価値観を持つ人間は、2人といないに違いない。

 

例えば、水について研究してみれば、それは必ず高い所から低い方へと流れるし、摂氏100度で気化し、0度で氷結する。このように水には明確な規則性がある。もう少し人間に近いところで猫について考えてみよう。彼らは怒るとシャーと言うし、気持ちが良ければゴロゴロと喉を鳴らす。こちらにも規則性を認めることができる。猫の行動を支配しているのは本能である。リリーサーと呼ばれる何らかの外的な「きっかけ」に出会うと、本能のある部分が開放され、猫の身体が反応するのである。従って、猫の身体的な反応や行動を注意深く観察すれば、彼らの本能を推し測ることは可能なのだ。

 

ところがこの世で唯一、人間だけは、このような規則性を持たないのではないか。例えば、コロナに関するニュースがヤフーに掲載される。するとその記事に対するコメントが一気に書き込まれる訳だが(ヤフコメ)、それを見ると人々の意見がいかに多様であるか、見て取ることができる。相変わらずコロナは風邪の一種でたいしたことはないという楽観論があれば、変異株に対する恐怖を説くものもある。政府や自治体の対策についても、強化すべきとするものと、解除すべきだというものがある。はたまた政府はコロナの感染者数を意図的に多く出しているという意見があれば、反対に少なく偽っているというものもある。

 

人間は皆、個性的な顔を持っている。同じ顔をした人間が世界に3人はいるという説もあるが、私は、私と同じような顔をした人間に出会ったことがない。つまり人間は、顔が違う、持っている知識が違う、経験が違う、生きている時代が違う、加えて利害関係も違うのである。だから、物の見方や考え方も違うのである。少なくとも、誰かと同じ人生を送る人間など、この世に1人もいないのである。

 

本質的に、人間は互いに理解し合うことができない。

 

このように考えると、万人が納得する法律や憲法というものも存在しないことになる。仮に、真理とは万人が納得するものである、と定義してみると、この世には真理すら存在しないことになる。

 

哲学の歴史もまた、この問題に直面したことがある。まず、西洋を中心に発展した近代思想があった。人間には理性があるので、これに従って、社会を構築しようというものだ。だから、多くの哲学者は「法とは何か」という問題に取り組んだし、理性を強化しようと考えたカントは「純粋理性批判」を書いたのである。カント、ヘーゲルマルクスあたりまでがモダン(近代)だと言っていいだろう。ある意味、モダンの思想家は楽観的だった。しかし、そこに登場したのが心理学のフロイトだった。フロイトは、人間の心の大半は無意識に占領されているのであって、人間は無意識に支配されていると訴えた。理性なるものが存在するとすれば、それは意識の側にあるのであって、フロイトの心理学は西欧のモダン思想と対立した訳だ。加えて、2度に及ぶ世界大戦、広島、長崎に対する原爆投下などがあり、モダン思想に対する懐疑が渦巻く。

 

そこで登場したのが、レヴィ=ストロースで、彼は「悲しき熱帯」において、ヨーロッパ中心主義の誤りを指摘し、構造人類学を提唱した。これが構造主義だ。その後、多くの思想家が様々な構造を提唱したが、然したる成果は生まれなかった。そこで、ポスト構造主義が誕生する訳だが、私の敬愛するミシェル・フーコーもその1人に数えられている。ちなみに、構造主義ポスト構造主義を総称して、近代の後という意味で、ポストモダンと呼ぶ。

 

大雑把に言うと、人間には理性がある、法によって社会を統制し、憲法に従って国家を建立しよう、というのがモダン思想だろう。しかし、その前提は崩れた。するとポストモダンの思想は、2つの選択肢を持つことになる。1つには、人間は無意識によって思考し、行動するので、これを統制することはできない。真理など存在しない、という立場である。勢い、真理など存在しないのだから考えたって無駄さ、ということになる。そして2つ目は、それでも人間は思考せよ、という立場である。フーコーは、それでも思考せよというこの立場を選択した。

 

冒頭に記した「人間は互いに理解しあうことはできない」とする私の意見は、ポストモダンだと言っていいだろう。そして私は、フーコーと同じように、それでも思考すべきだと考えている訳だ。しかし、この立場は重大な矛盾を抱えている。思考すべきだが、真理には到達できないのだ。真理に到達できないのであれば、何故、思考するのかという問題があって、これに対する簡単な回答は、用意されていない。このパラドックスは、人類が抱える永遠の課題なのであって、その宿命から人類が解放されることはないのではないか。私がそう考えるようになったのは、この問題、既に2500年前にソクラテスが提起しているからである。

 

一般に「無知の知」と呼ばれる思想がある。これは誤りであって、正しくは「不知の自覚」と言うべきだとする説もあるが、双方に本質的な差異は認められないので、ここでは一般的な表現に従うこととしよう。おおまかな経緯は、次の通りである。

 

古代ギリシャアテナイに、おせっかいな人がいて、この人は神殿に勤務する巫女さんに「この世で一番優れた人間は誰か」と尋ねた。すると巫女さんは「ソクラテスである」と答えた。そのことを知ったソクラテスは不思議に思う。無知な自分が何故、優秀なのかと。そこでソクラテスは、周囲にいる偉そうな顔をしている人々に、真善美について、片っ端から議論をもちかける。しかし、誰も本質的なことには答えられない。そこでソクラテスは思う。自分は、自分が無知であることを知っているが、他の者はそのことに気付いていない。無知であることを知っている分、自分は他の者たちよりも優れている。巫女さんが言った通りだ。ソクラテスは、そう考えたのである。

 

これが「無知の知」という思想の経緯だが、少し整理してみよう。ソクラテスは、巫女さんの発言を前提に考えているのであって、すなわちこのことはソクラテスが神の存在を信じていたことを意味する。そして、ソクラテスは神のみが真理を知り得るのだと考えていた訳だ。神の次に優秀なのは、無知の知を自覚している自分であって、その他の一般人が最下層に位置づけられる。

 

神 ・・・・・・・ 真理を知っている。

ソクラテス ・・・ 無知であることを自覚している。

一般人 ・・・・・ 無知であることを自覚していない。

 

また、ソクラテスは「自己の魂に配慮せよ」とも言っている。これは矛盾しているのであって、先に述べたポストモダンが抱える課題とよく似ているのだ。

 

仮にある人が「考えた結果、自分は真理を悟った」と言えば、その人は無知であることの自覚を失った訳で、最下層の「一般人」のレベルに転落するのである。他方、自分が無知であることを自覚して考え続けたとしても、真理には到達できない。つまりソクラテスは、永遠に到達することのできないゴールを目指して歩き続けよ、と言っているのに等しい。

 

しかし、人間とはそういうものではないだろうか。ちょっと、ため息が出る。

 

ソクラテスの魂(その2)

名前だけなら、中学生でも知っているであろうソクラテス。私も、軽い気持ちでこの原稿に着手した訳だが、それは誤りだった。もちろん、ソクラテスの思想を現代人である私たちがそのままの形で受け入れることは困難だ。しかしその思想には、混迷を極める現代文明を考えるために必要なヒントが隠されている。

 

ミシェル・フーコーは、若き日にその著書「言葉と物」において、エピステーメーについて述べた。これは、ある時代のある社会が共有している科学的知見、常識、共通する価値観などを差す。しかし、晩年のフーコーは、遺作となる性の歴史シリーズにおいて、ギリシャ哲学へと向かう。そして、そこにおいては、人間にとって普遍的な何かが語られている。例えば性の歴史第1巻のタイトルは「知への意志」であり、これは俗に「無知の知」として知られているソクラテスの思想を想起させる。また、第3巻のタイトル「自己への配慮」は、明らかにソクラテスの「魂への配慮」と呼ばれる思想を反映したものである。

 

結局、人間の社会には変化し続けるエピステーメーがあって、それとは別に、不変の真理があるのではないか。フーコーが最終的に真理の存在をどう考えていたのか、私はそれを知らない。しかし、真理は存在する、と私は思う。少なくとも、真理なるものが存在するのだと信じて考え続けること、知への意志を持ち続けること、それが重要であると言えば、フーコーも反対はしないだろう。

 

では、真理はどこに存在するのだろう。国家か、中間集団か、個人か。それは、個人の心の中に存在するのではないだろうか。人間が集まって集団を形成すると、国家であろうと中間集団であろうと、そこには必ず権力関係が生まれる。そしてこの権力関係が、人間集団を狂わせるのだ。先の戦争もそうだったし、現在、日本はコロナ禍の最中であるにも関わらず、五輪に突き進もうとしている。いつの時代でも、人間集団は狂気に充ちている。

 

例えば、アメリカという国家は、戦争を繰り返してきた。しかし、戦場から帰還した兵士たちの多くは、永くPTSDに苦しめられていると聞く。どちらが正しいのか。戦争を行う国家なのか、戦争を忌避しようとする個々の兵士の心なのか。

 

思えば、思想や文学なども、その筆者や作者は、ほとんどの場合、個人なのである。個人が自分の心と向き合うところから、それらの歴史が始まり、その営みは今日も続いている。

 

心の奥底にある何か、それを魂と呼ぶならば、真理とは魂の中に存在しているに違いないのだ。そのことを差して、ソクラテスは自己の魂に配慮せよ、と述べたのだろう。

ソクラテスの魂(その1)

 

現在、日本はコロナ禍に見舞われ、その対策にことごとく失敗している。それにも関わらず、東京五輪を強行しようというのだから、呆れるという他はない。日本の民主主義は瀕死の状態だと言いたいところだが、冷静に考えてみると、この国において本当の意味での民主主義が実現されたことなど、一度もないのではないか。一体何を間違ってしまったのだろうと思う訳だが、政治も教育も社会制度も、その全てを間違えているに違いない。

 

人間集団の大きさをベースに考える場合、国家があって、個人があって、その中間の集団があるという区分けが簡便である。この区分けに従って、まず、中国の現状を考えてみて、その後、日本と比較してみたいと思う。

 

1党独裁とか、集団的指導体制と呼ばれるように、中国は強い国家権力によって統制されている。それはコロナ対策を見ても明らかだろう。国家権力を背景として、中国は迅速にロックダウンを行い、コロナの封じ込めに成功した。中国の人口は14億人を少し超える。日本の10倍以上である。それでも中国におけるコロナの死者数は約4千6百人であって、日本の死者数1万3千人(いずれも5月末時点)をはるかに下回る。経済においても国家による統制が功を奏して、GDPの成長率は高いレベルを維持し続けている。中国が日本のGDPを抜いて、世界第2位の地位を確保したのは2010年のことである。

 

次に中国における中間集団の状況はどうか。思うに、中国は中間集団を徹底的に弱体化してきたのではないか。少数民族を弾圧し、香港における人権問題も深刻さを増している。宗教団体も迫害され、国家に対する分派的な集団は、その存在を否定されるのだ。

 

では、中国の個人に対する施策を考えてみよう。

 

中国においては、中間集団が弱体化されているので、個々人に対しては目が届きにくくなる。

中間集団が存在すれば、その内部の同調圧力や密告制度を使って個人に圧力を掛けることができるが、そもそも人口の多い中国においては、それが困難だったのではないか。そこで登場したのがデジタル監視ということだろう。既に顔認証システムが犯罪者を追い詰め、個々人の信頼度に関するスコア化が進んでいる。このデジタル監視という手法の特徴は、人間を集団で見るのではなく、個別に識別するところにある。

 

中国のシステムをまとめてみよう。

 

国 家・・・・強い

中間集団・・・弱体化

個 人・・・・デジタル監視

 

では、中国人は幸福だろうか。もちろん、多くの富裕層がいて、彼らは幸福なのかも知れない。また、国家が強いのでコロナウイルスからは守ってもらえるし、他国から侵略される怖れもない。しかし、一般人のことを考えると、答えはネガティブだ。思想、信条、表現の自由なくして、人間の幸福は実現し得ない。日本人である私の目には、そう映る。中国人は国家を信用していない。そこで彼らは、親族関係を尊重するのだ、という説もある。この強固な親族関係が、例えば海外においては華僑としてのネットワークを構成する。

 

日本に目を転じてみよう。

 

まず、日本という国家はとても弱い。アメリカからはポンコツ兵器を買わされ、ワクチンの獲得競争に敗れ、最近ではIOCのぼったくり男爵にさえ馬鹿にされている。既に日産自動車外資に買収され、配当金という形で利益を吸い上げられている。最近ではアトキンソンという悪い奴がいて、日本の中小企業が狙われているらしい。敗戦という歴史的経緯があるにせよ、日本が弱い1番の理由は、日本という国家全体の利益を考える人間がほとんどいないからではないか。切りがないのでここら辺にしておくが、私たち現代の日本人は、あたかも国家を持たない流浪の民のようだとさえ思えてくる。

 

次に、日本の中間集団について見てみよう。これは国家全体の利益を追求するのではなく、個々の集団の利益を追求するので、概ね、利権集団と言い換えても良い。こちらの方は、雨後のタケノコのように乱立している。

 

政権与党は、党利党略に注力している。国家や国民全体の利益など、まるで考えていない。一部の野党も、事情は変わらない。国会議員は多額の収入を得られるので、その地位にしがみつく。そして、新たな政治団体の新規参入を防ぐために、供託金をはじめとする高い障壁を設置しているのである。官僚も同じで、自らが属する省庁の既得権や、天下り先の確保ばかりを気にしている。メディアにも真実を伝えようという気概は、ほとんど感じられない。そもそもメディアの使命は、情報を伝えることなのだろうか。例えば、コロナの感染者が何人だった、というのは情報である。確かにメディアは、正確な情報を伝えている。しかし、情報をどう読み解くか、ということの方が余程大切ではないだろうか。ところが情報を分析した後に抽出されるロジックや意見について、日本のメディアは御用学者やお笑い芸人に言わせるのである。かつて、日本の知性とはビートたけしであるという説があった。今も事情は、大して変わらない。

 

結局、現在の日本において権勢をふるっているのは、これらの中間集団、利権集団なのだ。

 

では、日本人を個人ベースで見た場合、幸福だろうか? 答えはまたしてもネガティブである。労働人口の約4割が非正規で不安定な雇用環境に置かれているし、そこへ消費増税とコロナ禍が襲ったのだ。結果として、特に女性の自殺者数が増加した。福島第1原発についても一向に終息の兆しは見えないし、検察によって巨悪が暴かれることもない。結局、日本人の認識能力は低下したのだ。そのことによって、持つべき価値観は崩壊し、拝金主義が横行するに至った。人々は希望を失い、大衆はルサンチマン反知性主義に埋没したのである。

 

では、日本の状況をまとめてみよう。

 

国 家・・・・弱い

中間集団・・・利権集団の乱立

個 人・・・・価値観の崩壊

 

結局のところ、中国と日本とでは国家の体制が大きく異なるものの、どちらも成功してはいないのだ。私は、「民主的で強い国」が理想だと考えているが、それは青臭い理想主義に過ぎないのだろうか。

 

話は変わるが、私は、ミシェル・フーコーの思想に魅了されてきた。例えば、「自己への配慮」という文献がある。この言葉は不思議な響きを持っている。誰だって、自分が大切だし、エゴイズムを持っている。多くの場合、それは人間の行動原理とさえなるものだ。それにも関わらず、そのような自己へ配慮せよ、というのである。もちろん、「自己への配慮」とはエゴイズムを推奨するという意味ではない。もっと深い意味で、自己とは大切な人間なのだから、その自己を成長させよ、という意味である。また、この言葉は、自己を2つに分割しているようにも思える。すなわち、配慮する自己と、配慮される自己ということだ。

 

それにしても、この不思議な言葉は、誰の言葉なのだろう。そう思って「自己への配慮」の頁を繰ってみるのだが、そこに明確な記述はない。ただ、次の一節があった。

 

- しかも『ソクラテスの弁明』では、ソクラテスは自分の裁判官たちにたいしては、まさしく自己への配慮にかんする達人として自分を紹介しているのである。神によって委託されたのでソクラテスは人々に、配慮すべきは自分の富でも自分の名誉でもなく、自己自身について、自分の魂についてであることを思い起こさせる、という訳である。(P. 61)-

 

そこで私は、「ソクラテスの弁明」に目を通してみた。本棚にあった30年も前の文庫本である。(ソクラテスの弁明/プラトン/山本光雄訳/角川文庫)そこに、次の一節を見出すことができた。

 

- (前略)君は知恵と力とにかけては最も優れていて、最も評判のよい国、アテナイの民でありながら、金銭のことでは、どうすればできるだけたくさん君の手に入るかということに、また評判や栄誉のことに心掛けるのに、英知や真理のことに、また魂のことでは、それがどうすればいちばん優れたものになるかということに心掛けもせず、工夫もしないのが恥ずかしくはないか(後略)(P. 79)-

 

上に引用したソクラテスの思想は、「魂への配慮」とも呼ばれている。「自己への配慮」とは少し違うが、それが翻訳上の差異なのかどうか、私には分からない。しかし、その本質的な意味は同じなのであって、フーコーソクラテスの思想について検討していたことは間違いないのだ。

 

続く

 

追記: 所要があって、今日、街に出かけた。数か月ぶりのことだ。久しぶりに本屋へ立ち寄ってみると、驚くことにミシェル・フーコー「性の歴史」の第4分冊が出版されていた。「肉の告白」というタイトルだ。ネット上ではかねてより幻の第4分冊が出版されるとの噂があったが、既にそれが現実となっていたとは!

 

カオス、統合、分化

 

樹木から離れたリンゴは真下に落ちるし、水は摂氏0度で氷結し、100度で気化する。このように自然界には規則性があるが、人間の世界はそう単純ではない。かつて狩猟採集を生業としていた時代があった訳だが、ある部族は平和に暮らし、別の部族は戦闘的だったのではないか。例えば、雷鳴がとどろいた場合、ある部族はそれを吉兆だと考え、反対にそれを不吉な印だと思う部族だって存在したに違いない。かつて、人類は現実世界の出来事と夢の中の出来事とをうまく区別して認識することができなかった。そのような世界をカオスと呼んでいいだろう。

 

人類の歴史とは、カオスから始まったのである。

 

やがて、人類は秩序化に向かった。理由の1つには生活技術の進展を挙げることができる。衣服を作り出す技術、家を建築する技術などが誕生すると、人々は誰かの発明を真似たに違いないのだ。そして、部族単位で、同じような衣服を身にまとい、同じような家に住み始めたのである。例えば、縄文時代の日本人は皆、竪穴式の住居で暮らしていたのである。しかし、人類が秩序化に向かった理由は、そればかりではない。2つ目の理由は、祭祀から始まり宗教に至る一連のプロセスを挙げることができる。宗教は、人々のメンタリティや価値観を統合した。秩序化と言ってもいい。

 

すなわち、人類の歴史はカオスから統合へと進展したのである。

 

統合の進んだ人類の文明は、ある意味、国家という形で結実したのではないか。かつて、人類は国同士で戦った。世界の主要な国々において、それは第2次世界大戦まで続いたのである。日本も例外ではなく、国家という秩序を基礎として、敗戦へと突き進んだのである。

 

この統合して行こう、秩序化して行こうという文明は、戦後も続いたに違いない。それは、学校や企業において顕現した。この秩序に支配される多くの人間は、ある場所に隔離され、時間的に拘束されるのだ。生徒は制服を着て、囚人は囚人服を、勤め人は作業服を着せられて。

 

それがいつ始まったのか、まだ私に言い当てることはできないが、明らかにこの統合、秩序化という文明は変化を遂げた。今日の文明は枝分かれし、細分化が進んでいる。それを複雑化と表現する人もいるだろう。人々は思い思いの衣服を着て、住みたい住宅のスタイルを模索し、好みのゲームに興じている。経済と科学は目覚ましい進展を遂げ、グローバル化も進行している。最早、国家という枠組みで社会を統制することすら、困難な時代になったのかも知れない。

 

つまり、人間の文明はカオスから始まり、統合化を目指す段階を経て、現在、分化の途上にあると言えよう。

 

これからどうなるのか? それは誰にも分からない。このまま分化が進むのか、新たな秩序が生まれるのか、破滅するのか、それとも大いなるカオスに帰ってゆくのか・・・。

 

生命力の衰退

 

ミシェル・フーコーの遺作「自己への配慮」の中に、こんな一節がある。

 

- 驢馬を棒切れで打つことは、人々を治める仕方ではない。何が役立つかを、われわれに明らかにしつつ、われわれを理性の持ち主として治めよ、そうすれば、われわれは従うであろう。何が有害であるかを明らかにしてくれ、そうすれば、われわれはそれから遠ざかるだろう。きみのような人柄でありたいと、われわれが熱心に望むように努めてくれ(中略) これをなすべし、これはなすべからず、そうでなければ牢獄にぶちこむぞ、これでは理性ある人々を治めるやり方ではない。 (P.123)-

 

これは古代ギリシャの哲学者、エピクテトスの言葉である。このような言葉に接すると、国も時代も異なるが、私は、現代の日本に思い至るのである。

 

私たちは、驢馬のように打たれていないだろうか?

 

私たちは、理性の持ち主として、充分な説明を受けているだろうか?

 

日本の総理大臣は、私たちがそのような人になりたいと望むような人格を備えているだろうか?

 

私たちは、ただ、これをしろ、あれはするなと言われていないだろうか?

 

ところで、政治学界隈で使われている用語に、実は同じような意味を持っているものが存在することに気づいた。以下に列記してみよう。

 

反知性主義・・・知的権威やエリートに対し懐疑的な立場をとる。

 

ルサンチマン・・・弱者が強者に対して抱く恨み、妬み、嫉み。

 

パターナリズム・・・強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入、干渉、支援すること。

 

上記の用語は、いずれも大衆の心理を表わしている。つまり、大衆の心の中には知的権威に対する強烈な反感があり、嫉妬があり、そして大衆は上から目線で意見されることを極端に嫌うのである。これらの心理的な傾向を総称して、ここでは反知性主義と呼ぶことにするが、政権側はこれを利用して愚民政策を推進しているに違いない。知性など持つ必要はない、テレビを見てスポーツを楽しんでいればいいのだという政策を推進することによって、大衆は洗脳されていく。

 

では、知的権威を尊重する知性主義が正しいかと言えば、そうとも言えない。私だって、学歴や弁護士資格などをひけらかす人には反感を覚えるし、現在、コロナ対策に関して政府に助言している分科会のメンバーにだって、嫌悪感を覚える。彼らは、PCR検査を拡充する必要はないと主張した感染症ムラの住民たちなのだ。

 

最近の世論調査の結果で、国民の多くがスガ総理は嫌いだが立憲の枝野はもっと嫌だ、というものがあった。さもありなん、である。

 

政党支持率に関する世論調査の結果は、調査機関次第で大きなバラつきがあるものだが、1つ共通しているのは、最大多数を占めるのは常に「支持政党なし」なのである。知性の感じられない自民党は嫌だが、上から目線で物を言う立憲はもっと嫌いだ、ということではないか。こんな国が、コロナに勝てるはずがない。

 

いや、そもそも日本という国家は存在しているのだろうか?

 

確かに私たちの国には、日本という立派な名前がついている。国土もあるし、主権者である国民も1億2千万人ほど暮らしている。しかし、この国に本当の政府はあるのだろうか。本当の政府とは、国民全体の利益を追求する国民の代表者である。もしこの国に本当の政府が存在すれば、オリンピックを強行したりはしないのではないか。コロナの問題だって、PCR検査を拡大し、無症状の感染者を隔離したはずではないのか。水際対策だって、現在のように精度の低い抗原検査ではなく、PCR検査を実施したのではないか。そして国民には、せめて他国並みの経済補償を行ったはずではないのか。

 

結局、民主主義を基盤とする強い国家を成立させるための条件は、主権者たる国民の生命力にあるのではないか。何がなんでも生きたいと願い、行動すること。そのような強い生命力があればこそ、人間は思考するに違いないのだ。そのような生命力の延長線上に、たった一度しかない人生を精一杯生きようとする活力が生まれるのだ。

 

最近、私は高齢者の仲間入りを果たした。しかし、まだ生きたいと思っている。コロナなんかで死にたくはないのだ。そう思うから、コロナの問題に関心を持つ訳だ。もちろん、放射能で死ぬのも嫌だ。だから、原発には反対なのだ。私が思考する原動力、それは私の生命力そのものだと言っていい。このように個人の生命力から出発すると、それは国家に至るのである。逆もまた真なのであって、つまり、民主的で強い国家があれば、その国の住民たちの認識能力は強化され、生命力も強化される。このように「民主的で強い国」と「国民の生命力」は相関関係にあるに違いない。

 

今、日本人の生命力は衰退しつつある。

 

生命力の前で、右も左も関係はない。知的権威を振りかざす知性主義も、それに嫌悪する反知性主義も正しくはない。生き延びようとする意志、その中にこそ正義が宿るのだ。