文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

「いのちの党」の内紛(その2)

 

興味を持っている方ならご存じだと思うが、10月13日に副幹事長である辻恵氏がコメントを発表した。(原文は辻氏のXに掲載されている。)今まで辻氏が表に出ることはほとんどなく、それは唐突な印象を伴うものだった。このタイミングで辻氏が出て来た理由は、明らかに辻氏が弁護士資格を持つ法曹関係者だからであって、換言すれば、「いのちの党」が設置した独立調査委員会との連携窓口を辻氏が担っていることの表われであろう。このコメントの中で辻氏は、既に独立調査委員会が設置されていること、同委員会は既に調査に着手していること、その報告書が11月中旬には提出されることを言明している。

 

また、「いのちの党」に関わる本件調査は、専門性が要求される比較的大規模なものだと思われる。一般企業の場合と違って、政党に関する調査なので政治資金規正法など、特殊な法律についての専門知識が要求される。また、会計帳簿の調査には公認会計士などが当たることになる。そうすると、本件調査を担当する弁護士事務所は、中規模以上の、場合によっては大規模な法律事務所ということになる。

 

法律事務所というのは、事務所の看板、評判を何よりも大切にする。特に本件調査の主たる調査項目は、例の「公設秘書給与詐取疑惑」である。この件については、既に地検特捜部や警視庁が動いているとの情報もあり、法律事務所が本件調査に手心を加えるとは考えられない。仮に法律事務所が適法だと判断し、後日、検察などが違法だと判断すれば、法律事務所の社会的信用が損なわれることになる。多分、「れいわ新選組」の時代に行われたこの公設秘書を党務に当たらせるという行為については、独立調査委員会によっても違法であると判断されるだろう。この場合、「いのちの党」としては、国から支給された公設秘書給与のうち、その違法部分については、自主的に国庫に返納することになるのではないか。その他の「不透明な資金の流れ」についても、究明されるだろう。

 

上記のシナリオには、私の推測が含まれており、現時点で断言することはできない。しかし、このシナリオ通りに進む可能性が高く、その場合、奥田ふみよ氏が率いる原点回帰派は壊滅するに違いない。既に、勝負はついているのである。

 

この現象をどう見るか。私は、エロスの側に立った原点回帰派が、ロゴスに敗北したのだと思う。

 

さて、ロゴスと言えば「いのちの党」には、政策をどうするかという課題も残されている。まず、山本太郎路線を継承し「消費税廃止」を継続して訴えるのか? 当初、日本経済はデフレに苦しんでおり、山本太郎は「インフレ率が2%に達するまでは積極財政で」と主張していた。その後、円安が進行し、コストプッシュ型のインフレが進み、遂に日本経済はインフレ率2%を達成したのである。(喜ぶべきことではない。)これだけインフレが進んでいる現在、消費税を廃止すると社会に大量の資金が投入され、インフレが加速するのではないか? この問題、私は「いのちの党」がどう考えているのか、説明を聞いた記憶がない。

 

「れいわ新選組」時代の政策として、もう1つは「原発の即時停止」というのがあった。しかし、今年の2月28日に始まったイラン戦争の影響で、世界的に原油の供給量が不足し始めている。その影響は、火力発電に使われる天然ガスにも及んでいる。このような時期に原発を即時停止するのが良い政策なのか、私は疑問に思う。石油の供給量が安定するまで待って、その後、段階的な廃止を計画すべきではないのか?

 

 

「いのちの党」の内紛

(敬称略)

 

仮に、無人島に1組のカップルが漂着したとしよう。彼らに必要なのは、エロスだけではないか? それは生きようとする本能であり、エネルギーのことである。そして無人島において、ロゴスは不要である。一方、人口1億2千万人を擁する日本という国家の運営を考えた場合、求められるのはロゴスであり、エロスは抑制されるべきである。仮に、感情的に泣きわめくような人が総理大臣だったとすると、それは悲劇を通り越して、喜劇であるに違いない。つまり、人間集団のスケールの違いによって、求められる能力には違いがあるということだ。小さな集団はエロスを、大きな集団はロゴスを求めるのである。

 

エロス・・・本能的、感情的、無意識的

ロゴス・・・理性的、論理的、意識的

 

クルマに例えると、エロスは駆動力をもたらすエンジンであり、ロゴスはその駆動力を制御するハンドルのようなものだ、とも言える。

 

先般、政界を引退した山本太郎という人物を考えると、彼はエロスの人であり、ロゴスを持っていなかった。だから、れいわ新選組は挫折したというのが、私の見方である。

 

そもそも山本太郎は、役者の世界に住んでいた。映画の撮影に際しては、照明係、音声係、衣装係、大道具、小道具など、様々な役割を担う人たちがいるが、その規模は小集団だと言えよう。また、スポットライトを浴びるのは、役者だけである。山本太郎は、そのような集団のシステムを政党に持ち込んだのである。それがれいわ新選組のスタートラインだった。

 

れいわ新選組の規模が小さい頃は良かった。スポットライトを浴びるのは、山本太郎だけだったが、他に競合するライバルもいなかった。しかし、れいわ新選組は、急速にその規模を拡大していった。ボランティアは増え、国会議員も最盛期には15人までになった。すると政党交付金も億単位(7億円)となり、人事の及ぶ力も増大した。つまり、集団における権力というものが出現したのである。本来的に言えば、この段階で権力を牽制するシステムの構築を急ぐべきだったのだ。それは党の綱領であり、規約であり、組織化のことである。

 

しかし、山本太郎は、自分だけが目立ちたかったのだろう。彼は権力を牽制するシステムの構築には着手せず、権力を自分に集中させたのである。党の幹部は、自分にとってのイエスマンで固め、従順な人間を優遇し、そうでない人間を排斥しようとした。当然の帰結として、セクハラ、パワハラ、イジメ、えこひいきなどの問題が噴出した。ネット時代の今日、それらの情報はXとYouTubeによって拡散されたのである。

 

最大の悪手は「れいわローテーション」と呼ばれる制度だった。ご案内の通り、参議院議員の任期は6年である。しかし山本太郎は、候補者に誓約書のようなものを書かせ、当選した者には3年後に辞表を提出させ、他の候補者に議席を譲ることを誓約させたのである。6年も政治家をやっていると、その中からスターが生まれるかも知れない。すると、山本太郎自身の存在感が薄れる。場合によっては、自分のポジションが脅かされるかも知れない。従って、そのようなライバルの登場を予め阻止するために、この制度を発案したのだと思う。この制度に賛成した当時の役員には、猛省を促したい。

 

大きな組織に属したことのない人には想像しにくいことかも知れないが、No. 2を作らないために、優秀な部下を蹴落とすというのは、実社会においては左程、珍しいことではない。

 

そもそも、前述のとおり参議院議員の任期は6年とすることが憲法46条に定められており、同99条において、国会議員や公務員に対しては、憲法に対す擁護、尊重義務が課されている。従って、「れいわローテーション」は憲法違反だと言わざるを得ないのだ。

 

加えて、この制度には致命的な欠陥があった。当選した同党の参議院議員が、任期途中(当選してから3年以内)に議席を持って離党した場合、党は議席を失い、制度の運用が不可能になる。実際、昨日、参議院議員の木村英子が離党届を提出した。いのちの党としては、未だこの離党届を受理せず、週明けに役員会で審議するとのこと。

 

れいわ新選組時代から、様々な内部告発がなされてきたが、最大の告発は、多ケ谷亮が暴露した「公設秘書給与詐取疑惑」である。まず、法的な枠組みから説明しよう。国会議員は秘書を持つことができ、秘書は公設秘書と私設秘書に分かれる。そして、公設秘書の給与は国から支給され、私設秘書の給与は国会議員が負担しなければならない。ここで明確に公私の別が前提とされている訳だ。そして「公」(おおやけ)とは、国会議員としての立法作業や、国政調査権の行使など、国会議員が国家のために行う活動のことである。国家のために行う活動だから、その費用を国家が負担するのだ。他方、「私」の方は、国会議員本人や所属する政党のために行う政治活動を意味する。これは私的なものなので、その費用は私的に負担する必要がある。但し、これら私的な活動に使う目的で、国家は政党交付金を国政政党に支給しているのである。

 

これで法的な枠組みはご理解いただけたと思う。そこで、れいわ新選組が何をしたかと言うと、公設秘書を半ば強制的に、党務に従事させたのである。つまり、国家が費用を負担している公設秘書を、私的な党務に従事させ、党が支払うべき費用の削減を図っていたのである。しかも、それを党として組織的に行っていたのだ。多ケ谷亮は、その証拠を公開しているし、かつての国会議員、阪口直人もかかる事実を認める旨、動画で告白している。この問題、私は法律論からすれば、完全にアウトだと思う。

 

なお、この件に関して幹事長の高井の説明は「弁護士にも相談して進めてきたので、適法だと考えている。但し、相談した弁護士の名前は明かせない」と述べている。そもそも、何故、弁護士に信用があるかと言えば、弁護士には厳しい倫理規定が適用され、誤った判断を下したり、嘘をついたりした場合には、信用を落とすばかりか、弁護士資格をはく奪されるリスクを負っている。だから弁護士は信用できるのだ。従って、弁護士に相談したと言うのであれば、また、そのことを根拠として適法だと主張するのであれば、当然、弁護士の氏名、所属事務所を公開すべきである。

 

既に東京地検特捜部と警視庁が動いているという噂もある。また、山本太郎が政治家を引退した本当の理由は、この問題にあると私は信じているが、信ずるに足る相当な理由がある、と思う。この問題で司直の手がどこまで伸びるのか、私には分からない。但し、嫌疑を掛けられている者たちの心中が穏やかでないことだけは、確かだろう

 

現在、いのちの党を巡る関係者、論評者たちの立場は3つに分かれている。

 

〇 原点回帰派

 れいわ新選組の理念や、山本太郎の主張が原点であり、そこに回帰すべきだと主張している人たち。筆頭格は、奥田ふみよ。

 

〇 改革残留派

 党の執行部で、党の代表は山本ジョージ。過去に不自然な資金の流れがあり、それは総会決議に基づき、独立調査委員会を立ち上げて調査すべき、という立場。公設秘書給与疑惑については、あくまでも適法と主張。れいわローテーションには、否定的。

 

〇 改革離脱派

 既に、党を離脱しており、れいわ時代の旧執行部も、いのちの党の現執行部に対しても批判的。筆頭格は、多ケ谷亮で、「ヤメれ会」を発足し、被害者救済活動に乗り出している。

 

一昨日、原点回帰派の奥田ふみよらは、党の執行部に対し、公開質問状を提出した。内容は読んだが、そもそも奥田は党の役員だったのだから、役員会の中で審議すべきだったと思う。但し、それはロゴスの側からの感想かも知れない。原点回帰派のメンバーは、あくまでもエロスの側に立脚している。従って、党の中心がロゴスの側に移動してしまっては、自分たちの居場所がなくなるという切実な危機感を持っているに違いない。弁護士や公認会計士による独立調査委員会とは、ロゴスの象徴であり、それが許せないのではないか。

 

党の執行部である改革残留派に対して申し上げたいのは、兎にも角にも独立調査委員会を早急に設置し、その調査結果を公表することである。また、党の基本方針を早急にまとめ上げることではないか。話は、それからだ。但し、山本ジョージ代表にそれだけの器量があるのか、疑問がある。

 

私自身は、改革離脱派を支持している。本日発売の週刊誌にも、元山本太郎の秘書が被害を訴える記事が掲載されているようだが、それらの被害者を救済し、問題の再発防止を促進すべきだと思う。いくら身内であろうが、かつての恩人であろうが、ダメなものはダメと言うべきだろう。それがロゴスというものではないか。

 

 

集団的知性の暴走

 

ここの所、私は10年物米国債の金利を気にしているが、どうやらそれは5.2%を超えたらしい。

 

一般的なロジックの前提は、株式には高いリスクが伴う。発行会社の業績が下がれば株価は下がるし、その会社が倒産すれば、株式は無価値となる。一方、国債はその発行国が破綻さえしなければ、利息を得ることができるので安全資産だと言われる。従って、国債の利率が上がると、株式に投入されていた資金が国債へと移動するので、株価は下がる。

 

しかし、現在の問題は、国債の利率が上がったにも関わらず、株価が下がらない点にある。既に米国政府、米ドルの信用が低下しており、米国債が安全資産だとみなされていないのだ。5.2%の高金利を保障されても、投資家としては米国債に魅力を感じていないのである。

 

このまま米国債の金利が上昇を続けるとどうなるのか。JP モルガンは、臨界点(ブレイクポイント)を5.5%~6.0%と見ているらしい。この臨界点に達すると、企業の資金調達コストが増加し、不動産の買い替え需要が減少し、連鎖倒産が発生する。もちろん、米国政府の利払い費も高騰する。株価も暴落する。バブルがはじけるとか、スタグフレーションが起こるとか、言い方は色々あるが、簡単に言えば経済的な破綻を意味するのだ。

 

少し俯瞰してみると、2007年のリーマンショックや2020年のコロナ禍において、米国政府は国債を発行し過ぎたのである。コロナ禍の際にばらまいた金を、米国民はコロナの収束と共に一斉に使い始めたのだろう。当然、インフレが起こる。インフレを抑えようとして、FRBが金利を上げる。国債の金利も連動して上がる。そもそも、かつては米国債の主要な購入国であった中国、日本、サウジアラビアなどは、既に購入を控えている。中国はむしろ売却を進め、保有残高を減らしている。買い手が減少しているので、国債の金利は上げざるを得ないという構造的な問題もある訳だ。

 

そもそも現在の日米の株価が高水準を維持しているのは、一重にAIがけん引しているからだ。しかし、最近になって、倫理的な問題と法規制、データセンターの立地問題、莫大な電力消費量などの問題が浮上してきた。そもそもAIなるものが、投資に見合ったリターンを生み出すのか、という基本的な疑問も解消された訳ではない。

 

イラン戦争に端を発した軽油不足の問題もある。既に、米国の一部地域では軽油が枯渇している。Xに掲載された米国のガソリンスタンドの写真には、軽油の欄が「OUT」と掲載されていた。私は、SOLD OUTの略かなと思ったのだが、これはDRY OUTの略だそうだ。軽油がなければトラックは走れない。トラックが走れなければ、食料品を始めとする生活必需品の供給が止まる。米国の大衆は、そのような恐怖を感じ始めているに違いない。家賃が月に40万円で、ラーメンが1杯3千円の国で、一体、どうすれば生きて行けるのか。

 

最早、世界では World Minus Oneという言葉が生まれている。このマイナスワンというのは米国を指している。米国抜きで、国際的な物事が決まる現象を指して、そう言うらしい。世界中の国々が、米国離れを加速している訳だ。ただ、1国の例外を除いては。その例外こそが、日本である。

 

何故、こんなことになってしまったのか? それは人間集団の持つ知性が間違っている、若しくは狂っているからに他ならない。この集団的知性の本質を言い当てるのは難しいが、例えば、自然科学、アカデミズム、官僚制などが持つ経路依存性などが思い浮かぶ。危機に直面している現在、この集団的知性の暴走に異議を申し立てない哲学や思想があったとして、そんなものに何の価値があるだろう?

 

私の世界観からすれば、結論はこうだ。エロスに溺れてはいけない。文化に埋没してはいけない。ロゴスを過信してはいけない。そして、知性に騙されてはいけない。残る希望は、自己(主体)しかない。個々人がそのような自立した自己を確立する以外に、集団的な狂気が招く破滅を回避する方法はない。それは近道ではないが、他に方策はないのだ。

 

 

魚の群れと人間集団

 

先の原稿で、私は10年物米国債の金利が、5%に達する可能性について言及したが、昨日、それは一時5%に達した。私は、日経平均は暴落するだろうと思ったのだが、値動きはなかった。明らかに、私は投資に向いていない。

 

ところで皆様は、小魚の群れが、海中や巨大な水槽の中でダイナミックに動く映像を見たことはないだろうか? 他の魚や人間が近づくと、小魚の群れは大胆にその形を変容させる。やがて元の形に戻りつつ、優雅に遊泳を続ける。不思議な光景だ。まるでオーケストラの指揮者のような魚がいて、他の魚に指示を出しているように思える。

 

しかし、小魚の群れにおけるこの現象については、簡単な原理によって説明が可能らしい。すなわち、全ての小魚は群れの中心を目指して動いている、というのである。他の魚や人間などの外敵が近づくと、近接する小魚は逃げようとする。するとフォーメーションが変化し、群れの中心点が移動する。そして、全ての小魚は、再び移動した中心点を目指して動く。なるほど、そういう原理だったのか。私は感心したのだが、ある意味、この原理は残酷さを秘めている。群れの外側にいる小魚は、外敵に捕食されやすい。そして、群れの中央にいる魚は、仲間が食べられてしまうことによって、自らの生存確率を上げることができる訳だ。この原理は、人間集団にも当てはまるような気がしてならない。

 

1848年に米国のカリフォルニアで、ゴールドラッシュという現象が起きた。ある製材所で金が発見されるとその噂が駆け巡り、世界中から一攫千金を狙う者たちが集まったのである。そのおかげで街は発展し、インフラ整備が急速に進んだ。但し、金を掘り当てて大富豪になったのはごく一部の者に限られていた。確実に儲けたのは、ツルハシを売った商人と、作業用ズボンとしてジーンズを販売したリーバイスだった。

 

同じような話は、現在の世界にもある。AIブームである。これは21世紀のゴールドラッシュだと言えないか。AIが世界を変えるという仮説があって、それに巨大なIT企業が飛び付き、開発競争を始めた。彼らは莫大な資金を調達し、AIの開発に投入している。それに便乗した投資家たちは、それら企業の株式を購入し、世界の株価を高騰させている。この動きに対しては、開発スピードが速すぎるとか、AIが人類を滅ぼすのではないか、などというSFチックな批判まで登場している。しかし、それらの批判はAIの能力を高く評価するものであって、本質的な批判にはなっていないように思う。そうではなくて、本当にAIにそれだけの能力なり価値があるのか、という問いの方が、余程本質的ではないだろうか。私の知る限り、AIにそれだけの価値はないと明言したのは、(故)森永卓郎氏だけだが、私も彼の考え方に賛同している。AIがどれだけ進歩したところで、それは食料を生み出すことはできない。AIの開発競争に血道を上げるよりも、私たちの暮らしを支える原油の供給体制をいかに確保すべきか、そのことを考える方が大切ではないか。

 

集団の中心点を目指すという習性は、人間が戦争を繰り返す本質的な理由でもある。ヒトラーが登場すると、当時のドイツ人たちは、彼こそが集団の中心点だと考えたに違いない。すると人々は、ヒトラーに少しでも近づこうと、躍起になったはずだ。そして、思考を停止し、率先してユダヤ人の虐殺を行った。

 

戦時中の日本においても、事情は変わらない。国家神道なるものを強制し、集団の中心に天皇を置いた。そして国民は一丸となった訳だが、その実態は究極的な相互監視と同調圧力が支配する地獄のような社会だった。敗戦を迎え自決した軍人もいたが、大半の軍人や権力者たちは掌を返して、今度は米国に忠誠を誓い始めたのである。日本人という小魚の群れが、米国というより大きな集団に飲み込まれ、その中心点が移動した結果である。

 

また、このように考えると、科学技術と宗教が現代の戦争を支えていることに気づかされる。一見、科学と宗教は相反するように思われるが、戦争という地平に立った場合、両者は互いに助長する関係にある。科学技術は最新兵器を提供し、敵に対する攻撃力を高める。他方宗教は、人間の内面に入り込み、味方の結束力を強める。現在の主要な戦争当事国と、その宗教を記す。

 

米国・・・キリスト教福音派

イスラエル・・・ユダヤ教

イラン・・・イスラム教

ロシア・・・ロシア正教

 

しかし、集団の中心を目指さない人間、若しくは目指す能力の欠落している人間もいる。そのような人間は、概ね内向的で、社会に適合せず、孤独を愛するタイプの人間だ。その中から、歴史に名を残すような哲学者が生まれる。彼ら、彼女らの主張は、集団の中心を目指すなというもので、これが哲学のメインストリームを形作ってきたのではないか。

 

戦争の共犯者たち

 

ウクライナ戦争は、ウクライナとロシアの間で、和解が成立する可能性がない訳ではない。また、イラン戦争についても、イスラエルがレバノンから撤退し、ガザ地区から退却し、イランがホルムズ海峡を解放して、米国との間で終戦の合意がなされる可能性もないとは言い切れない。どちらの可能性についても、特に後者の可能性は低いと私は思うが、その可能性はゼロではない。人間に未来の出来事を予言する能力はない。しかし、米国が40兆ドルの累積債務を抱えているということは、現前たる事実である。これは先月、法律に基づいて、米国の法務省が公表している。この40兆ドルを円に換算すると、6000兆円になる。(1ドル=150円換算)

 

10年物の米国債が市場で取引される際の金利は、昨今上昇傾向にあり、現在、約4.8%である。関係者はそれが5%に到達するのか、注目しているらしい。単純に40兆ドルに4.8%を乗ずると1.9兆ドルになる。米国の税収は年間4.5兆ドルであり、税収の4割以上が、債務の利払いに消えていることになる。

 

一方、自国通貨建ての国債は、デフォルトに陥らないという説もある。簡単に言うと、ドル紙幣を印刷して借金の返済に充てれば良い、という考え方である。確かに、この考え方にも一理あるようには思う。しかし、この見方においては、人間の心理が考慮されていないのではないか。理論的にはそうであっても、多くの人々が米国債は不安だと感じれば、買い手がつかなくなる。買い手がいなければ、国債は発行できない。実際、投資家たちの心理が作用しているから、米国債の金利が上昇しているのだ。

 

最近のトランプの動向を見ていても、二言目には金の話だ。関税政策もそうだし、日本には80兆円もの米国に対する投資を約束させた。ウクライナ戦争で使った弾薬費は、欧州各国に請求するとも言い出した。その姿は、資金繰りに奔走する中小企業の社長と重なる。

 

このように考えると、何も知らずに生まれて来る米国の赤ん坊たちが、可哀そうになる。彼ら、彼女たちは、借金40兆ドルの国で生きて行かなければならないのだ。普通に考えれば、米国は今後、増税と支出削減に向かう。社会保障費は削られ、皆保険制度もなく、インフレが続く。セイフティーネットがないから、米国のホームレスは75万人にも膨れ上がった。しかし、そんな心配だけをしている訳にも行かない。日本は162兆円もの米国債を保有しているのだ。万が一、米国債がデフォルトに陥った場合、どうなるだろう? それはあまりにも恐ろしい事態なので、私にはここに書く勇気がない。この点は、読者諸兄の想像力におまかせしたい。

 

では、何故このように米国の赤字は膨らんでしまったのか。少し、歴史的に考察してみよう。

 

話の発端は、1944年に米国のブレトンウッズで開催された、英米などの会談にまで遡る。当時、既に英国のポンドは疲弊していた。そこで、その後の国債基軸通貨を米ドルにすることが決まった。但し、通貨にはその信用を担保するものが必要であり、米ドルは金と交換できるという条件が付された。私は、この時点での決定に、大きな誤りはなかったのだと思う。そして、話は1971年に移る。当時、ベトナム戦争で膨大な戦費を消費していた米国は、ドルを大量に発行しており、遂に保有する金の価値を上回ってしまったのだ。それに気づいた西ドイツやフランスは、米国に対し、米国債を金に交換するよう圧力を掛けた。困り果てた当時のニクソン大統領は、一方的に米国債の金への交換を中止すると発表したのである。これが後にニクソンショックと呼ばれる事件である。思えば、この時に米国は立ち止まって考えるべきだったのだ。今にして思えば、どうせ米国はベトナム戦争に敗北するのである。そんな負け戦さに金を投じることを止め、国債発行を制限すべきだったのである。

 

しかし実際の米国は、更なる攻勢を仕掛けた。米ドルでなければ石油取引はできない、というルールの構築である。ペトロダラー体制である。実際米国は、1974年にサウジアラビアと50年契約を締結し、米国は同国に安全保障を提供し、代わりにサウジアラビアは石油取引を米ドルで行うという契約だった。その50年契約は、2024年に満期を迎え終了した。これはペトロダラー体制の終焉を予感させる重要な出来事だったに違いない。

 

視点を変えて、第二次世界大戦の後に米国が関わった戦争の経緯について見てみよう。

 

まず、朝鮮戦争(1950-1953)があった。この戦争によって、日本は米軍の補給基地としての役割を果たし、好景気に恵まれた。次に、ベトナム戦争がある。米軍が積極的に関与した期間は、1965年から1973年である。日本は再び、ベトナム特需を享受した。この2つの戦争は、イデオロギーの違い(資本主義と共産主義)に基づく戦争だった。

 

その後、米国は多国籍軍と共に、一応は大義のある戦争を展開する。やがて米国は、大義のない戦争を中東で展開する時期に入る。この大義のない戦争の目的は、中東における米軍のプレゼンスを高めるために行われたもので、その真意は、ペトロダラー体制を死守すること、すなわち米ドルを死守するための通貨戦争だったのだろう。このような経緯を経て、米国は現在のイラン戦争に突入したのである。イスラエルの目的は、中東地域における同国の存続、防衛である。他方、米国側の目的は、通貨防衛にあったのだろう。言ってみれば、イラン戦争はイスラエルと米国のエゴイズムが引き起こしたのである。従って、他の西側諸国が参戦しなかったのも、当然の帰結と言えよう。

 

このような見方をすると、第二次世界大戦後の日米関係の本質も見えてくる。米国の覇権を支える根本は、米ドルの強さにある。そして、金本位制が廃止された後は、石油利権を牛耳ることによって、換言すれば戦争によって、通貨覇権を維持してきたのである。そんな米国が日本に期待するのは、資金の提供である。日本は様々な形で、米国に経済的な便宜を供与し、米国債を買い支えてきた。それが日本の役割なのだ。そして、日本の大企業は米国向け輸出によって、多額の利益を創出してきたのだ。

 

日本が資金を提供して、米国が戦争をする。それは言い過ぎかも知れないが、そういう一面のあることは否定できないだろう。すると米国が行う理不尽な戦争について、日本も共犯であると言えないだろうか?

 

この共犯関係を維持するために、米国は日本に対する政治的なグリップを緩めないのだ。日米合同委員会によって官僚組織を統制する。そして、官僚組織が政策を決定し、表向きの政治は自民党にやらせる。

 

ハンナ・アーレントという人がいて、彼女はユダヤ人として迫害を受けた後、米国に亡命した思想家である。彼女は「歴史的な大悪行は、異常な悪人ではなく、システムに盲従して思考を止めた普通の人間によって引き起こされる」と主張した。思うに、歴史的な大悪行だけでなく、人間が破綻に向かう道筋というのは、普通の人間によって引き起こされるのではないか。

 

 

米国の危機

 

19世紀は大英帝国の時代だった。それが第一次世界大戦を経て、1944年に構築されたブレトン・ウッズ体制と共に、世界を牛耳る覇権は、英国から米国へと移転した。そして、この時から米ドルが国際基軸通貨として認知され、流通し、米国の覇権を支えてきたのである。また、石油を購入する際の通貨は米ドルでなければならないというルール(ペトロダラー体制)が敷かれたため、各国は競って米ドルを求めた。これは米国と米国民にとっては打出の小槌のような仕組みだった。彼らは米ドルを刷りまくって、贅沢の限りを尽くすことができたのである。そして米国は、ひたすら武器を製造し、戦争を展開した。つまり、「打出の小槌体制」と「戦争ビジネス」が、米国を支えてきたのである。

 

しかし、本年8月19日、米国の財務省は国家累積債務が40兆ドルに達したと発表した。これは多少の増税や歳出削減によってカバーできる範囲を超えている。仮にFRBが金利を上げれば、債務に対する利払いが膨らむ。金利を下げれば、インフレが加速する。最早、大統領が誰になろうが、政権党がどこになろうが、解決策はないように思う。

 

加えて、ウクライナ戦争も出口が見えない。戦費の一部を負担している米国としては、和平を急ぎたいのだろうが、領土を死守したいウクライナと、戦争を長期化した方が有利になると見ているロシアの事情を考えると、この戦争は更に長期化する可能性が高い。仮にこの戦争でウクライナが明白な形で敗戦した場合、NATO諸国はロシアからの脅威に備えるため、軍備を拡張しなければならない。そのために米国債を売却するかも知れない。

 

イラン戦争についても、米軍の武器不足の問題があり、和平交渉は暗礁に乗り上げている。イランとしては、これを機にホルムズ海峡の支配権を握りたい訳だし、米国としてはそれを避けたいという思惑がある。また、イスラエルとしては国家の存亡を掛けて戦っている訳で、中途半端な形で和平に向かうという選択肢はない。つまり、イラン戦争も長期化が避けられないのである。この戦争で米国又はイスラエルが敗北するようなことになれば、ペトロダラー体制は崩壊するのではないか。

 

米国と米ドルの衰退について、中国は冷静に見ている。どこかのタイミングで、米国の命運が尽きたと判断すれば、その時、中国は台湾の併合に着手するだろう。

 

このように考えると、米国や西側諸国が現体制を維持するためには、米国が以下のリスクの全てを回避する必要があることになる。

 

1.40兆ドルの財務問題

2.米国内の政治秩序維持

3.ウクライナ戦争

4.イラン戦争

5.台湾問題

 

では、どの程度のタイムスパン考えるべきか、という問題が残る。今年の11月3日には、米国の中間選挙が実施される。この際にも相当な混乱が予想される。共和党は敗北し、トランプは選挙に不正があったと主張するに違いない。しかし、最大のポイントは2028年11月7日に予定されている米国の大統領選挙である。それまでウクライナやイスラエルは持ちこたえているだろうか? ホルムズ海峡の支配権はどうなっているだろう? いずれにせよ、大規模かつ長期間に渡って実施される大統領選挙は、政治的な空白を生む。そこを突いて、中国が台湾併合に着手すると予想する専門家もいる。

 

言うまでもないが、米国の危機とは、もちろん日本の危機を意味する。

 

再考、ミシェル・フーコー

 

ミシェル・フーコー(1926-1984)は、デリダ、ドゥルーズと並んでポスト構造主義を代表する哲学者の1人である。フーコーは他の2人に比べれば分かり易いと言われるが、そうは言っても難解であることに変わりはない。

 

初期(「狂気の歴史」、「言葉と物」等)から中期(「監獄の誕生」等)にかけてのフーコーの著作においては、概ね、人間の知性と権力がいかに結びつき、人間を拘束しているのか、ということが書かれている。この知性と権力が結びついた、ある時代のある社会における知的枠組みをフーコーはエピステーメーと呼び、「言葉と物」の中で批判した。「監獄の誕生」におけるフーコーの分析も、この路線に従っている。私は「監獄の誕生」を読んだ時、人間の社会とは監獄のようなもので、私たちは囚人なのだ、という思いに駆られた。それまで自由人だと思っていた自分が、一気に囚人の位置にまで落とされた訳で、これは強力な絶望を招いた。

 

しかし、ここで素朴な問いが生ずる。それでは一体、「私たちはどうすれば良いのか?」という問いである。私たちは精神病院にも監獄にも監禁されたくはない。どうすればそのような環境、エピステーメーから脱出できるのか、あるいはエピステーメーを破壊することができるのか。学者たちはそれなりの回答を用意しているようだが、それはフーコー自身が語った言葉ではない。フーコーは「意見は言わない」と述べ、この本質的な問いに対する回答をも拒絶しているように見える。

 

そこでイラン革命が起こる。(1978年~1979年)親米政権を倒した勢力が、イラン・イスラム共和国を設立し、ホメイニ氏が最高指導者となった。フーコーはこの革命に感動し、当時のイランを2度、訪れた。そして、「政治的霊性」という言葉を用い、革命を礼賛したのである。しかし、革命後のイランにおいては、イスラム教の厳格な戒律が強制され、女性にはヒジャブ(スカーフ)の着用が義務化され、甚だしい女性差別が展開されたのである。その結果、フーコーに対する批判が噴出した。とりわけフェミニズム推進勢力からの攻撃が激しかった。

 

2026年の日本に生きる私の眼からすれば、宗教勢力が国家を形成するなどということは、珍しいことではなく、中世やそれ以前の世界においては、むしろそれが普通だったと思う。私は米国を嫌っているが、だからと言って宗教勢力による独裁政治が良いとは思わない。宗教がいかに人々を苦しめてきたか。日本では統一教会の2世問題などがあるし、旧約聖書に記された約束の地などという幻想をたてに、現在もなおイスラエルがガザ地区などでジェノサイドを行っている。許されることではない。フーコーに対する批判は当然である。しかし、この問題について、フーコーは沈黙した。但し、フーコーも悩んだのだろうとは思う。

 

その後、フーコーは路線を変更し、遺作となる「性の歴史」の執筆に取り掛かる。これは人間がいかに主体、主体性を獲得するのか、その技術に関する研究である。従って、私などはあの問い、「私たちはどうすれば良いのか?」という素朴な疑問に対する回答が、この本の中で語られているに違いない、と期待したのだった。

 

「性の歴史」において語られる規範と主体の歴史は、概ね、次のように整理できる。

 

まず、古代ギリシャ・ローマの時代のキーワードは「自己への配慮」であって、自ら自分の欲望や恐怖心を制御する手法が用いられた。例えば、貧乏になることが怖かったら、試しに一定期間貧乏生活を送ってみる。すると、貧乏生活も左程、耐え難いものではないことが分かる。また、性に対する禁欲によって、自分が自分の主人になる、自己統治が可能となると考えられていたのである。「自己への配慮」とは、内発的な規範力を利用するという発想だ。

 

次に、初期のキリスト教が支配する時代になる。キリスト教はローマ帝国の国教に認定された後、急速に勢力を拡大した。こちらも禁欲主義である。但し、フーコーの研究によれば、この禁欲的な傾向はキリスト教に始まった訳ではなく、それ以前の哲学者が主張していたことであり、初期のキリスト者はそれらを踏襲したに過ぎない、ということになる。キリスト教が導入した技術としては、告白(懺悔)ということがあって、これは戒律を逸脱した者が、自らそれを述べることによって、許しを請うという制度である。私からすれば許しがたい人権の侵害だと思う訳だが、フーコーはそれも1つの主体形成の技術だと評価していたらしい。(そうしてみると、例のイラン革命に対する発言について、フーコーは反省していなかったものと思われる。)この時代は宗教上の教義が支配した時代である。「性の歴史」に記載されている時代は、ここまでである。

 

前述の「自己への配慮」の時代、キリスト教支配の時代においては、禁欲をしなければ真理に近づけないという前提があった。その前提を覆したのがデカルトである。デカルトは数学的な明証性があれば、真理に近づけると説いた。同じ時代にトマス・ホッブズも活躍し、時代は法治主義、立憲主義へと変わっていく。

 

さて、それではフーコーは「性の歴史」において、「私たちはどうすれば良いのか?」という問いに答えたのだろうか? 答えはノーである。

 

結局、「性の歴史」において描かれる主体とは、性(エロス)を抑圧することによって成立するロゴスの歴史に過ぎない。「自己への配慮」の時代においても、キリスト教の時代においても、これは変わらない。そしてフーコーは、デカルト以降の近代の知性については、既に「狂気の歴史」や「監獄の誕生」で批判済みなのである。結局、フーコーは「私たちはどうすれば良いのか?」という問いに対する答えを用意できなかったのである。

 

そもそも、ポストモダンの思想は、ロゴス中心主義と呼ばれる近代哲学の歴史を否定するという触れ込みだったが、フーコーがやった仕事というのは、ロゴス中心主義そのもので、その外に出ることはできなかったのだ。

 

ここで例の図を思い出して欲しい。例の図というのも分かり難いので、この際、「4元説のマトリックス」と命名しよう。

フーコーはロゴスの側に立って、知性(エピステーメー)を批判した。その後、主体について検討したが、フーコーの考える主体は、あくまでも知性の枠組みの中で育まれるロゴスに過ぎなかったのだ。つまり、フーコーの視界にはエロスと文化が入っていなかったというのが、私の見方である。フーコーと私とでは、主体に対する基本認識が、まるで異なる訳だ。

 

では、主体とはどう育まれていくのか。この主体という言葉は、人格に置き換えてもいい。ユングが指摘したように、人間は生まれながらにして、本能的なもの、無意識の領域を持っている。それが集合的無意識であり、その構成要素は元型である。そのような基本的な要素がベースにあり、それが経験との相関関係の中で、育成されるのだ。ここに言う経験とは、直接的な経験に加え、芸術などの文化に触れることによって獲得される間接的な経験、すなわち文化的経験をも含むべきである。

 

主体 = 無意識 × 直接的な経験 × 文化的経験

 

従って、私ならば「私たちはどうすれば良いのか?」という問いに対して、次のように答えることができる。様々な経験を積め。但し、1人の人間が短い人生の期間において経験できることは、極めて限定的だ。だからこそ、文化的経験を重ねる必要がある。優れた小説を読め、名作映画を見ろ、と。そうすることよって、私たちは精神病院からも監獄からも脱出することができるのだ。

 

前回の原稿で取り上げた三島由紀夫は、私の分析からすれば、エロスと文化しか見ていなかったことになる。今回取り上げたフーコーは正反対で、ロゴスと知性しか見ていなかったのである。そして、その2人とも思想を完成させることはできなかった。ロゴスもエロスも、知性も文化も、その全体を認識しようと試みない限り、私たちが美に到達することはないのだ。