文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その32) 新型コロナを認識せよ

新型コロナで大変な事態となっている訳ですが、このような危機的な状況下においては、平時には見えにくい本質が見えてくることがあります。

 

私は、このブログで述べてきた次の2点について、確信を深めました。1つには、自分だけ幸福になることはできない、ということです。新型コロナが蔓延する日本で、一体、誰が幸せになれるでしょうか。政治家も、株で設けた成金の人も、みんなリスクを負っている。2つ目は、私たちが頼りにできるのは、やはり国家しかないということです。現在、世界中の国々が、出入国を制限しています。あたかも鎖国のようです。そして、幸か不幸か、私たちは日本という国家の領土内で暮らしています。そして、この領土内が今後どうなっていくのか、それは政府の手腕に掛かっている。他国の政府に頼る訳にはいきません。私たちが頼りにできるのは、日本政府だけなのです。

 

さて、首都圏で外出自粛要請が出されてからは、流石に危機感が高まってきたようですが、その直前まで、若者は都心に出かけ、多くの人々は上野あたりで花見を楽しんでいました。また、開店前のパチンコ屋の前には行列ができていたとか。どうしたことだろう、日本人には危機感が足りないと感じる訳ですが、反面、トイレットペーパーや食料品の買い占めが続いている。

 

このような一見矛盾した行動というのも、実は、認識の問題から生じているのではないか。コロナウイルスというのは、目に見えない。認識することが困難だ。一方、トイレットペーパーなら、毎日、使っている。その差ではないかと思います。但し、トイレットペーパーの品不足は、既に、解消に向かっています。また、食料品の在庫や供給能力にも問題はなさそうです。私たちが、本当に認識すべきは、コロナウイルスの方だと思います。

 

この目に見えないコロナウイルスというのは、あたかも概念に似ている。例えば、自由だとか、死だとか。そういう目には見えにくい概念というものと日頃から向き合っていないと、コロナウイルスを認識することができない。

 

すなわち、認識能力は生存確率に比例する。

 

ところで、ミシェル・フーコージャック・デリダの論争ですが、どうやら「理性は狂気を理解できるか」という点がポイントだったようです。勉強中なので、現在の私にはうまく説明することができません。とても難しい論議なのですが、結論だけ言うと、デリダはできないと主張し、フーコーはできると考えていたようです。

 

理性は狂気を理解できるか。大変、興味深いテーマですが、この問題、どこか現在の私たちの置かれている状況に似てはいないでしょうか。

 

コロナ対策で、自民党周辺から上がって来た案に「お肉券」とか「お魚券」というのがあるらしい。これはもう、狂気としか言えないのではないか! この狂気をいくら真面目に考えたって、そんなもの理解できるはずがない。

 

例えば、安倍総理は「完全な形で予定通り、東京オリンピックを開催する」と言い、舌の根の乾かぬ内に「1年延期する」と言う。そんなにすぐできるはずはない、と思っていたら、今度は「コロナとの闘いは長期戦になる」とのこと。地球には北半球と南半球がある訳で、これから冬季を迎えるアフリカや南米では、むしろこれから感染が拡大するのではないか。一体、新型コロナの問題はいつ収束すると考えているのだろう。そう思っていたら、安倍総理は「それは誰にも分からない」と言う。では、一体どのような根拠で東京オリンピックの開催を1年延期することにしたのか。これはもう、理解不能と言う他はないのです。

 

ちなみにIPS細胞で有名な山中教授は「1年は続く可能性のある長いマラソン」であると指摘している。

 

山中教授のHP
https://www.covid19-yamanaka.com

 

「みんなで生き延びよ!」。憲法はそう言っている。だから今、政府がやるべきことは、全国民が生き延びることができるように対策を打つことです。これが、日本国政府が達成すべき目標なのです。このことに資本主義も共産主義も関係ありません。では、目標達成の阻害要因は何か。例えば、感染を防止するためには、stay at homeだと言われている。では、全国民に住居を保証するべきだ。お金の問題だってある。既に困窮している人たちは、少なくない。

 

そんなことを考えておりましたら、私の考えにぴったりな政策が、薔薇マークキャンペーンから、公表されていました。経済学者の松尾匡氏が主宰している団体です。

 

薔薇マークキャンペーン
https://rosemark.jp/2020/03/22/rose_shock-1/

 

余談ですが、アメリカにおいて、中国を相手取る集団訴訟が多発しているようです。この仕組みをちょっと解説します。これはclass action(集団訴訟)というものですが、まず、アメリカの弁護士が、新聞やネットなどに広告を出す訳です。さあ、コロナウイルスで被害を被った皆様、中国を相手に裁判を起こしましょう。コロナウイルスの被害が拡大したのは、中国政府の対応がまずかったからです。あなたの代理人は、私がやってあげます。というような広告です。手数料は低額で(千円程度?)、簡単に原告団に名を連ねることができます。よって、原告の数は膨大になる訳です。裁判は、アメリカの州の裁判所に提起され、大半は陪審制によって裁かれることになります。陪審制ですから、一般の国民が判断を下す訳です。一般国民ですから、当然、感情に左右されます。結論から言えば、中国に勝ち目はありません。そして、賠償額は天文学的な数字になるものと予想されます。仮に、中国が賠償金を払った場合、その4割~5割は、原告側の弁護士の報酬に当てられます。従って、これで一発当てれば、その弁護士は一生遊んで暮らせる訳です。

 

他方、アメリカにはディフェンス側の弁護士も多く存在します。当然、彼らは既に中国政府に売り込みを行っているでしょう。あなた方の代理人は、私どもにお任せください、という訳です。彼らの報酬も高額で、1時間当たり5万円程度は取ると思います。裁判の結果に関わらず、アメリカの弁護士が儲かる仕組みになっている訳です。

 

嫌な国ですね、アメリカというのは。

 

仮に中国が裁判の評決にも関わらず、賠償金を支払わなかった場合、アメリカ国内に存在する中国の資産が差し押さえられることになります。

 

しかし、中国だってそう易々とお金を払うとは考え難い。政治問題化する可能性もあるのではないでしょうか。新型コロナの問題で、世界の政治、経済が激変するかも知れません。

 

文化認識論(その31) 何が正しいのか

近代思想の象徴としての日本国憲法を考えますと、実は、これはとても自制的なものだと言えます。権力側に対しては、3つの規制を掛けている。平和主義、基本的人権の尊重、国民主権。他方、一般国民に対しては、ほぼ何も言っていない。どのような思想を持とうと、どのような価値観を持とうと、それは自由だと言っている訳です。すなわち、憲法が想定している規範には、空白の領域がある。一般国民が守るべき規範は法律に書いてある、と言う人がいるかも知れません。しかし、法律をもってしても、一般国民の思想や価値観を拘束することはできない訳で、やはり憲法を頂点とする法治主義の体系には、その対象に空白の領域がある。

 

別の見方をしますと、憲法は、公的領域と私的領域に分けて、公的領域(権力者側)を拘束することによって、私的領域(一般国民)の自由を保障しようとした訳です。そこが素晴らしいと憲法学者は言うのでしょうが、では、私的領域に対して言うべきことはないのか、と私は思う訳です。私的領域に言及すること、それは確かに憲法が果たすべき役割ではないかも知れません。しかし、現在の私たちの文化には、決定的にそれが欠けている。かつては宗教がその役割を果たしていたのでしょうが、現在その有効性は、ほぼ消失している。結局、何が正しくて、何が間違っているのか、そのことに対する社会的な共通認識というものが、欠落している。だから、こんなに息苦しい世の中になってしまったのではないか。

 

ミシェル・フーコーエピステーメーという概念を提唱した。歴史的な時間軸で考えると、私たちが当然のこととして認識している社会的な慣習や、常識や、思想さえもが依存している地下のグリッド線のようなものがあって、それは絶えず変化し続けている。従って、そのエピステーメーに依存している限り、私たちは、普遍的な真理に辿り着くことができない。これがフーコーの考え方ですが、そこには深い断念がある。

 

実は、憲法における空白の領域と、フーコーの断念は、同じルーツを持っているのではないか。そして、その断念にこそ、近代思想の本質がある。

 

理性ばかりに注目して、狂気から目をそむけてきた近代。そう言って、「狂気の歴史」を執筆したフーコーは、近代思想に対するアンチテーゼとして登場した訳ですが、本当にそうでしょうか。そもそも近代思想というのは、ホッブズまで遡れば、宗教戦争に対する反省から生まれたものです。ドイツの人口を3分の1まで減少させてしまった宗教戦争。これは、狂気そのものの歴史だと思います。

 

ちなみに、フーコーの「狂気の歴史」については、ジャック・デリダが噛みついて、大変な論争を繰り広げたそうです。結局、ポストモダンと呼ばれるフーコーも、近代思想を超えていないのかも知れませんが、この点は、別途検討したいと思います。

 

さて、無謀であることは承知で、私的領域における価値観について、少し私の考え方をまとめてみたいと思います。

 

1. 全ての生物は、生きようとしているし、人間も例外ではない。それは人間の本質であって、誰も生きようとする人間の試みを否定することはできない。
2. 人間は、生存戦略としての文化を醸成してきた。文化とは、人間が生きようとする試みの体系である。
3. 但し、環境は刻々と変化しているのであって、私たちが将来も生き続けるためには、私たちの文化を前進させる必要がある。
4. よって、文化を前進させようと試みること。それが私たちにとっての正義である。反対に、文化を後退させ、または停滞させようとする試みは悪である。

 

結局、憲法が発するメッセージも、一言で言えば「みんなで生き延びようぜ!」ということだと思います。

 

平和主義・・・戦争なんかやったら、人々が死んでしまうからダメだよ!
基本的人権の尊重・・・弱者や貧者も、一緒に生き延びようぜ!
国民主権・・・みんなで生き延びるために、国民主権の国家を設立しよう!

 

もちろん、愚かな私たちは過ちを侵すに違いありません。何が正しくて、何が誤りなのか、そんなことは分からないのです。この点は、フーコーの意見に賛成です。従って、それが正しいと思って行われた全ての試みは、許容されるべきだと思います。失敗なんて、いくらしたっていい。チャレンジせよ! ・・・と私は思います。

 

ふと思うのですが、仮にこの世に神が存在するとしたら、それは人間である私たちのことではないか。地球上の食物連鎖の頂点に君臨し、あらゆる生物進化の最先端に位置する。だから、私たちには、それだけの責任がある。自然に対して、地球上の生物に対して、そして、私たち自身の未来に対して。

 

一方、公的領域についてですが、どうやら愚かな大衆が主役となる民主主義には欠陥がある。それはとても深刻な欠陥だと思う訳ですが、今のところ、それに代わる制度は発見されていない。そうであれば、民主主義を前進させる以外に手はないように思います。また、公的領域をつかさどる政府には、論理的な意思決定と徹底した説明責任を求めたいと思います。そうでなければ、国家としての危機管理ができない。私たちは、生き延びることができない。

 

東京で、新型コロナの感染者が増えていますね。とても心配です。

文化認識論(その30) 文化の構成要素

ミシェル・フーコーが提唱したエピステーメーという概念は、何かに似ていると思っていたのですが、これは私が述べている「文化」に似ているのではないか。

 

「私は私と私の環境である。この環境を救わないなら私をも救えない。」

 

これは、スペインの哲学者であるオルテガの言葉ですが、この「環境」という言葉の意味も、「文化」という概念に近いのではないか。私なら、こう言い直したい。

 

「私は、私を取り巻く文化の中で生きている。より良い文化を築かない限り、私は、より幸福になることができない。」

 

エピステーメー、環境、文化。これらの言葉の意味は、必ずしも同一ではないと思います。それぞれ、発言者の思いがそこには込められている。しかし、少なくとも近似しているとは言えるように思います。それは私たちにとって、あまりにも当たり前の存在であり、そうであるが故に、私たちにはそれを認識することが困難だ。しかし、私たちはその中で生きているのであって、その外に出ることはできない。

 

いずれにせよ文化論は「今だけ、金だけ、自分だけ」という昨今の風潮に、真っ向から対立するものだと言えます。自分だけ幸せになるなんてことは、不可能なのです。例えば、古池に何匹かの鯉がいたとしましょう。そして、その中の一匹だけが、餌を多く食べて肥太ったとします。それでも池の水が腐れば、全ての鯉は死ぬのです。

 

さて、突然ですが、あなたはジャズがお好きでしょうか? もしあなたがこれからジャズを聞いてみたいと思っているのであれば、まずはピアノ・トリオをお勧めします。これがジャズの基本だと思うのです。ピアノがあって、そこにベースとドラムが加わる。ドラムが刻むリズムに乗せて、頭の中でコード(和音)を追ってみる。基音と言ってもいい。例えば、ドミソという和音があると、ドの音が基音となって聞こえます。これはベースラインを追っていると、自然と聞こえてくるものです。そして、トリオの場合は音の数が少ないので、美しいピアノの音色を楽しむことができます。スタンダード・ジャズであれば、オスカー・ピーターソン・トリオが有名ですが、私は、ケニー・ドリュー・トリオも好きです。

 

最初はピアノが奏でるメロディーばかりが聞こえて来ますが、少しずつベースの音に注意を払うようにしましょう。すると、音楽の全体が聞こえてくるようになります。

 

ピアノ・トリオの魅力が分かったら、他の楽器にも興味を持ってみましょう。例えば、菅楽器。最もポピュラーなのは、ピアノ・トリオにサックスを加えたものです。この4人編成のバンドは、カルテットと呼ばれます。スタンダード・ジャズであれば、私はソニー・スティットが好きです。ソニー・スティットはアルト・サックスのプレイヤーです。アルト・サックスは、人間の声に最も近い楽器だとも言われています。サックスには、テナーもあります。こちらになると、やや低音域が広く、夜のムードに似合います。テナー・サックスだと、私はジョー・ヘンダーソンが好きですね。特に、彼の演じるボサノバが好きです。

 

更に楽器の数を増やす場合、一般的にはトランペットが加わることになります。5人編成のこのバンドは、クインテットと呼ばれます。トランペットの美しい音色を楽しみたい場合、お勧めなのはマイルス・デイビスの「マイ・ファニー・バレンタイン」という曲です。そう言えば、この曲にはちょっと思い出があるのです。

 

私が50才の手前の頃だったと思います。サラリーマンをしていたのですが、かなり深刻な仕事があって、私は九州へ出張したのでした。小倉だったでしょうか。そこで、ふとジャズバーに立ち寄ったのでした。マスターが、何かリクエストはありますか、と尋ねてくれたので、私はマイルス・デイビスのマイ・ファニー・バレンタインをリクエストしたのです。当時は、まだ聞いたことがなかったのです。何故、私がこの曲をリクエストしたのか、それは未だに謎なのです。

 

そして、マイルスの美しいペットの音色が聞こえてくる。これは素晴らしい。仕事で疲れ果てていたこともあって、また、少しお酒に酔っていたことも影響したのかも知れませんが、私は完全にノックアウトされてしまったのでした。これは、この店のスピーカーが余程、高級であるに違いない。そうでなければ、こんな音が出るはずがない。そのお店のスピーカーは、JBLという高級なものだったのです。帰りがけ、私はマスターに「流石、JBLはいい音するねえ」などと軽口を叩いたものです。

 

その後、マイルスのCDを買って自宅の安物のステレオで、同じ曲を聞いた所、なんとあの素晴らしい音がそのまま聞こえてくるではありませんか! そして、その素晴らしい音がスピーカーのせいではなく、マイルスが吹くペットそのものの音だったことに気付いたのでした。あまりに感動してしまった私は「ペットを始めよう。そして、私もあの曲を吹いてみよう!」と思ったのでした。実際、トランペットは購入したのですが、三日坊主で終わってしまいました。

 

また、脱線してしまったようですね。

 

何故、このような話をしたかと言えば、文化にはそれを構成する要素がある、ということを言いたかったのです。ジャズの場合は、楽器による区分がある。そして、それを奏でるミュージシャンという区分もある。その組み合わせによって、ジャズという音楽は成り立ってきたのではないか。

 

要素を組み合わせることによって、音楽そのものが成り立っている。そして、その組み合わせを変更することによって、時として、思わぬ成果を得ることができる。もちろん、うまくいくとは限らない。それは、要素と要素を融合してみなければ、分からない訳です。

 

だから、ジャズやロックのミュージシャンは、夜な夜なジャム・セッションを繰り広げる。新しい何かを探して、いろんな楽器と、いろんなミュージシャンと共に演奏してみる。これは、私たちの食文化にも言えることです。食材があって、調理方法がある。その組み合わせによって、新しい何かが発見される。

 

もう少し大きな話で言えば、ヨーロッパの知識人だったダーウィンは、ビーグル号に乗って長い船旅をした。ダーウィンという要素と、南海の島という要素がそこで出会う。そこから、進化論が生まれたのです。ゴーギャンの場合も、ヨーロッパの画家がヒバ・オア島に移住した。そこで現地の風俗と出会い、あのような傑作が生まれた。戦争という悲惨な体験があって、そこに文学が融合し、戦後文学が傑作を生んだ。

 

文化にはそれを構成する要素というものがあって、異なる要素が融合した時に文化は前進する。

 

上に記した文化形態を「融合型」とするならば、反対に、「排除型」というものも存在します。本来的には異なる要素が存在するにも関わらず、その違いを排除する文化が存在する。その最たるものが、スポーツだと思います。

 

それぞれの民族なり国民には、独自の文化がある。しかし、それらの違いを許容せず、同じルールの中で戦わせる。そこに、文化的な発展は望めません。野球とか、サッカーとか、ラグビーとか。これらスポーツのルールは固定されていて、そのルールからはみ出すことはできないのです。いくらサッカーを続けたとしても、ゴールキーパー以外のプレイヤーがボールに手で触れていいというルールには、なりようがないのです。多様性を排除する。そういう意味で、「排除型」と私は呼びたい。いくら野球を続けたとしても、それは野球場の中での出来事であり、新しい何かを発見することはできません。

 

スポーツというのは、敗戦後に進駐軍が進めた3S政策の1つであって、もうこんなものに時間を費やすのは止めた方がいい。運動選手が、野球場やサッカー場の中を走り回っている間に、本を読んでいる人だっている。時間の使い方としては、そちらの方が余程いい。新型コロナの問題を別にしても、オリンピックなど止めた方がいい。あんなものは、グローバリズムを促進するための道具に過ぎない。

 

もう一つは、現在のアカデミズムです。人々を専門分野や研究室に閉じ込める。それは特定の目的を持って投資するには、効率の良い方法かも知れません。しかし、そんなことで自由な発想が生まれるとは、とても思えないのです。実際、アカデミズムは現実社会の諸課題に対応できていない。

 

この「融合型」と「排除型」を時代区分に当てはめてみると、次のようになる。

 

古代・・・芸術・・・シャーマニズム・・・融合型
中世・・・宗教・・・君主制・・・・・・・排除型
近代・・・思想・・・民主制・・・・・・・融合型
現代・・・記号・・・グローバリズム・・・排除型

 

古代の人々や無文字社会の人々は、自分たちと例えば動物を融合させていた。そこから、芸術や信仰が生まれた。中世になると、王様や殿様が権力をふるい、独裁体制を築いた。ここでは、人々の移動や思想的な自由は排除された。宗教も同じだと思います。そこで、近代思想が生まれる。思想家たちは、民主主義を発想した。これは、人々に移動の自由、思想の自由を保障するものだった訳です。理性に注目し過ぎたきらいはあるものの、しかし、民主主義という社会制度は、あくまでも「融合型」だった。そして、現代はグローバリズム。これは移動の自由は認めるので、一見、「融合型」に見えますが、実際はそうではありません。グローバリズムとは、野球やサッカーと同じで、同じルールに従え、ということです。完全に「排除型」だと言えます。

 

このまま行くと、AIの時代になる。すると、そこで勝利する企業というのは、グローバルスタンダードとなり得るプログラムを作成した企業だけ、ということになります。例えば、GAFAと呼ばれる4つ企業が勝ち組となり、その他は全て排除されていく危険性がある。現在、私たちはそういう危険を目前に控えている訳で、人類は早くそのことを認識すべきだ、と「文化的進化論」の著者で、アメリカの政治学者であるイングルハートは述べている。

 

このように考えますと、以前の原稿で、「私は古代と近代を肯定し、中世と現代には否定的だ」と述べましたが、その理由が分かったように思います。私は、「融合型」の文化を肯定し、「排除型」の文化を否定しているのです。

 

ちなみに、反近代の旗手として思想界に打って出たミシェル・フーコーですが、後年、カントを再評価したらしい。近代思想に対する評価は、もう少し勉強してみたいと思っています。

 

文化認識論(その29) エピステーメーと権力

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、「エピステーメー」ということを提唱しました。

 

エピステーメー」は、思想がそれ自身を組織化することを可能にさせる「地下の」グリッドまたはネットワークである。それぞれの歴史的時代には、固有のエピステーメーがある。それは、経験、知識、および真理の総体を限定し、一つの時代における個々の科学を支配する。(文献1)

 

ちょっと難解なので、私なりにかみ砕いてみましょう。何かを考えようとする時、私たちは無意識のうちに多くの事柄を前提としています。それは、科学的な知識であったり、それぞれの時代に固有の価値観だったりする訳です。但し、これはなかなか見えにくい。フーコーは、この見えにくさを「地下の」という言葉に込めているのだと思います。そして、このエピステーメーは、様々な事柄が互いに影響しあって成立している。このことは「ネットワーク」という言葉によって表現されている。

 

私たちは、見えにくく、曖昧な、エピステーメーに基づいて思考している。更に、このエピステーメーは、徐々に変化している。その変化を私たちは日々の生活の中で認識することは困難ですが、歴史的な時間軸で見た場合、それが変化していることは明らかです。かつて人々は、神が人間を作ったと考え、天動説を当然のこととして信じていた。してみると、現在、我々が当然なこととして認識している事柄だって、100年後、千年後の人たちからしてみれば、とてもおかしな事柄というのは、あるかも知れません。いや、きっとあるに違いないのです。

 

人文科学系の問題に目を移してみますと、更に貧しい現状に直面します。政治学社会学、経済学など、大層な名前を付けた学問分野がいくつも存在しますが、現実の問題はほとんど解決されていない。例えば現在も、世界的な規模で貧富の格差という社会的な問題を抱えている訳ですが、一向に解決される兆しが見えてきません。日本における年間の自殺者数だって、多分、10万人は超えているに違いない。(政府の統計は、遺書が発見されたケースのみを自殺としてカウントしていますが、変死者の半数は自殺としてカウントすべきだという意見があります。)こんな社会のあり方で、いいはずがありません。

 

してみると、エピステーメーに基づいて一生懸命考えたとしても、人間は真理に到達することができない。そういうニヒリスティックな発想が出てくる。

 

フーコーは、次のように述べています。(文献1)

 

・わたしは、普遍的な真理には懐疑的だ。
・わたしたちの仕事は力を征服することであって、正義をもたらすことではない。正義はただ単に、権力を再構成するだけだ。
・人間は未だ成熟に達しておらず、今後もおそらく達することはないだろう。

 

上記の主張には、一応、説得力があります。考えたって、どうせ分かることはない。考えるだけ無駄だ。フーコーは、そういうポストモダンと呼ばれる世代のメンタリティを代表しているのかも知れません。

 

私は、ポストモダンのメンタリティを支持していませんが、フーコーには、どこか人間的な魅力がある。もう少し、フーコーの足跡を追ってみたいと思っています。

 

さて、エピステーメーという概念を拝借して、ここから先は、私の考えを述べてみたいと思います。

 

何も、歴史的な時間軸で見なくたって、私たちの価値観やメンタリティは変化している。例えば、「フーテンの寅さん」を見ると、男たちは平気で女性や子供たちの近くで煙草を吸っている。一瞬ドキッとしてしまいますが、昭和の時代はそれが普通だった。私たちが普通に使っているパソコンやスマホだって、これは時代の常識、知識、価値観に多大な影響を与えているに違いありません。エピステーメーは、変化し続けていて、誰もそれを止めることはできない訳です。

 

このように考えますと、私としてはどうしても憲法のことを思い出してしまうのです。公布されたのが、1946年。それから74年間が経過している。すなわち、憲法と現在の我々が依存しているエピステーメーとの間には、それだけのタイムラグがある。

 

また、2011年に発生した東日本大震災とそれに続く福島第一原発メルトダウン。こういう大災害や危機的な事故も、私たちの価値観に大きな影響を与えているに違いない。多くの人たちが、こんな危険なものはもう嫌だと思ったはずです。しかし、その後、日本の政府は原発の再稼働を進めて来た。その背後には、利権がある。既得権がある訳です。

 

結局、人間1人の力には限界があるので、人間は集まって組織を作る。組織は、意思決定を行い、統一的な行動を取る必要があることから、必然的に権力構造を持つ。そして、権力は既得権そのものなので、それを持った人間はそう簡単に手放そうとはしない。そこで、組織は必然的に、現状を維持しようとする。何も変えたくない、と考える。ところが、エピステーメーは変化を続けるので、権力との間にギャップが生じる。これは、いつの時代でも、どこの国でも、同じことが言えるのではないでしょうか。

 

現在の新型コロナの話も、同じようなことが言えると思います。ウイルスは世界を駆け巡り、未だに特効薬は発見されていない。既にパンデミックは起こっているのか、それともこれからピークを迎えるのか。一体、私たちが暮らすこの日本に、感染者はどれだけいるのか。さっぱり分からない訳で、これはもう東京オリンピックどころではない。多くの人たちが、そう思っている。そう感じているはずです。しかし、政府はオリンピックを強行しようとしている。何故か。それは、利権であり、既得権が絡むからだと思います。

 

常にエピステーメーが先行し、権力はその変化に抗おうとする。そういう関係にあるのではないでしょうか。

 

(参考文献)
文献1: FOR BIGINNERS フーコー/C ホロックス/現代書館/1998

文化認識論(その28) 発想する力

過去の学者たちは、古代人や無文字社会の人々と現代人とでは、思考方法が異なると考えてきました。浅学の私もそう思ってきたのですが、本当にそうでしょうか。例えば、フランスの哲学者であるレヴィ=ブリュル(1857-1939)は、未開の人々の心性について「融即律」であると主張しました。

 

「“融即”とは、原初の人間が持っていた心性のことである。(中略)レヴィ=ブリュルは、人間が動植物と同一視されるのは融即律に基づくものであり、それは前論理的な未開心性であると説いた。」
(参考文献:改訂新版 文化人類学放送大学教育振興会/2014)

 

また、民俗学者折口信夫は、未開の心性を「類化性能」と呼び、これは物事の類似点に着目するものであり、現代人の心性は「別化性能」で、これは物事の差異に着目するものだと主張しました。

 

未開・・・類化性能・・・類似点に着目
現代・・・別化性能・・・差異に着目

 

なるほど、そんなものかと思って、私もこの考え方に従ってきた訳ですが、どうもおかしい。例えば、人間が100人いたとして、これをいくつかのグループに分けようとする。それは性別によるかも知れないし、身長によるかも知れない。そして例えば、この30人は同じグループにしよう。この30人はとても似ていると考えたとする。しかし、それは同時に、その30人が他の70人とは異なっていると認識しているからに他なりません。結局、類似点に着目するということと、差異に着目するということは、本質的に同じなのではないか。

 

また、無文字社会の人々は、植物の微妙な差異について、学者なみの知識を持っていたに違いないのです。例えば、毒キノコを食べると大変なことになる。ある植物について、食べられるかどうか、そのことを彼らは命がけで認識していたのです。

 

レヴィ=ストロースは、ブリコラージュということを言っていて、これは無文字社会の人々は、身の回りにあるあり合わせの物で何かを作る、ということです。反面、現代人は専用の物を用いる。そういう主張だと思うのですが、これにも疑問がある。

 

現在、私たちは新型のコロナウイルスの脅威に晒されている訳ですが、未だ、特効薬は見つかっていない。しかし、一部の重篤化した患者には、エイズ治療薬が有効であることが発見されています。これって、ブリコラージュと同じではないでしょうか。現代人だって、身近にある何かで、直面する課題に対処しようとしている。

 

私を含めて、皆、間違っていたのです! そんなことを考えながらネットを見ていますと、次の情報に行き当たりました。レヴィ=ブリュルは、晩年、自らの説を撤回し、次のように述べたそうです。

 

「未開心性と我々の心性の間に根本的な差異はない」(1949年)

リュシアン・レヴィ=ブリュル


http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/130105Levy-Bruhl.html

 

やはり、そうだったのか! ここで私は、打ちのめされたのでした。

 

このブログをお読みいただいております皆様には、心の底からお詫び申し上げると共に、訂正させていただきます。古代人や無文字社会の人々と、現代に生きる我々との間に、認識方法、思考方法に関する根本的な違いはない。今後は、そのような前提で記事を掲載させていただきます。

 

但し、本質的な違いはないものの程度の差はあって、例えば、私が提示した「認識の6段階」で行きますと、古代人は原理を発見し、論理的な帰結に至るという段階には至らなかったものと思います。あくまでも程度の差ですが。

 

さて、私たちが日々食べている食品は、組み合わせによって成り立っているということを書きましたが、考えておりますと、そういう例は枚挙にいとまがない。例えば、カツカレーというのもある。これは、とんかつとカレーの組み合わせ。そして、カレーうどんもあるし、カレーラーメンだって存在する。桜餅だとか、おでんの種にはウインナー巻きというのもある。切りがないので、ここら辺で止めておきますが、組み合わせによって新たな食品が生まれるというのは、原理だと言っていいと思います。自然が生み出す素材があって、それを加工する。あとは組み合わせによって、食品というのは進化している。

 

しかし、これは食品に限ったことなのでしょうか。

 

人間は昔も今も病気になってしまう。例えば、お腹が痛くなる。すると、誰かが「あの草を煎じて飲めば治る」というようなことを言う。これがまったくのあてずっぽうだった場合、それは呪術だと言われる。「そうだね、結構治るよね」と言われれば、それは薬草だとか漢方薬だと言われる。しかし出発点は、いずれの場合も腹痛とある植物という一見、関係がなさそうな2つの事柄を関係づけて考えるところにある。新型コロナとエイズというのは、明らかに異なるウイルスによってもたらされる。でも、治療薬がない。そこで、誰かがこの2つを関係づけて考えてみた。そういう発想があった、ということだと思います。

 

プエブロ・インディアンは、自分たちが祈るから太陽が地球の周りを回っていると考えた。これも祈るという行為と太陽の運行という、一見、関係がなさそうなことを関連づけて考えるという発想があった。

 

このように、常識的には結びつかない何かと何かの関係を想定する能力というものが、人間には備わっている。この能力を一般には、直観力だとか、発想力と言うのではないか。ここでは、一応、発想力と呼んでおきます。

 

では、この発想力は、どういう時に発揮されるのでしょうか。その背後には、カオスがあるのではないか。食材というのは、無数にある。肉もあれば、魚や野菜だってある。そして、何と何を組み合わせてはいけないというルールは、ほぼ存在しない。自由なんですね。そこに秩序というものは存在しない。従って、カオスと呼んで誤りではないように思います。薬草の例や、プエブロ・インディアンの場合も、同じだと思います。組み合わせというのは、無数にある。そして、ルールはない。

 

カオスがあって、人間の発想力が発揮される。そして、文化が前進するのではないでしょうか。一方では、論理的思考というのがあって、こちらは秩序をもたらしますが、新しい何かを生み出す可能性は低い。他方、カオスをベースとして人間の発想力が発揮される。こちらは秩序をもたらしはしませんが、常に新しい何かを生み出す無限の可能性を秘めている。

 

人間というのは、ある側面では秩序を求め、反面、カオスを必要としている。人間とは、そういう矛盾を抱えた生き物なのではないでしょうか。何故、そうなってしまったのか。それは、人間が長い時間を掛けて構築した、生存戦略に基づくのではないか。人類の生存戦略とは、文化そのもので、文化はそのような矛盾を抱えている。そして、文化は太古の昔から、今日においても、休むことなく前進を続けている。そんな気がします。

文化認識論(その27) 理性と狂気

「認識の6段階」と称して、私が提示した概念モデルについて、それなりに私は自信を持っています。例えば、宗教というのは4番の概念までは行くけれども、その後の原理と論理が欠けている。そういうことが分かる。但し、ここに示した論理に至る認識方法には、どうも限界がある。新しいものを生み出すという機能に欠けている。しかし、私たち人間の社会は、常に新しい何かを生み出して来た。

 

そうしてみると、「認識の6段階」というのは、一つの認識方法を示しているに過ぎず、人間には異なる認識方法があるに違いない。では、人間が新しい何かを生み出す能力というのは、どこから来るのか。

 

このように、本稿はなかなかカッコいい書き出しで始まる訳ですが、ここで話は落ちて、味噌バターラーメンの話題に移らなければならないのです。

 

「このブログって、ラーメンの話ばっかり。少しはフレンチとかイタリアンの話は出てこないのかしら?」

 

そういう声が聞こえてきそうですが、それは私の食生活上の限界なので、ご容赦いただきたい。

 

さて、味噌バターラーメンというのは、中国の麺と、日本で生まれた味噌と、ヨーロッパのバターがミックスされたものです。以前の原稿では、この食品が持っているそれだけの時間的、空間的な広がりに着目した訳ですが、実は、このミックスするというところに新しい何かを生み出すメカニズムの秘密があるのではないか、ということを述べたいのです。

 

新しい何かというのは、通常は思いつかない何かと何かを組み合わせることによって、生まれるのではないか。ラーメンを味噌味で作るというそれだけでも、かなりな発想だと思う訳ですが、人間の試みはそこに留まらず、バターまでのせてしまう。そのような仮説に立脚して考えてみますと、いろいろな例を挙げることができる。

 

近年のヒット商品として、いちご大福というのもある。たらこ味のパスタというのは、既に定番になっているし、アボガドをわさび醤油で食べると、まぐろのような味がするらしい。

 

新型コロナの影響でマスクが不足していますが、するとキッチンペーパーでマスクを作れないか、というアイディアが出てくる。また、水着の素材でマスクを作ろうという話もあって、こちらの方は既に実現しています。ちなみに、水着素材のマスクは、洗えば何度でも使えるとか。

 

人魚姫は人間と魚のミックスだし、ケンタウロスは人間と馬を組み合わせたものです。

 

かつて欧米人は、馬車に乗っていた。そして、誰かがエンジンを発明する。すると、このエンジンと馬車の人が乗る部分を組み合わせて、クルマができる。

 

ただ、このような発想というのは、論理的な思考からは生まれません。人間の心の中には、情報から得られる知識や、経験から生まれる記憶というのがあって、それらが一度、非論理的なフィルターを経由するのではないか、と思えてくる。この「非論理的なフィルター」を、ここでは「カオス領域」と呼んでおきます。そして、上記のような考え方を哲学の歴史に照らし合わせてみますと、辻褄が合うように思うのです。

 

まず、「認識の6段階」や論理的思考というのは、静的で、理性的で、すなわち近代的なものだと思います。そして、このような立場が、憲法や法律、その他の社会システムを構築した。カントやヘーゲルは、こういう位相にあったのではないか。だからカントは理性の重要性を説いたし、ヘーゲルフランス革命によって理想的な社会が誕生すると考えた。

 

しかし、人間というのはそれ程、単純なものではない。そこで、異議を唱える人が出てくる。その1人にフロイトがいる。現代に生きる私たちは、心の中に無意識と呼ばれる領域のあることを知っている。常識と言っても良いと思います。しかし、それが私たちにどれ程大きな影響を及ぼしているのか、それはフロイトが登場するまで、人間は知らなかったのです。すなわち、カントやヘーゲルさえも、そのことを知らなかった。だから彼らは、楽観的でいられたのではないでしょうか。

 

フロイトが登場する前の人間観というのは、デカルトに負うところが大きかった。「我思う、故に我あり」という奴です。ちなみにこの訳は、あまり良くない。「私は考える。従って、私は存在する」とした方が良いのではないか。

 

話を戻しましょう。デカルトの人間観というのは、人間の本質は考えることにあるのであって、考えた通りに行動することができる、というものだった。ところが、フロイトによれば、人間はどんなに考えたって、その無意識をコントロールすることはできない。そして、人間の行動というのは、無意識によって支配されている。こうなると、コントロール可能な人間というものが、コントロール不能な存在へと変質する。

 

年代順に見ていきますと、次に、レヴィ=ストロースが登場し、続いて、フランス人の哲学者、ミシェル・フーコーが登場する。

 

フーコーは、近代の理性中心主義に強烈な異議を唱えたようです。歴史的に考察すれば、人間は精神病患者を監獄のような病院に閉じ込め、見ないようにしてきた。しかし、精神病患者が持っている狂気は、人間の本質に関わるものであって、これを積極的に認識すべきだ。そう考えたフーコーは「狂気の歴史」という本を出版し、思想界に打って出た。

 

すなわち、私が先に「カオス領域」と呼んだものをフロイトは無意識と呼び、フーコーは狂気と言ったのではないか。

 

ちょっと、上に記した文章の流れでは、書き切れなかったことを追記させていただきます。人間が発明する何かというのは、組み合わせによると私は考えています。では、組み合わせによらない、100%新しい何かは発明できないのか、という疑問があります。私は、現時点では、そういう全く新しいものを人間が発明することはできないと考えています。人間の文化というのは、それを分解していくと、最後は自然に行き着く。すなわち、純粋にオリジナルなものというのは、自然の中にあるのであって、自然が持っている要素を人間は、組み合わせて、文化を創造している。そう思っています。

 

また、「野生の思考」の中で、レヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」ということを言っています。これは、あり合わせのものを使って何かを作り出す、という意味です。例えば、無文字社会の人たちは、身の回りにあるヤシの葉などを使って、家を作ります。これに対して、現代人は専用に開発された部品を使って家を建てる。そういう違いがある、と述べているのです。しかし、上に述べたマスクの例などを考えますと、このブリコラージュというのは、現代にも生きていることが分かります。例えば、冷蔵庫を覗いて、あり合わせの食材で何か料理を作る。そういうことを現代人だって、やっている。

 

いずれにせよ、フーコーについては、もう少し調べた方が良さそうですね。フーコーは、時代区分としてはポストモダンに位置づけられています。フーコーについて調べてみると、私のポストモダンに対する評価も、少し変わるかも知れません。

 

カントやヘーゲルは、無意識の存在を知らなかった。若しくは、不十分な知識しか持っていなかった。こういうことは、とても重要な意味を持つ。そこで、主要な思想家たちについて、その存命期間を一覧にしてみました。生まれた年の順に並べてあります。ご参考まで。

 

思想家たちの存命期間一覧

トマス・ホッブズ/1588-1679/イングランド
ルネ・デカルト/1596-1650/フランス
ジョン・ロック/1632-1704/イギリス
ジャン・ジャック・ルソー/1712-1778/ジュネーヴ共和国
イマヌエル・カント/1724-1804/ドイツ
フリードリヒ・ヘーゲル/1770-1831/ドイツ
キルケゴール/1813-1855/デンマーク
カール・マルクス/1818-1883/ドイツ
チャールズ・サンダース・パース/1839-1914/アメリ
フリードリヒ・ニーチェ/1844-1900/ドイツ
ジークムント・フロイト/1856-1939/チェコユダヤ系)
フェルディナン・ド・ソシュール/1857-1913/スイス
カール・グスタフユング/1875-1961/スイス
オルテガ・イ・ガセット/1883-1955/スペイン
レヴィ=ストロース/1908-2009/フランス(ベルギー生まれ)
ミシェル・フーコー/1926-1984/フランス
ジャック・デリダ/1930-2004/フランス