文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

自発的隷従論/ボエシ

 

これほど多くの論点を提起している本は、珍しい。ちくま学芸文庫から刊行されているエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」は、翻訳者自身による解説のみならず、20世紀の思想家たちや監修者である西谷修氏による解説が含まれている。それぞれの執筆者の立場が多様であることから、そこで提起されている論点も多岐に渡るのである。

 

 

「自発的隷従論」はフランス人であるボエシ(1530-1563)が、16才(1546年)か18才(1548年)のときに書いた論文である。ボエシの早熟振りには驚かされる。ボエシの思想的背景について、本書の訳者である山上浩嗣氏は、次のように述べている。

 

- キケロアリストテレスプラトンの影響を背景に、さまざまな古典的著作からの引用を重ねる彼の手法は、当時の大学においてむしろありふれたものだったという批評は可能である。(P.141)-

 

つまり、若いボエシには当然のことながら人生経験が少なく、人間社会の仕組みについて、彼は、古代ギリシャ古代ローマ哲学書や逸話などを題材に学習していたのである。ボエシの「自発的隷従論」は、必ずしも論理的だとは言えない。これは哲学的な論文と文芸との中間に位置するようなものだと思う。従って、この論文を論理的に分析するには、困難が伴う。そこで思案する訳だが、私はまず、ボエシが想定していた人間の区分に従い、それぞれのタイプをボエシがどう評価していたのか、そのことを整理してみたいと思う。「自発的隷従論」に登場する人間のタイプは、圧政者、共謀者、学識者、民衆の4種類である。

 

圧政者・・・悪い政治を行う独裁者のこと。「ひとりの者が十万の人々を虐待し、その自由を奪うなどということが、あらゆる国々で、あらゆる人々の身の上に、毎日生じている。(P.18)」 また、「圧政者は決して愛されることも、愛することもない(P. 76)」のであって、「圧政者は、自分の意志こそが道理であるとみなすこと、仲間など一切もたず、すべての人の支配者であることをもって旨とする(P. 77)」のである。そしてボエシは圧政者の孤独について。次のように述べている。「圧政者は、自分の下にすぐれた者がひとりもいなくなるまでは、権力をその手にしっかりつかんだとは決して考えないものだ。(P. 51)」

 

共謀者・・・共謀者とは「圧政者たちから与えられる直接間接の好意、直接間接の恩恵のせいで、結局のところ、圧政から利益を得ているであろう者(P. 67)」のことである。また、共謀者は「圧政者に尻尾をふり、この者の支配と民衆の隷従から利益を得ようとする(P.70)」連中のことである。そして共謀者は「圧政者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。彼の命に従って働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さねばならない。(P. 70)」。

 

学識者・・・「いつの世にも、ほかの者よりも生まれつきすぐれていて、軛(くびき)の重みを感じ、それを揺さぶらずにはいられない者がいる。そんな者たちは、決して隷従には飼い慣らされず、(中略)自分の自然の特権について考えたい気持ちを抑えることができ(P.44)」ないのである。「彼らは、たとえ自由が世界中から完全に失われたとしても、みずからの精神においてそれを想像し、感じとり、さらにはそれを味わうだろう。(P.45)」

 

民衆・・・「哀れでみじめな、愚かな民衆よ、みずからの不幸にしがみつき、幸福には盲目な人々よ! (P. 21)」。「このような災難、不幸、破産状態は、いく人もの敵によってではなく、まさしくたったひとりの敵(圧政者)がもたらしている。そしてその敵をあなたがたは、あたかも偉大な人物であるかのように敬い、その者のためなら勇ましく戦争に行き、その威信のためなら、自分の身を死にさらすことも決していとわないのである。(P. 22)」

 

これでボエシの人間観の概略は、お分かりいただけただろうか。1つのポイントは、結局、自発的に権力に隷従している者は、上記のうち共謀者と民衆であるということだ。

 

次にボエシは、人間が自発的隷従へと向かうメカニズムについて説明している。ボエシはまず、人間の自然状態という概念を措定する。そして、自然状態において人間は自由を希求しているはずだ、と考える。例えば野生動物を見るがいい。捕まえようとすると、彼らは必死になって、人間の手から逃れようとするだろう。それと同じで、自然状態にある人間だって、自由がどれ程大切なのか、身に染みて分かっているはずなのだ。そんな自由を求める自然状態にある人間が、何故、自発的に権力に隷従するようになるのか。ボエシはそこで、「災難」という言葉を持ち出す。自然状態にある人間が、何らかの災難を経験することによって、本来は命と同じ位大切な自由を、いとも簡単に手放してしまう。

 

続いて、ボエシは災難とは習慣と教育だと述べる。

 

- 習慣はなによりも、隷従の毒を飲み込んでも、それをまったく苦いと感じなくなるようにしつけるのだ。 (P. 35)-

 

- 教育はつねに、自分の流儀で、どうしてもわれわれを自然に反して作りあげるものだ。 (P. 36)-

 

自由を希求する自然状態の人間

 ↓

災難(習慣と教育)

 ↓

自発的に権力に隷従する人間

 

では、どうすれば人間は自発的隷従の罠から逃れることができるのか。その方法はないのだろうか。この点、ボエシは次のように述べている。

 

- あなたがたは、わざわざそれから逃れようと努めずとも、ただ逃れたいと望むだけで、逃れることができるのだ。もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨象のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう。 (P. 24)-

 

本当だろうか? 人間はそんな簡単な決意によって、自由を獲得できるのだろうか? そんな懐疑的な印象を持つのは、私だけではあるまい。そして、ボエシの思考は続く。

 

- しかしながら、医師たちはなるほど、不治の傷には手を触れぬようにといつも忠告する。そこで私も、上のことに関して、民衆に説教を試みることが賢明だとは思わない。彼らは長らく判断力を完全に失ってしまっているのであり、もはや自分の不幸をも感じとれないことからして、その病が致命的だということが、十分にうかがえるのだから。 (P.24)-

 

ボエシに言わせれば、民衆とは不治の病に侵された愚か者ということになる。そして、ボエシは、次の結論へと至る。

 

- 私としては、圧政者と共謀者に対する格別の罰を、神が来世で用意してくださっていると確信している。 (P.81)-

 

しかし、本当のことを言えば、来世なんてものはどこにもないし、神も想像上の産物に過ぎない。つまり、若き日のボエシは、自発的隷従という人間の愚かな習性に対し、これといった解決策を提示できずに、この論文に幕を引いたのである。

 

蛇足かも知れないが、整理をしてみよう。

 

圧政者・・・圧政者は、いつ身内から裏切られるか分からない。暗殺される可能性だってある。そういう孤独な存在が、圧政者なのである。そして、圧政者は孤独であるが故に、圧政を続ける宿命にある。ボエシは、圧政者を非難している。

 

共謀者・・・共謀者は、圧政から何らかの利益を掠め取ろうとして、自発的に圧政者に隷従する者である。ボエシは、共謀者を非難している。

 

学識者・・・学識者は、自由の意味を知っており、権力に隷従しない。しかし、学識者は少数なのであって、圧政に対抗することは困難である。

 

民衆・・・民衆は、愚かなるが故に、自発的に権力に隷従する。しかし、その病は不治なのであって、民衆を説得しようと試みることに意味はない。ボエシは、民衆を愚かだと言ってはいるが、非難はしていない。

 

これがボエシの考えた当時のフランス社会の構造なのである。異論があるかも知れないが、私はこのように「自発的隷従論」を絶望の書として読んだのである。

 

では、本書を監修した西谷修氏が何故、470年以上も昔の論文を発行しようと考えたのか。それは西谷氏が、現在の日本と日本人の状況について、自発的に隷従するという本質を見ているからなのだろう。西谷氏は、次のように述べている。

 

- 世界戦争以後のとりわけグローバル化した世界では、支配秩序は一国規模にとどまらない。占領下の日本の統治がアメリカの権威のもとに置かれていたように、そして冷戦下でアメリカが「自由世界の盟主」であり、日本がその「核の傘」の下にあったように、日本の統治構造、それに支配層やエリート層にとっては、アメリカ(とその大統領)は他でもない世界秩序の頂点に立つ「一者」にあたっている。そしてその「一者」の支配秩序を日本に浸透させ、日本を他に類のない「親米国家」に仕立て上げているのが、支配エリートたちのこの「自発的隷従」なのである。 (P.240)-

 

まさにその通りではないか? 但し、上に引用させていただいた西谷氏の言葉の中に、私は、微かな希望を見るのである。日本が米国に従属しているその理由が「自発的隷従」にあるのだとすれば、それを止めれば、日本は米国から独立できるかも知れないのだ。ボエシが言った「共謀者」、西谷氏が言っている「支配エリート」たちに思い知らせることができれば、日本が独立することだって、不可能ではない。

 

「自発的隷従論」は、今日に至るまでの射程を持った普遍的な名著だと言える。