文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

脱権力としてのアナーキズム

 

2月8日に大腸ポリープの切除を受けた訳だが、その後、女医は私にこう言ったのだった。

 

女医・・・今後1週間、お酒は控えてください。それから、熱いお風呂もダメです。

 

煙草はどうなのだろう。そうは思ったのだが、どうせダメと言うに決まっているので、私はそのことを質問しなかった。私は、病院を出ると近くの喫煙所へと直行し、続けて3本吸ったのである。

 

何故、酒や風呂がダメなのかと言うと、切除した箇所から出血するリスクがあるからなのだ。煙草は止められないので、せめて酒だけは止めようと思い、私の禁酒生活がスタートしたのだった。それも今日で8日目となる。その間私は、グラス1杯のビールも、おちょこ1杯の日本酒さえも口にしてはいない。ポリープ切除のダメージが残っている間は、酒を飲まないことに左程の苦痛は伴わなかった。しかし、すぐに切除に関する記憶は薄れる。ましてや、何の痛みもないのである。一昨日頃から、次第にアルコールが恋しくなってきた。解禁日は、明後日である。今から、その瞬間のことを妄想している。どこの店へ行こうか、やはり最初の一口は生ビールにしようか、つまみは何にしようか。そんなことばかりを考えているのだ。

 

胸の痛みが発生する前、私は、週に3日程、近くの日帰り温泉に通っていた。午前中からたっぷり2時間はかけて、温泉につかる。その施設には適当なレストランがあって、風呂上がりの生ビールを2~3杯、堪能する。これはたまらない。帰宅すると直ちに横になり、2時間程、昼寝をする。ああ、もう他には何も望むことはない! そのような生活を送っていたのだが、あの忌まわしい胸痛(きょうつう)によって、私の暮らしは一変したのである。

 

温泉に行かず、ビールも飲まず、昼寝もしない。そのように暮らしてみると、大きな変化が生ずる。まず、あの胸痛が嘘のように消えたのだ。これで症状が改善されたのか、酒を飲むと再びあの胸痛が再発するのか、それは分からない。2つ目の変化としては、1日が長くなったということである。特に夕食など、あっと言う間に終わってしまう。ゆっくり晩酌をしていた頃は、ミステリードラマ1本を見終わるようなこともあった。しかしアルコールを抜くと、夕食なんてゆっくり食べても30分もかからない。結果として、ミステリードラマは4日に1本見る計算になるが、これだと見終わる頃にはストーリーを忘れている。一体、どのような殺人事件があって、この刑事はこのような捜査をしているのか。それが判然としなくなる。

 

いずれにせよ、長い1日をどう過ごすかという問題だが、結局、本でも読もうということになる。とりあえず、次の本を読んだ。

 

アナキズム / 栗原 康 著 / 岩波新書

 

これは大変、面白かった。なお、表記の問題だが、アナーキーと記して、何故、アナーキズムと記さないのか。実際の発音からしても、ここはアナーキズムと記すべきだと思うので、本稿はその表記を採用する。

 

さて、アナーキズムとは何か、ということを説明する必要がある。一般的には、無政府主義と訳されるが、これでは本来のアナーキズムの一部を説明したに過ぎない。アナーキズムとは、もっと広範な意味を持つ言葉なのだ。栗原氏は、次のように述べている。

 

- 「だれにもなんにも支配されないぞ」とか、「統治されないものになれ」ってのがアナーキーになる。で、それを思想信条としましょうってのが、アナキズムだ。(中略)政府ってのは、統治の一機関だからね。それで「無政府主義」とも訳されたりするのだが、まあまあ、政府だけじゃなくて、あらゆる支配はいらねえんだよってのが、アナキズムだ。 (P. 9)-

 

- 社会の支配から離脱していこうという意志 (P. 237)-

 

では、私が印象に残った本書の要旨を記そう。

 

とかくこの世には、支配者と被支配者が存在する。政府と国民。経営者と労働者。夫と妻。数え上げれば切りがない。このような支配関係の中で、多くの人々が自己を規制し、不本意な人生を送っている。そのような支配を否定し、自己を解放し、今を生きようではないか。例えば、暴力的なデモに参加して自己を解放した際、人間は曰く言い難い高揚感に包まれる。そして、そのような経験を積むことによって、自分にはできないと思っていたことが可能となったり、自己の生が拡張されたりするのだ。

 

自己の解放とは、時として違法性を帯びる。実際、今日まで多くのアナーキストが投獄されてきたのである。そこまではできない、と思う人も多いだろう。しかし、少なくともアナーキズムは、人間がその生を新たなものとして生まれ変わる、変革する力を持っているのだ。人間には、未だ知られていない可能性がある。

 

要約は以上である。いくつかの視点から考えてみたい。

 

まず、文化人類学的な視点から。人類は太古の昔から、高揚感、エクスタシーを求めてきた。例えばそれは、三日三晩踊り続けることによって、自分の身体を傷つけることによって、得られる。そして、そこから人間は啓示を受け、仮説を立ててきたのだ。これは文明の起源だとも言える。このような観点からすれば、アナーキズムは閉塞した現代に対し、太古の知恵をもって対抗しようと主張しているように思える。

 

次に、精神分析的な観点から。フロイトは、人類には物事や他者を包摂しようとするエロスが備わっており、その対極として、他者を攻撃し、排斥しようとするタナトスがあると主張した。タナトスは「破壊欲動」と訳される。全てを破壊してしまいたいと願う、その衝動のことである。そしてフロイトは、タナトスこそが人間を戦争へと駆り立てる原動力だと述べた。アナーキズムは、人間の理性を超えて、このタナトスを解放しようと主張するものではないか。

 

文学的な観点から言えば、アナーキズムは近代以降の犯罪小説と似ている。例えば、三島由紀夫の「金閣寺」においては、金閣寺に放火することによって自己を解放しようとした主人公が描かれている。もちろん、放火という行為は犯罪であって、社会的に許容される行為ではない。しかし、主人公が自らを解放するためには、それ以外に手段はなかったのである。

 

最後に私の文明論に照らして考えてみよう。私の主張はこうだ。文明は身体を中心とした文化領域から出発して、やがて、身体に対するアンチテーゼとして「知」が生まれた。「知」は必然的に権力を構成し、権力が社会秩序を作った。そして近代以降、この権力に対抗する、若しくは権力と相容れない主体というものが認識されるに至った。アナーキズムとは、この権力や秩序に対抗して主体を賛美する思想なのだ。

 

アナーキズムは、一見、反知性主義と類似するように見える。しかしその内実は、反知性主義とは、全く異なるのである。思考に思考を重ねて生み出された、人間が主体を守る、解放するための方法論なのである。

 

アナーキズムは、閉塞し切った現代社会において、何とかそれを打破しようとする1つの試みだと言えよう。但し、私はアナーキストになろうとは思わない。それは、とても過酷な選択だと思うし、第一、既に年老いた私は、自己の内面にタナトスを感じ取ることができないのである。

 

また、本書にはもう1つ重要な主張が含まれている。権力をもって、権力に対抗しようとしてはいけない、というものだ。例えば、経営者に対抗するために強固な組合を作るとする。すると、今度は組合自体が権力構造を持ち、組合員を支配しようとするのだ。これでは、何も変わらない。日本の政治で言えば、自民党に対抗する組織として、共産党が存在する。しかし、共産党員になると、今度は共産党から支配を受ける。昨年、松竹さんという党員の方が、党首の公選制を求めた。するとあろうことか、共産党は彼を除名したのである。何という非民主的な政党だろう。従って私は、労働組合共産党も大嫌いなのである。

 

アナーキズムとは、反権力ではなく、脱権力なのだと思う。