文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 94 朝鮮半島情勢、4つのチェックポイント

ブログのタイトルと掲載記事の内容が解離していますが、今は平時ではないように感じており、差し迫った問題を優先して取り上げたいと思いますので、この点はご容赦ください。

さて、朝鮮半島情勢ですが、ご案内の通り16日の早朝に北朝鮮はミサイルを発射しましたが、失敗に終っております。米国との緊張関係を高めないために、意図的に失敗させたのではないか、米国のサイバー攻撃が効を奏したのではないか、などの推測がなされていますが、発射したという事実に間違いはなく、日本政府も北朝鮮のミサイル発射は今後も継続されるとの見通しを公表しました。リスクのレベルが高まったと言えそうです。

金正恩は「生き延びるためには、核武装して米国に対抗するしかない」と考えているとの報道があり、その通りなのかも知れません。そうしてみると、北朝鮮が今後、核実験と大陸間弾道ミサイルICBM)の発射実験を行う可能性は、否定できません。北朝鮮は、軍事パレードと核実験の順番を入れ換えただけだ、との見方もあります。

一方米国は、とりあえず北朝鮮からの攻撃に備えてはいるものの、先制攻撃を行うための準備は完了していないように見えます。軍事の専門家は、米国が先制攻撃を行うのは、完璧に準備を完了した後のことであって、最後は天候次第であると説明しています。また、その場合、空母は2隻必要だそうです。

また、米国が先制攻撃を仕掛ける場合、その時期を我々一般国民が知らされるのかと言えば、その可能性は低いと言わざるを得ません。そこで、Xデーを推測するためのチェックポイントをまとめてみました。

1. 現在滞在中の海外メディアは、北朝鮮を離れたか。

2. 北朝鮮は、核実験またはICBM の発射実験を行ったか。

3. 現在、韓国に滞在中の米軍の家族は、沖縄などに避難したか。

4. 朝鮮半島沖に、2隻目の空母は展開されたか。

上記の4項目が全てYesとなってからでは、遅いかも知れませんね。3項目がYesとなった時点で、私はとりあえず車のガソリンを満タンにしようかなと考えています。ご参考まで。

以上

No. 93 朝鮮半島情勢とリスクマネジメント

落ち着かない週末を過ごされている方も、少なくないのではないかと思います。

さて、表題の件ですが、深刻な問題ですので、今回は失敗しないよう慎重に記載したいと思います。なお、私は多くの皆様と同様、何らかの内部情報などを持っている訳ではなく、情報源はテレビ、新聞、ネットなどによって既に公表されているものに限定されますので、その点、予めご了承ください。

まず、本日(15日)現在の状況を簡単にまとめてみましょう。

北朝鮮は予定通り軍事パレードを実施しましたが、そこで開示されたミサイルが新型のICBMではないか、との推定がなされています。また、核実験を行う準備はほぼ完了しているようですが、新型ICBMの発射実験は、技術的な問題があり、実施段階になさそうです。北朝鮮の高官は、相変わらず強気の発言を続けています。

一方米軍は、原子力空母カールビンソンが、朝鮮半島近海に、本日、到着予定となっています。横須賀港に停泊中の空母ロナルドレーガンは、メンテナンス中で出航できないようですが、替わって二ミッツという空母が、朝鮮半島沖を目指して、航海中とのこと。在日米軍も臨戦態勢になっているようです。米軍基地周辺に在住の方々から、いつになく飛行機の発着頻度が高まっている、というネットへの書き込みがあります。

 

以上が、公開されている情報の概略ですが、ここから先は私の個人的なコメントを記載させていただきます。

まず。テレビ、新聞の報道状況ですが、概ね楽観的だと言えます。上に記した事項からすれば、事態は相当緊迫していると思うのですが、何故、楽観視できるのか、その理由が私には分からないのです。Yahooニュースへの書き込みを見ていますと、私と同じように感じている人たちが決して少なくないことがわかり、ちょっと安心した次第です。水や食料を買いだめした人とか、いやいやローソクも買っておいた方がいいとか、車のガソリンを満タンにしておいたという人までおられるようです。私はそこまでの準備はしていませんが、少なくともこの時期にソウルへ観光旅行に出掛けるというのは、ちょっと信じられません。確かに、過去には国民がパニックになり、トイレットペーパーの買いだめに走ったという例もあります。しかし、福島第一原発の事故の際、政府も東電メルトダウン炉心溶融)はないと言い張っていましたね。そして、危機的状況が過ぎ去ると、実はメルトダウンしていたと認めたのではなかったでしょうか。

本件で言えば、日本政府とその関係者は、米国の作戦について、その内部情報を知っている。それを漏らす訳にはいかない。そういう事情があることは分かります。メディアに登場するコメンテーターも、一部、内部情報に接しているものと推定されます。しかし、「こうあって欲しい」という情緒的な願望と、「こうなるのではないか」という客観的な事実認定が、混同されているということはないでしょうか? リスクマネジメントの観点から言えば、それはあってはならないことのはずです。ひと度、有事となれば、ノドンミサイルの数発位は、日本国内に着弾する可能性は十分にあるのではないでしょうか。「平和ボケ」という言葉がよく使われますが、そのような心理状態を脱却するためには、事実を直視すること、情緒に流されないことが必要であって、そのためのスキルが、リスクマネジメントだと思うのです。あるテレビ番組で「今は中国の説得に期待する」とコメンテーターが異口同音に述べていました。私も、それを期待しています。しかし、では、中国に何ができるのか、客観的に分析すべきだと思うのですが、論議はそこまで進まない。中国が北朝鮮を説得して、戦争を回避して欲しいといのは情緒的な願望に過ぎない。では、具体的な方法があるのか、ということまで考えなければ、リスクを評価することはできないと思うのです。ちなみに、中国にできるのは、石炭の輸入停止、石油の供給停止などの経済的な制裁に限定されているようです。金正恩を中国に亡命させるという選択肢も理論的にはあり得ますが、金正恩は中国の特使と会うつもりはなさそうです。

次に、米国の対応ですが、リスクマネジメントが徹底されているように感じます。2~3日前、ある高官がこう発言していました。「目標は、朝鮮半島の非核化である」。たったこの一言に、沢山の意味が込められていると思うのです。1つには、北朝鮮の体制変更が目的ではない、ということ。すなわち、北朝鮮を潰して韓国に併合するとなれば、それは中国にとって大変な政治的損失となる。そんなことは考えていない、中国と戦うつもりはない、というメッセージ。2つ目には、北朝鮮と言わず、朝鮮半島という言葉を使っている。これは、北の問題さえ解決できれば、韓国を核武装させるつもりはない、ということだと思うのです。3つ目には、行動する前の段階で、目標を明確に設定しているということ。最近のリスクマネジメントの理論では、最初に目標を設定するんです。そして、目標達成の阻害要因をリスクとして特定し、個々のリスクに対処していくんですね。そういうことを米国は、やっていると思います。この話は、別の機会にもう少し述べてみたいと思います。

 

少し長くなりましたが、最後に、本件のトリガー(引き金)について述べたいと思います。北朝鮮は、核実験を行う準備をほぼ、完了している。北朝鮮がこれを行えば、米国が攻撃を開始することになると思われます。このリスクは、既に、現実のものとなっています。一方、米国ですが、昨日辺りから、「北朝鮮が核実験を行うことが確実視される場合には、先制攻撃をする可能性がある」と述べています。(その後、この点を否定したという報道もあるようです。)そうしてみると、仮に、北朝鮮が核実験を行わなかった場合でも、米国が行いそうだと認定しさえすれば、先制攻撃に踏み切る可能性がある、ということではないでしょうか。米国は、「イラク大量破壊兵器を持っている」と主張してい、イラク戦争を始めました。(結局、イラクは持っていなかったのですが) また、数日前には、「シリアが化学兵器をし使用した」と言って、同国にミサイルを打ち込んだ。シリアが本当に化学兵器を使用したのか否か、私には分かりませんが、同国はかかる事実を否認しているようです。そうしてみると、既に5回の核実験を行っている北朝鮮が「6回目の核実験の実施に着手した」と米国が主張すれば、文句を言う国はないように思います。米国がそのようなことをするかどうかは分かりませんが、現時点で、北朝鮮に対し、米国が「いつでも攻撃できる」というフリーハンドを確保しているのは間違いなさそうです。なお、あくまでも推測ではありますが、米国は現時点で、中国に対応の時間的猶予を与えているような気がします。また、現在、北朝鮮には100名程度の海外メディアの関係者が滞在しており、彼ら巻き込みたくないという事情もあろうかと思います。従って、米国が攻撃を仕掛けるとしても、その時期は、メディア関係者の出国後ではないでしょうか。彼らが人質として、北朝鮮に拘束されないことを切に願っております。

No. 92 ポストモダンよ、さようなら!

昨日、アメリカの原子力空母、カールビンソンとその一団が朝鮮半島に向けて出発したというニュースがありました。その後、北朝鮮がこれに強く反発しているという情報もあります。小心者の私は、このニュースが気になって仕方がありません。アメリカがシリアへミサイルを発射したということもありますが、距離的にシリアは遠い。しかし、北朝鮮となると話は別です。とにかく、近い! 何かが起これば、日本にミサイルが飛んで来る可能性がある。

アメリカが保有する最新型のミサイルで、北朝鮮の核施設をピンポイントで攻撃し、それで紛争が終結すれば良いのですが、どうもそうはいかない。北朝鮮は一部の軍事施設を地下に隠し持っているようですし、ミサイルの発射台も移動式のものを開発している。従って、軍事衝突が起こった場合、それが長期化し、全面戦争に発展する危険がある。

北朝鮮のミサイル技術がこれ以上発達すると、核弾頭を搭載したミサイルがアメリカ本土に届いてしまう。アメリカにとって、これはもう他人事ではなくなっている。それに、カールビンソンまで展開して、成果なしでは済まされないような気がします。例えば、カールビンソンが引き上げた直後に北朝鮮が核実験でも行なおうものなら、これはもうトランプ大統領のメンツが丸潰れということになります。アメリカは用意周到な国なので、そのような事態が生ずるとは、考えられません。結果、アメリカの側に譲歩の余地は少ない、と言えます。

一方、北朝鮮側は、国家の維持、発展というよりは、金正恩個人が生き延びることを目的としているような気がします。仮にアメリカの軍事的脅威に屈した場合、北朝鮮国内での統率が乱れ、金正恩が失脚するリスクが生ずる。そうしてみると、北朝鮮の側にも、譲歩の余地は少ない。加えて、中国は北朝鮮に対する影響力を失いつつある。

私は、専門家でも預言者でもないので、今後どうなるのかは分かりませんし、無責任な発言は控えたいと思うのですが、状況が相当、切迫していることに間違いはなさそうです。

では上記の現実に、私という個人はどう対処すれば良いのか。そう思うのですが、どうも私に関与できることは、何もない。私どころか、日本政府ですら、重要な意思決定に関与できる可能性は低い。多分、日本政府は軍事衝突が勃発した場合、韓国内の日本人をどう救出するか、北朝鮮から難民がやって来た場合にどう対処するか、既にシミュレーションは実施済みでしょう。しかし、決定的な意思決定について、その権限を持っているのは、トランプ大統領と金正恩の二人だけなのかも知れません。しかし、その決定には、私たち日本人の誰もが多大な影響を受ける。

このような時に、ポストモダンだとか、ディタッチメント(detachment/分離、無関心)などと言ってはいられないような気がします。

確かに、現実は遠のいてしまったと思うのです。カールビンソンって、私の想像を絶する程、巨大なんでしょうけれども、現実に、それが北朝鮮近海を目指して、今も北上を続けている。そこから戦闘機が飛び立ち、またはミサイルが発射される可能性がある。このように遠くに感じられる現実を認識するには、どうすれば良いのでしょうか。それは、想像してみる以外にないと思うのです。想像力を回復し、遠ざかってしまった現実を引き戻す努力が必要なのではないでしょうか。

随分前のことですが、こんなことがありました。

その晩、私は都内でお酒を飲んで、電車で帰宅する途中でした。降車駅の手前に踏み切りがあって、先頭車両がそこに差し掛かる辺りで、列車は急ブレーキを掛け、続いてガタンという衝撃がありました。ここまで言えば、何が起こったのか、大概の方は想像がつくのではないでしょうか。

降車駅はすぐそこにあるのですが、列車はなかなか動きません。暑い最中のことだったように記憶しています。エアコンも止まり、誰かが窓を開けました。多くの人たちは、黙りこくっていましたが、談笑している人たちもいました。時折、むせかえる社内に笑い声が響いていました。20分程停車した後、やっと列車は動き始めました。丁度踏切を通過する時、私はいたたまれない気持ちになりました。列車の床の鉄板一枚を隔てたその場所で起こったことを想像していたからです。しかし、その瞬間にも談笑は止まらないんです。笑っている人たちがいたんです。

翌日の朝刊の地方欄に、小さな記事が載りました。踏切近辺で、飛び込み自殺があったとのこと。亡くなられた方は、確か、30代の男性だったように記憶しております。

今日、インターネットでこのような記事を見つけました。「福島第一原発事故などの影響で、福島県から避難した児童生徒へのいじめは、2016年度だけで129件にのぼる」とのことです。

ディタッチメント(無関心)というメンタリティが、人々の想像力を低下させているのであれば、私たちはそろそろ、そのようなメンタリティを卒業すべき時期に来ていると思うのです。

No. 91 ポストモダン/ 遠い現実、近づくエンターテインメント

“希望”というのは、いい言葉ですよね。私の記憶では、ジョン・レノンも希望を失うな、と言っていました。これは近代思想の時代のメンタリティと深い関係があるように思うのです。例えば、ジョンは、世界を平和にするという“希望”を持っていた。その“希望”を実現するために様々な活動をして、結果、アメリカのFBIと移民局を敵に回すことになった。仮に、奴隷のような状況に置かれている人であれば、“希望”を失っては生きていけない。しかし、現代の日本において、“希望”なんていうものは、うっかり持たない方がラクなのかも知れません。

例えば、クルマが欲しいと思う。しかし、クルマを購入して維持していくためには、相当なお金がかかる。それだけのお金を稼ごうと思ったら、大変な仕事量をこなさなければなりません。それは、嫌だ。では、いっそのこと、「自分はクルマを欲しがっていない」ことにしよう。そんな若者が増えているのではないでしょうか。これが、ポストモダンに共通するメンタリティであるような気がします。もう少し普遍的に言えば、ポストモダンの世代というのも、本音では、共同体や他人、現実世界とのつながりを求めているのではないかと思うのです。しかし、それは遠い存在で、なかなか手を伸ばしても届かない。それでは、関係性の構築というのを望まない、あきらめてしまった方がラクだ、という心理状態にあるのではないかと思うのです。

人間は、生まれてきてまず“感覚”という心的機能を獲得する。そして、現実世界における経験を重ねることによって、意識(思考)なり、個人的無意識(感情)という心の領域を獲得していくのだと思うのですが、現実世界との関わりが希薄になると、心の領域も拡大していかないのではないでしょうか。だとすると、ポストモダンのメンタリティというのは成熟せず、“心の課題”に辿り着かないと思うのです。これらの前提が正しければ、ポストモダンのメンタリティは、近代的な意味での“芸術”を産み出さない。

以前、村上春樹の小説を取り上げて、「作家が直面している“心の課題”が見えない」というようなことを申し上げましたが、その理由がここにあるように思います。すなわち、ポストモダン世代の村上春樹という作家は、近代の芸術家が抱えていた“心の課題”というものを持っていない。

このように考えますと、ジョン・レノンも、ジミ・ヘンドリックスも、ジャニス・ジョップリンも、私が愛したロック・ミュージシャンたちは、皆、近代のメンタリティを持った人たちだったことが分かります。しかし、時代は変わった。時代のメンタリティが変わった。だからもう、あの頃のロック・ミュージックというのは、出て来ないんですね。

ところで、北朝鮮がミサイルを発射し続けています。在日米軍がターゲットだ、などと主張していますので、もしかすると日本の国土に着弾する危険もあります。その場合の被害規模について、シミュレーション結果に関する記事がありました。これが、現実だと思うのです。しかし、そのような現実に対して、私たちにできることはあるでしょうか。多分、ないんです。現実世界というのは、どんどん私たちから遠ざかっていて、もう、ほとんど手の届かない所へ行ってしまったように感じます。一方、エンターテインメントは、どんどん私たちに近づいている。最近は、You Tubeのコンテンツも充実しています。スマホのゲームアプリというのも、相当数にのぼるのではないでしょうか。エンターテインメントというのは、大体、仮想現実だと思うのですが、そちらの方がリアリティを持って私たちに近づいてくる。

こんな時代に、どう対処すれば良いのでしょうか。そんなことを考えます。

結論を言えば、以下の3つの条件を守ること。あとは、エンターテインメントで遊んでいれば良い、というものです。

第1条件は、日本国憲法に記された基本的な理念については、その理解に努めるということ。前にも述べたかも知れませんが、近代思想というのは、音楽や文学の世界で結実した訳ではないと思うのです。その最大の成果物は法律、とりわけ最高法規である日本国憲法にあるのではないかと思うのです。憲法と言うとすぐに9条の論議になり、左翼思想と結びつけて考えられがちですが、日本国憲法には個人の尊重(13条)や思想及び良心の自由(19条)などの重要な規定があります。私が呑気にこんなブログを運営していられるのも、それは憲法によって、言論の自由が保障されているからだと思うのです。

第2条件は、国政選挙には行くということ。選挙で投票したからと言って、すぐに現実世界が変わる訳ではありません。しかし、選挙で投票するということは、すなわち現実世界に手を差し伸べようとすることだと思うのです。最近は、ポピュリズム大衆迎合主義)などと言って、民主主義の正当性を疑うような論議もありますが、それでも独裁政治よりは民主主義の方が何倍も素晴らしいと思うのです。

第3条件は、原発の問題から目をそらさないということ。原発から生み出される汚染廃棄物の処分方法は、未だに確立されていないようです。あの福島で起こった事故を見るにつけ、これは人類の手には負えないなと率直に思うのです。先般、アメリカの政治家が「日本がその気になれば、すぐにでも原爆を作ることができる」というようなことを言っていました。日本は原発の技術を持っているので、それを転用すれば原爆も作れる、という意味だと思います。しかし、日本は原爆なんて持たなくても良い、と私は思うのです。積極的に反原発の活動をしている訳ではありませんが、この問題からは目を離さない、問われれば「私は原発には反対です」と答える。そういう気持ちだけは、明確に持っていたいと思うのです。

いかがでしょうか。私の場合、上記の3条件をクリアすれば、あとはエンターテインメントで遊んでいれば良い、と思っているのです。

No. 90 ポストモダンと無文字社会のメンタリティ

ポストモダンという時代においてマジョリティを占める心の機能は“感覚”で、それは無文字社会においても同じだった。だから、両者には親和性があると思うのですが、この点をもう少し考えてみます。

神話、民話、童話などを総称して、このブログでは“物語”と呼んできましたが、そういうものは、今でも沢山あります。マンガやファンタジー小説、それに映画ではハリーポッターとかアナと雪の女王などがヒットしました。無文字社会における“呪術”については、現在でも誕生月別、血液型別、星座別などの占いが盛んです。ファッションについても、最近はコスプレなどと言って、突拍子もない格好をした若者がいますが、これも未開部族の戦士などと、どこか似ています。

その程度のことであれば、気に留めるまでもないかも知れません。しかし、このブログのNo. 15にも記載したのですが、マレー人においては“アモク状態”と呼ばれ、イワム族では“アムック”と呼ばれるケースがある。「かれは、休みなく飛び跳ね、武器を取り、狂ったように走り出し、出会った人々に見境なしになぐりかかっては殺してしまう」と報告されています。これって、現代の通り魔殺人に似ていないでしょうか。そして、殺人犯は決まって、「人を殺してみたかった」「誰でもよかった」などと言います。日本で最初に通り魔殺人が発生した時には、マスコミも大騒ぎしたような記憶があります。しかし、最近では、決して珍しいことではなくなったような気がするのです。アメリカでも、銃の乱射事件が後を絶ちません。感覚を頼りに生きている人間に、共通した現象ではないかと思うのです。最早、殺人事件の被害者ですら、交換可能な時代になった。

また、モラルも低下しているように思います。宗教国家の時代にあっては、共同体が個人に目を光らせていた。近代思想の時代にあっては、ロジックによって正しいことと、そうでないことを判断していた。それが、“感覚”に依存する社会になり、人々を制御する心の機能というものが、麻痺し始めている。最近になってようやく、人々はそのことに気づき始めたように思うのです。セクハラ、パワハラはいけないことだ、と教育を始めた。もちろん、教育するのは良いことだと思いますが、どこまで効果があるのか疑問でもあります。

今、世界的にうつ病が蔓延しているそうですが、これも“感覚”に依存する人々のメンタリティと無関係ではないと思います。

このように考えますと、現代を生きる我々には、自らの身を守るリスクマネジメントが必要だと思います。

無文字社会の文化を順に考えて行きますと、“呪術”の次は“祭祀”ということになります。それは熱狂的で、最終的にはトランス状態にまで至っていた。そんな文化が、現在もあるでしょうか。確かに、今日でもライブハウスやコンサートホールが沢山あって、人々は熱狂しているようにも見えます。しかし、トランス状態にまでは至らない。コンサートが終れば、人々は翌日の学校や仕事のことを思い出し、青白い顔をして家路を急ぐ。

ここまで来てやっと、ポストモダン無文字社会の相違点が見えてきました。現代に生きる我々は、地球が回っていることを知っている。雷や地震があっても、何故それらの自然現象が発生するのか、そのメカニズムを知っている。だから、トランス状態になる必要はないんです。音楽に熱狂すると言っても、それはエンターテインメントとして楽しんでいるに過ぎず、どこか冷めているんだと思うのです。全存在を掛けて三日三晩踊り続け、トランス状態になって精霊の声を聴く必要があった未開人と現代人の違いがここにあるように思うのです。

このように考えますと、同じ“感覚”に依拠してはいるものの、ポストモダンのメンタリティというのは、かつて人類が経験したことのない、まったく新しい心理状態であると言えそうです。だとすれば、ポストモダンの人々が無文字社会のメンタリティを希求したとしても、そこに救いはないことになります。

No. 89 ポストモダンと情報

前回までの原稿で、“近代思想の時代”がいかに幕を下ろしたのか、そこまでは整理できたように思いますが、ポストモダンから今日に至るまでの時代性については、必ずしも検討し切れていないと思うので、ここにフォーカスして、もう少し考えてみます。なお、ポストモダンという言葉に厳密な定義はありませんが、ここでは大雑把に言って1975年以降で今日に至る時代区分、というイメージでご理解ください。

さて、この時代に生きる私たちのメンタリティに強い影響を及ぼしているのは、情報ではないかという気がします。特に、インターネットやスマホがもたらす情報量の急激な増加、という問題があると思うのです。グローバリズムの進展に伴って、外国の情報まで私たちの元へ沢山届くようになった。仮にこれを「横の拡大」だとすると、「縦の拡大」というのもある。これは情報のデジタル化によって過去の情報が良い状態で保存される、という意味です。本もそうですし、音楽もそうですね。例えば、1960年代には、ビートルズローリング・ストーンズなどという特集番組が、ラジオで流されていました。当時、有名なロックバンドって、この2つ位しかなかったんです。今にして思えば、古き良き時代ですね。今ではどうでしょうか。メジャーデビューを果たしているロックバンドというのは、数百、いやもっとあるかも知れません。一方、ビートルズのCDがなくなるかと言えば、そんなことはない。今でも売っている。リマスターなどと言って、むしろ当時よりも音質が良くなったりしているんです。文化というのは、正に積み木のようなもので、過去のものがなくならない。従って情報量というのは、増え続ける一方なんです。どう考えても、情報が多すぎる。この情報過多という現象に、私たちの心はどう対処しているでしょうか。

情報処理・・・仕事でもそうですが、多すぎる情報に、いちいちロジックで対処することはできない。現在は、そういう時代だと思います。例えば、会社で使っているパソコンに、新しいアプリケーションが導入される。時には、OSがバージョンアップされる。そんな時、いちいち説明書など読んでいる時間的な余裕はない。そこで活躍するのが、“感覚”だと思うのです。PCに抵抗感のない若い人は、なんとなくいじっているうちに、そのシステムを理解してしまう。

情報選択・・・多すぎる情報に対処するため、人々は自分に必要な情報とそうでない情報を取捨選択している。特に、共同体から分離されている人たちは、それに代わる何かを探しているような気がします。それが、特定のアイドルグループだったり、スポーツチームだったりする。すると、そういう人たちは、その情報ばかりを集めるようになる。傍から見ていると、いかにも視野が狭い。そして、“オタク”などという、この手の人たちを揶揄するような言葉が生まれたのではないでしょうか。

情報遮断・・・取捨選択するのも大変だということになると、情報を受け取りたくない、と思うこともある。例えば、もう新聞は読まないとか、テレビは見ない、という人たちも増えているのではないでしょうか。そういう気分が高まり過ぎると、“引きこもり”という現象が生まれる。

ポストモダンのメンタリティを持って生きている人たちというのは、かなりシンドイ状況に置かれているのかも知れません。こうなってくると、上に記しました“情報遮断”というのはお勧めできませんが、情報を選択して、周囲からオタクと言われようがどうしようが、自分の好きなジャンルを見つけて、その中でエンジョイしていくのがいいような気がします。

No. 88 共同体と個人(その5)

“近代思想の時代”と“ポストモダンの時代”を明確に区分けすることはできませんが、おおまかに言うと、その移行期は1975年から1990年頃だったような気がします。関連する世界的な出来事を記してみます。

1973年・・・ベトナム戦争終結
1976年・・・文化大革命終結

1989年・・・ベルリンの壁崩壊
1991年・・・ソビエト連邦崩壊

1975年に10歳だった人は、今年で52歳ですか。概ね、ここら辺の年齢以下の人たちは、ポストモダンの世代であると言えるかも知れませんね。

では、ポストモダンのメンタリティについて、考えてみましょう。キーワードは、ディタッチメントです。英和辞書で調べてみると、次のような意味がありました。

detachment
・分離、孤立、距離を置くこと、超然、無関心
・〔論理〕切断。命題の前提条件と結論の間が論理的に一貫しない(欠けている)こと

なるほど。論理的な欠落、という意味もあったんですね。しかし、こう記してみると、随分、寂しげな意味なんですね。共同体との関係が分離され、孤立し、無関心で、非論理的な精神のあり様、それがポストモダンのメンタリティなんです。一つの典型例を考えてみましょう。

A君は、1990年に生まれました。父親はサラリーマンで、スポーツに関心があります。家庭で、政治の話などはしません。お友達親子なので、親子間の対立はありません。A君には反抗期というものがありませんでした。高校はそこそこの進学校で、大学にも進みました。A君は、そこそこの企業に就職します。A君は、ポケモンGOが大好きです。幸い、会社ではスポーツ大会などはありませんし、労働組合から選挙活動を強要されることもありません。A君は、会社における自分のポジションに満足しています。唯一の不満は、勤務時間が長いことです。A君は、十分な英語の能力を持っていますが、外国に行きたいと思ったことはありません。A君には、男友達もガールフレンドもいますが、酒を飲んで、腹を割って話し合うようなことはありません。


このようにイメージしてみますと、なんだか、村上春樹の小説に登場しそうな人物像が浮かび上がってきます。これが、ポストモダンのメンタリティということでしょうか。

さて、各時代区分と、現在の支持政党の状況を考えてみましょう。

宗教国家のメンタリティ・・・・・与党(自民党公明党
近代思想のメンタリティ・・・・・左派政党(共産党社民党
ポストモダンのメンタリティ・・・支持政党なし(無党派

現在の日本の状況というのは、このようになっているような気がします。

更に、各時代におけるマジョリティの精神性と、ユングのタイプ論との関連で考えてみましょう。ユングのタイプ論というのは、以前このブログで詳述していますが、人間の心の機能を思考(意識)、直観、感覚、感情(個人的無意識)の4種類に分類するという考え方です。

無文字社会のメンタリティというのは、最も基本的な機能である“感覚”が支配的であったと思うのです。赤ん坊が生まれて、やがて彼らは笑う。これは、人間が最初に獲得する心的機能だと思います。よって、未だ文字を獲得する前の時代、彼らのメンタリティというのも、まずはここから出発したと思うのです。

宗教国家のメンタリティというのは、とにかく人々のつながりと結束を要求する。それは、ほとんど強制的とも言える。その本質は“感情”、中でも共感を求める心のシステムにあるように思います。とにもかくにも、共感を求め、それが得られた場合は味方となり、得られなかった場合には敵となる。

近代思想のメンタリティというのは、“思考”(意識)に依拠している。いくつかの現象を分析し、そこに共通する原則を見出そうとする。又は、仮説を立て、それを立証しようと試みる。

そして、ポストモダンのメンタリティはどうかと言うと、これは“感覚”だと思うのです。近代思想(思考)に対する失望から生まれたポストモダンは、ロジックを拒絶する。かと言って“感情”に依拠するほど、共同体や他人との関係を重視しない。

それでは、“直観”が抜けているじゃないか、ということになりますが、“直観”という機能は、例えば、シャーマンだとか芸術家などの一部の人が発揮する機能であって、いずれの時代においても、この機能がマジョリティになったことはないと思うのです。
では、一覧にしてみましょう。

無文字社会のメンタリティ・・・・・感覚
宗教国家のメンタリティ・・・・・・感情(個人的無意識)
近代思想のメンタリティ・・・・・・思考(意識)
ポストモダンのメンタリティ・・・・感覚

こう並べてみますと、ポストモダンという時代は、無文字社会に似ていることになります。どちらも、“感覚”なんです。少なくとも、この2つの時代のメンタリティには、親和性がある。ポストモダンの時代が無文字社会に類似しているから、例えば、シャーマンが現われる。それが、オウム真理教のような事件を引き起こしたのではないでしょうか。