文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 230 憲法の構成要素(その1)

 

そもそも私の疑問は、例えば“絶対王政”と呼ばれる独裁国家が、どのように変遷して今日の日本のような“民主国家”へと変容したのか、ということです。

 

まず、国家とは何かという問題が生じます。一般に「領土、国民、統治権(主権)が国家の三要素」であると言われています。この点を前提に考えますと、領土と国民は、“絶対王政”でも“民主国家”にも存在し、差異はない。すると、残る“統治権”が変容したのだ、と言える。

 

絶対王政”の場合、統治権は王様が持っていた。その権限の内容はどうかと言うと、まず、対内的には、次の権限を持っていたと想定できる。

 

1. 国民を心理的に拘束する権限
2. 国民を身体的に拘束する権限

 

また、他国との関係を考慮しますと、

 

3. 国を代表する権限

 

・・・ということも考えられます。誰か、代表者がいなければ、他国と交渉することができません。この点をもう少し考えますと、国家は国民からも、他国からも国として認知してもらう必要がある訳で、“象徴”という問題が出て来る。記号原理に照らして言えば、人は記号なくして実体を認識できない訳で、この記号という言葉をもう少し丁寧に言うと“象徴”ということになります。ある国があったとしても、その国を表わすシンボルがなければ、人々はその国を認識できない。そこで、国名だとか、国旗、国歌などが創出される訳ですが、これらだけだと、どうにも効力が弱い。そこで、国を代表し象徴する人物が必要となる。それが、ヨーロッパにでは国王になり、日本では天皇になった。

 

このように考えますと、“絶対王政”というのは、悪いイメージしかありませんが、国家という集団の初期段階においては、必然性、合理性のあるシステムだったようにも思います。

 

ヨーロッパにおいて、上記1の「国民を心理的に拘束する権限」は、「王権神授説」によって確立されたと言われています。すなわち、この人は神様によって選ばれたので王様なのだ、という宗教を基礎にしたロジックです。そして、2の「国民を身体的に拘束する権限」は、武力と言い換えても良いと思います。

 

すると、そもそも国家権力とは何かと言うと、次の要素に集約できるのではないか。

 

心理的拘束・・・宗教・・・(想像系)
身体的拘束・・・武力・・・(競争系)

 

そして、上記の要素を背景として、国を表わす象徴性(記号系)という概念が生まれる。王権神授説を論拠とする中世ヨーロッパにおける“絶対王政”国家は、王様が全ての権力を掌握していましたが、日本においては、天皇と将軍に権力が分散されていた。しかし、本質的に国家権力の構成要素として、違いはないと思います。この国家権力というものは、いつ暴れ出すか分からない野獣のようなものですが、それがないと国家という人間集団は存在し得ない。そこで、この国家権力というものを一度解体し、再構築しようと試みたのが近代の憲法である、と言えるのではないでしょうか。

 

では、日本国憲法には、どういうことが書いてあるのか。

 

まず、第1章に「天皇」とある。正に、象徴性の問題から説き明かしているんですね。そして、大きな問題として、立憲主義ということがある。立憲主義について、文献1には次のように記されています。

 

立憲主義とは, 政治は憲法に従ってなされなければならないという思想をいうが, そこでいう憲法はいかなる内容の憲法でもよいのではなく, 人権保障と権力分立の原理に支えられたものでなければならないと考えられたのである。」

 

思うに、人権保障というのが目的であって、そのための手段として権力分立があるのではないか。従って、この2つの概念は表裏一体をなし、立憲主義という概念の実質だと思われます。このブログのNo. 147から、抜粋します。

 

憲法学者の長谷部恭男氏は、宗教改革以降の歴史を次のように説明しています。

 

宗教改革があって、宗派が別れ、宗教戦争が始まった。対立する宗派が、血で血を洗う殺し合いを続けた。やがて人々は、そんな殺し合いが嫌になった。そこで、死んだ後に天国に行けるかどうかという宗教上の問題と、生きている間の現世を分けて考えることにした。そして、現世を更に公私に区分けした。私的な空間、例えば自宅にいる間は自由に暮らして良い。一方、公の空間にいる間は、一定のルールに従うのが良いだろう。人々は、そう考えた。これが立憲主義の起源である。」

 

立憲主義の起源は、マルティン・ルター宗教改革1515年)まで遡る。やはり、憲法には壮大なドラマがある!

 

さて、宗教改革の概略について、少し私の理解を述べてみます。まず、当時のヨーロッパはキリスト教カトリックという宗派が支配していた。カトリックは、ローマ法王を頂点とするピラミッド方の序列組織を持っている。そして、聖書に対する解釈も、この序列に従ってなされていた。しかし、組織は堕落し、高額な免罪符を販売した。免罪符を購入すると、天国へ行けるということだった。すると、「貧乏人は天国へ行けないのか」という主張が起こる。そして、カトリックに対する反対勢力として、プロテスタントが生まれる。プロテスタントは、聖書の解釈というのは個々人が行うべきだ、というものだった。同じキリスト教ではありますが、プロテスタントの方が、ちょっとだけ民主的なんです。そして、カトリックプロテスタントという図式が出来上がり、その争いは戦争にまで発展した。

 

さて、立憲主義の起源について、少し私なりに考えてみます。当時の人々は、公的な領域と私的な領域ということを考えた。そして、公的な領域から、宗教を排除しようとした。このアイディアは、後の政教分離につながる。また、私的な領域では何を考えても良いという発想は、後の思想・信教の自由という概念へと発展する。当時としてはコペルニクス的転回だったのではないでしょうか。

 

ちょっと、復習しましょう。人権保障と権力分立を基礎とした憲法に従って、国家を運営しよう。これが、立憲主義だということになります。

 

(参考文献)
文献1: 立憲主義日本国憲法 第4版/高橋和之有斐閣/2017

No. 229 憲法の声を聴け

 

文化領域論に関する公式原稿(通し番号付き)をアップしてから、2か月以上が経過してしまいましたが、勇気を出して(?)、このブログを再開することに致します。

 

その間も文化領域論については考えておりましたが、特に「文化とメンタリティの領域図」について、心変わりはありません。やはり、私たち人間が生きている世界というのは、そうなっていると思います。また、現在の社会情勢を考える上でもこの考え方を踏襲しないと、論理が進まない。よって、これから記載する原稿におきましても、基本的な考え方は、文化領域論を前提とすることに致します。

 

若干、補足させていただきます。まず、“芸術”という言葉の定義がなされていなかったように記憶しております。芸術とは、音楽(身体系)、文学(想像系)、美術(物質系)などであって、オリジナルであり、かつ、多くの人々の共感を得たもの、と言うことができると思います。そして、同時代で広く受け入れられた場合、それは大衆文化となり、長い間支持された場合、それは伝統文化となる。こう考えるのが良いと思います。オリジナルであるということを前提とするので、芸術とはその本質において、前衛でしかありえない。よって、芸術とは文化の長い歴史の中で、一瞬、煌めく閃光のようなものであって、それは滅多に現出しない。また、現代という時代において、芸術が喪失してしまったことは、先に書いた通りです。

 

宗教については、簡単に、次のように記載することができると思います。

 

原始宗教
 動物信仰
 悪魔、悪霊に対する畏怖
経典宗教
 神に対する信仰
 人(家系)に対する信仰

 

日本の知識人の中に、「日本の宗教は特別だ」と言う方がいますが、そんなことはない。聖書のように膨大な経典を持っているかどうか、というような条件によって、宗教の形は変わりますが、基本的な構造は上に記した通りで、日本だけが特別ということはないと思います。そして、先進諸国においては、宗教もほぼ終わっている。終わっていないとしてもそれは、既に「半信半疑」であって、本気で天国や地獄があると思っている人は稀である、と言えそうです。

 

現代という時代においては、芸術も創造されず、宗教も喪失した。人々の心の中は、ほとんど空っぽになってしまったのではないか。街中やネットには、ひたすら記号だけが氾濫し、この世界においては、既に起承転結すら存在しない。まして、論理的思考というものは、ほとんど瀕死の状態にある。

 

そして、世界は貧しくなった。人間は、自然が生み出す資源を消費し過ぎたに違いない。野生の動物は減少し、魚の数だって減っている。環境破壊が進み、温暖化が止まらない。内戦のシリアや貧しいアフリカの諸国から、ヨーロッパを目指す難民が、後を絶たない。YouTubeで海外の番組を見ていると、女性や子供の遺体が映し出される。安普請の船に乗り込み、イタリアなどを目指す訳ですが、途中で船が沈没してしまう。そういうことが地球上で起こっている。ホンジュラスなどの危険な国から、アメリカを目指す難民がメキシコとアメリカの国境に到着した。7千人とも1万人とも言われていますが、トランプ大統領は、彼らに銃を向けろと言っている。

 

日本も貧しくなった。大学を卒業した若者の多くが、奨学金の返済を迫られている。働けば、そこはブラック企業やブラックバイトだったりする。理不尽なパワハラやセクハラがまかり通り、そういう画像がネットに溢れる。保育や介護は大変な仕事ですが低賃金のため、深刻な人出不足に見舞われている。

 

ソビエト連邦が崩壊した時に、多くの人々は、共産主義ではダメだと思った訳ですが、格差を拡大し続ける資本主義にもウンザリしている。一時もてはやされたグローバリズムにも、陰りが見え始めた。一つには、イギリスのEU離脱、2つ目はトランプ大統領自国第一主義)の登場、そして3つ目が、今回のカルロス・ゴーン氏逮捕の一件です。かと言って、日本のような資源に乏しい国は、輸出を止める訳にはいかない。労働力も不足し、移民を受け入れざるを得ないところまで来ている。敗戦後、70年以上続いてきた「対米従属」も、アメリカの衰退、中国の台頭などから、そろそろ成り立ち難くなっている。

 

ここまで書くと、お読みいただいている方も、嫌気が差して来たかも知れません。書いている私も嫌になってきました。しかし、これが真実ではないでしょうか。

 

本当のことを言えば、今、人類は大変な危機に直面している。ただ、その危機は、日本のような先進国においては、見えにくい形で進行しているに過ぎない。

 

どうすればいいのか。

 

私は、行き過ぎたグローバリズムを抑制し、国家という集団の単位に回帰すべきではないかと思います。それは「天皇陛下万歳」と叫ぶ、旧来の国家ではありません。日本国憲法が指し示す、平和で、平等で、人権が守られ、自由が尊重される国家、という意味です。そういう知恵を、憲法は指し示していると思うのです。今こそ、日本国憲法の声なき声に、耳を傾けるべきではないか。

 

例えば、憲法12条の前段には、こう記されています。

 

「この憲法が保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」

 

憲法は誰に語り掛けているか(これを名宛人と言います)と言えば、それは一般に国家の権力者だと言われています。しかし、上に抜粋した箇所の名宛人は、明らかに「国民」です。では、これは憲法が国民に対して義務を課しているのでしょうか。そうではない。義務と言うにはあまりにも抽象的です。これは、憲法が国民に教えている、のだと思うのです。憲法に定めたからと言って、国民の自由や権利が保障される訳ではない。それだけでは、不十分だ。だから不断の努力が必要なんだ、ということを憲法が国民に教えている。

 

では、日本国民はその不断の努力をしてきたでしょうか。答えはNOだと思います。私自身はどうか。同じくNOなんですね。せめてもの罪滅ぼしということで、これから憲法についての記事をこのブログに掲載していこうと思っています。

 

私は、憲法の専門家ではありません。従って、例えば憲法の条文があって、判例があって、学説がある。そういう体系立てられた憲法論を展開する能力を持ち合わせていません。ただ、憲法というのは、“想像系”の文化の最高峰に位置するもので、そこにはぬくもりがある。そんなことを文化論の立場から、記述してみたいと思っているのです。

 

以上

文化とメンタリティの領域図(Version 2)

寒くなってきましたが、皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。

 

思えば、明日は文化の日。だから、という訳ではありませんが、表題の図を作成してみました。内情を申し上げますと、まず、このブログにはテキストデータと写真しか掲載できません。当然のことです。そこで、図表を掲載する際には、用紙に印刷し、それを写真撮影し、アップする、ということをやってきました。そのため、突然、暗くて解像度の低い写真を掲載するはめになっていたのです。しかし、ひょんなことから、私のプリンターに、スキャンという機能のあることが分かりました。そこで、スキャンしたデーターをブログにアップできるのではないかと、試してみた次第です。一応、OKのようですね。スマホでご覧の方は、見にくいと思います。もう少し、工夫の余地があるようにも思います。

 

内容は、文化領域論において掲載したもの(Version 1)に細目を加えたものであって、実質的な変更はありません。

 

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現在の私の関心事は、憲法とその改正動向です。憲法9条に対する意見につきましては、大別して以下の3種類があるように思います。

 

復古主義改憲派・・・安倍総理の改正案

 

護憲派・・・現行の9条を何がなんでも守ろう、とする立場。共産党などの立場はこれだと思います。

 

護憲的改憲派・・・9条2項に戦力不保持の規定があるが、日本には自衛隊がある。自衛隊の存在を正面から認めた上で、専守防衛、個別的自衛権のみを行使できることとし、その旨を憲法に明記すべきである、とする考え方。

 

憲法学者小林節先生は、護憲的改憲派だと思われます。なお、最近になりまして、ほぼ、この考え方を採っていると思われる立場として、立憲民主党山尾志桜里氏が「立憲的改憲」派の立場を表明されています。また、先日の衆議院における代表質問で、国民民主党玉木雄一郎氏は、「平和的改憲」という用語を表明されています。私も、この「護憲的改憲派」の立場を支持しております。

 

ただ、護憲的改憲派の考え方は論理的に複雑であり、現時点で、国民全般に理解されるか不安があります。他方、復古主義改憲派安倍総理の案)の主張は、「ご苦労されている自衛官の方々に報いよう」という、国民の感情に訴えるもので、今後、国民の過半数がこの説に流れるリスクもあるように思います。よって、戦略的に言えば、護憲派と護憲的改憲派は一致協力して、自民党の案に反対すべきところですが、何か、地滑り的に憲法論議が進み始めているようで、不安を禁じ得ません。特に国民民主党は「国民投票法」の改正案をまとめており、これに自民党が乗れば憲法論議に応じる、と言っております。

 

このような状況下にあって、私としても文化論の立場から、憲法に向き合ってみたいという気持ちがあり、現在、勉強中です。但し、これがなかなか手強い。皆様に報告できる段階になりましたら、このブログに記事を掲載したいと思っています。

 

以 上

文化領域論の「目次」を作成しました

2018年6月

はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  No. 196

目 次 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   No. 197

第1章: 文化が誕生するプロセス ・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 198
   1.記号・誘因
   2.対象認識
   3.意味・関心
   4.関与的経験
   5.メンタリティ
   6.様式化された行動・文化

第2章: 文化を育んだ歴史的な背景 ・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 199
   1.動物としての時代(700万年前~200万年前)
   2.狩猟採集の時代(200万年前~1万年前)
   3.農耕と牧畜の時代(1万年前~)
   4.国際戦争と思想の時代(1776年~)
   5.グローバリズムとITの時代(1979年~)

第3章: 記号系 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 200
   1.記号の定義
   2.記号原理
   3.記号系の文化
   4.記号系のメンタリティ

第4章: 競争系 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    No. 201
   1.競争系とは何か
   2.ゲラダヒヒの平和主義
   3.恐怖型 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  No. 202
   4.疎外型
   5.依存型
   6.従属型
   7.嫉妬型

第5章: 身体系 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  No. 203
   1.“身体系”文化の起源
   2.競わない集団
   3.打楽器とリズム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 204
   4.肉体を誇示する人々
   5. 人は何故踊るのか

第6章: 物質系 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    No. 205
   1.機能
   2.呪術
   3.空間表現
   4.象徴

第7章: 想像系 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 206
   1.アニミズム
   2.融即律
   3.物語的思考
   4.論理的思考

2018年7月

第8章: 単一系の文化と複合系の文化 ・・・・・・・・・・・・・・  No. 207

第9章: 心的領域論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  No. 208
   1.概略
   2.個人の心的領域 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 209
   3.人生スゴロク ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 210
   4.環世界 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 211
   5.閉鎖系の世界へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 212
   6.ゴーギャン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 213

2018年8月

第10章: 文化総論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 215
   1. 経済の起源
   2. 科学の起源
   3. 言葉と手 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 216
   4. 対立関係

第11章: 現在事実、記号、そして情報 ・・・・・・・・・・・・・・ No. 217

2018年9月

第12章: 原始宗教と経典を持つ宗教 ・・・・・・・・・・・・・・・ No. 220

第13章: ポピュラー音楽の潮流 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 221
   1. アフリカ音楽
   2. ブルース
   3. ジャズ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 222
   4. ゴスペル
   5. プリンス ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 223
   6. 音楽進化の原理

第14章: 原理の発見 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 224
   1. 現象の発見
   2. 想像
   3. 概念 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 225
   4.原理の発見
   5.思想

第15章: 芸術の「その後」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 226
   1.音楽
   2.美術
   3.文学

あとがき ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ No. 228

憲法改正はいつなのか

一昨日吹き荒れた台風24号の影響か、埼玉県内にある私の自宅周辺では、突然、カラスやハトの姿を見かけなくなりました。暴風に吹き飛ばされてしまったのでしょうか。

 

さて、文化領域論におきましては、いくつかのメッセージがありました。1つには、自らの環世界を構築し世界を認識せよ、ということです。もう一つは、原理を発見し、論理的思考を目指そうということでした。その後、後者について考えているのですが、現代に生きる日本人にとって、最も重要な“論理的思考”の産物とは何か、それは憲法ではないのか。そして、その憲法が安倍政権によって、改正(改悪)されようとしている。

ネットなどで情報を当たってみますと、その時期については、2つの説があるようです。

 

(消極説)
そもそも安倍総理は、本心から憲法改正を願っている訳ではない。憲法を改正すると言えば、日本会議を始めとする右派勢力の支持が高まる。また、3選を目指すためには、憲法を改正するという大義名分が必要だった。しかし、国民世論はそこまで盛り上がっていないし、国民投票で否決された場合には、その時点で、内閣総辞職が求められる。従って、口ではヤルヤルと言いつつ、国民投票に持ち込むとしても、その時期は、政権末期(2021年)ではないか。

 

上記の消極説には、うなずける点があります。憲法改正について、かつては、米国から矢の催促を受けていた。しかし、安全保障関連法を可決し、米国を守るためであればホルムズ海峡まで自衛隊を派遣できるようになった訳で、以後、米国から憲法改正の要求はなくなった、という説もあるのです。また、小泉政権以降の自民党の本音は、新自由主義グローバリズムを推進する立場であって、民族主義国家主義ではない。民族主義的なポーズを取るのは、右派勢力からの支持を得るための方便に過ぎない、とする見方もあります。

 

これに対し、正反対の見方もあるようです。

 

(積極説)
安倍総理は、本心から憲法改正を望んでいる。初めて憲法改正を成し遂げた首相として、後世に名を残したいと思っているのだ。その時期については、オリンピックが終わって日本の景気が下降し始めてからでは遅い。オリンピックを目前に控え、国民のナショナリズムが高まっているタイミングを狙うに違いない。すると、2019年の参院選国民投票を合わせてくる可能性がある。場合によっては、同年の消費増税を見送り、支持率を上げ、ついでに衆議院も解散し、ダブル選挙とする。公明党が反対した場合でも、維新や希望の議員を巻き込めば、年内の国会発議は可能ではないか。また、国民投票については、現時点では法整備が進んでいないので、大手メディアによる大々的な広報が可能である。資金力に物を言わせて、テレビや新聞で連日宣伝を行なえば、世論もついてくるに違いない。

 

こちらの説にもリアリティーがあるような気がします。しかし、ちょっと待って欲しい。安倍改憲案は、現在の憲法9条をそのまま残し、3項を加えるか、9条の2として自衛隊を明記するということだとは思いますが、未だ、その草案は開示されていない。大手のメディアにおいても、憲法論議など、ほとんどされていない。ワイドショーでは、貴乃花親方の引退とか、何かの逃亡犯がどうだとか、そんな話題ばかりです。あとは、台風情報でしょうか。憲法を改正するというのであれば、国民的な論議が不可欠です。

 

世界の流れとしては、米国の衰退と中国の台頭という問題があります。現在両国は、関税を巡る貿易戦争に突入したように見えます。どちらが勝つかという点についても、いろいろな意見があるようですが、長い目で見れば、中国が勝つのではないか。このような潮流の中で、日本はいつまで対米従属路線を続けるつもりなのか。それで、国益が守られるとは思えません。先日の日米交渉でも、日本政府は物品に限定されるTAG(Trade Agreement on Goods)についての交渉を始めると詭弁を弄しましたが、海外では日本がより広汎なFTA(Free Trade Agreement)の交渉を開始することに合意した、と報じられているそうです。

 

一昨日の沖縄県知事選では、玉城デニー氏が圧勝されました。もちろん、沖縄だけに基地の負担を押し付けておくべきではありません。そのために、日本政府は米国と真剣な交渉を開始すべきではないでしょうか。また、日米地位協定の改定も必要です。そんなの無理だ、と思われる方もおられるでしょうが、先般の自民党総裁選において、石破候補は、日米地位協定の改定に取り組む、と言っていました。(石破氏の案としては、まず、自衛隊を米国本土に常駐させ、米国駐留の自衛隊を対象とした地位協定の締結を提案する。それに合わせて、駐日米軍に関する地位協定との整合性を図り、結果として、現行の地位協定の改定を目指す、というものでした。)自民党内にだって、こういう意見があるのです。

 

さて、現在の日本の憲法学会における第一人者は、長谷部恭男氏だと思われます。この先生、安全保障関連法案の審議に際し、国会に呼ばれた3人の憲法学者の中のお一人です。政府案に対し、「違憲である」と国会で証言された方です。また、YouTubeに「立憲デモクラシー講座」というのがあって、長谷部先生は、次のように述べておられました。

 

立憲主義とは、人間の本性に基づくものではない。それを維持するには、不自然で人為的な努力が必要だ。それが近代以降を生きる人間の宿命である。」

 

こういう言葉に出会うと、私などはすっかり感動してしまいます。なお、上記の言葉を私流に解釈すると、次のようになります。

 

人間の本性とは、記号に反応し(記号系)、着飾って歌ったり踊ったりし(身体系)、帰属集団における序列を求める(競争系)ものである。しかし、これでは論理的思考に到達できない。論理的思考を持つためには、不自然で人為的な努力が必要だ。それは、現代日本に生きる大人の責務である。

No. 228 文化領域論 あとがき

文化領域論をお読みいただきました皆様、どうも有り難うございました。前回の原稿をもちまして、完了と致します。こんな面倒なことを何故、始めてしまったのか、途中、何度も後悔しましたが、なんとかゴールすることができました。

 

ここに記載しましたことは、永年、私が疑問に思ってきたことばかりです。しかし、その答えは、誰も教えてくれなかった。だから、自分で考えるしかなかったのです。但し、多くの人たちから、ヒントはいただいた。文化人類学のフィールド・ワーカーの方々、ユング、パース、ゴーギャンマイルス・デイビスなど、挙げれば切りがありません。

 

さて、この文化領域論は、文化と人間のメンタリティを5つの領域に区分するところから始まりました。この考え方につきましては、私は日々、確信を強くしました。その点で、少なくとも文化領域論は一つの主張として、破綻はしなかったと思います。ただ、細部におきましては、幾多のミステイクがあったものと心得ており、この点は反省しています。

 

例えば冒頭で、「認識とは、本稿の主題とは関係がない」と述べてしまいましたが、これは誤りだった。文化とは、人間が、時間と空間から成り立つこの世界と人間自身を認識しようとする試みと挫折の歴史だ。そういうことが、途中で分かってくる。

 

古代・・・自ら考えて、物を作る。

中世・・・先人から教わって、物を作る。

近代・・・大量生産による商品を購入する。

現代・・・より付加価値の高い物を求めて、情報を探す。

 

簡単に記せば、上記の経緯があって、現代は情報の時代になった。しかし、現代人が情報を求めるのも、その目的は世界を認識しようということです。ただ、表層にある情報だけを求めるという態度には、賛成できない。その背後にある原理を発見すべきではないか、というのが私の立場でもあります。そのことを、論理的思考という言葉に込めたつもりです。

 

ただ、論理的思考に至るには、様々なハードルがある。例えば、「信じろ」

と命令する宗教。「俺は社長だ、俺の言うことを聞け!」と主張する競争系の組織やメンタリティ。貧困に伴う教育の機会喪失。長時間労働。枚挙にいとまがありません。

 

それでも、より多くの方々が論理的に物事を考えるような社会を目指すべきではないか。例えば、複雑な現代社会において「考えたって、どうせ分かりやしない」と思っている人がいるかも知れません。しかし、この点、私は楽観的な立場を取っています。落ち着いて、良く考えれば、大概のことは分かるに違いない。私は、そう思っています。

 

なお、このブログの今後についてですが、文化領域論の目次を作り直そうとか、そういうアイディアはあるのですが、その後のことは白紙です。いずれにせよ、暫く休みます。充電して、石拾いにでも行って、何か思い付いたら、その時は再開することにしましょう。

 

どうも有り難うございました。

No. 227 第15章: 芸術の「その後」(その2)

小説の種類も相当ありますが、ここではまず純文学を想像系、身体系、記号系の3種類に分類して検討します。

 

(敬称略)

 

文学の世界も他の文化と同じように、基本的には神話などの「宗教的な虚構」に始まり、段階を経て「論理的現実」に向かった。その主流をなしたのが、想像系の作家たちだったと思います。時代背景としては、ニーチェ(1844 - 1900)よりも前にマルクス(1818- 1883)が、宗教に疑問を呈した。マルクスは「宗教は民衆の阿片である」と述べたそうです。その後、共産主義国においては、実際に宗教弾圧が行われた歴史がある。そんなマルクスと同時代を生きた作家にドストエフスキーがいた。例えば、彼の作品に「罪と罰」がある。罪とか罰というのは、概念であって、明らかにドストエフスキーの作品には、論理的思考に向かおうとする、その萌芽が見られます。但し、本人はキリスト教ロシア正教)を信じていた。

 

宗教と論理的思考の狭間にあって苦労した日本の作家としては、武田泰淳(1912 - 1976)がいた。彼は「赤い坊主は生きられるか」という人生の課題を背負って苦悶しました。「赤い」というのは共産主義者であることを意味し、かつ、坊主というのは武田が継いだ家業が「お坊さん」だったことを意味しています。大変、悩んだに違いない。この2つの要素は、明らかに矛盾するもので、「どっちか一つに絞ったらいかがですか」と言いたくなります。ただ、それだけ悩んだからこそ「ひかりごけ」のような傑作を書くことができたのかも知れません。

 

武田から少し遅れて、三島由紀夫(1925 - 1970)が登場する。三島は、根っからの宗教信者であった訳ではなく、論理的な作家であったように見えます。論理的に考えたその帰結として、国家神道に回帰すべきだと主張した。戦後の民主主義というものがあって、それが国民の堕落につながっていると三島は考えた。これは確かに因果関係だと思います。しかし、その結論として、何故、国家神道でなければいけないと考えたのか、そこのところの論理的説明がない。明らかに、論理が飛躍している。三島の本心としては、既に彼の文学は完成していて、それを後世に強烈なインパクトをもって残したいと考えたのではないか。そこで、日本の伝統に従って、腹を切ってみせたのではないか。だとすると彼の行動はお芝居のようなものであって、「三島は虚構に生きた」と言える。

 

そして、大江健三郎(1935 -)が出てくる。ここに至って、日本の文学は初めて宗教的な虚構を脱し、論理的な現実に到達したように思います。大江は、戦後の民主主義を肯定するところから出発した。よって、平和だとか民主主義という多様な概念を理解していた。そこから、政治的な原理を学び、近未来を予測するに至った。すなわち、私が先に述べた論理的思考をフルコースで習得したに違いない。そして、近未来を予測することができたからこそ、大江は政治的な発言を繰り返したのだと思います。

 

一瞬、それでハッピーエンドではないかと思う訳ですが、そうはいかない。論理的な思考を表現するのであれば、それは小説よりも学術論文の方が適している。少なくとも、悪文とも言われる大江の文体は、ロジックには向かない。日本の文壇において、大江のように論理的現実を志向する作家というのは、続かなかったのではないか。

 

以上が、小説の本流である想像系の作家たちということになります。しかし、小説を書いた身体系の作家もいる。身体系なので、人間やその身体に興味を抱き、共感を求めた。具体的には、恋愛とセックスがその題材となった。性愛小説と呼んで良いと思います。

 

その歴史は意外と古く、平安時代紫式部にまで遡る。江戸時代になると好色一代男とか、好色五代女というのがあったように記憶しています。この系統を受け継いだ近代の作家としては、谷崎潤一郎(1886 - 1965)がいる。彼のマゾヒズムには、何と言いますか、のけぞってしまいます。その後、川端康成(1899 - 1972)が出てくる。川端は「伊豆の踊り子」や「雪国」によって、ノーベル文学賞を受賞した叙情派の作家ですが、隠微な性愛小説も書いています。「眠れる美女」という作品があって、これは、初老の主人公だったと思いますが、会員制の秘密クラブのようなところに行くんですね。すると、クスリで眠らされたお嬢様と、添い寝ができるシステムになっている。しかし、行為に及んではいけない。そういう世界だったように記憶しています。これは、谷崎に負けず劣らず、暗くいかがわしい小説です。

 

昭和の終わり頃だったでしょうか。この性愛小説を若い女性が書く、というブームがあった。山田詠美などが、その例です。文芸雑誌の新人賞は、のきなみこのパターンで占められた。文芸雑誌には、決まって次のような宣伝文句が踊った。「若い女性が瑞々しい感性で描く赤裸々な性の世界!」。果たして、こういうものが純文学として扱われていいのか。私などは、はなはだ疑問に思ったものです。人間として、他に考えるべきことがあるのではないか。これは邪推かも知れませんが、出版社側の経済的な事情もあったように思います。その頃から、文芸雑誌の廃刊、休刊が話題になっていた。確かに、「若い女性が瑞々しい感性で・・・」と言われると、男としては、つい読んでみたくなる。

 

しかし、この性愛小説のブームというのも、そうは続かない。この手の小説というのは、一つ二つ読んでみると、飽きてしまう。それに、ここでも記号原理が働く。文字情報としての小説というのは、そもそも記号密度が低い。刺激が足りない。文字情報よりも写真、写真よりも動画へと、人々の興味は推移したに違いない。

 

上記のように、純文学というのは多難な道のりを経てきた訳ですが、最後に記号系の作家というものが現れる。いわゆるポストモダン。私の言葉で言えば、空っぽ症候群の作家ということになります。その起源は、田中康夫の「なんとなくクリスタル」だと言われているようです。その後、何かと話題の村上春樹がデビューする。村上の作品は、デビュー作の「風の歌を聴け」から「羊をめぐる冒険」あたりまでは、言い様のないノスタルジーがあって、私も読みました。しかし、その後、すなわち「世界の終りとハードボイルド、ワンダーランド」辺りから、分かる人にしか分からないという特殊な世界になってくる。

 

好意的な見方をすると、村上の作品というのは、ユングの自伝に少し似ている。一般に自伝と言えば、その人の経歴を述べるものですが、ユングの自伝は、まるで違っています。そこには、彼がこの時期にはこういう夢を見た、ということが延々と綴られているのです。現実の経歴よりも、ユングにとっては、彼が見た夢の方が大切だった。これを読むのは、ユング派を自認する私でも、ツラい。「ユングさん、そうですか。そういう夢を見たんですか。それは分かりましたけれども、どうも私には関係がないような気がするんですけれども」と言いたくなってしまう。同じことが、村上の作品にも言える。

 

想定される村上の方法論は、こうです。人間には深層心理があって、それは人々の間で共通するものである。従って、自分の深層心理、すなわち夢について記述すれば、読者の深層心理がそれに呼応するはずだ。これは、ユング集合的無意識についての考え方と似ている。

 

しかし、残念ながら村上の小説を読んでも、私の深層心理は呼応しないんですね。すなわち、私という個人と、村上の作品との間に特段の関係を見いだすことができない。記号原理で言えば、「意味がない」ということになります。意味がないので、多分、今後私が村上の作品を読むことはなさそうです。

 

以上が、純文学の現状に関する私の認識です。それにしても、純文学は、想像系で、論理的な現実を目指すべきではないのか。近未来を予測し、何かを主張する。文学者とは、そういう人間の良心を体現する存在であるべきではないのか。何があっても、身体系の性愛小説を書いている人は、何も発言しない。記号系は、言うに及ばずです。

 

何年か前に、安全保障関連法が国会で採択された時、反対するデモ隊の中に、大江健三郎の姿があった。文学者とは、かくあるべし! そう思ったのは私だけでしょうか。

 

さて、大衆小説というのもあります。SF小説は、コンピューター・グラフィックスと融合して、映画の世界で生き残った。推理小説は、テレビの2時間ドラマと融合して生き残った。ファンタジーは、漫画やアニメとして健在です。やはり、他の文化と融合できるものは強い。

 

どうやら、結論が見えて来ました。先進諸国において、宗教はほとんど終わろうとしている。それに呼応するように、芸術はエンターテインメントに変容した。